第2部第2章第22話 海底のダンジョン3 【転走】 後編(1)
最初の魔物に遭遇したのは、歩き始めてから小1時間くらい経った頃だった。
最初の方針に従って、俺はとにかく水路に沿って道を進んでいった。途中幾つか別方向へと向かう道なんかにも遭遇はしたんだが、変な茶目っ気を起こすと命取りになりかねない。こういう場所では考えをころころ変えるより、初志貫徹を目指した方が安全性が高いような気がする。
そう考えて、とにかく水路を左に見ながらずっと進んでいた。
万が一のことを考えて、20歩ごとに壁に剣で傷をつけている。水路沿いに戻れば元の場所には戻れるはずなんだが、何となく。
第1階層で見つけたナイフを湖でなくしたのは痛い。こういう作業には向いていたのに。
やっぱりアギナルド老には購入して持参だろーか……などと考えながら、剣で壁に傷を作り上げた俺の耳に、何かの鼻息のようなものが聞こえた。作業をやめて、耳を澄ませる。
音が聞こえてくるのは、進行方向だ。時々、最初にあったようなトンネルもどきがあって、その出口付近の壁に俺は傷を作っていた。
フゥーッ、フゥーッと言う音は、ぺたぺたと言う足音と共に近づいてくる。
俺が今いる位置から少し先、トンネルを抜けた辺りは右に緩やかに曲がっていっていて、多分少し広いスペースがありそうな壁の切れ間が辛うじて見える。そのぎりぎりのラインに、肌色の、裸足の足先が一瞬だけ覗いて引っ込んだ。
(……?)
鼻息は相変わらず続いている。足音と共に近づいたり遠くなったりするのは、察するにうろうろと歩き回っているんだろうか。
変なふうに握ったままだった剣を、静かに握り直す。どうするべきか、少し迷った。
今ならまだ、引き返せる。向こうは俺の存在に気づいていない、もしくは見つけていない。
ここからそっと引き返して別の道へ行ってしまえば、戦闘は回避出来そうだ。
けれどその場合、俺は迷う率がかなり高くなる。
とは言え、今進んでいる道がそもそも正しいとは限らない。
……どうする?
しばし悩んで、俺は3つ目の選択肢を採択した。
待機。様子を見る。
あいつがどんな魔物かは全貌が見えないからわからないが、ともかく俺に気づかずにどっか行ってしまえば、俺は戦闘も回避出来るし進路変更も必要ない。
出来ればこの方向で、あの魔物にもご賛同いただきたいものだ。
いささか虫の良いことを考えながら、息を殺してじっとする。視覚以外で敵や獲物の存在を感知することの多い魔物相手に、効果のほどは疑問だが、一応体を低くし壁際に張り付くように身を隠した。背後の気配に気を配ることも、もちろん忘れてるわけじゃない。こういう状況下、前からも後ろからも魔物が現れた場合、俺に逃げ道はなくなる。退路は最重要事項だ。……って言ったって、背後から現れた場合自動的に退路はなくなるし、どうしようもないんだが。
じっと息を殺す俺の前で、鼻息は長い間うろうろしていた。やがてその全貌が、一瞬だけ俺の前方の通路に姿を見せる。全身を白い長い毛で覆われた、2メートルくらいの2足歩行の生き物。顔や手足は肌色、巨大な白猿と言ったその容姿は雪男を連想させ、つい突っ込みを入れたくなる。
カイルいわく、ダンジョンの魔物の大半は自動的に棲みついたもの。そして、くどいがここの冬景色はあくまで視覚にそう訴えるだけで気温的には温暖だ。
とすると。
……雪男はやっぱり、本物の雪山にいて然るべきだと思うんだけど。
熊は、許そう。別に熊は北海道にだって本州にだっているわけだし、あの白クマが白かったのはただの保護色だと思えば理に叶う。
でも雪男はなしでしょう……それとも風景が似てればそれで良いのか?そんなアバウトなのか?そんなに毛もじゃで暑くないのか?
……こんなことを考えている辺り、やっぱり俺の『恐怖』と言う感情はどこかへ行ってしまったんだろうか。それともじっと待機してることに飽きたのか。
やがて先方も同じところをうろうろすることに飽きたのか、鼻息が少しずつ遠ざかって行った。ぺたぺたと言う足音も次第に聞こえなくなっていく。
それでも俺は、まだその場で同じ姿勢を保った。引き返してきたり、歩くのを一時的にやめただけかもしれないと思えば、確信が持てるまで様子を見るべきだろう。
(……もう、いいかな)
前方の様子を探ることに全神経を集中させる。どうやら本当にそこからは移動したような感じだった。雪男の気配のようなものは感じられなくなっていた。――前からは。
(何ッ……!?)
背筋が一瞬泡立つような感覚に、一気に背後を振り返る。先ほどまで前方をさまよっていた鼻息と足音が、唐突に背後に回り込んでいた。長くないトンネルの反対側、いつの間にか移動してきた雪男の顔が、真っ直ぐ俺を見据えていた。
しまった、前にばかり意識を集中し過ぎた……ッ。
「うがあッ!!」
喉の奥を鳴らすようなダミ声を上げて、雪男はどすどすと俺に迫って来た。さほど速い動きとは言えなさそうなものの、図体がでかいだけにストライドもでかい。
舌打ちをしながら、剣を構えて立ち上がる。こんな狭いところで戦えない。せめてさっきあいつがいた辺りなら、多分少しは広いだろう。
雪男に背を向けて俺は駆け出した。瞬間、足が滑った。
「うわあッ」
ずるッ。
立ち上がったその場ですてんとコケる。横にかかる力があったわけじゃないから、大して移動も出来ずに同じ場所で体勢を崩す羽目になった。あっと言う間に雪男が間近に迫る。
うつ伏せから仰向けに転じる間もあらばこそ、巨大な両手を広げた雪男がつかみかかって来た。咄嗟に足を僅かに振り上げて、その太いもじゃもじゃの足を力の限り蹴りつける。
バランスを崩した大猿を畳みかけるように蹴り付けると、今度は完全にバランスを崩しながらつーッと後方へ向かって床を滑っていった。『転走』は魔物にも有効らしい。予想外の勢いで雪男がすっ飛んでいく。
が、こっちも蹴り付けた反動を受けて体が勢い良く滑り出していた。そのまま水路に再び突っ込む羽目になる。その瞬間、衣類などを乾かそうと試みた時間の全てが無に返った。
とにかく、雪男が体勢を立て直す前に水から上がって通路に出なければ。
こんなところで戦闘なんか一層出来ない。
水の中で体を跳ね起こし、まとわりつくような抵抗の中、急いで通路に近づく。見れば雪男も体勢を整えて立ち上がったところだ。
「フンガアアアアッ!!」
怒ってるんだろうか。
立ち上がって雄叫ぶ雪男には見向きもせず、水路から通路へ這い上がる。今度はコケてる場合じゃない。あいつだってそう何度も同じ手をくらってはくれないだろう。
バランスを意識しながら今度は駆け出すことに成功した俺は、どすどすと肉迫する足音を背にトンネルを抜けた。そこはやはり少し広いスペースがある。最初に俺が水路から上がった場所と似ていた。違うのは、階段だけじゃなくて奥に続く通路がこのフロアにもあることだ。右と左にひとつずつ入り口があるから、どちらかがぐるりと迂回して、トンネルの向こうに続いているんだろう。
「うがあッ」
背後に迫った雪男の声と気配。腕を振り下ろす空気を感じて、身を屈める。空気を裂くぶうんっと言う音と共に、太い腕が頭上を通り過ぎた。振り向きざまに、剣を切りつける。切りつけた反動を受けて、俺の体がまた横滑りに移動した。今度はコケたわけじゃないけど。
「ギャアッ」
切りつけた刃が腕に当たったようだ。真っ赤な血をばたばたばたッと垂らしながら、雪男が顔を上に仰ぐ。
さてさて。
どうしよう。
闇雲に攻撃を仕掛けるのをやめたのか、雪男は血の溢れる片腕をもう片方の手で押さえつけながら、俺を睨みつけて喉の奥から唸り声を上げた。俺も目線を逸らさずに剣を正面に構えて、見据える。
まともに戦って勝てると思えない。
ただでさえ力があるわけじゃないのに、足下が滑るせいで一層剣には力がないんだ。大したアクションだって出来るわけじゃない。下手な動きをすれば奴の目の前ですってんころりんだろう。
いや……むしろそれを狙うか……?
背後に抜けられれば、目が後ろにでもない限り、正面より攻撃しやすいはずだ。雪男は壁を背にこちらを向いて立っている。背後に抜ければ壁を使って素早く立つことも可能かも……。
(うまくいくかはわからないけどなッ……)
どっちにしたって正面からは多分勝てないし、逃げられない。
なら、やるだけやってみた方がお得だろう!!
剣を抱え込むようにして、こちら側の壁を蹴り付ける。そのままスライディングよろしく足から雪男に突っ込んでいく俺に、雪男は咆哮を上げながら両腕を振り上げた。すり抜ける前に俺を捕まえるつもりだろう。あっちが素早いかこっちのスピードが勝つかだが、この床を滑るスピードはかなりのもんだと滑りまくった俺は知っている。
辛くも雪男の手を逃れてガニ股の間をすり抜けた俺は、壁に両足で着地するように滑るのを止め、同時に剣を壁に突き立てた。跳ね起きて引き抜いた剣を、俺を捕まえる為に前かがみになったそのでかい背中、中でも首筋めがけて突き立てる。
「ンギャアアアア!!」
「うあッ……」
暴れる雪男に弾き飛ばされて、俺の体は反対側の階段に叩きつけられた。剣は猿の首筋に刺さったままだ。しまった、武器がない。
「ウオオオ!!」
怒りか痛みかその両方か、雪男は両腕を振りかざしながら、階段の途中に叩きつけられたままの俺めがけて突進してきた。ごぼごぼと言う変な音が混じるのは多分、首に剣が刺さったままだからだろう。
咄嗟に逃げようと体を捻る。が、足ではなく手が滑って上手く体勢を直せない。地面を揺らしながら迫り来る雪男に、もう駄目かと思ったところで雪男が足を滑らせた。
「……グボォッ」
仰向けにがんっと倒れ、びりびりと壁や床が振動する。見れば、俺が先ほど突き刺した剣が倒れた自身の重みと勢いで、完全に首筋を貫いていた。血がどくどくと噴き出して白い毛と氷を夥しい赤に染め変えている。
(た、助かった……)
止めはどちらかと言えば自滅って感じだったが。
多分俺の突き刺した剣の痛みで、この滑る床の上、平衡感覚を失ったんだろう。それで足を滑らせたせいで、剣が完全に雪男の首を貫いたわけだ。
しばらく俺は、叩きつけられたままの階段に座り込んでいた。雪男が本当に動く気配がないことを確認して、立ち上がる。
途端。
ずだだだだッ。
「いてぇー……」
滑り落ちた。
この階層を抜ける頃には、きっと俺の全身は魔物と無関係の痣だらけだろう。
打った腕だの足だのをさすりながら、顰め面で雪男に近づく。足で反対側にひっくり返すと、そのまま押さえつけて剣を引き抜いた。まだ新しい血がどばっと溢れ、返り血が跳ね上がる。
先が思いやられる。
こんなもんが徒党を組んで数匹で現れた日には、俺は一体どうすればいいんだろう。
◆ ◇ ◆
水路沿いの道は、しばらくは単調なものだった。ぼつんぼつんと右手にたまに広い空間が空いていて、時々トンネルがある。それの繰り返しだ。
(どこまで行けばいーんだろうなー……)
……飽きるな。
いやいや、飽きて気が緩んだところを何かに襲われないとも限らない。
とは言え、ずっと気を引き締めて歩くと言うのはなかなかどうして大変だ。
「ふわぁ……」
みんな、どうしたかな。
進む道は見つけたんだろうか。どこへ向かえば合流出来るんだろう。第3階層の出口は必ず通ることになるんだろうから、それを見つけることが出来れば活路は見いだせるんだろうけれど、既におかしな道筋を辿っているだろう俺は、キィがどれでどう活きるのかさえわかりかねる。
やがて通路が途切れ、上り階段にぶつかった。これまで見たような、スペースから続く階段ではなく、通路が途切れてそこに現れた階段だ。これ以上水路に沿った通路はなく、この道を進もうと思えば階段を上がるしかなくなる。水路は続いてるのに。
階段は短く十数段だ。上りきってすぐ左に折れていて、水路を跨ぐようにして向こうの壁の穴に消えていく。水路を越える歩道橋のような状態。
どうしようか迷い、上ってみることにした。一歩一歩慎重に階段を上がって行く。上に立って更に上流の方を見晴らしてみると、どちらにしてももう大して進んでいけるわけではなさそうだった。行き止まりになっていて、やや高い位置にある水が通れるだけの小さな壁の穴から水が出ている。水の上を浮かんでいる状態なら通れたのかもしれないが、今みたいに立って歩いている状態じゃあ無理だ。
俺、あそこから落ちたのかな。
……落ちたんだろうな。と言って別にそんな凄い高さがあるわけじゃないから投げ出されても痛くはないだろうけど、多少の浮き沈みはあっただろうに、どんだけ本気で意識不明だったんだよ。つくづくうつ伏せで流されなくて良かった。うつ伏せだったら意識不明のまま窒息死だ。怖い怖い。
水路を眺めるのをやめて、先に進もうと体の向きを変える。進む先は暗いようだ。カンテラを用意した方が……。
「……」
そう思ってから、その音に気づく。足音。静かな、ぺたぺたした。雪男のよりは軽そうだけど、どうだろう。
(階段……)
降りた方が良いだろうか。下の方がまだ退路が安定している。ここで慌てて逃げようとすればきっと、階段で滑ってずででで……となるのがオチじゃないだろうか。
そうは思うものの下手な動きは却って危険のような気がして、剣に手をかけながら俺はじっと前方の闇を見据えた。いつでも剣を抜けるよう構えた俺の目に、その姿が飛び込んでくる。――グリムロック。
前に風の砂漠のダンジョンで遭遇した奴だ。てらてらと濡れたように光る灰色の鱗状の肌。しっかりした体躯の上に乗る顔の中、眼球のない落ち窪んだ眼窩。握る手には、モルゲンステルン。
……多分、いける。対峙した経験がある魔物は攻撃パターンが予想できるから、幾分気が楽だ。と言って勝てるかは定かじゃないけれど。
こいつは特殊な攻撃の仕方は、特にはない。
小さな鼻の穴をひくつかせ、グリムロックががモルゲンステルンを振りかぶる。軽く地を蹴って振った武器のてっぺんについた鉄のトゲトゲが、数瞬前に俺がいた床にどごんとめり込む。橋が壊れたらどうするんだ。渡れなくなるじゃないか。
避けた俺に、グリムロックが更に一歩を踏み出す。踏み出しながら腕を横薙ぎに振り、振った先の橋壁にまたも鉄球がめり込んだ。その空いた脇腹めがけて剣を打ち込む。が、モルゲンステルンの握った柄の方で弾き返された。金属音と軽い痺れ。
旋回するようにモルゲンステルンをめり込んだ壁から引き抜いて、俺に振る。ほとんど条件反射的に上体を逸らして避けるが、鉄球から突き出たとげとげが俺の腕の肉を抉りとった。屈んだその姿勢のまま、地面に手をついてグリムロックの足を力一杯蹴り飛ばす。と、同時に手が滑り、グリムロックも俺も仲良くすてんすてんと転ぶ羽目になる。ああ、何か情けない。命かかってんのに。
単に手を滑らせただけの俺の方が、足蹴りをくらったグリムロックより体勢の回復が早かった。立て膝の姿勢で何とか剣を構えると、グリムロックに向けて両手で振る。確かな手応えを感じると共に、反射的に振ったらしいモルゲンステルンが、俺の腹部に叩き込まれた。
「ぐッ……」
「ウガアアアアア!!」
互いの攻撃を受けて、それぞれの体が飛ぶ。グリムロックの体はそのまま床を滑り、俺が先ほど上ってきた階段脇の壁に激突した。そのまま跳ね返って、勢い良く階段を転がり落ちていく。
「げほッげほッ……」
が、残念ながらそんなものを見届けている余裕がない。こちらはこちらで、モルゲンステルンを腹にくらって壁に激突してるんだ。咳き込んだ口から血が出た。
(いてぇぇぇぇ……)
激突したそのまま、腹を抱えて床に横向きに倒れこむ。微かに目を開けてみれば、腹を押さえる手に血が滲んだ。大量に出血してると言う感じでもないけれど、怪我をしていることにも違いはないらしい。
「げほッ……」
もう1度むせる。氷の床に、赤い飛沫が飛んだ。
「はあ……はあ……」
腹を抱えたまま、ころんと全身の力を抜く。階段を転げ落ちていったグリムロックは、上がってくる気配がなかった。しばらく俺もじっとそこで痛みを堪えていたが、滑らないよう苦労して体を起こす。壁伝いにゆっくりと階段の上に立ってみると、変な形にひしゃげたグリムロックが階下に転がっていた。死んでるらしい。
それを見てもう1度、床に座り込む。……くそー……痛ぇ。
トゲトゲで穴の開いたシャツを捲り上げてみると、腹にはトゲトゲに肉を抉られたらしい傷跡と内出血が見られた。……治癒薬……。
全身がずきずきと痛む。荷袋を漁って治癒薬を取り出すと、服用してみた。今までキグナスがいたから、使ったことはほとんどない。
(……あー)
微妙だなー……。
薬の効果を待って、少しの間じっとする。ここで魔物に襲われたら、もう無理。
やがて徐々に現れた治癒薬の効果は、魔法に比べれば微々たるものだった。そりゃあ、マ○ロンとかオロ○インとかよりは効いてんのかもしれないけどさ……。