第2部第2章第15話 ロンバルトを灼く灯(2)
「……三勝一敗、か」
ロドリス王都ハーディン城にてその報せを受け取ったセラフィは、小さくひとりごちた。
同室していた宰相ユンカーが、ロンバルト周辺の地図を取り出す。指で道筋を辿りながら、顔を上げた。
「ここと……ここの要塞は、陥落ですね」
「こちらもでしょう」
セラフィの指が、地図上を滑る。
「ヴァルスに大敗を喫したとは言え、デルフト要塞は我々が押さえているはずです。まあ、ロンバルトがヴァルスをけしかけて奪還しようとすれば危ういでしょうが……」
言いながら、引っ込めた手で顎を押さえつけたセラフィの口元が小さな笑みを浮かべた。
「ありえないでしょうね。無意味だ」
そんなことをしている間に、ウォルムスが占領されてしまうだろう。
「ライオネル将軍が率いていた軍を壊滅させたヴァルス軍は……」
セラフィの指が再び地図上へと戻る。その指先が示すのはベルジューヌ湖だ。そこからすうっとウォルムスへの道筋を辿った。
「デルフトの残兵と合流して、ウォルムスの援護……」
「……どのくらいの戦力を備えているでしょうかね」
「さあて……。西南へ向かったこっちを大敗させたくらいだからね。数千ってことはないだろう。2万前後か……」
答えながら考える。ナタリア海軍の存在、そしてウォルムスへ投じられた兵。ヴァルスとて、そうあちこちに大軍は送れないだろうが。
だが、ウォルムスはロンバルトの王都。いくらロンバルトが軍事的に頼りなく、ヴァルスとて決して頼みにはしていなかっただろうとは言え、こうも開戦と同時に陥落されてはたまるまい。友軍がひとつもなくなってしまうのは、いかにも心細かろう。
(となれば、思いがけない勢力を差し向けて防衛にあたる可能性もある、か……)
ロンバルト通過ごときに、いつまでもぐずぐずしてはいられない。本命はあくまでヴァルス――レオノーラだ。
「陥とせるものなら、さっさとロンバルトには陥ちて欲しいんだよね。どうせロンバルトなんか、長くはもたない。なら、さっさと手を引いてくれるに越したことはない」
レガードの首でも投げ込んでやりたいが、見つからないものは仕方がない。正面から攻めて地道に……いや。
(もうひとりいるんだっけ……)
それも、手元に。
「ユンカー殿」
ぼんやりと視線を落としていた地図から目線を上げたセラフィに、同様にしていたユンカーが顔を上げる。
「誰か人を……」
言いかけて言葉に詰まる。
レドリックの存在は高位官しか知らない。下手に下働きの者などを使うわけにもいかない。
ため息をついて立ち上がりかけたセラフィの耳に、ノックの音が届いた。ユンカーの返事を受けて入ってきたのは、秘書官アークフィールだ。
「失礼します。ユンカー殿、サーディアールの糧食の補填についてリトリアから打診が……どうなさいました?」
手にした書類に半ば視線を落としたまま室内に足を踏み入れたアークフィールは、いやににこやかなセラフィの視線を受けて足を止めた。きょとんと目を瞬く。
「良いところに適任の人材が来てくれた、と思っているところだよ」
椅子に腰を落ち着け直したセラフィが足を組みながらテーブルに頬杖をつくと、アークフィールは困ったように片眉を軽く上げて微笑んだ。
「ああしまった、と嘆くべきところでしょうかね。何かご用ですか?」
「異国の王子様を迎えに行って欲しいんだ」
セラフィの言葉を受けて、アークフィールはますます大袈裟に眉を上げる。
「やはり嘆くべきところですね。わかりました。ご用件は承っておいた方が宜しいですか?」
冗談めかして肩を竦めた後、書類をユンカーに渡しながら真顔で尋ねたアークフィールに、セラフィはやや人の悪い笑みを浮かべた。
「そうだな……伝えておいてもらおうか。その方が王子様も、塒から出てくる気になるだろうからね……」
祖国ロンバルトから行方をくらませたままになっている第1王子レドリックは、ロドリス王都フォグリアのハーディン本城からやや離れた敷地内の邸宅に転がり込んでいる。館の中に入ったアークフィールは、その人気のなさに嘆息した。予想通り、上のフロアにいるのだろう。
前髪に片手を突っ込んだまま歩き出したアークフィールは、階段に足をかけて再びため息をついた。
ロドリスの現国王も人のことを言えたものではないが、ロンバルトの第1王子は更にひどい。いや、君主の座について国政をしているところを見たわけではないからそうと決まってはいないのかもしれないが、こんな主を戴きたくはないと思ってしまう。国が傾く。
ロドリス国王カルランスは、確かに能無しかもしれない。だがそれは現状、アンドラーシに夢中で国政に目が向かないからだ。以前も決して有能だったとは言わないが、それでも彼の気の弱さが幸いして人の意見を良く取り入れる。良くも悪くも他人の言葉を鵜呑みにしやすい彼は、一度信じてしまえば無用に部下を疑ってかかるようなことは滅多にない。
ゆえに、元来優しい気質にある彼は、穏やかに宰相ユンカーと宮廷魔術師セラフィの言う通りに国政を行い、つつがなく運営してきたのだ。これで部下まで無能であれば目も当てられないかもしれないが、ユンカーとセラフィはロドリスにおいてなくてはならない人材ではあった。
だが、ロンバルトの第1王子はどうだろう。
深くその人柄や能力を知るわけではないが、アークフィールが見る限り、レドリックは野心こそ強いもののそれを組み立て実行する能力にはいささか欠けているような気がする。にも関わらず、周囲を顧みない。己を中心に展開されているその世界に組み込まれる国民は、たまったものではないだろう。
カルランスとの決定的な違いは、他人の意見を聞き入れる姿勢にあるかどうかだ。
もちろん他人の意見に左右されてばかりいてはどうにもならないが、大して考える能力もないくせに他人の意見も聞かないのであれば、一層どうにもならないではないか。
やれやれ、と首を振り、階段の最上部まで辿り着く。
人の気配のなかった館で、唯一そのフロアだけが人の気配が存在した。正直なところ、あまり近付きたい空気ではないのだが、ここで踵を返すわけにはいかない。
仕方なくその部屋の前にまで行き、握り締めた拳をドアに打ち付ける。微かに部屋の中から聞こえてきた甘やかな女の声が、不意に途切れた。
「レドリック殿」
声を掛けると、じっと沈黙してその場で待つ。だが再び悩ましげな女の微かな声が再開され、いつまで経っても開く気配のない扉に辟易して今度は先ほどよりいささか強めに扉を叩いた。
「殿下!!」
やがて、中で人の動く気配がした。どうやら睦みごとを中断してくれたようだ。思わず身構えて待っていると、開けられた扉から男が姿を覗かせる。
アークフィールは知る由もないが、レガードと血を分けた兄弟、と言われて納得のいく容貌をしてはいる。ただし、やや知的で優しげな顔立ちをした弟より、兄の方が目付きにどこか粗暴さを滲ませていた。『お楽しみ』を中断させられたせいか、今は尚一層険のある顔つきをしている。
「……気がきかねぇ」
乱れたダークグレーの髪をかき上げながら視線を背けて呟くレドリックに、アークフィールはそつのない笑顔で応えた。
「それは大変失礼致しました」
ロドリスに転がり込んでからの彼は、日夜あてがわれた貴族の娘と部屋に籠もることで忙しい。祖国――それも王都が戦禍に晒されようとしていると言うのに良いご身分だ。
「上乗せするようで大変申し訳ないのですが、ハーディンへ足をお運び戴きたくお迎えに上がりました」
柔らかく告げたアークフィールの言葉に、レドリックはあからさまに舌打ちをした。鼻の頭に皺を刻みながら、アークフィールに視線を戻す。
「用件は何だ」
「……ロドリス軍は、ロンバルト王都に肉迫しています」
微かにレドリックの目が動く。だがそこに肉親を心配する色は窺えなかった。王都と言えば彼の両親がいる。……いや。この男は実の弟の暗殺を期待しているのだったか。
血の絆を大切に思うアークフィールには、権力の前に家族を踏みにじるその神経がわからない。確かにロドリスにおいて味方ではあるはずだが、個人的に付き合いを深めたいとは到底思えない人格だった。
だが、現状ロドリスにとっては価値のある身柄ではある。
「ほー」
「ウォルムス陥落にあたり、殿下のご助力を戴きたいとユンカー殿とセラフィ殿が申しております」
「助力?俺は戦場には出ないぜ」
全く他力本願も甚だしい。だがこちらとしても、レドリックを戦場に放り出して万が一のことがあっては困る。
「ご安心を。殿下のお手をそのような形で煩わすようなことはございません」
アークフィールの言葉に、微かに片目を顰めるようにしたレドリックは、「ちょっと待ってろ」と言い残して部屋の中へと姿を消した。短い時間をおいて、着衣を整えて再び出て来る。そうして現したその姿は、確かに王侯の品位のあるものとも言えた。
「痛み入ります」
扉を閉めながらちらりと中の方に視線を向けたレドリックが、アークフィールに視線を戻して口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「風邪でも引かれたら困るからな。手短に頼むぜ」
「……心得ました」
◆ ◇ ◆
どこか意識の遠いところで、微かな音を聞いたような気がして、アンジェリカ公妃は目を覚ました。窓から差し込んでくる光が余りに鮮やかな朱で、一瞬室内が燃えているのかと錯覚するほどだ。
「……カレン」
ゆっくりと見回した室内の隅で、公妃アンジェリカの姪にあたる女性が、花を活けた花瓶をテーブルに飾っているところだった。アンジェリカの声に、カレンが振り返る。
「あら。起こしちゃいました?」
「いいえ……元々うつらうつらしていたようなものだから。……綺麗ね」
カレンの体を越えて向こうに見える花に、目を細める。その手を伸ばして花を整えながら、カレンが微笑んだ。
「せめてこのくらいしないと。心が安まりません」
冗談めかして肩を竦める後ろ姿は、だが本音だろうと言う気がした。事実、アンジェリカがここしばらく寝付いているのも心労からだ。
「お庭にね、出てみたらちょうど綺麗だったものですから。お目にかけたら公妃様も少しはお元気になられるかしらと思って」
カレンだって不安で仕方がないだろうに、気遣ってくれることに感謝をして、アンジェリカは微笑んだ。
まだ36歳と年若い公妃は、ロンバルト公王にとっては2人目の妻にあたる。最初の公妃は、長男レドリックを産んで間もなく死亡した。その3年後に公王フェルナンドの後妻となったアンジェリカは、第2王子を身ごもった。つまりロンバルトの2人の王子は、異母兄弟にあたる。
アンジェリカの心労のひとつは、この兄弟のことだった。
ゆくゆくは父を継いでロンバルトを治めるはずの長男は、実母の故郷を訪ねると出たきり音沙汰がない。ロンバルトの西北にあるその地に使いをやってみれば、確かに来訪はしたものの忽然と姿を消してそれきりだと言う。
対する弟……彼女にとっては最愛の実子であるレガードはと言えば、婚家となるはずのヴァルスに行ったきり、こちらも連絡がない。ヴァルスからの連絡によれば、ヴァルス王位継承――ひいてはアルトガーデンの帝位継承の為の試練に出ていると聞いている。だが、レガードが王城ヴィルデフラウを離れて数ヶ月……そんなに、かかるのだろうか。
「レガード様なら、大丈夫ですよ」
息子を憂いた公妃の胸中を察したように、カレンが明るい声で言った。
「レガード様は、しっかりされてる方ですから。ご心配には及びませんわ。ロンバルトの窮地には、必ず駆けつけて下さいます」
「……そうね」
アンジェリカは布団から体を起こしながら、曖昧に微笑んだ。……そう。確かに良く出来た息子だ。だが胸騒ぎがしている。
レガードが生まれた時のことを、思い出していた。生まれついての赤い一房の髪。アンジェリカにはそれが何か、不吉な予兆のような気がしてならなかった。その不安を打ち破ったのは、レガードの父たるフェルナンドだ。
赤い髪は、力を持つ者に多い。神に愛された御印だと。何らかの優れた能力の顕れが赤い髪で、レガードはきっと神から何らかの役割を仰せつかったのだと。
現実には優れた才能は髪の色に左右されると決まったものではないが、ローレシア……特に広くヴァルスにおいてそのような言い伝えがあるのは確かだった。
だが、黒髪の中に一筋の赤髪と言うのは珍しい。それがアンジェリカを不安にさせたのだ。
神に何かを仰せつかったのだとすれば、なぜ純然たる赤髪ではないのだろう。
神は、彼女の息子に何を託したと言うのだろう……。
アンジェリカがそう言うと、フェルナンドはレガードを抱き上げて笑った。
「レガードは、『7番目の使い』なのだよ」
「『7番目の使い』?」
「そう。黒髪に一房の赤い髪は、『7番目の使い』だ。この子はファーラに愛される子になるだろう」
……未だにアンジェリカには『7番目の使い』の意味はわからない。聖書の中にもそのような文言は出て来なかったように思う。ただ、不吉な印ではないのだと言うことがわかれば、それで良かった。
「陛下は、ご無事かしら」
目覚めた時には燃え盛っているようだった太陽も、今は少しずつその光を弱め、室内は少しずつ藍色の影が忍び込んでいる。目を細めて窓の向こうを見遣る公妃に、カンテラの火を入れながらカレンが頷いた。
「大丈夫ですとも」
フェルナンドは、ロドリスら反帝国軍の侵入に対峙すべく、自ら軍を率いて戦場へと向かった。相次ぐ要塞の陥落に、苛立ったせいもあるだろう。
フェルナンドが出征してから、まだことを構えたと言う話は聞かない。だが2つの要塞を陥とした連合軍が、ウォルムスを目指しているとの報せは受けている。
もうひとつの、アンジェリカの心労の理由だ。王都は大丈夫だろうか。2人の息子たちが帰ってくる場所は、あるだろうか。
アンジェリカが口を開きかけた時、彼方で地響きが聞こえたような気がした。彼方――そう、遠方だ。ウォルムスの街ではない、と言う意味においては。
だが……。
「アンジェリカ様ッ……」
カレンが悲鳴を押し殺すような声を上げた。その理由はアンジェリカにも、すぐにわかった。視線を向けた窓の遙か向こう、遠くにほんの僅かに明かりが見える。たなびく黒煙が細く空へと筋を作っていた。薄暮に霞み始めた風景に浮かぶオレンジは、西陽の名残などではないことは明らかなことだった。
(陛下……)
微かに震える唇を噛みしめて、見つめる先へと祈りを捧げる。
まるで、不吉な出来事の前兆のように広がっていく光。
(あれは……)
あれは、ロンバルトを灼く……ロドリスの、炎だ。