第2部第2章第21話 海底のダンジョン3 【転走】 前編(2)
◆ ◇ ◆
現れたうろの中は、階段でも穴でもなく、まっすぐ続いていく通路になっていた。外から見ればでかいとは言え木の幹として納得出来る奥行きしかないのに、中から見るとずっと奥まで続いている通路。何て納得のいかない……。
これまでと同じ隊列で進んでいく。真っ暗なので先頭のカイルと真ん中ら辺のキグナスがそれぞれ、カンテラと『導きの光』で道を照らしていった。やがて果てが見えてくる。どう譲歩したって木の幹なんかぶち抜いて、異空間になっているとしか思えない。
次の階層は……『転走』。
……嫌な予感。
「う、わー」
先に通路から出ようとしていたキグナスから、変な声が上がった。後に続いて外の光景を視界に収めた俺も、思わず顔を顰めて、むき出しの自分の両腕を抱き締めるように交差させる。
「風景が寒ぃー」
夏も間近な海と港町で、俺は上着とマントを脱いでいる。タンクトップみたいなシャツ1枚で、腕はむき出しだ。今だってそれで寒いわけじゃあないけれど、視覚が訴えてくるものから何となく凍えそうな気分。
踏み出した地は、雪原だった。
いや、雪原と言うと語弊があるかな……。氷だ、どちらかと言うと。
足元はアイススケートでも出来そうなつるっつるのアイスバーン。見渡す景色はどこまでも白かった。
「ひえ〜。カズキ寒そうだな〜」
キグナスがひらひらとロッドを振りながら、俺を見上げる。
「寒くないのはわかってるだろ」
気温は別に変化してないし、その同じ空間にこうして隣あって立ってるんだから。
「そりゃそーだけど、見るのが寒い。毛皮でも羽織ってて欲しくなる」
そんなんしたら多分暑い。
「これは困るな」
見渡す限りのだだっ広い氷原に、シンがぽつりと呟いた。その横顔に目を向ける。
「困る?」
「指針となるものがない」
指針……。
確かにこうもただただ、だだっ広い空間が広がってるようじゃあ、どこを目指してどっちに行ったら良いのかわからない。
「伝承はどうなってたっけ……」
聞くともなしに呟きながら思い出してみる。
グノームの次はハリーバール、そしてその次は確か……リトルモア。
とりあえずマールは鳥に運ばれて湖に墜落するわけだ。
「リトルモアって、何かキィになると思う?」
言いながら氷原に踏み出す。と、既に氷原に立っていたシサーが俺を振り返った。
「おい、足元凄え滑るから気をつけて……」
つるッ。
「うわあ」
びたんッ。
シサーの忠告の甲斐なく、足を滑らせて尻餅をつく。それを見て、キグナスがけたけたと笑った。
「だせー」
つるッどしん!!
「人のこと言えないじゃん……」
どうでもいーが、滑りやすさがハンパない。ワックスでも塗ってるんじゃなかろーか、氷の上に。くそ……『転走』。走ってなんかやるもんか。
「行き先もそうだけどさ……うわ」
立ち上がろうとしてまたコケる。先に進めない。
「何遊んでるんだよ」
そういうシンは、さすがナイスなバランス感覚で危なげなく立っている。
「で?何だ」
呆れたように立ち上がろうとした俺に手を貸してくれながら尋ねられて、言おうとしたことを思い出した。
「うん……『リトルモア』って関係あると思う?って言うかキィになるのは何だと思う?」
「まだわからんな。臭いのは『リトルモア』『湖』『ウンディーネ』……それから『司祭』か。そんなところだよな」
シンの手を借りて何とか立ち上がった俺は、その後は自力でバランスを保ちながら数歩踏み出した。
「とりあえずここでぼーっとしてたって仕方ないだろう。とにかく歩いてみりゃあ何かあるかもしんねぇし」
さっきから立ち上がろうとしてはコケて、ほとんどコサックダンスめいた状態になっているキグナスを助け起こしてやりながら、シサーが言う。ちなみにゲイトは、その横で腹を抱えて大爆笑だ。
「それはそうかもしれないけどさ……」
転ばないように気をつけながら応じる答えは、つい消極的になる。普通の足場ならともかく、一歩一歩がこれだけしんどいとくれば、そうなりもするだろう。出来れば無駄な距離の移動は極力避けたくなる。
「少し行くと、こっちの方角に湖らしきものが見えるぞ」
少しその辺を見て来たらしいカイルが、戻って来て告げた。――『湖』。
「じゃあ、とりあえずはそこだな」
カイルの言葉を受けて、シサーが頷いた。カイル、シン、ゲイトは危なげなく進んで行くし、盗賊まがいのシサーや身の軽いニーナなんかも辛うじてバランスを保っているものの、そんなにすたすたと言うわけにはいかない。俺とキグナスは急がせようものなら末路は知れているしで、進行速度は亀も真っ青なスローペースだったけれど、カイルの言う湖はそんなに凄まじく遠距離にあるわけではなかったらしい。見る限り平坦で同一色の風景だったからわかりにくかったけれど、間もなく湖だった。
気温を考えれば不思議はないけれど、この白い風景の中、凍り付くことなく滔々と水を湛えている湖と言うのもどこか妙な気がする。
湖は、さほどの広さはなさそうだった。ここから見て対岸がわかる。対岸にも何もなさそうだ。
覗き込んでみると、深さは結構ありそうな気がした。水は澄んで透明なのに、底は見えそうにない。それとも先ほど湖の存在に気づかなかったのと同じ理由からだろうか。
「こうアテも目標物もないとなると途方に暮れるな」
「足腰が痛ぇ」
『湖』……『リトルモア』を飛び越してそっちのエピソードに移ったんだろうか。そもそもが別段伝承を全くなぞっているわけじゃないので、どれが飛ばされてどれが来るかは判断するのが難しい。
じゃあ次は……『ウンディーネ』なんだろうか。
なんて思った視界の隅で、またキグナスがすてんとコケた。……いや、コケさせられたと言うのが正しい。ゲイトに軽く肩を叩かれたんだ。
ちなみに俺の方はと言えば、さっきよりは何とか足場の状態に慣れて来た。ちょっと押されたくらいだったら多分何とかなる……だろう。けど、でもだからと言って。
「こんな状態で魔物に襲われた場合、俺は戦力として何かが出来る自信がない」
ぼそりと小声で言う。いや、戦力どころか逃げることさえ儘ならない。せめて魔法石でもあればなあ。でも使い果たしたきり補充が出来てないから……まあ、ないもんをアテにしたってしょうがないわけだが。
「ああ……こんなもんでも役に立つか?」
既に疲れ果てた様子の俺たちに、カイルがふと思いついたように荷袋を漁る。ぽんとこちらに放ったのは、半円のぎざぎざした金具だ。……あ、滑り止め?
「ありがとう」
キグナスと両足分の2個ずつを受け取って装着してみる。快適とはいかないけど、さっきよりは幾分まし。
「あんたらも一応いるか?」
とりあえず盗賊チーム3人が持っていた4つをそれぞれ貸してもらって、シサーやニーナも念のため装着しておくことにしたらしい。特に魔物との戦闘では、シサーの戦力に滑られてるわけにはいかないし。
「どうすっかなー」
とんとんと滑り止めの効果を確かめるように数回飛び跳ねたシサーが、参った、と言うように髪に手を当てる。それに答えて、シンが顔を上げた。
「ちょっとギルドのメンツでその辺を……」
言いかけたその言葉を遮るように、ずずんッと言う音が聞こえた。それに重ねるように……咆哮……。
「期待通り、出てきたらしいぜ……」
期待してませんて。
「とりあえずはカズキ、キグナス、ニーナは下がってるんだな。魔法での援護だけ、よろしく頼むぜ」
言いながら抜き放ったシサーの剣は、煌々と光っていた。白い世界の中、余り目立たなかったみたいだ。
少し離れた氷の塊の陰からのっそりと白い動物が姿を現した。……北極グマ。
……いや、こっちの世界にはそもそも北極がないんだから北極グマって言い方はおかしいので、白クマ。しかもでかい。あれは魔物じゃなくて、ただの肥大した熊なんだろうか。だとしたって脅威であることに違いはないが、魔物であるよりは良いような気がする。何となく。だってただの動物なら何か予定外の攻撃を仕掛けてくるようなことはないだろう。
白クマは、どしどしと足元の氷原を踏みしだきながら、獲物である俺たちを見つけたらしい。両腕を振り上げて威嚇しながら、こちらを目指して移動してくる。
「氷系魔物だから、火系魔物が良く効くだろなー」
言いながらキグナスがロッドを構えた。残念ながら俺は見物コース、出来ることはまずないだろう。でもシサーたちだけでそんなに苦労せず何とかなりそ……。
「……うわぁ」
反対側――今俺たちが歩いて来た方角をちらりと見たゲイトが、ぼそりと呟いた。……え?
「……うわぁ」
挟み撃ちだ。
思わず同じ反応を示しながら、腰の剣に手をかける。果たして、滑り止めつけたくらいでこの足場の中まともに戦えるかどうか。
「グォォォォ!!」
新たな白クマBが雄叫びを上げながら、どしどしとこっちに向かって迫ってくる。それに共鳴するように、最初の白クマAがまた咆哮を上げた。
「……『火炎弾』ッ!!」
距離を測っていたキグナスが、手近になった白クマBめがけて『火炎弾』を放つ。
ゴォォっとうねりを上げながら襲いかかる炎に一瞬怯んだように足を止めた白クマBは、次の瞬間地についた四肢を踏ん張った。途端。
「うわッ、何だあれッ」
ぼこッぼこッと白クマBの背中が盛り上がる。生まれた何か……毛玉が、凄い勢いでこちらめがけて飛来した。……くそ、やっぱ魔物だあれ!!普通に考えて熊の背中から毛玉が生まれて飛んでくるなんてありえない。
「……『風の刃』!!」
立て続けにキグナスが『風の刃』を発動させる。それと同時に、ニーナもシルフの魔法を毛玉に向けて完成させた。宙で毛玉がばらばらになる中、本体である白クマBだってぼーっとしていたわけじゃない。どどどどッと氷を巻き上げながらこちらへ突進している。
ちらりと見ると、白クマAは主にシサーとカイル、援護にシンとゲイトが相手取っているようだ。あちらは心配ないだろう。心配なのはこちら。俺が剣を使うしかない。
キグナスとニーナの魔法が援護をくれる中、俺は剣を抜いて構えた。とにかくバランスは崩すわけにはいかない。……ってゆーか、何で魔物は滑らないんだよ?汚い。
命中した『火炎弾』に、白クマBが耳を覆いたくなるような苦悶の声を上げる。そこを狙って駆け出した。とは言え全力で走れるわけではなく、どっかのろいのは仕方がない。
スピードより、バランス優先。
距離を縮めて、地を蹴る。蹴った瞬間、ついどきどきした。剣を構えてつるべしゃなんて、やっぱりやりたくない。
意外ときっちり踏み切ることに成功し、垂直に構えた剣が白クマBの肩口に深く突き刺さる。その肩に両足をつけて剣を引き抜こうと試みた瞬間、白クマBが激しく身を捩った。
「ガァァァァァァァッ!!」
痛みにもがくその動きに、俺の剣が抜けて血の噴水があがる。と同時に、俺の体は白クマBの暴れる勢いに合わせてふっ飛んだ。氷原に叩きつけられる。
……だけなら良かったんだが。
「カズッ……」
「うわぁぁぁ……」
何せ滑り止めをつけなきゃ歩けないほどの足場。投げ出された俺は勢いそのままに床の上を滑り込んで行く羽目になった。すっさまじい速度で氷原を滑走し、挙げ句そのまま投げ出される。
ざぶーんッ!!
気がついた時には湖の中だ。こうなってみると、視覚の問題だけで実際の気温が氷点下じゃないことがありがたい。何の防寒対策もなく氷点下の湖に放り込まれたんだったら、心臓麻痺だ。
水面の高度がさほど低くなかったことも幸いした。これが崖みたいになっていれば、心臓麻痺だの溺れるだのって前に、全身骨折と内臓破裂で死んでいる。
とは言え、決して幸いと喜べる状態じゃないのも事実だ。何の心構えもなく湖に叩き込まれた俺は、飛び込んだ勢いで水中深くまで沈み込んだ。自分の沈む勢いで周囲に巻き起こる渦が俺の体を翻弄し、上下左右の感覚が全くわからない。しかも鼻に水が入った。痛い。
何とかその自制の効かない渦の中を逃れようともがく。激しく渦巻く水の中、ぐるぐると回転していた俺の体は、ややしてようやく水の翻弄から脱出することに成功した。握ったままだった剣を鞘に収め、水面の方向を探る。
どうやらこの湖は結構深い。足元に水底はまだ見えず、頭上から漏れる明かりもまだ距離があった。ともかく酸素を供給しなければ。
まだ流れの荒い水中で腕をかき、ようやく水面に顔を出す。
「ぷはぁッ」
大きく息を吸い込んだところで、今度はぐいっと何かに体を引っ張られた。強い力にまた水の中へと引きずり込まれる。……何だ!?
咄嗟に目を瞑り、ともかく酸素だけは逃さないようにしながら、足首に何か太いものが巻き付いているらしい感触に気がついた。引っ張られているのはそこだ。引きずり込まれながら目を開く。
「がぼおッ」
あああ危ない。酸素。
ぎょっとして開きかけた口を慌てて閉じながら、改めて俺を引っ張るものを凝視する。
俺のすぐ足の下でじっと俺を見つめているのは、真っ白い女の顔だった。いびつに広げられた口には笑みが浮かび、かっと見開かれた目が俺を凝視する。蛇のように太い髪が水中をうねうねと動きながら、俺の足首を絡めとっていた。……ホラー映画かよ!!
「ごぼッ……」
まずいな。このままでは沈められてしまう。髪のような触手は、俺を手繰り寄せるように体を這い上がって来た。腰の辺りにもぐるりと絡み着く。
(しまった……剣……)
絡み着いた触手は、俺の剣をしっかりと押さえ込んでいた。これじゃあ抜き取ることが出来ない。その間も着実に、俺の体は引きずり込まれていった。
地上では2頭の白クマ、しかも白クマBの方は魔術師2人で相手取る羽目になっているはずだ。俺の身に起きていることなど知りようもないし、何とか自力で抜け出さなければ。
ともかく、この触手を……ッ。
もがきながら、背に回された荷袋を漁る。開いた荷袋の口から物が出てしまわないよう押さえつけながら、袋の中を漁る俺の指先に硬い感触が触れた。
(くらえッ……)
抜き出したそれを、触手に叩き込む。第1階層で見つけたナイフだった。
大して役に立つ物ではないのかもしれない。けれど錆びてぼろぼろではあっても、『腐ってもナイフ』だ。渾身の力を込めて突き刺せば、痛いだろう。
俺の狙いは外してはいなかったようだ。女の目がくわっと見開かれ、絡みついた触手の1本が液体を水中に振りまきながらするすると後退していった。遠慮なく次々と触手にナイフを突き立てる。
ようやく触手から体が自由になった時には、結構深くまで引きずり込まれていたみたいだ。上に戻ろうと顔を上に向けかけた俺の体に、今度はもの凄い力で圧力がかかるのを感じた。水そのものが流れる強い圧力。
(嘘だろッ……)
見れば、今俺がいる位置よりやや下方に、横穴が開いているのが見てとれた。今し方俺を引きずり込もうとしていた女の首が、水に引きずられてもがくのが見える。水は凄い勢いでその横穴に吸い込まれていた。その力に抵抗すべく、必死に水をかく。が、徐々に俺自身もその流れに飲まれ始めた。かいてもかいても進まないどころか引っ張られ……。
(うわぁッ……)
不意に、全身にかかる力が巨大になった。流れ込む水流の、本流に乗ってしまったらしい。
全身の圧力に抵抗する術もないままに、俺は湖の底に開いた横穴の真っ黒い口に吸い込まれた。