第2部第2章第20話 海底のダンジョン2 【幻惑】 後編(2)
呼ばれたのでとりあえず返事をしていると、先生は俺となつみを見比べた。それから口を開く。
「じゃあ野沢。秋名が可哀想だから、どっかで2人きりでゆっくり慰めてやんなさい」
……すっっっっげぇ、滅茶苦茶なこと言ってますけど。
「好きなところに行って慰めてやるんだな。秋名、野沢を連れて行っていいぞ」
いやいやいやいや先生。言ってることがおかしいだろうが。教育者なら止めんかいッ。
「はい。ありがとうございます」
今し方まで泣いていたはずのなつみが、顔を上げてにっこりと微笑んだ。ぐいっと俺の腕を掴む。
「野沢くん。行きましょ。道玄坂の途中に良い場所があるわ……」
もっのすごく、風紀上宜しくない気がするんですが。
何だか先生にまで公認でとんでもないところに拉致されかけた俺は、思わず全力で抵抗しようと試みたが、なつみは俺の抵抗を許さない信じられない怪力で俺の腕を引っ張った。……何だ!?この怪力ぶり……ッ。
「なつみッ、俺はッ、ユリアがッ……」
思わず下駄箱にしがみつくようにしながら怒鳴ると、なつみの手からふっと力が抜けた。
見ればなつみは、隠微な笑みを浮かべながら下駄箱に張り付く俺に手を差し伸べた。顔を覗き込むようにゆっくりと……妙にいやらしい手つきで顔を撫でる。
「夢の話でしょ……?」
目を見開く。
……俺は、ユリアのことを言ったのは、今が、初めてだ。
「お前……誰だ……?」
「カズキ、伏せてッ」
呆然と呟く俺の言葉に被せるように、鋭い声が飛ぶ。聞き覚えのある女性の声……って、え!?
言われるままに張り付いていた下駄箱から咄嗟に飛びすさりつつ、声の方向に目を向ける。途端、突き刺さるように巻き起こった風が、もの凄い音を立てながら下駄箱をずたずたにした。
向けた目の方向、校舎に入る出入り口に佇む人影。逆光になっているけれど、淡いブロンドが背に受ける光を反射する。信じられない形相で睨みつけるなつみの視線を真っ向から受け止めて、真っ直ぐに立つ……。
「ニーナッ……!?」
「カズキ、こっちに来て」
片手を前に突き出すようにしてなつみに定めたままで、ニーナが早口に言う。何が何だかわからないまま、俺はニーナの言葉に従って駆け出した。
「野沢くんッ」
いずれにしても、あんな変ななつみのそばにいたら、俺、襲われる。
「ニーナ……何がどう……」
しかしどうでもいいが、『俺的日常』の学校に『どこまでもファンタジー』なニーナがいるのはもの凄く異様だ。
駆け寄った俺に、ニーナはなつみにターゲットを定めたまま、ちらりと目を向けた。くすりと口元に笑いを刻む。
「カズキ、純情クンで命拾いしたわよ」
は!?
「どういう……」
「サキュバス」
「は?」
さきゅばす?
「夢魔、と言えばわかる?」
夢魔……?
「人を誘惑する魔物よ。誘惑に乗らずに良かったわね。乗ってたら今頃、やばかったわよ」
誘惑する魔物って……じゃあ、なつみが?
「カズキの記憶に眠る元の世界を引き出して、誘惑しようとしたのね。彼女は、カズキの恋人?」
「違う。クラス……知り合い」
「そう。綺麗な人だわ」
サキュバス……じゃあこれは、魔物の支配する夢の世界?俺の記憶を引き出して、作り上げた……。
なら、俺はあっちの世界から引き戻されたわけじゃない……?
胸を塞いでいた重苦しい何かが、不意にふっと軽くなるのを感じる。
(良かった……)
――良かった?
浮かんだ考えに、自分でぎょっとした。元の世界に……こっちの世界に、戻りたいはずなのに。
……なのに、ニーナの横顔が泣きたいほど俺を安堵させている。
「自分の一途さに救われたわね、カズキ」
その言葉に、俺は見透かされているみたいで微かに赤くなった。嫌だな、どこからニーナは知ってるんだろう。俺がユリアの名を口走ったのは知っているんだろうか。
……誘惑して来たのがユリアだったら、間違いなくやばかったな、俺。
多少妙だと思っても、乗っちゃったかもしれない。せっかくだし。
「さて。さっさとやっつけて、この世界をぶち壊してやんなきゃね」
言いながらニーナが、体を低く構える。片手の上に渦巻く風。俺には見えないけれど、シルフ。
「取り憑いてるとか、そう言うわけじゃないんだよね」
念の為、確認する。呪文を完成させたニーナの手を起点とするように、渦巻いていた風が激しくなった。
「安心して。夢よ。……彼女の作り上げたね」
さっきまでいたはずの雄高や先生、生徒たちが次第にぼやけて消えていく。残されたのは、風に煽られるように制服のスカートをはためかせてこちらを睨みつけているなつみだけだ。なつみとは思えないその険しい表情のまま、ニーナの手から『風の刃』が放たれるのと同時に、地を蹴って跳躍する。外した凶器の風が地を抉り、土煙が噴き上がった。
「ちッ……邪魔なエルフッ……」
「おあいにくだけど、カズキをあげるわけにはいかないのよ!!」
怒鳴りながらシルフの攻撃を避けるサキュバスに、ニーナが嫌味に怒鳴り返した。サキュバスの体から、何か粘液質のどろっとした黒いものが出てくる。アメーバみたいにうねうねしながら、こちらに触手を伸ばした。
あちらで見ればまだ何とか受け入れられるものの、こちらの世界観の中で見させられるとその非現実度は甚だしいものがある。ああ、いよいよ俺の現実が壊れていく……。
「うわッ……」
身を削りながら『風壁』を強引に突破した触手が、俺の体を絡め取る。ぐいっとおっそろしい力で引き摺られてなつみの方へと引っ張られる俺に、ニーナが『風の刃』を叩き込んだ。……もとい、俺を絡め取っていた触手に、だ。
「……ッ……」
引っ張られていた触手がぶち切れて、その勢いのまま投げ出された俺は、昇降口の扉に背中から叩きつけられた。ガシャンとそこに凭せ掛けられていた棒状のものが倒れ込んで来る。――デッキブラシ。
問題なのは、今の俺にはニーナを手伝おうにも剣がないことだ。こんなデッキブラシが役に立つかはわからないが、素手より幾分ましだろうか。
「野沢くんッ……」
なつみの姿をしていたって、あれはなつみじゃない。
「野沢くン、アタシと一緒ニ、行コうヨ……」
なつみの姿をしたサキュバスが、俺に触手を伸ばしながらも駆けて来る。剣がないのは返す返すも惜しい。思わず笑いたくなる。前の俺なら、正体を知ってたってその姿をしている相手に手はあげられなかったかもしれない。……悪いんだが、なつみの姿をしていたって、敵だと思えば容赦する気になれない。生憎と、そんな情めいたものは、今の俺にはないんだ……。
触手に絡められる前に、手探りだけでデッキブラシを跳ね上げる。ナイスキャッチ。近付いてきたなつみの胴めがけてその持ち手を力一杯叩き込むと、なつみの体が衝撃を受け止めきれずに下駄箱に激突した。そこへニーナの『風の刃』が追い討ちをかける。
「ニーナ、どうすればいい!?」
ニーナの周囲で渦巻く風の影響で、他の辺りも風が強い。デッキブラシを片手に持ったまま、周囲の風にかき消されないよう怒鳴る。ニーナの声が怒鳴り返した。
「繰り返すけど、これは夢なのよッ。カズキの記憶と磁場を使ってサキュバスが作り出した世界……さっさと目覚めて!!」
目覚めてったって!!
「どうやってッ」
「知らないわよそんなことッ」
キレてるんだろーな、これは。単に。
「何でこんな夢が作り上げられたのかが問題なのよ……ッ」
「……」
思わずニーナの方を振り返る。下駄箱からずるりと体を起こすなつみから目線を逸らさないまま、ニーナが続けた。
「帰るなとは言わないわ。当然なんだとは思うわ。だけど、投げ出すつもりでもあったのかと思うと、残念だわッ」
――え?
投げ出すつもり?
「そんなことッ……」
「早く帰ろうと、思ってるんでしょう!?」
見開いた目に、あの時俺が考えたことがフラッシュバックする。
――自分が、レガードの亡霊のように……
――……早く帰ろう 自分のいるべき場所に
――俺の手は、君に、必要なくなる
「手前勝手で結構よ、わたしは帰りたいなんて思って欲しくないわ、本当は!!」
「……ニーナ」
体を起こしたなつみから、触手がまた放たれる。俺にじゃなく、ニーナに向けて。ニーナを先に排除すべきだと判断したのかもしれない。容赦ない『風の刃』が、目に見えない刃物のように唸りを上げて切り刻む。
「レガードが見つかって、複雑になるのはわかるわ。でも信用されてないみたいで、不愉快よ!!」
ニーナ……どうして……。
「わからないとでも思った?カズキの考えそうなことくらい、わたしだってシサーだってわかるわよ。その証明が、具現が、この世界の大元になっているんじゃないの!?」
「……」
「あんたは何の為にわたしたちの世界で頑張ってきたの!?誰の為!?何の為!?ここで投げ出していいわけじゃないでしょう!?」
「……」
「……こっちの世界に戻りたいと思わないで。少なくとも今はまだ、思わないで。あなたの1番大切な人は、どこにいるの!?」
俺の1番大切な人……。
凶器となっているシルフが、次々となつみ――サキュバスに襲い掛かる。切り刻まれていく中で、次第になつみはその姿を変容させていった。うねりをあげて伸びゆく髪。白目しかない瞳。
「ノざ、わ……クん……」
サキュバスの触手が、切り刻まれて飛び散った。サキュバス本体も、細かな傷をいくつも全身に負って黒い血を振り飛ばしている。レイピアを抜き放ったニーナが、背を向けたままで言った。
「あなたの最愛の、守りたい人はどこにいるのよ!?」
――――――ユリア……。
レイピアを構えて地を蹴ったニーナに、サキュバスの触手が襲い掛かる。けれどシルフを使役しているニーナに届くことはなく、レイピアの切っ先がサキュバスに届いた。
(まだ、帰れないッ……)
こっちの世界に。
「ギゃあああアあああアアあああア!!!!!」
脳裏にユリアが、キグナスが……シサーやシンの姿が閃光のように浮かび上がり、それと同時にサキュバスの雄叫びが上がる。
地獄のように響くその声の中、頭に受けた強い衝撃が、そのまま俺の意識を闇の淵へと突き落とした。
◆ ◇ ◆
「……」
目を開けると、高く澄んだ青空が広がっていた。それを覆い隠そうとするみたいに天に向かってそびえる木々が腕を伸ばして鮮やかな緑を揺らしている。
そしてそれより遙か手前で、心配そうに俺を覗き込むオレンジの瞳……キグナス。
キグナスの肩越しに、シサーの髪が揺れているのが見える。更にその後ろでは、無表情にこちらに視線を落としているシン。
「シサー!!カズキ、目ぇ開けたッ」
「キグナス……」
「おうッどっか痛いとこないかッ!?」
「……何で……オレンジなんだろうな……」
「……………………は?」
安堵、していた。
寝る前に見た光景と、ほぼ変わらない光景だ。ダンジョン第2階層の森の中。思い思いの色をした髪と瞳――ローレシア。いや、ここはラグフォレストだったか……。
「シサー……カズキがおかしなことを口走るー……」
呆れたようなキグナスのぼやきを聞きながら、体を起こす。体はきっとずっと眠っていたんだろうと思うのに、ひどく重かった。
「ニーナ……」
俺が横たわっていたすぐ脇に、力が抜けているようにニーナが座り込んでいて、その体が倒れないようにシサーが支えている。良く見ればニーナの手はしっかりと俺の手首を掴んでいた。
「生還おめでとう」
シサーが笑う。その言葉に、ぼんやりと記憶を辿った。
生還……。
「……うん。ありがとう」
座り込んだまま、視界にちらちらと揺れる赤い一房の前髪に片手を突っ込みながら、乾いた笑いをこぼした。……わかってしまった。
俺は、あちらの世界に戻りたいとは、思ってない……。
自分で、衝撃の事実だ。
……いや、もちろんずっとじゃない。ずっとここにいたいと本当に思っているかと言えば、それもまたきっと嘘になる。
だけど、すぐにでも帰してくれと思っていたはずの気持ちは、今はもうどこにもないんだとわかった。
レガードが見つかった今、俺の居場所はここにはない。それは知っている。僻みでも何でもなく、レガードと同じ顔をした人間がヴァルスでうろうろしているわけにはいかないからだ。あっちに残してきたはずの大切なもの。それは今だって変わらず大切だ。
だけど、もう少しだけ。
ここで手に入れたものがいつまでもあるわけじゃないことはわかっている。
わかっているからこそ……。
(あと、少しだけ……)
「カズキ、やっぱどっか悪いんか」
覗き込むキグナスの目に、泣きたくなった。いつか失うとわかっている、かりそめとは言えそれを体験してしまった後だからだろう。感傷的になってるんだ。
「大丈夫だよ……本当に」
「ニーナ」
キグナスに答える俺の声に、シサーの声が重なった。顔を向けると、力なくうなだれるようにしていたニーナの目が開くところだった。
「ニーナ」
「……カズキ。お疲れさま」
顔を上げたニーナが、掴んだままだった俺の腕を放しながら、疲れた笑みを浮かべる。
「ちょっと、言いたい放題言い過ぎたかしらね」
「言いたい放題は今更でしょ……あいて」
ぱしん、と軽く頭をはたかれる。
「ありがとう。……あの、何がどうなったの」
未だに俺は何が起こっていたのか、半ばわからない。
支えていたシサーに礼を言いながら自力で姿勢を直したニーナは、笑みを浮かべたまま俺に視線を戻した。
「サキュバスは精神を司る精霊の一種。女性を襲うのはインキュバスと言うわね。自らに生殖能力を持たない彼らは、人の力に寄生して種を繋ごうとする。ま、単純に言えばカズキの子供が欲しかったのねー」
言ってニーナはにやーっと意地悪く笑った。ので、その意味を理解した俺は、がーっと赤くなった。……こ、子供って……。
「だから好みの異性の姿を借りて誘惑するわけ。カズキの場合は、元の世界に対する思慕を利用されたと言えるんじゃないかしら」
なるほど……ユリアではあちらの世界にそぐわないと言うわけだ。
「少しはおいしい思い、したか?」
「するわけないだろッ!?」
真っ赤になってシサーに怒鳴り返している視界の中、ふいにキグナスが立ち上がった。複雑な表情を浮かべている。
「キグナス?」
「ん?ああ、何でもねぇ……その辺にカイルとゲイトがいるだろうから、呼んでくるわ」
「ああ……うん」
……?
「にしても、サキュバスの被害に遭ったのって、俺だけ?」
「そーね」
何で!!
憮然とした表情を浮かべる俺に、シサーとニーナがお揃いでにやにや笑った。……くそ。似てるぞこの2人。
子供が欲しいんならもっと成熟した男を狙えよなッ。この場にだって少なくとも2人はいるだろうが!!
「サキュバスは選り好みするのよ。良かったわね、好みのタイプだったみたいね」
魔物にもてて嬉しい理由が俺にあると思うのか?
「コトが起こってるのは精神世界になるからね……対抗出来るのが、わたしだけだったのよ」
噛みつきそうな目で2人を睨みつけている俺に、シサーが優しく目を細めた。ぽんと俺の頭に手をおく。
「何ごともなく済んで良かった」
「……うん」
「んじゃあ行くかーッ。お疲れのニーナとカズキには悪いけどな」
立ち上がるシサーに、ニーナが続く。黙ってそばにいたシンも、それに続きながらこちらを振り返った。微かに口元に笑み。
「手がかかる。……行こう」
「うん」
――信用されてないみたいで、不愉快よ
その、あんまりと言えばあんまりな物言いを思い返して、小さく笑った。
信用していないわけじゃない。自分の存在に自信がもてないだけだ。けれど、思い返せばこっちに来てから俺に差し伸べられる数々の手は……『俺自身』に対して差し伸べられた手は、確かにいくつもあったはずで……。
……ずっととは、言わない。
ずっと続くとは思ってない。
だけど……。
――わたしは帰りたいなんて思って欲しくないわ
(ありがとう……ニーナ)
もう少しだけ。
もう少しだけ、このままで……。