第1部第7話 守りたい人(1)
『王家の塔』のある風の砂漠へは、ギャヴァンから北東に向かう。ナタが、「魔法石がごろごろ落ちている」と教えてくれた、ヘイズの十字路を東に向かうと突き当たる険しい山キサド山脈を越えて向こう側に広がっているのだそうだ。
俺たちは道沿いにゆっくり北東へ向かって進んでいた。時折、行商人らしい大きな荷を背負った旅人とすれ違う。
レイアをつれたユリアとニーナは、くすくすと笑い合いながら少し前を行く。俺はシサーと肩を並べながらその後ろをのんびりと歩いていた。
今日も天気は良い。こっちに来てから、総じて天気には恵まれていると思う。
キサド山脈に続く道は左右が割と平坦な草原なだけあって、左手……北西の方角には遠くに浄化の森が見えていた。それが少しずつ移動していくのを視界の隅で見ながら、ピクニックにでも行くような気分で歩を進める。
歩きながら俺は遭遇し得る魔物について、シサーに講釈を受けていた。聞いたからって何が変わるわけでもないけど、聞かないよりはましと言うか……心の準備が出来ると言うか。
「王都近辺は俄然ワンダリングモンスターが減る」
「何で?」
「王都を守備する衛兵や騎士に駆逐されるからな。騎士団とばったり遭遇でもしてみろ。あっと言う間に討伐される」
それもそうか。
「それに、監視塔からは衛兵と魔術師が警戒していて、王都に魔物が近づけば即魔法が飛んで来る。神殿もあるし、浄化の森に魔物は入れない。まあ、住み良い環境とは言えないだろうな」
まあねえ……オチオチ食事にも出られないよなあ……。
「全く出ないってわけにはいかないけどな、もちろん。圧倒的に減るってだけで。……それが、ヘイズ辺りまで王都から離れて南下すると少しずつ魔物も増えてくる。この辺りで出るのは、レオノーラ近辺のウォーウルフ、ウガルルム、ゴブリンに加えてホブゴブリン、コカトリス、ワイバーンなんかだな」
言ってシサーはそれぞれの説明をしてくれた。
「……ドラゴンがさ、何匹かいるって言ってたじゃない?」
まだ海に程近いこの辺りは潮の香りがしていて、ところどころに名前のわからない花が咲いていた。ぽつりぽつりと見られる大きな木が太陽の光を和らげるよう、風に揺れている。北の、遠くの方に、何だか鬱蒼とした森が少しだけ見えていた。
ワイバーンと言う小型の飛竜の話を聞いて、昨日シサーが話してくれたことを思い出した俺が尋ねると、シサーは首肯した。
「ああ」
「遭遇することって言うのは、あるの?」
シサーは鋭い目にからかうような笑いを浮かべて俺を見返した。
「気になるか?」
「そりゃ……まあ……」
だってそんなもんに出て来られた日には、一挙にオダブツだ。いくらシサーが凄腕だつったって……。俺は役に立たないし。グロダールの時だって、禁軍5千名プラス傭兵部隊とギャヴァンの自衛軍がいたんだろ。
「ドラゴンは黒竜、青竜、緑竜、黄竜、白竜の5匹と言われている」
俺の質問に直接は答えずにシサーは言った。俺も黙って聞く。
「ドラゴンは活動期と休眠期を繰り返す。休眠期の方が圧倒的に長い。その眠りは数百年とも数千年とも言われていて、今はその全てのドラゴンが休眠期に入っている。遭遇することは、まずない」
良かったあ……。
「いつその眠りから覚めるかは誰にもわからんから何とも言えないが……仮に目覚めたとしても、ドラゴンはその住み処から大きく離れて活動することはまずない。ヴァルスに住むドラゴンはいないし、大丈夫だろう」
「でもじゃあ、グロダールはどうして」
シサーは軽く肩を竦めた。
「さあな。ドラゴンの気持ちなんて俺にはわからんよ。……黒竜グロダールは元々ローレシアとラグフォレストの間を南下したところにある黒竜の島ヘルザードに住んでいた。活火山の島だ。眠りから覚めて、何を思ったかギャヴァンへ向けて北上して来やがったんだ」
「へえ……」
腹でも減ったんだろーか、やっぱり。
「他のドラゴンはどこに?」
「白竜トラファルガーは氷の大陸フレザイルに住んでいる。これは氷竜だ。青竜リヴァイアサンはトートコースト大陸の南東アグナガイル諸島の海底。こいつは水竜。黄竜サンドストーンは俺の故郷ラグフォレスト大陸の北、砂漠のダンジョンに住んでいる地竜だ。緑竜イナラシュはトートコースト大陸の森の中に住んでいる。こいつは風竜だな」
「じゃあ、グロダールって……」
「火竜だ。ドラゴンブレスと呼ばれる強力な炎を吐いて飛び回る、とんでもなく迷惑な奴だぜ」
迷惑とかそういう次元と何か話が違うと思う。
風の砂漠に辿り着く為に越えなければならないキサド山脈のふもとにはリノと言う小さな村があると言う。今俺たちはそこをとりあえず目指していて、ギャヴァンからは5日ほどの行程だと言うことだった。つまり、野営を余儀なくされると言うことだ。
ふわふわと風に揺れるユリアの髪を眺めながら、俺は再び口を開いた。
「風の砂漠ってさ」
こちらに来てから1ヵ月以上が経過したとは言えまだわからないことだらけの俺は、とにかくこちらのことを出来るだけ知ろうと思っていた。努力をしなければ知識は身につかない。わからないことは聞くしかない。
「海沿いにあるんじゃないの?何で砂漠になっちゃったの?」
「海沿いにあるにはあるが、海と遮るようにキサド山脈がそっちまで広がってる」
う。何てでかいんだキサド山脈。
「キサド山脈は標高もかなりあるから、西や南の海上から来る湿気を含んだ風は、暖かい気候も手伝ってこちら側で雨に変わり、山脈上方の冷えた空気で今度は雪に変わる。東側から来る風も同様だ。海側を廻る山脈に阻まれる。北側から来る風は逆に海上で温められて雨となって海に消え、乾いた風が山脈にぶつかって昇り切ることが出来ず、東から来る乾いた風と対流を起こしてぐるぐる回る。風が回れば土が定着しないから、結果として砂漠が出来上がる」
シサーは旅慣れているせいか、いろんなことを良く知っていた。俺が問うことに対して言葉に詰まるということがあまりない。
「ふうん」
風の砂漠と言うネーミングはその辺りに理由があるのかななどと思っていると、不意に視界の隅で白っぽい光が見えた。……シサーの剣が、正確にはシサーの剣に刻まれたルーン文字が光を放っている。
「……おいでなすったようだぜ」
え?と思った時には、俺たちの上に陰が落ちていた。巨大な、飛行機のような形いや……爬虫類?そう思った時にはばさっと言う羽音が聞こえた。
「ワイバーンだッ」
言うなりシサーは俺を突き飛ばした。自分も反対側に飛び退り、それと同時に腰の剣を抜く。一瞬後、さっきまで俺がいた場所を鋭い鉤爪が襲った。地面を抉り、激しく土を跳ね上げる。
「カズキ!!」
「えッ!?」
咄嗟にどうすれば良いのか判断に困った俺に向かってシサーが怒鳴る。それに答えながら魔物の正体を見ようと顔を上げた俺は、思わず凍りついた。
ひ、ひぇぇぇぇぇ……。
「ユリアを守れ!!」
「軽やかに踊る風の精霊シルフよ、その身を障壁の渦と変えよ。フェレンティース!!」
シサーの声と、俺の背後からニーナの声が同時に飛ぶ。ふわり、と風が俺の周りを固めたのを感じた。防御魔法らしい。
恐竜をイメージさせる巨大なトカゲに羽がついたようなそのイキモノは、シサーの剣を避けてふわりと体を舞い上がらせた。緑色の瞳と土色の鱗で覆われた肌、全長は3メートルかそこらあるんじゃないか?顔面を裂いたみたいなでかい口には剣山のような鋭い牙が覗き、その巨躯からすれば申し訳程度についている手には見合わない巨大な鉤爪が光っている。
ひ、ひぃぃぃぃ……あんなもんが今し方俺に襲い掛かったのか?死んじゃうじゃん。
ニーナがレイピアを抜いて、シサーを援護する為に駆け寄った。それを視界の中で認めながらついつい呆然とする。
が、突き飛ばされたまま座り込んで、剣を翳すシサーとそのありえない恐ろしいイキモノに腰を抜かしかけていた俺は、はっと我に返った。
そうだ、ユリア……。
立ち上がって、後方で身を竦めるようにしているユリアに向かって走る。走りながらも膝が笑う。……怖すぎるって!!!!
「ユリア!!」
「カズキ……」
ユリアは顔色が蒼白だった。胸元に手を寄せ、震えている。レイアがユリアを守るようにその顔の前に立ち塞がっていた。
「軽やかに踊る風の精霊シルフよ、心猛りし者の動きを封じ込めて!!ウィンクルム!!」
呪文を唱えるニーナの声が耳に届いた。ワイバーンの獰猛な唸り声と羽音が背後から間断なく聞こえる。振り返るとシサーが飛び上がってワイバーンを切り付けたところだった。ワイバーンが恐ろしい雄叫びを上げる。その雄叫びだけで、恐怖に泣きたくなる。
……しっかりしろよッ、俺ッ……。
俺には何も出来ない。何も出来ないんだからせめて、ユリアを安心させて……。
ワイバーンがこっちに向かって来たらどうにもなんないけど、せめて精一杯の意地でユリアを背後に庇いながらシサーたちを見つめた俺は、必死で思考を巡らせた。
本当に出来ることは何もないのか?何か、何か出来ること……。
かたかたと震える全身に力を込めるが、却って痙攣しているようになるだけだ。全身の震えを押さえ込みながら考えを巡らせた俺は、はっとアギナルド老にもらった皮袋を思い出した。
そう、俺は確か、魔法石を持ってる……!!
思い出して、慌てて荷袋を漁る。焦って震える手がうまく動かず、なかなか見つけられない。ワイバーンはシサーの剣を受けてずたずたになりながら、咆哮を上げて上空へ舞い上がった。シサーの舌打ちが聞こえる。
(――あったッ……)
魔法石の数は10個。何でもいい、とりあえず袋に手を突っ込んで石を掴み出す。出て来たのは紫の大きい石、効果は確か……。
「『風の斧』!!」
シサーに注意を喚起すべく、叫んで石をワイバーンに向けて投げつける。ワイバーンに踊りかかろうとしたシサーが俺の言葉に身を引いた。魔法石が炸裂する。
「ギャアアッ」
巻き起こった風がワイバーンの巨大な翼を切り刻んだ。凄い効果だ。ワイバーンの巨体を持ち上げる巨大な羽は、鋭い斧となった風に切り裂かれその役目を果たすことが出来なくなった。体を支え切れずに地面に墜落する。重い音が響き、地面が振動した。
シサーがすかさず剣を振り翳して飛び掛った。墜落したワイバーンが、それでも態勢を立て直して鋭い鉤爪をシサーに向けて奮う。それを剣で受け止めるが、シサーの体が横に吹っ飛んだ。
「軽やかに踊る風の精霊シルフよ、その姿を刃に変えよ!!ウォラト!!」
「軽やかに踊る風の精霊シルフよ、その姿を刃に変えよ!!ウォラト!!」
ニーナとレイアから同時に魔法が飛ぶ。ダブルでシルフの攻撃魔法を受けたワイバーンは全身にずたずたの傷跡を刻んでいた。再び、雄叫び。開いた口から鋭い牙が無数に並んでいるのが垣間見えた。シサーが踊りかかる。白く光を放つ剣が深々とワイバーンに突き刺さり、その巨体が盛大な地響きを上げて地面に叩きつけられた。
「っしゃあ、終了っと……」
「ちょっと手際が悪かったわね」
「うるせぇ」
ずしーんと言う音と、シサーがとんっと軽く地面に着地する音が重なる。思わず固まったままその一連を見つめていた俺は、痙攣しているみたいだった全身の震えが次第に収まっていくのを待った。
心臓は、未だばくばくだ。既に命尽きたワイバーンの死体が崩れ落ちている、それを目にするだけで背筋を恐怖が這い上がる。
こ、こ、怖すぎる……。
「……ユリア」
引きつった顔でそれを見遣り、それからはっと思い出して背後のユリアを振り返った。真っ青な顔で目に涙を浮かべたユリアは、先ほどの俺以上に激しく震えている。
「ご……ごめんなさ……」
「え、何で」
何を謝られておるのか俺は。
「わ、わたしだけ、何も……何も出来なくて」
俺だって別に大したことをしちゃいない。言っちゃナンだが石を投げただけだ。
「……は、初めてだから、ま、魔物……見たの……」
「え!?そうなの!?」
俺の問い返しに、ユリアはこくりと頷いた。まだその顔色は青褪めている。本当に深窓の令嬢なんだなあ。この世界の住人で魔物を見たことがないのって稀有なんじゃないだろーか。
細い肩を震わせるユリアの姿に、少しだけ、保護欲が刺激される。
……怖い思いを、させたくない。
「俺……」
「え?」
「……」
口から出そうになった言葉を、飲み込んだ。ユリアが言葉の続きを待って目を瞬く。
……強く、なりたい。
ユリアに、怖い思いをさせることがないよう。
俺が守ってあげるからなんて偉そうなこと、今はまだ、言えないけど。
「何……?」
儚い掠れた声が、俺の心をくすぐる。
「……何でもない」
まだ全然頼りないのはわかってる。シサーがいなかったらどうなったことだろう。でも、シサーがいないんじゃどうにもならないんじゃ……駄目だ。ユリアと一緒になって震えてるんじゃ、話にならない。俺自身がちゃんと、強く、ならなくちゃ。
思いながら、ワイバーンの死体を振り返った。背筋をぞっとするものが這い上がるのは否定出来ない。
でも、守りたい。
俺が、守ってあげたい……。
「ユリア、大丈夫?」
不甲斐ない自分にそっと唇を噛んでいると、シサーと共に後ろを歩いていたニーナが駆け寄ってきた。ユリアが小刻みに頷く。
「その顔色じゃ、大丈夫じゃないみたい。……安らぎの乙女ドライアード、怯える者に安らぎを与えよ。コンコルディアー」
ニーナが優しく呪文を唱えると、青褪めていたユリアの顔色が戻って来た。かたかたと小刻みに震えていた体も落ち着きを取り戻している。
「……あ」
「どう」
「もう、大丈夫。……ありがとう」
ユリアの言葉にニーナはにっこりと微笑んで応えた。
「何、したの?」
「ドライアードは森の乙女であると同時に安らぎの精霊。ユリアの心に安らぎをもたらすよう魔法をかけたの」
「そんなことが、出来るんだ……」
凄いな、魔法。便利だな。
シサーとニーナは頼りになる。それは、確かだ。
でも、じゃあ、俺は?
俺はこのまま、シサーとニーナの庇護に甘んじて、ユリアと一緒に守ってもらって、それで、いいのか?
(強くならなきゃ)
ひとりじゃない。少なくとも、シサーとニーナがいる。怖いと思う気持ちがあるから、動きが制限される。……恐怖を跳ね除けなきゃ、俺はいつまで経っても、ユリアを守ってやれることなんか出来やしない。
ぎゅっと目を瞑った。
ひとりで戦うわけじゃない。剣の使い方さえ覚えれば、俺は、運動神経だって悪くはない。
……怖がるな。
◆ ◇ ◆
魔物と戦闘した後は、その屍肉の臭いを嗅ぎ付けて他の魔物が寄って来ることがあると言う。
速やかにその場を離れることにして再び北東へ向けて道をゆっくり歩きながら、俺は隣を歩くシサーを見上げた。
「シサー、ありがとう」
「へ?」
俺の言葉にシサーは目を丸くした。
「助けてくれて」
「どうせやらなきゃ俺だってやられちまう」
くっくっと笑いながら言うシサーに、俺は首を横に振った。
「最初、突き飛ばしてくれなかったら俺、簾になっちゃうとこだったし」
「ああ、それか」
「うん。……シサーの剣、光ってたね。何か、あるんだ?」
頷いて目線をシサーの腰から下がった剣に注いだ。今は光も姿を消し、ひっそりと鞘に納まっている。
「ああ……魔剣なんだ、こいつは」
「え!?」
噂の?
「『グラムドリング』と言う魔剣さ。魔物が近付くと、刀身に刻んであるルーン文字が光って告げる。切れ味も一気に増す」
「へえ……」
「エルヴンソードの1つだ」
エルヴンソード?
俺が目をぱちくりさせてシサーを見つめると、シサーはグラムドリングを抜き放った。光を受けて反射するその刀身には、文字が刻まれている。
「その昔、仇敵ゴブリンを倒す為にエルフの鍛冶屋が鍛えた剣のことを総称してエルヴンソードと言う。人間界にあるのはほんのわずかだが、そのうちの1本をたまたま手に入れることが出来た」
「へえ……そうなんだ」
またひとつ賢くなってしまった。
ただただ草原が広がるこの辺りは、所々に小高い丘や岩場などの起伏もあるけれど総じて見晴らしは悪くない。左手の遥か遠くに見えていた浄化の森がかなり後方まで下がった頃にはすっかり日が落ちていた。
「……どうするの、今夜」
「もう少し行くと小高い丘がある。斜面にちょっとした窪みもあってぱっと見、姿が見えない。丘のてっぺんからは、ま、大した高さじゃないから言うほどじゃねえけど平地よりは見晴らせるしな。そこまで行って野営をしよう」