第2部第2章第14話 歯車(2)
黙って頷く。ヴァルス兵……では、モナの公王の行方など知る由もないだろう。むしろ尋ねることによってロドリスがフレデリクを探していると思われたくはない。尋ねない方が得策だろうか。
「どんな状態だったんですか?何でも魔物じゃないかって憶測が入り乱れてますけど」
「はい。それは間違いないです。モナの海軍が海上を進むヴァルス軍に接近して、砲撃を放ってきたので……ヴァルスがそれに応戦している間に、突如両国の海軍の間で海水が噴き上げたんです」
繰り返される砲撃の合間を縫って接近する両軍の間に突如噴き上げた海水と、そこに見え隠れする魔物の巨大な姿。波間をのたうつ焦げ茶色の姿は巨大な蛇に似て、時折覗く頭部らしき部分には鋭い角がついていたと言う。話を聞く分には、恐らくシー・サーペントだろう。歴史を紐解いても、時々海戦で刺激を受けて大暴れする魔物である。そこに特に奇異なことはないが、問題は一度興奮して海面に浮上してくるとしばらくの間活発に活動をするようになると言うことだ。
「気がついたら海面に投げ出されていて……咄嗟に身につけていた装備を全部外したんですけど、もがいている間に沈む船の渦に巻き込まれて……。そのまま僕は意識を失ってしまったんです。もう駄目だと思っていたんですが、気がついたら……」
恐怖を思い出したように蒼白な顔をしながら、リクベル医師を見上げる。
「気がついたら、ここに」
「救助用の小型ボートに上手い具合に引っ掛かっていたようで、そのまま海上を漂流していたようなんですよ。それをカンサスの漁船が見つけましてね」
「ほうほう。そりゃあ幸運でしたねぇ」
「じゃあ、他に助かった人がいるかどうかなんてのは……」
エレナの質問に、エクセルは力なく顔を横に振った。予想していたので、特に失意する理由もない。ではフレデリクが生きてるかどうかは、まるでわからないと言うことか。可能性としては、薄いだろうが……。
「そうですか。結構ですよ。ありがとうございました」
これ以上は得るところもないだろう。そう判断してリクベル医師に頭を下げる。
「どうもお騒がせしましたね。失礼しましょうか、エレナさん」
「ああ、うん……」
歩き出しかけて、ふとグレンが思い出したように足を止めた。見送る医師と患者を振り返る。
「そうだ。しばらくは、近隣の猟師も海に出るのを控えた方が良いでしょうね」
「え?」
「シー・サーペントは、海上に浮上してくるとしばらくその周辺で活動します。行動範囲も広いですからね。しばらくするともっと北や南へ移動するかもしれませんけど、少なくとも現状はロドリスやロンバルト海域をうろついているでしょうし」
エクセルの体が小刻みに震えた。リクベルが宥めるようにそっと肩に手を置く。
「これまでも、シー・サーペントは海戦で暴れた後に近隣の漁船や商船を襲っています。気をつけるに越したことはないと思いますよ」
ちらりと振り返ったグレンに、リクベルが頷くのが見えた。
「わかりました。……しばらくは、海に出るのを控えるよう、警告を呼びかけます」
◆ ◇ ◆
「間に合わなかったか……!!」
遠く噴き上がる黒煙が、まるで昇竜のように夕陽に染まる空へとたなびいている。
それを馬上で認めたヴァルス ラルド要塞軍将軍ガーフィールが、呻き声を上げる。そばに控える将官たちも言葉にならない呻きを上げて、空に視線を定めた。
「様子を見てくる。スフォルツ、ザクトゥール、共に来てくれ」
険しい表情で将官、将校それぞれ1名ずつ呼びかけて馬首を返すシェインに、ガーフィールが慌てた声を出した。
「危険です」
「大人数では人目につこう。どんな様子か見てくるだけだ。それによってこちらの動きも変えねばならぬゆえな」
言って馬を駆るシェインに、名指しされた2名が続く。戦場の喧噪はまだ遠い。少人数での行動でむしろ心配されるのは、魔物の方だ。もちろん生半可な魔物では、将官と将校を引き連れた宮廷魔術師の命など奪えるはずもないのだが。
デルフト要塞は高度にあり、そこを巡る攻防を見晴らせる場所を探すのは容易ではない。
頭に叩き込んだ地図を引っ張り出し、進路を吟味しながら馬を進める。やがて、要塞とほぼ同じ高度と思しき崖へとたどり着いた。つまり戦闘が行われている要塞へ続く道は見渡すことが出来る。
その光景を見下ろして、三者三様に息を飲んだ。スフォルツが緊迫した顔でシェインを振り返る。
「シェイン殿……!!」
「……まずいな」
思わず舌打ちが洩れた。完全にロンバルトが押されている。破城鎚はデルフト要塞の塁壁に食い込み、その根幹である木組みの露出した部分に放たれた炎が燃え移っていた。これではいかにも侵入はたやすく、陥落するのは時間の問題だろう。
「デルフトを奪還しなければッ……」
焦ったように言い募るザクトゥールに、シェインはたなびく黒煙に視線を定めたまま、低く答えた。
「馬鹿を言え」
「では放っておくと!?」
「そうは言わぬ。が、要塞の奪回に固執してはこっちが壊滅だ」
「……」
「あのありさまでは、デルフトの奪回は叶うまいよ」
「しかしッ」
「残兵の逃走を援護しよう。あれほどの混戦状態、我々が参入したところで回復は望めまい」
「……」
スフォルツが悲痛な顔でシェインを見上げ、視線を眼下の混戦へと落とした。
「いずれにしてもこのままでは壊滅だ。ロドリスがここを拠点に狙う先は王都だろう。要塞軍の生き残りが駆けつければ、ウォルムス防衛に一役買うさ。……戻るぞ」
再びシェインらと合流したヴァルス軍は、シェインの意見に従ってロンバルト残兵の逃走を援護する為に進軍を開始した。デルフトへ続く一本道に群がるロドリス軍の後背をつく形で展開した5千のヴァルス軍を率いるのはガーフィールである。
突如現れた敵の援軍の姿に、当初こそ動揺したロドリス軍だが、要塞内や付近のロンバルト軍の一掃に一部の兵力を割くと、全兵力を急遽旋回させた。後背のヴァルス軍に迎え撃つ為である。
新たに投入された戦力とは言え、その数はざっと見る限り数千。開けた場所に展開しているヴァルス軍に対して狭い道から雪崩出ると言うハンデがあるにしても、負ける人数ではない。こちらは勢いに乗ってもいる。
侵入を果たしたデルフト要塞の中でロドリス軍将軍ライオネルは、望める窓から下を見下ろした。ロドリス軍が移動を開始する間、ヴァルス軍は整然と隊列の立て直しに入っている。
ロンバルトの残兵はもうさほどの数はいないだろう。城内はほぼ片付けたし、後は塁壁の内側から外に向かっている方に善戦している僅かな兵がいるのみだ。
「たかだか数千とは言え、ヴァルス軍だからな。数は減らしておくに越したことはない」
そうひとりごちるライオネルの足下には、袈裟掛けに胸を切り裂かれた青年が横たわっていた。床に流れ出した夥しい量の血液が、彼の意識はもうこの世にないことを物語っている。デルフト要塞総指令官リートリッヒだった。
刻々と陣営を形作っていく両軍は、それが完成する前にヴァルス軍が攻撃を開始した。それはそうだろう。せっかく有利な地形にいると言うのに、わざわざロドリスが不利な地形を脱するまで待ってやる理由はない。
ふと敵の立場になって思ってしまった自分に思わず苦笑いをしながら階下へ降りようと背を向けた時、ライオネルはふと視界の外に異質なものを見たような気がした。再度、顔を窓の向こうへと向ける。
「な……!?」
その顔が、驚愕に凍り付いた。ヴァルス軍が展開し、ロドリス軍が雪崩打つその左方に突如噴き上がった炎の柱……何だ、あれは!?
思わず固唾を飲んで見守る中、躍り出た炎の柱が移動を開始する。更に目を疑うべきことに、柱から放たれた幾筋もの炎の奔流が、己に意志のあるひとつの生き物のようにうねりながらロドリス軍へと襲いかかったことだ。
まさしく絡み合った火竜のように、ありえない方向へのたうつ炎に、ロドリス兵士が焼かれ、おののきながら道を開ける様が見える。
(魔術師か……!!)
しかも、並大抵の魔術師ではない。一介の魔術師兵に出来る技ではなさそうだ。休む間もなく放たれ続ける豪火にロドリス軍が開けた道筋を、不意にその後ろから躍り出た影が突っ込んでいく。馬……いや、騎兵だ。
(要塞に突撃して来るつもりか……!?)
驚異的な魔力を放つ魔術師の存在に顔を強ばらせ、ロドリス軍の陣頭指揮を執る為に、ライオネルは剣を掴むと走り出した。
ロドリス軍将軍に『動く炎の柱』と認識されたシェインは、魔法を使う都合上、馬を下りた単身でロドリス陣営を切り崩す羽目になっていた。とは言え、その身を取り巻く豪火の柱に近寄れる者などいはしない。時折まるで触手のように、うねりを上げて炎が襲いかかってくるとあれば尚更である。
そうしてシェインがロドリス兵を蹴散らして開けた道を、シェインに従う500騎の騎兵が突入していく。目的は無論、逃げ道を失っているデルフト要塞軍の援護である。
残念ながらこの要塞は、回り道をしてロドリス軍の向こう側を突くような真似は出来ない。突き崩して突破する以外に手段がないのだ。
ましてロドリス軍が、ご丁寧に濠や土塁を築いてくれたとあれば尚のことである。
ヴァルスの好色道化師……もとい天才魔術師が立て続けに放つ魔法が、ロドリス軍に大きな動揺と打撃を与えていた。何せ一兵卒には魔法に立ち向かう術がないのだ。まさしく脅威である。
大きく道が開けたところで、不意に炎の柱が姿を消した。身ひとつとなった魔術師の姿に気づいた兵士が、果敢にも剣を片手に地を蹴る。だが、それはやはり無謀な勇気だったようだ。ちらりと赤い瞳が攻撃を仕掛けてくるその姿をとらえ、僅かな間を置いて青い一筋の雷光が天から地をめがけて駆け抜ける。まるで空間に亀裂が走ったかのような一瞬の光景の後、今度はたどり着いた地表を四方八方に駆け抜けていった。
地上を疾る稲妻に、幾人もが絡め取られる。まさしく『歩く凶器』である彼は、整った口元に笑みを刻んだ。
「俺を何とかしようと思うならば、せめて宮廷魔術師を引っ張りだして来るのだな……」
小さくひとりごちて前方へと駆け出す。その周囲に出現した巨大な火炎に、彼を止めようと言う勇気のある者は既にいなかった。湧いた火炎はごうごうと音を立てて彼の周囲を旋回しながら、時折炎の触手を迸らせる。
塁壁の内側に駆け込んだシェインは、ロッドを構えながら辺りを見回した。折り重なるように倒れる傷を負った兵士たち。その間を縫うように、シェインの姿を認めたロドリスの兵士が、剣を構えて駆け寄ってくる。
火炎弾を連射して蹴散らしながら奥へと進むシェインに、蹄の音が近づいた。スフォルツだ。
「シェイン殿ッ」
「……ダビトゥル・ウォービース・イグニス……。スフォルツ……無事か」
問いかけるそのそばから、火炎弾がバラ撒かれていく。生きた砲撃台のようなその有様に思わず笑いを浮かべながら、スフォルツが馬を進めた。
「味方を火だるまにしないで下さいね……」
「わからんな。自分で気をつけるよう言ってくれ」
にやっと笑いながら嘯くシェインに苦笑を返しながら間近に寄ったスフォルツが、後ろに乗るよう促した。
「撤収はほぼ呼びかけたと思います。後はもう、各々の判断と裁量に任せるしかないでしょう。我々も、そろそろ撤退を」
その言葉に頷いてシェインが後ろに飛び乗ると、スフォルツが馬首を返した。行きと同様、帰りも道を開けさせてやらねばなるまい。
「巻き込まないで下さいよッ」
「巻き込まれてくれるなよッ」
尚も念を押しながら馬を駆るスフォルツの背後で言い返しながら、シェインが魔法を発動させた。
「……メディオー・トゥーティッシムス・イービスッ」
巨大な火炎がわき起こり、前方を塞ぐロドリス兵の壁めがけて突っ込んでいく。
ロドリス兵がデルフト要塞の兵士に踊りかかるのを弾き飛ばし、開けた道を共に駆け抜けて行くと大声でヴァルス軍に呼びかけた。
「撤退だッ!!」
その声に反応して、ロドリス軍を引きつけていたヴァルス軍が後退を始める。剣を交えながら、ロドリス軍はヴァルス軍追撃の構えを見せた。後退するヴァルス軍に従って、戦地は次第に移動していく。
ロドリス軍の第一の目的は、デルフトの陥落。要塞から離れていくことにロドリス軍が不安を覚え始めた時、急激に辺りに霧が立ち込めた。木々の合間を埋め尽くすように湧き出てくる濃霧。それは、視界が霞んだと思った時にはあっと言う間に数エレ先の視界を奪い去っていく。ロドリス軍に動揺が走った。
「くそッ……全軍、退けぇッ」
ライオネルの怒号が飛ぶ。これだけ陣営が崩れた状態で、敵が前方に控えるだろうこの複雑な地形を濃霧の中進むほど馬鹿ではない。
ラルド要塞からのヴァルス援軍も叩くに越したことはないが、見た限りさしたる勢力でもなさそうだ。一度態勢を立て直してから追撃しても良いだろう。どうせ向かう先はロンバルト王都――ウォルムスだ。
そう判断したロドリス軍が、混乱を飲み込みながら撤退を図る。足元に気をつけるよう呼びかけながら濃霧の中を抜けたライオネルは、薄笑いを口元に浮かべて振り返った。
「すぐに、片付けてくれる……」
世界が薄煙に霞んでいく中、ヴァルス軍は完全に姿を消した。
◆ ◇ ◆
「……はぁ……はぁ……」
デルフト要塞軍の残兵の逃走を援護し、ひとまず要塞付近からの脱出を図った馬上で、シェインは荒く息をついていた。馬を操るスフォルツが心配げに振り返る。
「大丈夫ですか、シェイン殿」
「……ああ」
短い返答を返し、消費した魔力と体力の回復に努める。
最終的にロドリス軍からヴァルス軍の姿を隠した霧――それも広範囲に渡る濃霧の魔法は、ひどく力を消耗する。その場に単発で起こすのではなく、いわば自然現象のひとつを起こすのだ。道理であろう。
「追ってくる、気配は、あるか」
息を繋ぐシェインに、スフォルツがかぶりを振った。
「大丈夫です。今のところは。何とか撒いたようですが」
「ふん……」
小さく鼻を鳴らし、ふてぶてしい表情で目を細めるも、その力なさと顔色の悪さは隠せない。
「ガーフィールのそばに寄せてくれないか」
「はい」
夕闇が迫って来ている。辺りにはまだ先ほどの霧の名残が立ちこめ、微かに肌寒さを感じさせた。
やがてガーフィールの馬が前方に見え、スフォルツは宮廷魔術師の意向に従うべく声を上げる。
「ガーフィール将軍」
全軍は緩やかに進軍している。向かう方角の見当はついているだろうが、この霧の中ではロドリス軍も容易には追いつけまい。
「シェイン殿。大丈夫ですか」
「大丈夫だ。怠けてたツケが回っただけのこと……繊細なものでな」
減らず口が叩ければ大丈夫だろう。ガーフィールは苦笑を浮かべて肯いた。
「どうなされるおつもりか。このまま真っ直ぐウォルムスを目指して構わぬか」
問うた将軍の言葉に、シェインは軽く目を伏せた。低い笑みがこぼれる。
「デルフトの奪還は叶わずとも、侵略者共の数を減らすことは出来よう。むざむざとウォルムスの挟撃を許してやる筋合いではない。幸い俺たちは奴らとウォルムスの中間にいるからな。せいぜい妨害させてもらうさ」