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怪物以上、人間未満  作者: 例の予備軍
2章
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4話 渦と業

それ以来、肉はこうして、人気の無い下水道の中に蹲り続けている。



何かをする気力は湧いてこないが、そうして何もしないでいると思い浮かぶのは、最初に出会った彼女の絶叫である。


思えば、あれは肉の行った行動に対する拒絶ではなかったのかもしれない。


彼女が見せた行動と似た反応を、一度だけ目にした。

それは、ある一人の老婆が家の中で虫を見つけた時の反応だった。

虫がどれだけ礼儀正しく振る舞ったところで、人間は虫に対して好意的な感情を抱くことがあるだろうか。


すなわち彼女の拒絶の意味は、肉の存在そのものに対する拒絶であった可能性に、肉は気が付いたのだ。


もし本当にそうなのだとすれば、自分は一体どうすれば良いのだろうか。


目を閉じればあの顔とあの声が鮮明に思い出され、その度に、肉は背筋の際から冷え渡るかのような恐怖を覚え、全身から熱と力が失われる。



しかし、肉の恐怖はその程度には留まらない。

肉の頭には、更に恐ろしいある一つの疑問が頭に浮かんでいた。


それは、そもそも自分は人間ではないのではないか、という問いだ。


その疑問は肉にとって余りにも肯定し難いものであり、同時に、状況から彼女の反応の理由を考える上で、そしてこの町を観察した上で、最も妥当と思える可能性だった。


もしその疑問が肯定されてしまった場合、肉はこれまで生きてきた価値観を根底から覆さなければならず、己の展望を見失ってしまうことになるだろう。


同じ人間であるとするならば、何故街の人々と自分の姿はこんなにも違っているのか。

この不恰好な顔や手足は何なのか。


しかしながら、肉はその疑問の是非を答えることもできずにいる。


何故なら肉は、まだ荒野の町と、この街しか人間の住処を知らないからだ。


肉の誕生、あるいは発生した荒野の町には偶々(たまたま)死んだ人間の肉しか無かった。

同じように、この街には偶々あのような揃った形の人間しかいないのだとしても、何ら不思議なことはないだろう。

生まれて間もない肉にとって、それは十分にあり得る話に思えた。


そしてそのことを確かめるには、何時までもここに蹲っていてはならない。

さっさとこの街を出て、肉のような人間ばかりの住む町を探せば良いのだ。




しかし、そこでまた思考は反転する。

街を出ることを好ましい選択とは、肉には到底思えず、むしろ感情の上では排除したい選択肢だった。


肉の頭の片隅に、この街で最初に出会った彼女の姿が頭にちらついた。


この町を出れば、彼女に出会うことは二度とないかもしれない。


ならばせめて、今一度、あの魅力的な身体をもっと間近で眺めたい。

彼女の衣服によって隠されたものを包み隠さず暴きたい。

完璧に理想的とも思えるその姿に、あるいは柔らかく温かそうな肌に、この手で触れてみたい。

間近で彼女の匂いを嗅ぎ、その肌を舌で味わいたい。


彼女の間近に迫るのは、一体どんなに素晴らしいことだろうか。


彼女に対するそういった行為を妄想すれば、肉は幸せな気分に浸ることもできる。


ならばいっそのこと、衝動の赴く儘に実行したいとすら、思いもする。


彼女が欲しいという激しい欲求も、肉を立ち上がらせ、本能的に突き動かそうとする。


しかしその度に甲高く刺すような鼓膜の痛みと共に、彼女の恐怖に歪んだ表情が瞼の裏に反芻され、再び肉の全身から活力を奪う。


街の人間達を、見れば分かる。

この街の人間達は、身体の接触に対して最大限の礼節を払う。


相手の手を撫で回したり、匂いを嗅いだり、まして舐めることなど以ての外だ。

嫌がる彼女を押さえつけながら実行したところで、肉は自分の欲望を満たせるとは思えない。


しかし、あれだけ強い拒絶をされてしまった上では、あの女性に肉を受け入れてもらうのは、きっと難しい。


だが、肉には彼女を傷つけようという気持ちなど微塵もないのだ。


肉が彼女が考えているほど不愉快な存在ではないのだと、彼女に理解されたのなら、あるいは彼女はそれを許してくれるのではあるまいか。



しかし、本当に自分が人間でないのだとしたら、許す余地など毛頭無いのではないか。


彼女と似た反応を示した老婆は、虫を見た直後に、その虫を靴で踏み潰したのだ。

体液をまき散らしながら、命の絶えた哀れな虫を、執拗に、踏み潰し続けたのだ。




また、街を出ることに対する問題はそれだけではない。


この肉が現状抱えている最大の問題は、肉が既に、彼女を見つけてしまったということなのだ。


仮にこの街の外には肉のような容姿を持った人間の住む町があるとして、しかし完璧に理想的な彼女を見てしまった上で、肉は自分と同じような姿の人間に魅力を感じることができるだろうか。


今の肉は、自分の姿の醜悪さを自覚している。

それはつまり、自分が共に過ごすならば自分のような姿の者よりも、この街の人間達の方が好ましく、そしてできれば彼女と共に過ごしていたいという想いをも内包している。


そして自分が醜い存在ならば、より一層彼女が自分に好意的な感情を抱く余地はあり得ないだろうと、自分の心の貧しさと卑怯さに打ちひしがれる。



堂々と思考は巡る。


巡り続けて、沈み続けて、劣等感と自虐心ばかりが募ってゆく。

肉は、こんな感情を味わうために、人間を探していた筈ではなかった。


そしてふと自身の思考を顧みて、これは何とも奇妙なものだと、肉は自嘲する。


街を出るのか、街に留まるのか。

いずれの気持ちを優先するにしても、少なくとも此処から立ち上がらなければ目標は実現しないのだが、その両方が同じ人物の同じ記憶によって邪魔されて、結果としてどちらも選ぶことができずにいる。

これではどうしようもない。


思考は巡り続け、居座れば居座るほどにより深く暗澹としたものになり、もう落ちる余地などどこにもないというほど沈んだところでようやく肉は一つの決断をする。




何にせよ。

ここで蹲っているばかりでは、物事は何一つとして進展しない。

それだけは確かなことだ。


肉には足があり、目があり、そして今は脳もある。

これまで肉はそれらのものを駆使することで、自分の求めるものを手に入れてきた。

肉には欲しいものを手に入れるための身体がある。



一先ず、自分が人間か否かという問いは保留にしておくべきかもしれない。

その問いの答えを導き出すことは難しいからだ。


そして同様の理由で、彼女に対して挽回するチャンスはないのではないか、という問題も保留にしておくべきだろう。

自分は人間かもしれないし、そしてこれからの頑張り次第で、彼女に挽回することも可能かもしれない。


これは一つの前提条件。

肉はそう思い込むことにした。



これから肉は、この街の人間達に認められるべく、努力をするのだ。


では、自分は何をするべきなのか。

肉にはアイデアが一つあった。

この先何を行うにせよ、肉は学ぶべきものがあると感じていた。



―――・・・コ、ト、バ・・・。



言葉。

この街の人間を観察する内に発見した、この街の人間達に見られる行動である。


この街の人間達は、互いに向き合いながら声を発する。

彼らは喉から発せられる声を舌や唇を使い規則的に変化させ、またその発音を互いに耳で聞き取ることによって、互いの意思の疎通を取っているらしい。


すなわち、その規則性を理解し、使いこなしさえすれば、人肉の寄り合わせによってできた肉でも、この街の人間とコミュニケーションを取ることは可能なのだ。



言葉を習得することは彼女、延いてはこの街の人間に理解されるための、第一歩であると肉は考えた。


では、そのためにはどうするべきか。

この街の人々の会話を観察するのが良いだろうか。

しかし、その間に街の人間に見つかるのは好ましくないだろう。


蹲った肉は、自分のするべきことの算段を着々と整えてゆく。


再び外には朝日が差しており、考えがある程度纏まった頃、自分の気持ちを目いっぱい前に向き直し、肉は不揃いな左足と右足で立ち上がった。

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