第2部第2章第10話 オーバーフロー 後編(1)
「……でぇ、これがぁ、挨拶だな。『ようこそ』。良く宿とかで見る文字だろ」
「うん。……キグナス。字、汚い」
「教えてやってんのにうるせぇなぁ」
「あれ?キグナスって左利きだっけ?」
「おう。……今頃気づいたのかよ。ロッド、左手に持ってんじゃねぇか、俺」
「そんなん気にしたことなかった」
言いながらせこせことキグナスが書いてくれた文字を書き取って、隣に日本語で意味を書く。
ラウバルとの対面を終えた俺たちは城下に下りて明日の準備を済ませてから、自由行動になっている。シサーとニーナにはラウバルから客室が用意され、俺はキグナスにくっついて主のいないシェインの居館に押し入った。
何となれば、せっかくだから文字の方も少しは勉強しておこう、と。
俺に先生役を指名されたキグナスは、豪華な夕食を終えた後こうして拘束されている。
「書いたか?……おめぇ、字、綺麗だなあ」
「……キグナスがひど過ぎるんじゃないかなぁ」
俺だって別に習字とかやってたわけじゃないし、取り立てて達筆なわけじゃない。
「次な、次ー……何知りたい?」
「うーん。あと何が便利かな……じゃあ道具屋で行こう。棚に並んでそうな商品名」
ヴァルス語を、英語のアルファベットの綴りとかみたいに構成で覚えているわけじゃなく、耳で聞き取った音から覚えている俺には、構成する文字を覚えて組み合わせるより単語のかたまりを表記してもらった方が覚えやすい。
俺の言葉に従って紙の上に「ソーマ草……疲労回復……」とか呟きながら書き出して行くキグナスの手元をぼんやりと眺めながら、俺はテーブルの上に頬杖をついた。
「ヴァルス王家ってさ」
「んぁ?……バケツ……水を入れる……」
……何を書き出してるんだ?
まあいいや。
「今はもうユリアだけ、になるのかな……」
いや……アウグストとシェリーナの娘が生きていれば別だけど。
「直系はな。傍系はいるだろ。先代……いや、もう先々代になるのか?ベリサリオス陛下は豪傑だったらしーからなー。庶子だったらごろごろいるかもなー。……エール酒……シサーのお供……」
「……」
直系はユリアだけか……。
「ベリサリオス王の更に前にはワインバーガか何かに王家の女性が嫁いだりもしてるし、そーゆーの入れちゃうと、傍系はわっけわかんねぇな」
「ふうん?じゃあワインバーガとは姻戚?」
「ってほどの付き合いには発展しなかったみたいだぜ。それに今は政権交代があったから前王朝だし」
ややこしそうだからやめよう。覚えてもしょーがない、そんなこと。
「ふうん……」
さくさくとキグナスが紙の上にまさしく得体の知れない線画芸術を展開している間に、俺はまたヴァルス王家へと頭を戻した。
ベリサリオスの2人の息子アウグストとクレメンス。
クレメンスが即位し、アウグストが家族共々ヴァルスを追われた。行き先は、ロドリスのはみ出し者の村ヴァイン。
アウグストがどうしたかは知らないけれど、アウグストの妻子――シェリーナとその娘はヴァインで他の村人同様魔物に襲われた。その魔物はロドリスの宮廷魔術師の腹心をどこか彷彿とさせる。
……シェリーナは、確かに死んでいるだろう。じゃあその娘は?アウグストは?
(あ、でも……)
アウグストが生きてたって、もう結構な年いっちゃってるよな。クレメンス陛下がいくつだったのか知らないけど、それより更に年上なわけで。
問題は娘の方?でも娘が生きてたとしたって、そして仮に魔物がグレンフォードだったとしたって……それが、何なんだ?何がどうなる?
(何であの人、『青の魔術師』の腹心なんだろう……)
どう考えたって普通の人間じゃないよなぁ。『青の魔術師』はそれを知らない?……わけない。
「おっしゃー。こんなとこかぁ」
だんだんテーブルに突っ伏すように熱中していたキグナスが唐突に上げた声で、俺の思考は中断された。顔を上げる。
「……大作だね」
「おう!!大作だ!!さあ、遠慮なく書き取れ!!」
「……ありがとう」
頼んだのが俺とは言えいささか呆れた気分になりながら、キグナスが書いてくれた一覧を引き寄せて自分のカンペに書き移す。
「これは何て書いてあんの」
「これはー……」
キグナスの解説をひとつひとつ書き移し、意味を書き込みながら頭に叩き込む。少しでも覚えれば、その分周囲への迷惑が減る。……はずだ。
「キグナスさあ……」
「おう」
「名前、教えてよ」
『大作』を踏破してキグナスに戻しながら、おもむろに言った俺に、キグナスが目を瞬いた。
「……エルアード・キグナス・フォン・ブロンベルグ」
「へえー。それ、フルネーム?……ってそうじゃなくて。みんなの名前の、書き方」
ああ、何だ……と呟きながら、キグナスが紙をまたせこせこと汚し始めた。それに黙って目を落とす。
「……ふうーん。キグナスってそういう名前だったんだ。シェインは?」
「シェイン・アルバート・フォン・クライスラー」
「ラウバルは?」
「ラウバル・アルヴァ・フォン・ラトゥール」
「……ユリア、は?」
答えては書いていくその文字を眺めながら口にした時、少しだけどきどきした。……別に……少しだけ。
「ユリア・クリスティーナ・シェ・フォン・ヴァルス」
さらさらっと書いて、顔を上げる。無邪気な表情でその文字をなぞりながら俺を見上げた。
「クリスティーナってのは、母上の名前をもらったらしいぜ」
「お母さん?」
「そう。クリスティーナ王妃。その妹がシェリーナ妃」
「え!?」
シェリーナって。
じゃあ姉妹でヴァルスに嫁いで来たんだ。
「何でもエルファーラの貴族の娘って話」
「ユリアのお母さん……クリスティーナ王妃ってのは、どうしてるの?」
「もう随分前にお亡くなりだ」
「え……」
そうなんだ。
全く話に出ないからそんな気はしてたけど。
「お体が弱かったみてぇ。俺も良くは知らねぇけど。でも綺麗な方だったらしいな。あと、エルファーラの人には時々いるけど、人を癒すような力があったみたい。治癒、ってのとはちょっと違うみてぇだけど、そばにいるだけで癒されていくようなさ」
……それで、なのかな。
ユリアが歌った歌を、そんなふうに感じたのは。
「ただ、一概に遺伝とも言えねぇみたい。シェリーナ様にはそんな話聞かねぇし。人柄とか素質とか、何かそういうのが関係あるんじゃねえの」
ふうん……。
んでも教皇領ってのは特殊なんだな、何となく。
書いてりゃ多少は覚えるだろと思ってつらつらとそんなふうに思いながら紙に文字を書きなぐっていると、その手元をじっと見ていたキグナスが頬杖をつきながらにやーっと笑った。
「おめぇの名前も、俺に教えてよ」
「え?俺の名前?」
「うん」
「だって俺、どう表記していーかわかんないよ」
「おめぇ、馬鹿?」
……キグナスに言われるのは何だかちょっと心外だ。
「ヴァルス語でだったら俺が自分で書けるよ。カズキの言葉でどう表記すんだ?って聞いてんだろ」
ああ、何だ。
言われてペンを走らせる。ヴァルス文字が書き散らされた紙の中で、『野沢和希』と言う漢字表記は何だか妙に浮いて見えた。
「ふえー。難しいなあ。俺の名前は?」
言われて、正確かどうかわからないけどカタカナで『キグナス』と書いてやると、キグナスはちょっと嬉しそうにそれを覗き込んだ。
「何かカズキの名前に比べて随分簡素。単純」
「人が単純だからじゃない」
「んなわけねえだろッ」
けたけた笑いながら俺を小突いて、キグナスが立ち上がる。そのまま部屋を出て行くので、また黙々と単語を書き取っていると、やがて戻って来たキグナスは本を片手に持っていた。
「やる」
「? 何?」
受け取ってぱらぱらとめくって見ると、子供向けの言葉の本らしい。ところどころに落書きがある。
「俺が昔シェインに勉強教わってた本。あいつ、馬鹿みてーに保管してあってさー」
「ふうん?じゃあこれ、キグナスの落書き?」
「そう」
2人してくすくすと笑う。こんな和やかな気分になったのは久々だった。前にキグナスに「笑わなくなった」って言われたけど、確かにもの凄く減ったような気も自分でするけれど、時々まだこうして笑えるから大丈夫だと思う。
ページをめくると、俺と同じくらいの年のシェインと、まだ幼いキグナスが見えるような気がした。
「ありがとう」
子供向けの英語の本みたいに、文字とイラストが書いてあるから勉強になりそうだ。
そのまま、頭のページからゆっくり追っていく。しばらく黙々と没頭していると、隣で魔術書を読んでいたキグナスの方から寝息が聞こえていることに気がついた。寝てしまったらしい。
ちらりと顔を向けると、椅子の背もたれに完全に体を預けてくてーっとしている。風邪、引かないだろうか。
起こそうか少し躊躇って、俺は同じ部屋のソファにかけてある膝掛けみたいなものを持って来た。それをキグナスに掛けてやってそっと部屋を出る。
俺も、休憩しよう。
少し城の中を散歩することに決めてヴァレンティアナを出ると思い切り伸びをした。……ら、あくびがこぼれた。
戻って来てまだ寝てたら、起こしてやろうかな。
館からは、渡り廊下を伝って本城シャインカルクの方へ向かうことが出来る。そちらへは足を向けず、俺は直接庭の方へ向かう出入り口へ向かった。ふかふかの絨毯を敷き詰めた長い廊下についている窓から、中庭の木々がざわざわと揺れている黒い影が見える。城や中庭に設置されている灯火の温かな光が、そっと暗い夜を照らしていた。
(どこに、いるのかな……)
駄目だ、シャインカルクにいると、どうしてもユリアのことが頭から離れない。そんな場合じゃないとわかっているけれど、これで会うことが出来なかったら次はまたいつになるんだろう。
(情けないなー)
自分で自分に呆れながら、くしゃくしゃと髪を掻き混ぜる。会いたい。少しだけで良い。声が聞きたい。笑顔が見たい。そんなことばかりが頭を回って、馬鹿みたいだ。
でかい両開きの扉を開けると、守りについている衛兵が直立した。俺のことをロンバルトの王子サマだと思っている彼らは、総じて俺が通るとカチコチになってくれる。嬉しくない。
「お疲れ様です……」
なんて言っちゃいかんのだろうか、次期ヴァルス国王。
どうしても庶民根性の抜けない俺は、どう頑張っても低姿勢にならざるを得ず、結果としてどうもぎこちないこととなり、出来ればあまり知らない人には遭遇したくない。
入り口から外へ出ると、冷たくない、けれど温くもない気持ちの良い夜風が髪を撫でた。舞い上がる前髪を目で追って、ふと馬鹿なことを考える。
レガードをコピっている俺は、髪型もレガードだ。こうして見ると、ちょっと特殊な髪型してるよな。髪形って言うか、髪の色。
一部だけ色が違う髪の色の人と言うのは、他に見たことがない。
(染めてたのかな)
おしゃれ?別にいいんだけどさ、どっちだって。
俺だって染めてるんだし、それをお洒落でやる人がこっちの世界でいないとは限らないわけだし。でも、俺って髪の毛伸びて来てんのに染めてる髪の根元、黒くならないんだよな。何で?何か嫌な予感。
このまま俺、黒髪に戻れなかったらどうしようなどと考えつつ中庭を進んでいく。途中で柵を越えると、そこから先はヴァレンティアナの敷地ではなくシャインカルクの敷地だ。また門兵に遭遇して会釈をしながら通り過ぎる。
(あんまり離れると迷子になるかな)
戻れなくなったらだっさいな……。
シャインカルクの中庭に入り、綺麗に刈り込まれた芝の間を抜ける遊歩道に入る。空を見上げると、輝く下弦の月の下、シャインカルクの城内の灯りが窓から零れているのが見えた。
(せめて……)
窓に映る君の姿だけでも。
……なんて。
(意外にロマンティストじゃん、俺……)
浮かんだ考えに自分でつい恥ずかしくなって突っ込みながら、窓を見上げる。残念ながらその内側には誰の姿も垣間見ることは出来なかった。
しばらくのんびりと庭園を散策し、外から続く階段を上ってシャインカルクの中空庭園に足を向ける。ベンチを見つけてそこに腰を下ろすと、そのままごろんと転がった。
高校の中庭でも、こうして転がっていたことを思い出した。
そこから順番に、起こった出来事を思い返していく。ぼんやりと月を見上げながらベンチに転がる俺の耳に、時折衛兵が巡回する鎧の音が聞こえた。
……やっぱり、ユリアに、会いたい。
触れたい。抱き締めたい。この城のどこかにいるはずなのに。
記憶の中の姿を思い返してみても薄れていくばかりで、手が届かない。
……早く何かつかまなきゃとは思う。
無事見つけ出してレガードをユリアのそばにと思う気持ちは本心だ。
けれど……。
(……本当に?)
心の奥底で意地悪く問いかける俺がいるのもまた、本音だろう。
……どうして、一点の曇りもなくレガードの生還を願える?自分には手の届かない彼女を腕に抱きとめる権利を持つ男の存在を。
残念だけど、俺はそこまで善人じゃない。
(……)
軽く頭を振って、それ以上考えることを自分に禁じる。その考えをつきつめてしまうととんでもない考えに辿り着いてしまう。いくら何でもそこまでは望んでいるわけじゃない。俺と同じ顔の男の死を願っているほど悪人でもないはずだ。
(……戻ろう)
諦めた方が、良さそうだ。今日はもう会えないだろうし、明日だって多分……。
「……」
ため息をついて、ベンチから体を起こす。片足をベンチの上に立てたまま、目を伏せてため息を繰り返した俺の耳に微かな足音が届いた。
衛兵の足音とは種類の違う、軽い音。
何気なく顔をあげる。瞬間、心臓が跳ね上がった。