第2部第2章第14話 歯車(3)
濃霧に進軍を妨げられたロドリス軍は、一旦デルフト要塞へと撤退した。
このまま放置しておけば、隙をついて奪還されてしまう。それでは苦労が水の泡だ。
要塞を押さえることのメリットは、精神面と物質面の双方にある。
精神面は無論、敵への権威付けだ。
ひとつひとつ要塞を落としていくことは、相手の陣地と言うマスを、ひとつひとつ自分の色で塗り変えていく作業である。
そして物理的な側面とは、物資の補給だ。要塞には多くの備蓄がある。多くの人間が長期間の滞在を予定しているのだから当然のことである。行軍を続け、自らの備蓄所から離れていけばもちろん不安である。手近なところに新たな備蓄所を確保しておくに越したことはない。敵の物資であれば尚一層、である。
ここからウォルムスまでは、もう遮るものは何もない。どうせ先のヴァルス軍もウォルムスを目指すだろう。移動行程の中で追撃し、ウォルムスへの援軍を減らしておけば後の仕事が楽になる。どうせ大した兵力ではなかった。
ロドリス軍は5千をデルフト要塞の守備と修繕に充て、一夜明けた翌朝、残る全軍がデルフトを出発した。濃霧で進路が妨げられるのはヴァルス軍とて同じこと。それほど驚異的な速度で移動したとは考えられない。まだ、ヴァルス軍に追いつくことは可能だろう。
時折斥候を飛ばしては、先行しているヴァルス軍の足取りを確かめる。ウォルムスに入る前に壊滅させねばならない。
要塞付近の岩窟地帯を抜けると、道は次第に草木に覆われた緩やかなものになっていく。やや拓けた平地部分に差し掛かった時、そこにいくつも焚き火の跡があることに気がついた。どうやらヴァルス軍の野営地であったらしい。
早速ライオネルはその規模を確認させた。これで今自分たちが追っているヴァルス軍の勢力が見当がつく。やがてもたらされた報告に、ライオネルは満足した。その規模およそ1万弱。デルフトに仕掛けてきた人数のほぼ倍近い。どこかに伏兵でも置いていたのだろうか。だが、ロドリス軍に太刀打ちするには、いささか脆弱だ。
数日をかけてヴァルス軍の野営の跡を追跡していたロドリス軍は、行程の中でふと妙なことに気がついた。時折投げ捨てられるようにして草むらに転がる装備、少しずつではあるが、縮小していく野営の規模。
これらの状況が示すものは……逃亡兵か。
進むごとに、ヴァルス軍の野営地は規模を少なくしていく。その距離も少しずつ縮まっていった。もう少しで追いつく。獲物を追いつめていく快感に、ライオネルは勝利を幻視した。
「全軍停止ッ!!」
緑豊かなロンバルトの王都までほど近いその緩やかな山間には、澄んだ水を湛えた美しい湖がある。柔らかい弧を描きながら静かに広がっていく湖に沿って、鮮やかな緑が揺れている。風景に彩りを添える季節の花が、甘やかな香りを滲ませた。
燃える太陽が低い位置から投げかける西日に、静かな水面が赤く染まる。
……ここならば見通しは、悪くない。
少し先まで進むと、弧を描いていく湖に繁る木々が覆い被さるように道を埋めていっているように見えた。危険だ。万が一ヴァルス軍が引き返してきた場合、思いがけない乱戦へともつれ込む危険性がある。
相手が予期していない戦闘は指揮系統が混乱するから望むところだが、こちらまで予期していないのは望ましくない。
この場で野営を張ることに決めたライオネルは、全軍に停止を命じた。斥候に周囲の偵察を命じ、安全を確認した上で野営の準備に取りかかる。
地形を確認したところによれば、この先、ウォルムスへ抜ける前に平地に差し掛かる。ライオネルはそこでの決戦を心に決めた。正面からの総力戦を挑めば、兵士の逃走を許してしまっているヴァルス軍に負けはしまい。最後に見た野営地の位置からするに、もうさほどの距離はないはずだ。恐らく明日には追いつくだろう。魔術師ひとりいたところで、それで戦況が大きく左右されるわけでもない。――勝てる。
程なくして、ロドリス軍は野営の準備を終えた。明日の総力戦を前に、休養はしっかり取らねばならない。全軍速やかに、眠りの海へと沈み込んでいく。もちろん、万が一の夜襲に備えて交代での見張りも立てた。
奇妙な物音が聞こえたのは、その日の明け方近くになってからだった。月の光が滲む藍色の空が、少しずつ朝を迎える準備を始める。まだ暗いながらも鳥の囀りが微かに響き始め、夜襲を受けずに朝を迎えたことに見張りの気が緩み始める時間帯だ。
カサリ、カサリ、と草を踏み分けるような音。微かに聞こえる、金属質の音。
(……?)
安堵に包まれて、ついうっかり眠くなりかけた見張りの全身に緊張が走る。湖のすぐそばと言うこともあり、水分を多く含んだ空気はじっとりと湿り気を帯び、至るところに朝露が浮かび始めていた。眠る兵士たちの装備や全身も例外ではない。空気中の水分が体温を奪い、全身はひんやりと冷えてさえいる。
「おい……」
そばで同様にうつらうつらし始めていた見張り仲間に声をかける。その声に我に返った仲間たちが、朝靄の奥に目を凝らした。白く霞む露混じりの木々の向こうに、黒々とした影が接近してくる。まだ距離はあるものの、それは間違いなく……。
「ヴァルスだッ……」
「奇襲だぁぁぁぁッ!!!!!」
不意に吹いた一陣の風が、朝靄を取り去る。
湖を迂回して、前方からこちらを目指して整然と突っ込んでくる姿は、間違いなく先日姿を消したヴァルス軍だった。
◆ ◇ ◆
大神殿の礼拝堂には、最奥の壁際に祭壇が設えられている。がらんとした、質素で荘厳な空気に身を包み、偉大なるファーラ神がその祭壇の中に美しい佇まいを見せていた。
ファーラ女神像には数種類あるが、ここ、ヴァルス大神殿にある女神像は、右手に剣を、左手には錫を持っている。これがファーラを象徴する、最たる姿だと言われていた。
剣が表すものは、戦。ファーラ神はそのたおやかな姿にそぐわない戦姫でもある。守り勝利に導く女神だ。
そしてその一方で、人を愛し、慈しむことを説く慈愛の神でもある。左手は命に繋がり、その手に持つ錫には平和を意味するリングをモチーフにしたデザインが為されていた。
それを見るたびにユリアはその答えを問うてみたくなる。今は特に……尚更だ。
人を愛し、守ることと、戦い争うことは、相容れるものなのだろうか。
どうしても理解が出来ない。納得がいかない。
――必要があるなら争いを避けるつもりも、戦闘を回避する気も、ない
責める自分を見つめる陰った微笑み。その瞳に滲む寂しげな色が、胸に刺さる。
けれど、どうしても頷けなかった。カズキの言うことは、わからなくはない。わからなくはないけれど、認めてしまえば終わりではないだろうか。
……どうしたのだろう、と思う。前は、あんなふうには考えていなかったはずだ。はっきり聞いたわけではないけれど、剣を握る手が、ユリアを守る背中が……奪わなければならない自分に疑問を抱き続けているように見えたのに。
あんなふうには決して、考えてなどいなかったはずなのに……。
(わたしのせい?)
誰に対しても何に対しても、優しい気持ちで接しているように見えた。魔物の命を奪うことにさえ、躊躇っている姿を覚えている。
彼が旅する間に起きた出来事が彼を変えていったのだとすれば、それは……自分のせいだ。
……大切なもの。
ユリアにとって守り抜きたい大切なものは、父の遺したヴァルスだ。そして守りたい大切な人は、ユリアを取り巻くその全ての人々だ。
誰しも大切な誰かがおり、必ずその人を大切に思っている誰かがいる。必ずだ。その誰かが深い悲しみに落ちることがないように、ユリアは国の主として民のひとりひとりを守りたい。
そうは思うのに……何と難しいことなのだろう。実際にはユリアは、シェインと言う兄にも似た存在を戦地に送り出すことを、黙認しなければならなかった。
――俺は自分の大切なものを守る為だったら……
(自分の、大切なもの……)
その言葉は、何を指していたのだろう。彼の大切な人は、誰なのだろう……。
ちくり、と胸の奥が痛んだ。……そう。いるに決まっているではないか。今し方、ユリア自身が考えたことだ。
必ず大切に思う誰かがいる、と。
(本来の、居場所に……?)
カズキがいるべき場所はここではない。そこに彼の大切な誰かがいたところで、何の不思議があろう。もしくは、こちらで旅する間に誰かと知り合う機会があってもおかしくはない。
その考えに自分でどきりとし、ふと上げた顔の先でファーラが静かにユリアを見つめている。自分の心を見透かされているようで、ユリアはそっと顔を伏せた。
……そんなことに心を揺らしている場合ではない。女神の荘厳な空気に、諫められているような気がする。
ユリアが案じなければならないのは最愛なる婚約者の身であり、ヴァルスのこれからだ。個人的な感情に身を委ねている場合ではない。
(でも……)
まるで言い訳をするように、胸の内で呟く。
(でも、無関係じゃないわ。カズキたちの動きでレガードのことも、ヴァルスのことも、影響が出るんだもの……)
それに彼を危険に曝しているのはユリアだ。その身を案じて何が悪い。当然と言うものだ。
(ヴァルスの為に動いてくれているんだもの。その身を心配することくらい、許されるはず)
懸命にファーラへとも自分へともつかぬ言い訳を胸中で繰り返しながらも、女神を正視出来ずにユリアは長い睫毛を伏せた。
自分の心を正面から見つめれば、それは『不実』であるような気がする。
確かに、カズキに惹かれているのだ。幽閉された極限状態の時には、その想いを口にすることさえ決意するほどに。
けれど我に返ってみれば、自分には婚約者がいる。そしてそれは、動かし難い決定事項だ。
……疑問に思ったことはなかった。そこに迷いを感じたことなどただの一度もなかった。
ユリアはレガードを大切に思っている。レガードもまた同様だと知っている。そして、双方そこに恋愛感情と呼べるものが間にないことも、また……。
「ユリア様」
礼拝堂の開け放した扉に、小柄な人影が見えた。呼びかける声に振り返ると、老いて尚背筋をぴんと張った大司教の姿がそこにあった。
「ガウナ様」
「ユリア様の祈りを、ファーラが聞き届けられました」
「え……?」
陽光を背に中へ足を踏み入れるガウナの言葉に、ユリアが目を瞬く。跪いていた体を起こし、立ち上がりながらガウナに向き直った。ガウナがユリアを穏やかな微笑みで見つめる。
「レガード様の、行方が」
「――え」
どきりと心臓が跳ね上がった。一瞬言われた意味がわからずに、大きな瞳を見開いて瞬きを繰り返す。真っ白になった頭の片隅でレガードの笑顔が蘇り、きゅっと胸元に握った手が小刻みに震えた。
「レガード、が……?」
余りのことに、まだ理解が追いつかない。今自分は何を言われているのだろう。もう一度ガウナの言葉を頭で繰り返す。
「レガード様の行方が、わかりました」
「……」
レガードが、見つかった――。
どくどくと心臓が高鳴り、震える膝が自分を支えられなくなった。力が抜けてすとんとその場に座り込むユリアの両目から、大粒の涙が溢れ出す。
「本当に……?」
「はい。……無事、生きておられると」
「……良かった……ッ!!」
まだ、信じられずにいる。自分は今、幸福な夢を見ているのではないだろうか。溢れ出す涙に、両手で顔を覆いながら紡ぐ言葉を見つけることが出来ずにいた。ガウナがそっとユリアのそばにしゃがみこむ。
「ガウナ様ッ……ありがとうございますッ……」
喉が詰まる。胸に込み上げる思いを押さえきれずに、声が震えた。ガウナの温かい手がユリアの肩にそっと触れる。
「無事だったのね……良かった……」
思えば長い期間だ。数ヶ月の行方不明期間に、半ば諦めた気持ちにさえなっていた。無事で見つかる可能性は、限りなく低いような気がしていた。両手で顔を覆ったまま、ファーラに感謝の意を捧げる。
「会いたいわ。今、どこに……?」
涙を止めることが出来ないまま顔を上げるユリアに、ガウナが小さな吐息をつく。
「ええ……それなのですが」
その表情に複雑なものを読み取って、ユリアは微かに眉根を寄せた。やはり見つかったと言うのは自分の聞き違いだったのだろうか。いや、そんなはずはないのだが。
「ご無事でおられるのは確かですが、意識をお持ちでないと」
「え……?」
「昏睡状態であられると言うことです」
「……!!」
驚きの余り息を飲む。
「そんな、どうして?」
「わかりません。現在、ギャヴァンの盗賊ギルドが保護をしていると言うことで、その身柄をどうするかを……ラウバル殿がご対応中です」
「どうするかって……?」
「……そのことで、幾つかご報告が」
見上げるガウナのその後ろ、先ほど大司教が入ってきた同じ扉に、今度は長身の人影が姿を現わした。宰相のラウバルだ。低い声に顔を上げる。そしてその背後に小柄な人影を見つけて、内心そっと首を傾げた。濃緑のローブを身に纏った、老人だ。
「ラウバル……」
見慣れぬ姿に立ち上がりながら見つめるユリアの視界の中、老人を連れたラウバルがゆっくりと礼拝堂に歩を進めた。
「そちらは……?」
尋ねるユリアの前で、ラウバルがそっと老人を振り返る。老人がユリアを眺めて「こりゃー別嬪さんじゃなー」と軽口を叩いた。気難しい顔をしたラウバルが横目でじろりと睨む。
「……尊師」
ラウバルの声に老人が首を縮める。
――『尊師』?
「最近はギルドの馬鹿息子にもっぱら『ガーネット』と呼ばれておるんでな。お前もそう呼んで構わんよ」
「呼べるわけがないでしょう。……ご紹介致します」
飄々と言って白い歯を覗かせた老爺にため息をついて、もう一度ユリアに向き直ったラウバルが老人を紹介した。
「シュリヴィドル尊師――私の、恩師です」