第2部第2章第7話 君に捧げるもの(1)
――――――リトリア王国ラナンシー城。
宰相フラクトルは、急ぎ足で彼の主君がおわすはずの謁見の間へと向かった。
政に関する雑務を嫌うクラスフェルドは執務室にいるより、遊び呆けているか玉座でぼんやりと酒をくらっていることの方が多い。
「陛下ッ」
部屋へ飛び込んだフラクトルは、思わず脱力のあまり床にスライディングしてしまいそうになるのを何とか持ち堪えることに成功し、鼻毛を抜いては丁寧にサイドテーブルに並べる赤ら顔の国王にため息混じりの言葉を投げかけた。
「……陛下。鼻毛がなくなってしまわれるかと」
「おお。鼻の穴が心機一転だな」
「そんなところは心機一転なさらずともよろしい」
ごほんと咳払いをするフラクトルにからからと笑いながら、クラスフェルドはテーブルの上に整列した鼻毛を払いのけた。
「どうした」
「ロドリスからの使者が、陛下にお目通り願いたいと」
「ほー……」
ロドリスの使者……プライドの高そうなヴァルス使者より、よほど興味深い男だ。べらべらと余計なことをしゃべるわりには、付け入る隙を持たない。肝心なことは漏らさず煙に巻く。へらへらと愛想が良いように見えて、瞳の奥に笑いはない。
個人的に興味をそそる相手だ。
「ヴァルスに協力を示した以上は用なしだがな」
言ったその視線は、自国の宰相を通り過ぎてその後ろに向けられた。目を丸くした宰相が振り向く。
「なッ……どうやって」
「いやいやお城ってのは広いですからねえ。その気になれば蟻の子どころかこんなでかいのまで入れちゃうこともありまして」
その言い種に、クラスフェルドの口が笑いを刻む。城の警備は堅い。どこでロドリスの使者――グレンが足止めをくらったかは知らないが、生半可な人間に入ることなど出来るわけもない。
「転職したらどうだ」
「え!?いや私などでは到底国王などと言う偉大な仕事はとてもとても……」
誰も『玉座を空けるからここに転職しろ』とは言っていない。
「あほか。お前の転職先は盗賊だ」
「いやあ、あんなコワイおにーさん方に囲まれたら私、ぶるぶるしちゃいますよ。小心者ですからね」
後から衛兵が駆けつけるが、国王がのんきに話しているものだからどうすべきか判断に迷ってつい足を止めてしまう。それに気づいた侵入者はふと振り返ると、フラクトルにのんきな笑顔を向けた。
「あ、そうだ。私、自分の連れまで撒いてきてしまいました。宜しければこちらまでご案内いただけますか?」
思わずフラクトルの額に青筋が走る。お前は何様かと問うてやりたい衝動を堪えて君主に視線を向けると、クラスフェルドは苦笑を浮かべて片手をひらりと動かした。「聞いてやれ」と言うことだろう。
「で、無理矢理何の用だ?」
リトリアは既に、ヴァルスとの同盟を表意している。
ヴァルスに傾いた理由は、以下の2点だ。勝利を納めた末のナタリア領土の割譲、そしてバートのロドリス陣営参入。
現ナタリア領は、かつてのリトリアの領土がその大半を占めている。当時まだ独立王国であったリトリアとヴァルスの戦争の末に、リトリアから切り分けられ公国として誕生した。リトリアが帝国に組み込まれたのは、それからしばらく後のことである。
つまりナタリア内の旧リトリア領の返還は、リトリアにとって悲願とも言えるのだ。
今回の戦争において勝利を納めれば、ヴァルスは旧リトリア領の一部返還を示唆している。恐らく、先日帰した使者の報で確定となるだろう。ナタリアはロドリスの友国であり、ヴァルスの敵国であるから問題もない。
そしてバートのロドリス陣営参入。
バートはリトリア、ロドリス共に側面に位置している。領土拡大を狙うならば、格好のポジションに位置しているのだ。だが占領するには友国であってはならない。侵攻の建前には、敵国と言う立場が必要不可欠だ。
ロドリス領土であるガレリア地方を手に入れてロドリスの力を削ぎ、豊かな地をリトリアに組み入れたい思惑もないではない。しかし、ロドリスの決断が遅い為に、迅速な対応が見込まれるヴァルスとの協力体制へと議会が傾くこととなった。どのような部下がいようと、最終的な決断は君主が下す。ロドリス国王は決断力と行動力に欠ける為、ヴァルスより多く使者を派遣しているにも拘らず回答が延びていた。
「いえね、ガレリア分割案がようやく形を取りましたので」
「ご足労いただいて悪いのだがな、リトリアはヴァルスと共に立つことを決断した。命があるうちにさっさと帰れ」
あっさり言い放ったリトリア国王に、使者は落胆したように低くうなだれた。……ように見えた。
己の誤解に気づいたのは、その肩が微かに震え、低い笑いが漏れて聞こえたからである。
「……ほう。笑う余裕があるか」
「いえいえ、失礼しました。そうですね、先にそちらをお話するべきでした」
クラスフェルドが目を上げたところで、フラクトルの背後のドアが開いた。衛兵に左右を固められるような形で、エレナが立っている。グレンを見るなり目をつり上げた。
「お前なあッ」
「うわ〜ぉ。エレナさん。無事たどりつかれたようで何より何より」
怒り狂う上司に適当な挨拶を投げかけて、グレンがこちらに向き直るのを待ってから、クラスフェルドが先を促す。
「先に言うべきだった話を聞いておこうか」
「はいはい。ですからですねえ……あいたッ」
そばまで歩み寄ったエレナに向こう臑をしたたかに蹴り付けられて悲鳴を上げ、前かがみに足をよたよたと押さえながら、尚も落ち着いた声を試みる。目指しているのはさしずめ『クールな参謀』ムードだろうか。やりたいことはわからなくもないが、痛そうに足を押さえる姿が全てを裏切る。
「ええと……ですからですね……何でしたっけ」
「……フラクトル。お帰りだ」
「は」
「あいや〜ッッッ!!!ですからですねえ、あの、あ、そうだ」
険しい顔で衛兵を引き連れて歩み寄ろうとするフラクトルから、のたのたと逃げながらグレンが口を開く。飛び出した言葉は、詳細を聞かずにいられぬ気にさせるには十分だった。
「ですからですね、ヴァルスはリトリアが私どもにご協力いただけることをもうご存じですし」
「……どういうことだ」
フラクトルらの動きが止まる。クラスフェルドも黙って目を上げた。応えるようにグレンが足を押さえていた手を放し、直立に姿勢を正した。
「ヴァルスは、リトリアの回答を使者の首として受け取ったはずです」
「何……!?」
低く告げた声に緊張が走った。リトリアへの使者が首となって帰国すれば、ヴァルスはそれをそのままリトリアの返事と受け取るだろう。つまり、協力体制の意志はないと。
「これを、お返ししておきましょうか」
言ってグレンが差し出したのは、ヴァルスの使者へと預けた書簡と使者を証明するプレートだった。いずれも夥しい血痕が染み付いている。勢いで受け取ってしまったフラクトルの強張った顔から目線を逸らし、リトリアの風雲児は低い返事を返した。
「随分手荒な真似をしてくれるものだ」
だらしなく椅子に深くもたれかかったまま、肘掛に乗せた腕に体を預け、クラスフェルドが顔の半分を片手で覆う。だがその下から覗く口には笑みが浮かんでいた。くっくっと喉の奥からこみ上げてくる笑いを堪えるように肩を揺する。
「どのようなお返事を持たせたのかは存じませんがね、首から下がなかったらさすがに陛下のお返事はうまいこと伝わってなかったんじゃないでしょうかねぇ……」
「ではうまいこと伝える為にはどうすれば良いかわかるか?」
言いながらクラスフェルドは顔を覆った手を外し、ゆらりと立ち上がった。武王である彼は、玉座にあっても必ず帯剣している。その逞しい腕が腰へと伸びた。それを見て、グレンの背後に立つエレナが剣を抜きかける。その動きを察知し、リトリア国王に瞳を向けたままのグレンの片手が素早くそれを制した。このような場でいかなる理由があろうと、国主たる人間に刃を向けるわけにはいかない。
「お前の首と共にその奸計をご報告して差し上げれば、済む話とは思わぬか」
「いやはやまったく」
笑みを殺すことなく剣を抜き放つその動きを静かに見据えたまま、グレンは軽く肩を竦めた。
「その通りですよ。ただし」
「……」
「……出来れば、のお話でしょう?」
「ほう?俺には出来ぬと?」
数段高い位置に設えられている玉座より一歩、また一歩とゆっくり降り立つクラスフェルドに動じる様子を見せずに、グレンは静かにその黄色く濁った……だが、鋭い光を放つ目を見返した。その背後を衛兵たちが固める。
「この場にそれを出来るものは、いませんし」
「言うな」
笑いを浮かべたままのリトリア国王に、グレンが微かに顔を俯けた。口元にはゆったりとした笑いを刻んでいる。その顔に酷薄な色が宿ったことに、誰が気がつくことが出来ただろうか。
「おっしゃったのはあなたのはずです」
剣1本分の距離を置いて足を止めたクラスフェルドの刃が、真っ直ぐにグレンに向けて突きつけられる。
「『ジェノサイド・イブリースとはお前のことか』、と」
「……」
「私に傷ひとつ負わせることは出来ません」
静かに顔を上げたグレンとクラスフェルドの視線がぶつかる。睨むでもなくただ互いの顔を見つめるその空気に、誰かの息を飲む音だけが微かに聞こえた。
「ロドリスとしても、精一杯の手です」
長いとも短いとも言えぬ沈黙を破ったのは、ロドリスの使者だった。身動ぎひとつせずに低く言葉を紡ぐ。
「ヴァルスの使者が戻ってしまえば、同盟は成立してしまう。ならば無茶でも荒くても止めるしか手はありません。……今頃ヴァルスは、リトリアに対しても警戒態勢を強めていることでしょう」
「……」
「既に選択肢は、ありません」
「強迫に持ち込む気か?」
剣を突きつけたまま、クラスフェルドが問う。グレンは静かな調子を崩さぬままに否定した。
「我々が望むのはリトリアとの足並み揃えた協力体制です。……これまで何度か足をお運びさせていただいたことで、私は陛下との交流を深めたと勝手に感じております」
「……くッ……」
不意に、クラスフェルドが剣を下ろした。堪えていた笑いを吐き出すように、顔を崩す。さもおかしそうに笑い出した君主に、ロドリスの使者たちを取り囲んでいた衛兵に動揺が走った。
「どこからそのような自信が湧いてくるのか疑問だがな……」
「やだなあ。私の人柄でしょう」
「答えになっとらん。……まあ、良い」
下ろした剣を片手に握ったまま、クラスフェルドの鋭い視線がグレンを射る。それを真っ直ぐ見返したまま、グレンはクラスフェルドの言葉を待った。
「お前の言葉が事実ならば、ヴァルスは確かにリトリアの返事をお前の望み通りに受け取るだろう。ならば選択肢はあるまい。……ガレリアの分割は、確定だな?」
「ええ。ここに、……調印済みの書簡が」
ならば条件は悪くはない。何より、ヴァルスとの約束事項は勝利を前提に進められているが、ロドリスのガレリア分割は勝敗に左右されない。リトリアの参戦を条件に、終戦後確定だ。
「いいだろう。お前に踊らされるのは少々気分が悪いが、条件としては悪いものではない」
「陛下!!」
「では」
「が、条件をひとつ追加させてもらおうか」
「うわ〜ぉ」
剣を鞘に収めて玉座に戻るリトリア国王の背中に、グレンの弛緩したようなため息が投げかけられた。
「足元見てらっしゃる」
「汚い真似をしたのはお前だろう。そのくらい大目に見ろ。何、大したことじゃない」
玉座の前に戻ったクラスフェルドは、ちらりと視線を背後に向けた。グレンがへなへなと床に崩れている。
「今さっきお前が言ったな?俺との交流を深めたと信じたと」
「はあ、まあ……また何かまずいこと言っちゃったんでしょうかねぇ〜……私の口は」
「それはお前次第だな」
「へい」
『はい』と答えたつもりが、顔が歪んでいるせいで妙な発音になってしまう。エレナに蹴られた足を抱える間もなく、クラスフェルドの口から条件が投げつけられた。
「リトリアとロドリスが友軍であれば、問題はなかろう。ヴァルスとの総力戦のみで良い」
「は……?」
「お前は俺の陣営で、俺と共に出陣してもらおう」
◆ ◇ ◆
宰相ユンカーとの打ち合わせを終えて書類を片手に抱えて執務室へと戻ったセラフィは、暗い静寂の中に沈んだ窓の外にふと視線を向けた。小さく吐息をつく。
今日も、邸宅には戻れそうもない。マーリアがきっと寂しがっていることだろう。せめてグレンがいれば、自分の代わりに様子を見に行かせるのだが、リトリアを回りレガードの追跡を命じてしまった以上当分の間は戻るまい。
癖のない青い髪に手をやり、くしゃりとかき上げる。憂いを帯びた瞳を伏せて書き物机に足を向けたその時、ドアの外で物音が聞こえた。ふと顔を上げる。
「セラフィ様」
「いるよ」
「失礼致します」
静かに入ってきたのは、ユンカーの秘書官を務める男だ。フットワークが軽く人当たりも良いながら、口数が少なく余計なことを口にすることがない。宰相の秘書としては信頼に値する人物である。
「こんな時分までご苦労だね」
緩やかに笑いかけながら椅子を引くセラフィに、秘書官――アークフィールは穏やかな苦笑を浮かべた。
「セラフィ様も人のことをおっしゃっている場合ではないでしょう」
「まあね……おかげで本邸に帰る余裕がどこを探してもない」
鼻の頭にわざと皺を寄せて言って見せるとすぐに微笑みに変える宮廷魔術師に、アークフィールも軽く吹き出しながら書類を差し出した。
「追加をしてしまって大変申し訳ないのですが」
「しょうがないよ、君のせいじゃないだろう。……何?」
「ユンカー様宛ての書簡に紛れてまして。……グレンフォード殿からの報告書です」
「ああ……」
「私も少々早とちりしまして、その、封を……」
頷いて受け取りながら、セラフィはすぐそばに立つアークフィールを見上げた。萌黄色の瞳が、バツが悪そうに細められている。確か30半ばやそこらだったように思うが、若々しいその顔はまだ30前と言っても通じそうだ。
「どうせユンカー殿にもご報告の必要があることだろうから構わないけれどね」
「いえ、破ってすぐに気づきましたので、中には目を通しておりませんが」
「ふうん?それはわけのわからないものを見ずに済んで良かったね」
セラフィの言い草に、アークフィールも思わず吹き出す。言いながら書簡を開けたセラフィは、すぐに視線を宰相の秘書官に戻した。
「届けてくれたものを悪いんだけれど、ユンカー殿にこのままお持ちいただいて結構だよ」
「……グレンフォード殿からと言うことは、リトリアに何か動きが」
「おちた」
その言葉に、アークフィールが黙って目を見開く。瞳と同じ色の髪が、さらりと揺れて額に零れ落ちた。
「では」
「リトリアは、こちらにつく。……ようやく運が向いてきたな」
足を組んで机に肘を凭せ掛けながら微笑むセラフィに、書簡に目を落としたアークフィールも微笑を返した。
「結構ですね。ユンカー様もお喜びになられることでしょう。さすれば、すぐにでもご報告させていただきたく存じます」
「うん。終わったらすぐ休みなよ」
興奮したように顔を微かに紅潮させるアークフィールに苦笑を漏らしながら、そっと宥める。宰相本人がのんびりしているだけに、秘書官である彼の苦労は耐えないことだろう。
足早に部屋を出て行きかけたアークフィールに、セラフィも書類の束と向き直ろうと椅子の上で姿勢を直す。ふと、アークフィールがドアの手前で足を止めた。
「そう言えば」
「うん?」
ぺら……と書類に気のない視線を向けたまま返答を返すと、軽く笑いを含んだからかうような声が投げかけられた。
「セラフィ様は邸宅に誰か囲っておいでだと言う噂が」
「……」
思わず目を瞬く。ゆっくりと顔をアークフィールに向けると、書簡を大切に右手に持ったままで興味深そうな色を浮かべてこちらを見ていた。その顔につい吹き出す。
「嫌だなあ。どこでそんな話が出るんだい」
「セラフィ様は、ファンをたくさんお持ちですからね。皆がそわそわしてますよ」
「まさか。残念ながら、そんな色恋沙汰と呼べる話で喜ばせてあげることは出来ないな」
「それは皆も安心なさることでしょう」
肩を竦めるセラフィの答えに、アークフィールもくすくすと笑いながら穏やかに答えた。
「何せアンドラーシ様もセラフィ殿に夢中との噂ですからね」
その言葉に、胸の内で凍りつく。あれほどわかりやすく表出していれば噂にならぬ方がおかしいが、国王の寵姫に想いを寄せられているとあらば、当然国王の不興を買いかねない。
若くしてセラフィは、カルランスの信頼を一身に背負っている。それはセラフィにとっては、自分の思うままに権力を振るうことが出来るということだ。だが視野の狭い国王のこと、一度不興を買えば今度は止め処なく不信感を募らせるだろう。いよいよヴァルスとの戦争が開始すると言う時になって、この地位を捨てる気はない。
「まさか」
内心の舌打ちを押し隠して得意の笑顔を向けながら、セラフィはやれやれと言うように頭を振って見せた。