第2部第2章第5話 facultas(1)
痺れているかのように重い体を叱咤して、斜面に向かう。今し方上空で渦巻いていた竜巻は、僅かな後にかき消すように消えた。名残のように追って吹き降りてきた風が、周囲の木々と髪を揺らす。
(何があったんだ……?)
キグナスの身に何事も起こっていなければ良いとは思うが、そう信じられるほど脳天気じゃない。
(あんなに魔力があったんだ……)
無意識――潜在能力と言うやつだろうか。普段使える範囲とはまた別の、奥底に眠る魔力。
あれだけの竜巻を巻き起こせる能力は、半端じゃない気がする。
軋むような体を動かし、木々を頼りにゆっくりと斜面を登り始めた。体を動かすごとに目眩が起きるほどの痛みが支配するので大して進みはしないけれど、あそこにうずくまっているよりは前に進む。
(これで襲われたらアウトだな)
歩くだけで手一杯なものを、戦うなんて真似が出来るわけもない。
(何が……起こったんだろう……)
少しずつ斜面を登ってはずり落ち、ずり落ちては少し這い上がると言う気が遠くなるような作業を繰り返し、ひたすら上を目指す俺の周囲で不意に風が流れた。柔らかく取り囲むように、空気が。
(――?)
そのことに気づいて、顔を上げる。前方の茂みが、がさりと音を立てた。
「グフッ……」
やばい……。
下品な獣じみた音と共に現れた姿に、頭がくらりとした。ホブゴブリンだ。今の俺に勝ち目はどこにもない。
(キグナス、ごめん……)
ふらりと傾いだ体を、木の幹に持たせ掛ける。貧血の引き起こす吐き気に大きく呼吸を繰り返しながら、ホブゴブリンが俺めがけて降りてくるのをただ見つめた。赤錆びたような剣には、凶々しい緑色のものが付着している。多分、毒だろう。
ずざざざ……と草をかき分けて降りてくるホブゴブリンが剣を振りかざして地を蹴った。その刹那、その体が弾かれたように吹っ飛ぶ。全身から切り刻まれたような細かな血飛沫をあげていた。
(何……?)
どこか朦朧とした霞んだ意識の中で、呟く。何が起きたのか把握出来ないままにいる俺の目の前でホブゴブリンが呻きを上げながら体を起こし、同時に別の方向から滑り降りて来るような物音が聞こえた。
「カズキ、無事!?」
「ニ……ナ……」
草木の陰から躍り出た姿に、思わず呆然と呟く。ニーナは、木の幹にもたれたまま唖然としている俺に、安堵の笑みを覗かせた。
「良かった、間に合った」
「シルフ……?」
さっきホブゴブリンが吹っ飛んだのはニーナの魔法……。
ホブゴブリンが体を起こして、再び剣を構える。駆け出そうとするその寸前、俺を守るように立ちはだかったニーナが再度シルフを召喚した。
「軽やかに踊る風の精霊シルフよ、その姿を刃に変えよ!!ウォラト!!」
自然ではあり得ない風が巻き起こり、ホブゴブリンに襲いかかると同時にレイピアを抜き放って地を蹴る。『風の刃』に切りつけられてもんどり打ったその体に、垂直に構えたレイピアを深々と突き刺した。
「ギャアアアアッ」
振り絞るような雄叫びが、血の噴水を伴って上がる。それきり、力を失ったように地面に沈んだままだった。
「危なかった」
小さく息をつきながら、ニーナがレイピアを抜き取って振り返る。刀身についた鮮血を拭う時、ひどく嫌そうに鼻の頭に皺を寄せた。相手がゴブリンだからだろうか。
「ありがとう……」
精一杯声を押し出す。剣を鞘に戻しながら、ニーナが笑みを覗かせた。
「猟師小屋に荷物だけ放りっ放しだったから……何かあったんだと思って、カズキたちを探してシルフを飛ばしたの。ヤバそうだったから、とりあえずシルフの守りだけ飛ばして探しに来たのよ。……歩けるの?」
近づいてきたニーナが、満身創痍の俺を見て顔を曇らせた。
「わたしは治癒は……出来ないのよね……」
「うん……何とかする……」
何ともなんないが。
大きく肩で息をついて幹から体を起こすと、激痛が走った。息が詰まる。あの男にやられた胸の傷がやはり堪える。
「……あの男に遭遇したのね?」
「え?じゃあニーナたちも?」
「シサーが相手をしてる。……心配ないと思うわ。きっともうカタがついてる」
それからニーナは辺りを見回すように、顔を上げた。
「オレアード」
「?」
「大地に溢れ、木々に流れ込む恵みをほんの少しわけてちょうだい。……オクリース」
ニーナが何かを祈るように、瞳を閉じて呟く。応えるように木々がさわさわとその枝を揺らし、ざざーっと葉が舞い落ちた。
「あ……」
引きずるほど重かった体が、僅かに軽くなる。傷の痛みは変わらないけれど、何かが流れ込むように体の中が満たされていくような感じがした。まだ溢れていた血も、止まったみたいだ……。
「何……?」
「オレアードは山の妖精。木々の生命力を少しわけてもらったの。怪我を治すことは出来ないけれど、カズキ自身の自然治癒能力を手伝ってはくれるはず。……治癒の魔法みたいに立ちどころに治ったりはしないけれどね……」
「ありがとう……」
確かに治りはしないけれど、少し体が軽くなった。貧血も引いたみたいだし、頑張れば何とか登れそうだ。眩暈と吐き気がないだけでも、随分と救われる。
「行けそう?」
「うん」
痛いけど。
まだ痛みの走る体を押して、登り始める。気遣うように寄り添ってくれるニーナに、キグナスのことを聞いてみようと口を開いた。
「ニーナ、キグナスは?」
「カズキ、キグナスは?」
「……え?」
「は?」
お互い目を見張る。
「一緒じゃ、なかったの……?」
「キグナスは猟師小屋に置いて来たんだ」
「……」
俺の言葉に、ニーナが黙って目を見開いた。
「ファリマ・ドビトークに入ってからずっと調子が良くなかった。俺も大して剣が使えるわけじゃないから魔法を連発する羽目になってて、かなり衰弱してた。……だから、キグナスは猟師小屋に残して休ませてたんだよ」
少しずつ空が近くなっていく。オレアードの協力で楽になったおかげで、のろのろであるとは言え、進行速度はさっきまでより随分上がっていた。
「何があったの?」
ニーナの問いに、猟師小屋についてから起こったことを説明する。
「……だから、キグナスからあいつ……あの魔物を引き離さなきゃいけないと思って……。それで、攻撃を受けて足を踏み外したんだ」
「じゃああの男以外にも魔物が……ううん、魔物かどうかはわからないけれど何者かが接近していたのね?」
扉を吹き飛ばした、姿の見えない何かだ。
「うん。多分」
「じゃあ小屋に残っていたキグナスは、もしかするとその何者かに襲われた可能性もある……」
「竜巻が起こったでしょ」
「ああ、うん。……キグナスの魔法?」
言われて、俺は短く首を振った。
「キグナスの魔力なのは間違いないと思う。でも、あんな魔法を使える状態じゃなかった」
そりゃあ俺だってキグナスが使える全ての魔法を知っているわけじゃないけど、あんな強力なものを使えるんならこれまでも使ってるだろうし、ロナードを出てからそんな急激に成長したわけじゃない。
「襲われて暴発したんだと思った、俺は」
「……」
「シルフには、引っかからなかったの?」
俺の問いに、ニーナが申し訳なさそうな顔をする。
「カズキが先に引っかかったから……一緒にいるもんだと思ってたし」
ああそうか。
「上についたらもう1度……」
「ニーナ」
言い掛けたところで、頭上から声が降ってきた。顔を上げると、木々の間からこちらを覗き込むように、シサーが見下ろしているのが見えた。
「シサー!!」
やっぱりこの人の姿を見ると、安堵で肩の力が抜けるような気がする。
「おう。無事かぁ?」
「俺は何とか……。シサー、キグナスを探して」
「え?」
俺の言葉をニーナが補足する。
「猟師小屋に残して来たんだって言うのよ」
「何?」
「でも、どこにも姿はなかったでしょ?」
会話をしている間に、ようやく上までたどりつく。手を伸ばして俺を引きずりあげてくれたシサーは、ぼろぼろの俺の姿を見て険しい表情を浮かべた。
「ひでぇ状態だな。大丈夫か」
「ニーナがオレアードの力を貸してくれたから何とか。それより、キグナスを探さなきゃ」
「何があったんだ?」
問われて、先ほどニーナにしたのとほぼ同じ説明を繰り返す。話を聞いたシサーは眉を顰めて「姿の見えない魔物か……」と呟いた。
「いるんでしょ」
「いるけどな。その話を聞いただけじゃ種類まではわかんねぇよ」
言って、ぐしゃぐしゃと髪をかき回す。
「姿が見えない類の魔物は厄介なのよね」
ニーナが複雑な顔でため息をついた。首を傾げてそちらを見る。
「厄介?」
「ああ。何らかの相手を操るような能力を持ってる奴が少なくない」
「操るって……」
「例えば体。例えば心、精神、感情……」
幽霊が人に取り憑くようなもんだろうか。
「もしそうなんだとしたら、操られて、それを排除しようとしたキグナスの奥底が、魔力を暴発させたのかもしれないわね。……さっきのカズキの話と合わせると、ちょっとヤバいわよ。それだけ衰弱してるのにあれだけの魔力を暴発させたら、体が持たないわ」
「ニーナ。シルフを飛ばしてくれ」
「わかった」
ニーナがシルフを召喚する。猟師小屋の方へ足を向けながら、俺はシサーに問いかけた。
「シサー。あの魔物は?」
「ああ。あいつなら片づけた。……カズキ、お前も少し休んでろ」
「嫌だ」
きっぱり言い切った俺に、シサーが困ったような顔をする。そりゃあこんな状態で大して何も出来ないのかもしれないけど……。
「キグナスがヤバい状態だって知ってたのに……そばにいたのに、俺」
もっと上手く立ち回る方法があったのかもしれない。考えても仕方ないとわかっていても、考えずにいられない。
猟師小屋の中を覗いてため息をつきながら、シサーが出てくる。参考になりそうなものは別段見当たらなかったらしい。
「最良は尽くしたつもりだろう。言ったってしょーがねえ。まだ何とかなるかもしんねーしな」
ぽん、と大きな手で俺の肩をひとつ叩くと、シサーはニーナを振り返った。
「ニーナ。どうだ?」
「変ね」
「え?」
空を見上げるように呟くニーナに、訝しげな表情でシサーが近づく。血が止まったとは言えまだ全身が痛む俺は、小屋の壁に背中をもたせかけた。離れていくシサーと立ちすくんだままのニーナを声もなく見つめる。
「その辺にいるわ……」
――――――――ゴォォォッ。
「うわ」
「何だ!?」
グラムドリングが白光し、ニーナの呟きをかき消すように、林の奥から立て続けの猛火が突然襲いかかってきた。
拳大の小振りのものではあるが、ひとつじゃない。まるでマシンガンでもぶっ放してるかのような連射だ。
「カズキッ」
ただでさえろくな動きが出来ないのに、無数に飛来する火炎を避けるなんて高度な技を披露出来るわけがない。咄嗟に顔をそむけて腕で覆う。
「なッ……?」
シサーの驚く声が聞こえた。その声に腕をどかして目を開く。火炎はまだ次々と襲って来ていたが、それが俺の目の前で片っ端から弾けるように霧散していった。
(やっぱり……)
俺に火系攻撃は無効、というのは図らずも証明されてしまったらしい。
「後で説明する」
俺に注意を払っている場合じゃない。手短に言って、攻撃の止んだ暗がりに視線を戻した。
再度火炎が飛んでくる気配はない。何事もなかったかのように、ただ木々が葉を揺らしている。
油断を解かずに林を注視していると、やがて木が不自然に揺れた。がさ、がさと……人が、踏み分けているような……。
「キグナス……」
近づいてきた人影が、月明かりに照らし出される。白金の髪が、ふわふわと風に揺れた。
「……」
シサーやニーナも、キグナスを見つめたまま動かない。グラムドリングは、まだ白い警告光を発していた。
「悪ぃ、間違えたッ」
顔色や目つきにおかしなところはない。
「魔物に襲われて、戦ってたからさぁ」
口調や声も、キグナスだ。
こっちへゆっくりと近づくキグナスの足取りも、危なげないものだった。元気そのものの足取り。
(――だからおかしいんじゃないか!!)
さっきまであんなにふらふらだったのが嘘のような回復力だ。あんだけ魔力を放出したとは思えない……。
(キグナスの魔力じゃなかったのか?それとも)
近づいてくるキグナスが何の偽りのない、俺の知っているキグナスそのものに見えて、俺は混乱した。
(さっきの火炎は、キグナスの『火炎弾』……)
としか、考えられないよな?
あんなことが、疲弊しているキグナスに出来たのか?あんな……連射。