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QUEST  作者: 市尾弘那
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第2部第2章第10話 オーバーフロー 後編(2)

「……ユリア」

「カズキッ」

 俺が来たのとは違う方向……上から中空庭園に続いている階段を、軽い足取りで駆け下りてくる姿。

(幻覚?)

 いよいよヤバイ?俺。

 呆然として信じられないでいる俺の前に幻覚……もとい、ユリアが近づいてくる。下ろしたままのふわふわの長い髪がユリアの動きに合わせて肩で揺れ、ドレスを両手で摘み上げて息せき切って駆ける姿は、まるで逃げ出してきた花嫁みたいだ。

「良かった、まだいた」

 まだぼんやりと動けずにいる俺のすぐそばまで辿り着くと、ユリアは曇りのない笑顔で俺を見下ろした。咄嗟に言葉が出てこない。……ダサい。

「……どうして」

 やっと口から出た言葉は、それだけだった。さっきからずっと鼓動が速くて、ユリアの耳に届いてないか不安になるくらいだ。ベンチから立ち上がってユリアの正面に立つと、ユリアは俺を見上げて目を細めた。息を切らせている。

「シサーに、聞いて」

「シサー?」

「ヴァレンティアナにいるのは聞いたけれど……行くのは、迷って。そうしたら、さっき窓からカズキが中空庭園を歩いているのを見たって教えてくれたの」

 心から感謝します、シサー様。

「だから……あ、だからその……別に用事があるわけじゃないんだけど」

「……うん」

 急に恥らったようにぱっと口を両手で押さえて言う表情に、微笑が零れた。理由も用事もなく、俺を探して息せき切って来てくれた、それだけのことが嬉しい。

(どうしよう……)

 俺、すっげー、好きだ……。

 ささいな仕草も、照れたように俺を見上げる目線も、風に揺れるその髪のひとつひとつさえも。

 反面、こういう『いかにもお姫様!!』と言うスタイルのユリアを見慣れていないので、可愛いと思いながらもどこか遠く感じられて寂しくも……あるけれど。

「……元気?」

 あれほど会いたいと思っていたのに、伝えたいことならたくさんあるはずなのに、こうして会えてしまえば言葉が浮かばない。辛うじて言った俺の言葉に、ユリアはふわりと頷いた。花開く微笑。

「カズキは少し会わない間にどんどん男の子っぽくなってくわね」

「え?……そう?」

 からかうように言って浮かべた悪戯っぽい笑みが、たまらなく愛しい。どんな表情も、その声も。

「うん」

 俺のすぐ間近で、ユリアが腕を伸ばした。長くなってきた前髪に触れる。まるでそこに全神経があるかのように、熱を持ったみたいに感じた。高鳴る心臓が口から出そう。

「最初に会った頃より、こないだより、また少し伸びたみたい」

「髪?」

「じゃなくて。背」

「ユリアはどんどんちっちゃくなってるね」

 どきどきしてるのは相変わらずだけど、精一杯普通を装ってそんなふうに返す。ユリアが拗ねるように唇を尖らせた。……触れてみたい。

「ちっちゃくなるわけ、ないじゃないの……」

「……」

「それに、大袈裟よ。背が伸びてるって言ったって、2エレも3エレも伸びるわけじゃないじゃない……」

「……」

「……カズキ?」

「え?あ、はい?」

 ユリアの唇に完全に頭を奪われていた。キスしてみたい、などと突然思ってしまった俺はどっかおかしいんだろーか。

 下から覗き込むユリアにヨコシマな気持ちを読まれていそうで、つい赤くなりながら片手で顔を覆う。

「……何の話でしたでしょーか」

「……何考えてたの?」

「いや別に……」

 言えるわけがない。

(好きだって言ったら……)

 ……伝えたら、ユリアは、どうするだろう。

 困るだろうか。困る、だろうな。

「大変そうだね」

 口から出てしまいそうな言葉を押し留めて、違う言葉に変えて押し出す。何千人何万人の人間の命をその細い肩に背負っているユリアに、余計なことを言って動揺させるわけにはいかない。

 伝えることさえ出来ないことに切なさを覚えながら言った俺の言葉に、ユリアが複雑な笑みを返した。

「そんなこと……」

「無理、してない?」

 してるに決まっている。わかっているのに、そんな平易な言葉しか出てこない自分が恨めしい。気のきいたセリフのひとつも言えれば良いのに、ユリアがそこにいるだけで頭がいつもより回らない。

「……ん。大丈夫よ。わたしは」

「……」

「座らない?」

 翡翠色の瞳が、橙色の灯火を淡く映し込んで煌めく。ユリアがふわりとベンチに腰を下ろすのを待って、俺もその隣に座り直した。

「わたしは、カズキと違って命の危険にさらされているわけじゃないもの。まだまだ努力出来るはずよ。全然足りないわ」

 きゅっと淡いルージュの乗った唇を強く結ぶ。ユリアの切羽詰まった表情に、心配になった。

「……ユリア」

「……」

「自分をそんなに追い込まない方が、いいんじゃないかな……」

 いや、思い詰める気持ちはわかるんだが。何せことは国家規模だ。

 だけど、どれほど大事と構えていたとしたって、人間には限界があるに決まってる。

「『まだまだ頑張れる』ったって、自分の許容量100%頑張っちゃったら、何かあった時にもう力が残ってないよ?」

「……」

 ユリアの視線が、無言のまま俺に向く。政治のことなんか何もわからない俺の言葉なんて、どれほどの意味を持てるかわからないけど……。

「周りの為にも自分の為にもどこかで余力は残しておかなきゃ」

 少しでも思い詰めた気持ちを軽くしてあげることが出来たら。そう思って笑顔を作る。

「みんなが動いてる。ユリアの力になる為に。見えないけど俺たちも、そう。ひとりだと思わないで。……遠くても……」

「……」

「……遠くても、いつもユリアの為に何がしてあげられるか、考えてるから」

 こ、これってちょっと告白めいてないだろーか。大丈夫かな。このくらいなら大丈夫だろう。そう思ってそっと照れる俺の目の前で、ユリアが潤んだ瞳を上げた。

「ありがとう……」

 少しでも支えになれたら。

 ……本当は俺なんかじゃなくて、本物のレガードだったら……きっともっと現実的に彼女の力になってあげられるはずなのに……。

「みんながそんなふうに、誰かを、何かを大切にしていれば、こんな争いなんか起こらずに済むのに」

 俺から目線を逸らして、丁寧に手入れされた木々に顔を向けながらユリアがぽつりと言う。黙ってユリアの横顔を見つめていた俺は、その言葉に微かな疑念が湧き起こった。

 誰かを大切に思う気持ちがあれば、争いは起こらないだろうか。……俺には、逆……に、思える。

「戦争は、一方だけじゃ成り立たない……少なくとも継続はしない」

「……」

「モナやロドリスが攻めてきて、ヴァルスがそれに応じるから戦争になる。……戦わなきゃ守れない」

「でも!!戦えば必ず誰かの大切な人を奪うわ!!誰かが必ず泣いてるわ!!わたしは……」

 言っているユリア自身の瞳が、どんどん泣きそうに曇っていく。それを堪えるように唇を噛んで俯きながら、か細い声で続けた。

「わたしは……シェインが死んでしまったら、泣くわ……」

「……」

 シェインが死んだら、か。

 戦争に出てるってことはそこで必ず死んでる人がいるわけだし、それがシェインではありえないとは限らないわけだから。

「ヴァルスを守りたいと思ってるわ。心の底から。でも争いたくないわ。争わずに守る方法はないの?」

「……」

「どうして奪う為に戦いを仕掛けるの?ロドリスはどうしてって、そればかり頭を巡るわ」

 風に流されそうな儚い呟きに、俺は答えを探して視線を彷徨わせた。

 『奪う為に』?――結果として何かを奪うことになったとしたって、それが『奪う為』とは限らない。

「争いが起こる理由は利己的な考え方が全てとは限らないんじゃないかな……」

 言いながら気がつく。……そうだよな。争いが起こる理由が必ずしも自己の利益に基づくものとは限らないんだよな……。

 野生の動物でも、子供がそばにいれば母親は必要以上に凶暴になる。大切だと思いこめば思い込むほど、神経が過敏になって守ろうと攻撃的になったりする。

 俺だってそうだ。ユリアがいなかったらここまで魔物との戦闘に慣れることが出来たかどうか、わからない。奪う為じゃない。……守る為。

 その為には、先に攻撃を仕掛けることだってありうる。

「大切だと思えば思うほど、過剰な考えが働いたりして……」

 モナの侵略だって、公王が自己の功績に逸ったと言う考え方と、貧しいと言う国民の救済――負担を軽減する権利獲得の為の非常手段だったと言う考え方と成り立つわけだし。

 真実どちらかはわからないけど。

 ロドリスの……『青の魔術師』の反逆の理由も、まだ見えてないどこかにあるのかもしれないけれど。

「人がいれば、いるだけ考え方がある。その中には真逆のものもあるかもしれないし、争いをなくすことは多分出来ないし、俺は自分の大切なものを守る為だったら」

 ユリアを守る為だったら。

「……何を傷つけても良い」

「違う!!」

 ユリアが押さえきれないように叫んで立ち上がった。愛くるしい顔には、ただただ悲しい色が落とされている。

「どうしたの?カズキ。それじゃあ駄目よ!!その考え方をする人が争いを起こすのよ。誰も傷つけたらいけないわ!!何の為でも。そうじゃなくたって人は必ず人を傷つけるのよ?傷つけないと決めたって必ず傷つけるのに」

「ユリア」

「守る為に戦わなきゃならないことがあるのは、わたしだってわかってる。でもそこに疑問を感じ、矛盾を感じ続けなきゃ駄目よ。許容したら終わりだわ。……わたしは、あなたを見ていてそう感じたのに」

 俺を……?

 まさか。

 血に汚れた自分の手。脳裏にフラッシュバックする血飛沫。

 俺がかつてそんなふうに見えたのなら、それは。

(偽善だ……)

 頭ががんがんする。吐き気がこみ上げる。急に襲い掛かった目眩がするほどの痛みの中、自分の心の奥底で何かが悲鳴を上げている気がした。

「カズキがわたしに教えてくれたのに」

 悲しげにユリアが繰り返す。胸の奥深くに沈む何かが軋むように、吐き気を引き起こした。――何かを考え、何かを感じそうになるたびに、いつも襲う激しい頭痛。

(……逃げ……てる……?)

 俺。

「カズキ?」

――自分の都合でとかそう言うのは、違う……ッ

――大切に思う誰かがいて、大切に思ってくれる誰かがいて……人である以上、それは、絶対で……

(そんなふうに考えてたら、生きていけないじゃないか……ッ……!!)

「……俺じゃ、ない」

「え……?」

「もし、俺を見ていてユリアがそう感じたんだとしたって、それは、今の、俺じゃない……」

 くしゃりと前髪を掴んだそのまま額に押し付け、顔を俯けたまま押し殺した声で吐き出す。

「俺は、俺の大切なものを守る為だったら誰にだって、何にだって剣を向ける。躊躇わない。迷わない。時には自分から仕掛けても構わない」

「……カズキ……」

「じゃなきゃ、守れない」

 悲しげなユリアの視線を横顔に感じる。目を閉じて、深い息と共に続けた。

「俺は、必要があるなら争いを避けるつもりも、戦闘を回避する気も、ない」

「……それじゃあ、『自分が良ければいい』ってことになっちゃうわ。自分の守りたいものさえ守れれば、それで後はどうでも構わないの?」

「構わないよ……」

 ヴァルスの為に何かすることが、ユリアの為になるのなら。

 それがユリアを守ることに繋がると言うのなら。

 自分の命だって、どうでも良い。

 頭痛はひどくなっていく一方で、前髪に突っ込んだ片手で額を強く押さえながらそれきり黙った俺の耳に、しばらくしてぽつりとしたユリアの言葉が届いた。

「……わたしの、せい……?」

 意味が分からなくて、顔を上げる。俺の視線にユリアは顔を背けて立ち上がった。そのまま、言葉もなく悲しげな顔を残して歩き出す。

「ユリア……」

 掠れた声は、届かなかったかもしれない。少しずつ離れていくユリアの背中は、俺の見守る中……やがて小走りに見えなくなっていった。

(嫌われた……かな)

 つい先ほど見せてくれたはずのユリアの笑顔が、幻のように浮かんで消える。自嘲的な笑いが零れた。

 会いたかったのに。

 あれほど、ユリアの姿を望んでいたのに。

(こんなはずじゃ、なかったんだけどな……)

 心臓が先ほどとは違う音を立てて、苦い痛みが走った。代わりに少しずつ引いていく頭痛。

(でも……)

 嫌われたとしたって、俺は、彼女が大切だから……。

 どう思われたとしたって、彼女にした約束だけは……。

「はは……」

 今しがたまで手の届く距離にいた彼女の見えない笑顔が、遠かった。











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