2話 ゐ文化交流
肉である。
それはかつて荒野を彷徨っていた肉だが、この時点で肉を「肉」以外の言葉で表現する手段が無いため、やや不便ながらも暫定的にそう呼称しなければならない。その姿をわかり易く言語化しようとした場合、縦に半分に割れた頭、鼻は異様に小さく口は二つもあり、その内片方の口からは腕が生え、頭の下の本来首がある部分に左の足と腹部が生えていて、その更にそれぞれの先端には左腕と逆さの臀部が・・・といった具合に、あまりにも複雑怪奇で、指摘すべき特徴的な要素が多すぎるのだ。
それはともかくとして、件の肉塊は、現在、エスター街の地下下水道の中で身体を丸めて蹲っている。
ぽたぽたと、水滴が周期的に伝い落ちる音が、ひんやりと冷たい空洞の中に響き渡る。
肉の周囲には大小様々な蠅が無数に集っているが、決して肉の皮膚の上に止まることはしない。その足元には鼠が時折おずおずと近づいて来るが、幾度か鼻を鳴らした後、一目散に肉から離れていった。
周囲に群がる鼠や蠅の存在は肉にとっても好ましいものではないが、鼠や蠅にとっても、肉は彼らの薄暗い平穏を乱す邪魔な存在であるらしい。
だが、今の肉にとってそんなことはどうでもいいようだった。
身の回りで何があっても、肉は頑として動こうとはしない。
肉がこうして能動的に蹲るという行為を選択することに、殊更重要な意味も理由も無い。
ただ、だからと言って、何か意味のある行動をするという気持ちが少しも湧いて来なかったために、肉は無気力に、この不衛生極まりない下水道の中に蹲り続けている。
どこかのマンホールの隙間から、かすかな地上の光が差す。
この下水道から出れば、人間がいる。
目で見て手で触れることのできる位置に人間が沢山いる。
なのに肉はまだ一人ぼっちだった。
―――――
荒野の町を彷徨い歩き続けていた肉は、一ヵ月ほど掛けて、この町には人間が居ないということを結論付けた。
どれだけ探しても町には動く人間の影など一つもなく、町を埋め尽くす人肉は、日を経る毎に腐り、朽ち果ててゆくばかりだった。
それは結論を導く上ではあまりにも不手際に時間を掛け過ぎたのかもしれないし、逆に、人が居ないという確証を得るためには更に入念な確認が必要だったのかもしれない。
差し引きすれば、凡そ妥当と言える範疇に収まる程度の時間を費やして、肉は荒野の町で生きた人間を探すことを諦めた。
肉は町を出奔することにした。
荒野の町は広く入り組んでいたが、そこから出る方法は単純だった。
どの方向でも良い。
今まで円を描くようにぐるぐると町の中を探索し歩いていたものを、突き切るように真っ直ぐ歩けばいいだけの話だ。
かくして肉は、一昼夜ほど歩き続けて、町を抜ける。
長らく彷徨っていた町ではあったものの、離れるとなればあっさりとしたもので、哀愁や未練よりも、この先に探し出すものへの希望の方が勝っていた。
もっとも、腐臭を漂わせる血肉と建物の残骸ばかりの荒野に、特別の愛着を感じるのも珍しいことだろうが。
いずれにせよ、人間の居ない町に未練はない。
町の外もまた、死体と建物の残骸が無いだけの荒れた大地が広がっていたが、歩き続けるとやがて人気の無い草原に至った。
草原の風は、砂混じりの荒野の風よりもずっと澄んでいて、また、水気を帯びた柔らかい若草は、瓦礫や砂礫によって切り傷だらけになった肉の下肢にほどよく浸みた。
こんなことならば、もっと早く町を出ればよかったかもしれないと肉は思った。
見渡す限りに人の姿はなく、草原に至っても肉は休むことなく真っ直ぐに歩き続けた。
肉は草原を越え、森を越え、川を越え、谷を越え、山を越えた。
雨が降ろうとも、嵐が吹こうとも、肉は肩甲骨の下の右足と首の下の左足を踏み出し続けた。
歩けど歩けど世界はどこまでも広がっていた。
肉は生まれてこの方、宛てのない旅を続けている。
どの方向に、どのくらいの距離を進めば肉が人間に出会えるのかは分からなかったが、不思議と肉に不安はなかった。
果てしないとさえ思えるほどに広く、色とりどりに移ろってゆく世界は、肉に歩き続けることへの希望を与え、胸中の寂しさを紛らわさせてくれた。
そしてある夜のこと、また夜空に浮かぶ月が幾度か同じ形になった頃、もう一つの谷を越えた山の上で、遂に肉は、遠くに街の灯りを発見した。
それが人間の街であるということは一目で分かった。
肉は歩を早める。
肉が遠目で確認したその街は、肉が誕生、あるいは発生した町とは比較にならないほどに人間らしく整えられた街だった。
街に近づくほどに、肉の心の中で期待と高揚感が高まってゆく。
街の中には定められた色合いの屋根を持つ揃った高さの建物と、枝葉の長さの揃えられた数種類の植物が理路整然と並べられている。
街の中心から放射状に伸びた道路の上を、つやつやと光を反射する色鮮やな車が一定の速度で走っている。
そんな街の中心には、一際高く、地面に対して垂直に伸びたタワーが、この街の秩序の象徴であるかのように聳え立っていた。
肉は街を建てた同朋達の見事な仕事振りに関心し、これこそ自分が探し求め、この先に肉が暮らしてゆく街だと確信した。
肉が巨大な街の足元にたどり着いた頃、この街の人間達のほとんどが既に寝静まっていてた。
そして肉は、踏み入った町の外れで、とうとう生まれて初めて人間を見つける。
肉はその人間に、思わず、目を奪われた。
抑えきれない感動に、肉の心臓が今までにないほど高鳴ってゆき、二つに分かれた顔の両方が、じんわりと熱くなってゆく。
両手の指先がぷるぷると震え、二つの口の中に生暖かい涎が湧き出る。
街の美しさにも惹かれたが、初めて出会う人間への衝撃はそれを遥かに上回った。
何故なら、その人間は恐ろしく理想的に整った形をした女性だったのだから。
混じり気のないブラウンの直髪に覆われた頭。
頭の下に続く肩、肩から伸びた二本の腕、肩の下の二つの膨らみから、流線型に腰と股間が続き、そこから自然な形で長さの同じ二本の足へと伸びてゆく。
そういったことを思わせる肢体を、彼女は衣服によって覆い隠していていることは、余計に肉の想像を掻き立てた。
見るからに重たげな荷物を右手に持ちながらも、重心をぶらすことなく、右足と左足を交互に一定の間隔で踏み出し歩く姿は、彼女が自身の身体の機能的な扱い方を、十全に理解していることを表している。
そして唯一露出した顔の中には二つの目、一つの口、一つの鼻がわずかの歪みもなく左右対称に収まっていて、やはりそのどこにも不自然な点を感じさせない。
それは肉にとって、完璧と言っても過言ではないほど、美しい人間の形に思えた。
―――・・・ホシイ・・・。
そして、その後に起こす行動は最早本能だった。
考えるよりも先に身体が動く。
それがどれだけ配慮に欠ける行動であったとしても、肉を責めることなど、誰にも許されはしないだろう。
肉はこれまで何ヶ月もの間、常に付きまとう不安な感情を胸に、人肌の温かみだけを、探し求めて彷徨い続けてきたのだ。
肉は腕を前に伸ばす。
吸い寄せられるように。
もう右足と左手を使って歩くということにもずいぶん慣れたというのに。
次の一歩を踏み出せば倒れてしまいそうだった。
しかし、踏み出してみれば思いの外、身体はしっかりと踏み止まる。
にも関わらず、次の一歩を踏み出せば間違いなく倒れてしまいそうになった。
一歩一歩、背後から、亡霊のようにゆらゆらと彼女に近づいて行った。
そして、肉の足音を察したのだろう。彼女は振り返る。
その両目共に黒いガラスのような眼が、肉の姿を捉えた。
肉は何かを伝えなければならないと思った。
彼女の表情からは、何も窺い知ることができない。
目を少しだけ大きく見開き、口を緩く開いたまま、こちらの様子を伺っているようだった。
彼女に自分の意思を伝えるためにはどうするべきかと精一杯考えた。
彼女と視線が交錯した。
肉は、一生懸命だった。
肉は腕と脚を精一杯動かし、表情をなるべく好意的に変化させ、そして口からは、我ながら、余りにも不格好な、甲高い鳴き声を発した。
それは生まれて初めて人間と出会った肉の、必死の行動だった。
そして、肉を見ていた彼女の姿に変化が起こる。
彼女は身体を萎縮させ、そして顔をまるで別人のように勇ましく歪ませる。
そして、その細い喉の奥から信じられないほどの高い大音量を発したのだ。
彼女の絶叫が町外れの通りに響き渡る。
そこに至って肉の頭に最初に想起されたことは、歪んでなお、彼女の顔は整っていて美しいということだった。
肉の思考は次に、その身体を収縮させることと、顔を歪ませることと、大声を上げることは、明らかに肉に対するメッセージではないという考察に移り、そして次第に、彼女の耳を貫くような高い悲鳴と、皺が寄り硬直した表情が、肉に対する拒絶の意思を示すということを察した。
そうした一瞬の逡巡の後、肉が行動に移したのは、彼女に背を向けて慌てて逃げ出すことだった。
肉の細い足は地面を蹴り上げ、鳥のように空高く、街の外へ向けて跳び上がった。
これもまた思わずしてしまった本能的な行動であり、彼女から遠のきながら、肉は何か重要な失敗をしてしまったのだという後悔を感じていた。