第2部第2章第28話 proditio(2)
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ばたばたばたッ。
慌しい足音が近づいてくるのを耳にして、ナタリアとバート、そしてロドリスの3カ国連合軍を指揮するアレックスは視線を落としていた地図から顔を上げた。
ロンバルト公国首都ウォルムスからほど近い町――アナトリア。
エルファーラから国境越えをしてロンバルトに入った連合軍は、ヴァルス・ロンバルトの帝国軍を打ち破り、いくつかの要塞を陥落せしめて進軍した。
エルベ平原で大きな会戦を構えたヴァルス軍とロンバルト軍はそれぞれ東西へ分かれて潰走、西のヴァルス軍はウォルムスから北西に位置する岩窟地帯ルアン・ジンベルに要塞を築いて逗留、一方で東のロンバルト軍は貯蔵地域であるアナトリアの諸侯アントワーヌの領地へ逃げ込んだ。ウォルムスからの、公王フェルナンド率いる援軍との合流を果たし、再起を図る。
だが、ウォルムスを目指して行軍してきた連合軍の前にロンバルト軍は敗戦、ウォルムス北部のラリベラへと落ち延びた。アナトリアを占拠した連合軍は、相次ぐ戦闘の骨休みをしながらアナトリアで暴挙を欲しいままに行い、首都ウォルムス攻略の契機を窺っている。
ウォルムスは、深い緑に囲まれた窪地のようになった平地にある。デルフトから、高くはないものの険しい山道を抜け、深い森と豊かな川に囲まれた自然美しい街だ。
街自体の守りは、さほど堅固と言うほどではない。だが、深い森や川に囲まれ、その外側を更に山に囲まれている為、いささか攻めにくいと言える。
「アレックス殿ッ」
アナトリアの中で最も豪奢な、元々この地に住まう諸侯の持ち物である館に身を落ち着け、戦いの合間の休養を楽しんでいるアレックスの元に慌しく訪れたのは、幕僚であるルジュドだった。
「騒々しい」
再び地図に視線を落とす。
いくら相手がロンバルトとは言え、次なる土地は王都。さすがに簡単には攻め落とせまい。多少の時間がかかるのは致し方なかろう。
公王率いるロンバルト軍は、連合軍にとってはウォルムスへの行程には妨げとならない場所に逗留しているのだから放っておくことも出来るのだが、しかし公王を放っておく手はあるまい。先方とて、おめおめと連合軍が通過するのを見ているとは考えにくいし、やはりここは多少回り道であってもロンバルト軍を叩いておくべきか。
公王が陥落してしまえば、ウォルムスも抵抗なく陥落する可能性が高い。
「どうした」
考えながら、飛び込んできた幕僚を促す。ルジュドは手にした書簡をアレックスに差し出した。
「? ハーディンか」
「はい。……至急、ご覧いただきたいとのご伝言です」
「ほう?」
何かあったか。
軽く眉を上げながら、ルジュドから受け取った書簡の封を切る。目を落として、思わず息を飲んだ。
「……何」
「どうなされました」
一礼して室内から出て行こうとしていたルジュドが、アレックスの漏らした声音に足を止めた。それには答えずに、アレックスは黙々と書状の内容に目を落としていた。
やがて、その口元に笑いが広がる。
「……面白い」
「何か、良い情報が?」
訝しげに尋ねるルジュドに、ようやく顔をあげたアレックスは頷いた。
「ルジュド。将軍を集めろ。作戦を練る」
「……は」
上司の意図をわかりかねたまま頷くルジュドに、アレックスはにやりと笑いを向けて答えた。
「ロンバルトを、陥とすぞ」
一方、ラリベラまで敗退したロンバルト公王軍は、諸侯マウリッツの屋敷の一室にて今後の巻き返しとウォルムス防衛に思いを巡らせていた。ラリベラはウォルムスを目指す連合軍の位置するアナトリアに比べればウォルムスより西に位置している。連合軍のウォルムス進撃には、何ら脅威にはならない。
「失礼します」
とは言えこのままただ闇雲に進軍したところで、アナトリアの二の舞だ。足止めどころか壊滅に追いやられてしまう。
西に潰走したはずのヴァルス軍と連絡を取りたいのだが、連合軍とてもせっかく逸れた帝国軍の2国が連絡を取り合うのをおめおめと許してやる筋合いもない。巡回が厳しく、実行に移すことが出来ずにいる。
ノックの音に顔を上げたフェルナンドの苦い表情を読んで、部屋へ足を踏み入れたパウルは、苦笑を浮かべた。
「陛下、朗報です」
「何?」
「ラミア殿が」
パウルの言葉に、フェルナンドは目を瞬いた。
ラミアは、ロンバルトの宮廷魔術師である。ウォルムス防衛を含め、首都に残して来た。
「なぜ」
フェルナンドの声に応えるように、室内に入り込んだパウルの背中から人影が滑り込む。若草色の緩やかな髪を左側にまとめて長く垂らし、目尻のほくろが妙に色っぽい。年齢不詳の美貌、と言えるが、その実50歳を越える。レドリックなどは、いかなるまやかしを使ってか老いることのない宮廷魔術師を、敬愛を込めて『バケモノ』と呼ぶ。
「ラミア」
「陛下がお困りかと」
フェルナンドの前に跪いたラミアは、一度伏せた顔を再び上げて彼女の主を見据えた。
「エルベ平原での戦役において、レーモン将軍が壮絶な死を遂げたとの報、窺いました」
ロンバルトにおける、数少ない有能な将軍だ。レドリックやレガードの、武芸の師でもある。
「それではさぞお困りかと」
「だがウォルムスはどうなる」
ラミアが小さく笑った。
「……レドリック殿下が」
「何!?」
フェルナンドは驚いたように立ち上がると、目を見開いてラミアを凝視した。
「戻ったか」
「ええ。さすればウォルムスはレドリック殿下にお任せするのが筋かと。私は、僭越ながら前線に出ておられる陛下のお力添えを出来ればと思い、こうして馳せ参じました次第にございます」
「そうか……」
立ち上がりかけて腰を浮かしていたフェルナンドは、息をつくようにすとんと椅子に座り込んだ。肘掛けに肘をつくと、深く顔を覆う。
「戻ってきたか……」
「……はい」
「どこにいたかは」
「いえ、それは。けれどこの状況下、お尋ねになるのは連合軍を撃退した後でも宜しいかと。肝要なのはお世継ぎがご無事でおられたことです」
「……ロドリスに拘束されていたのではあるまいな」
覆った手から目だけを覗かせて呟くフェルナンドに、ラミアは静かに顔を横に振った。
「わかりかねます」
「レガードは」
ラミアはまたも静かに顔を横に振った。
「……そうか」
しばし考え込むように沈黙する主を、こちらもやはり黙して見つめていたラミアがやがて口を開いた。
「陛下。私をヴァルス軍との連絡にお使い下さい」
「……」
意を問うようにフェルナンドが目を上げる。ラミアはその目を真っ直ぐ見つめた。
「ヴァルス軍と再度足並みを揃えたいと……けれど、人をやれずに困っておられる。そう、お見受け致します」
「……わかるか」
「わからぬラミアではございません。私なら魔力で武装しておりますゆえ、人手は割かずにすみましょう。それはそのまま、人目につかぬということにござります」
「しかしまったくひとりと言うわけにはいくまい」
ラミアは笑った。
「私兵を連れております」
20年近くヴィルデフラウの王のそばに仕えるラミアは、無論貴族……それも、上級貴族である。私領に私兵を抱えている。
「そうか」
「お任せ下さい。必ずやヴァルス軍を陛下の元へお連れ致しますゆえ」
深々と頭を下げるラミアに、フェルナンドはしばし逡巡した。しかし迷っている時間はない。ぐずぐずしていれば連合軍がウォルムスに迫ることは明らかだ。
「では、そなたに任せても良いか」
「かしこまりました」
俯いたままの口元に正体不明の笑みを浮かべたラミアは、顔を上げる時にはその笑みをしまいこみながら口を開いた。
「時に陛下」
「何だ」
「ヴァルスは二手に分かれておりますね?」
元々ロンバルト軍と共に連合軍と相対した、言わば正規のヴァルス軍と、後にラルド要塞から派遣されたヴァルス要塞軍である。フェルナンドは肯定した。
「ヴァルス軍率いるはこの度指揮官に選任された名門貴族ローデリヒ公。要塞軍を率いるは、ラルド要塞将軍ガーフィール公」
「その通りだ」
「そして……」
探るような色を含ませて、ラミアが続ける。
「……宮廷魔術師クライスラー公――シェイン殿」
僅かに低くなったその声に気づかずに、フェルナンドは重ねて肯定した。
「では、すぐにでもヴァルス軍との連絡に参りたいと存じます。今、知りうる限りの情報を私にお与え下さい」
「そうだな。連合軍がいつ行動を開始するやもしれぬ。すぐにも旅立つ方が良かろう。ついて参れ」
……そう。ならば連絡を取るのは取り急ぎ、ヴァルス要塞軍の方とさせていただこう。
天才と名高いその男がいる方に。
(面白い……)
ラミアに情報を与えるべく立ち上がったフェルナンドの、初老の背中に続きながら、ロンバルトの宮廷魔術師はそっと口元を綻ばせた。