3話 彼女にとって
冷蔵庫の中には、幾つかの種類の見慣れた野菜が並べられていた。
その瑞々しいレタスや艶やかな玉ねぎを見れば、少なくとも彼女が数日前までは健常な身体を保っていたことが推測できる。
ジョン・スミスは慣れない手付きで包丁を持ち、その野菜を食べやすい大きさに切り分けてゆく。
切った野菜は鍋の中で煮て柔らかくし、この街の人間のやるように、塩と調味料で味を整える。
怪物酒場で出されるものよりも塩気が少なく味も薄いが、恐らく今のメアリー・ブラウンには、この程度の味が適切な筈だ。
ジョン・スミスは陶器の椀にスープをよそい、食器棚の中から、メアリー・ブラウンが普段使っているスプーンを取り出してトレーの上に乗せる。
そしてそのままメアリー・ブラウンの部屋に戻ろうとしたが、ふと思い直して、盆の上にもう一本、来客用のスプーンを重ねた。
ジョン・スミスは再びノックを3回して、メアリーの寝室のドアを開く。
―――メアリー・ブラウン。食事を作った。
「・・・どういうこと?」
メアリーは怪訝な顔でジョン・スミスを睨む。
ジョン・スミスの持ってきたトレーの上には、白い清潔なタオルと水の入ったコップ、スープの入った椀、それにスプーンが2本乗せられていた。
―――言葉の通りだ。メアリー・ブラウン。
今の君は酷く栄養が足りないように見えるから、何かを食べた方がいい。
本当に失礼極まりないが、君の台所から勝手に作らせて貰った。
そうするべきだと思った。
ジョン・スミスはメアリーの隣に腰掛け、腕の飛び出ていない方の口で、スープを一口啜って見せた。
メアリーの身体が緊張で強張る。
―――食べられないものは、入っていない。
彼女の方のスプーンに掬い上げて、顔に近づけると、メアリーは唇をきつく閉じて顔を背けた。
「・・・あ、ありえないわよ。こんなの・・・」
そのままの姿勢で、二人は固まる。
無理もない。むしろ当然の反応だと、ジョン・スミスは思う。
この世界のどこに、自分のベッドの隣に腰掛けた見たこともない化け物、あるいは以前一度だけ見たことがあるだけの正体不明の人肉の塊が作ったスープを勧められ、抵抗なく応じることができる女性がいるだろうか。
少なくともメアリーがそういった異常な感性を持った女性ではないことを、ジョン・スミスは良く知っている。
ジョン・スミスは諦めず、スプーンを一度椀に戻して、再び熱いスープを掬いなおす。
―――メアリー・ブラウン。・・・君のためだ。
顔は背けながらも、メアリー・ブラウンの目は、じっとスプーンを見つめ続けている。
匙の上の湯だった野菜スープは、さも無害そうな様相で、芳しい香りを漂わせている。
この2日間ほど、メアリーはまともな食事をしていない。
自分では動くことも儘ならず、看病する者もいなかったのだから当たり前だ。
メアリー・ブラウンの表情は晴れなかったが、やがて思い切った様子で掲げられたスプーンに顔を近づけた。
―――味はどうか。
「・・・悪く、ないわ。」
メアリーは震える唇で熱いキャベツを咀嚼して味を確かめ、やがて観念したように飲み下す。
―――それは良かった。水は欲しいか。
「・・・いらないわ。」
ジョン・スミスは、再びスプーンにスープを載せて、メアリー・ブラウンの口に運んだ。
今度は先ほどよりも抵抗なく口が伸びる。
その額に汗が滲んでいたので、ジョン・スミスはタオルで拭き取った。
「・・・何故、こんなことを、してくれるの?」
―――君を愛しているからだ。
ジョン・スミスは正直に答えた。
メアリーが呆けたような顔になり、ジョン・スミスの奇怪な身体をまじまじと見つめている。
不思議な感覚だった。
今まで遠く眺めることしかできなかったメアリー・ブラウンと、こんなに近くで会話をしている。
「あなたは・・・その。天使様、なのかしら?」
メアリーが問い、ジョン・スミスは二つの口元に、皮肉な笑みを浮かべた。
―――天使などではない。
こんなに醜い天使がいるものか。
ジョン・スミスは自嘲し、そこで初めて、メアリー・ブラウンは笑った。
それは固くぎこちない、不自然な笑みだったが、少なくともそこにはかつてのような勇ましさはなく、醜い肉塊のジョン・スミスを嫌悪する余裕すらも、今の彼女には残っていないらしい。
「そうね・・・あなたのような、天使がいるはずが、ないものね。」
疲れた様子で、彼女は身体をベッドに倒す。
ジョン・スミスは椀を置いた。
「じゃああなたは、何なのかしら?・・・優しい、悪魔さん?」
―――メアリー・ブラウン。
自分は君を死の世界に連れて行くために、此処に来た訳ではない。
「それじゃあ、何なの?怪物さん・・・。」
―――怪物ではない。人間でも怪物でも天使でも悪魔でもない。
申し訳ないが、自分が何者なのかは自分にも分からないので、その疑問には答えられない。
でも自分は、メアリー・ブラウンを愛している。
これだけは、絶対に確かなことだ。
メアリー・ブラウンは不思議そうな顔でジョン・スミスを伺っていたが、やがてそのまま天井を見上げ、溜息を吐いた。
「不思議なものね。つい一週間前までは・・・何もかも、上手くやれてた。
会社のプロジェクトが成功して、ボーイフレンドから婚約指輪を貰って、この幸せな人生が、ずっと続くんだって、思ってた。
それが今は、ジョンは死んで、街は封鎖されて、私は病気に侵されて・・・。
・・・悪夢みたいで、信じられないのに。もう死ぬんだって思った時に、ボーイフレンドと同じ名前の・・・あなたが現れた。」
メアリー・ブラウンの瞳に涙が滲み、その声が徐々に湿度を帯びたものとなっていく。
―――人生とは、不条理なものだ。
つい昨日まで友人だと思っていた者に殺され掛けることもある。
己の望まない形、肉の塊に生れついてしまうこともあれば、そのために、自分の愛する存在に、絶対に認められることができないことも。
「・・・ごめんなさいね。私に、あなたは、愛せないの。」
―――それでも構わない。
心の底から真摯な思いで、ジョン・スミスは答えた。
―――君が自分を愛さないからこそ、自分は君を愛しているのだから。
メアリー・ブラウンの青白い顔は、先ほどよりもますます白くなっていた。
途切れ途切れの吐息の間で、メアリーが鼻を啜る音が微かに混じる。
メアリーが、ジョン・スミスを真っ直ぐに見据えた。
虚ろな表情で、その眠たげな瞳から一筋の涙を垂らしながら、メアリーが言う。
「ねえ、ジョン。怪物でも、人間でもないジョン。もう、眠くて・・・怖いの。・・・あなたでも、いいから。・・・寝てしまうまで・・・私の傍に、いてくれる?お願い・・・」
嗚咽に喉を詰まらせながら、小さな声で、メアリー・ブラウンは言った。
ジョン・スミスは頷き、彼女の頼みを聞き届けた。
「ありがとう・・・」
メアリー・ブラウンの震える冷たい手を、不揃いな両手が包み込む。
メアリーの手に、ジョン・スミスの熱が伝わり、徐々に温かみを帯びていく。
芸術のように美しい手を包む、爛れた腐りかけの手。
そこには、喜びも興奮もない。
ただ、手を握っているだけ。
たったそれだけのことで、ジョン・スミスの心は温かく、優しく、かつてないほどに満たされていた。
幾度となく、ジョン・スミスは彼女のボーイフレンドに成り代わる妄想をした。
しかし今は、彼女がこれまでボーイフレンドと行ったどんな熱いキスよりも、情熱的な性交よりも、ジョン・スミスに充足感を与えてくれた。
微睡むメアリーを見つめながら、ジョン・スミスは、そっと瞼を閉じる。
―――・・・自分は、最低だ。
暫くするとメアリー・ブラウンの震えは止まり、彼女は穏やかな安堵の中で眠りについた。
その目元に残った涙を、ジョン・スミスはタオルでそっと拭った。




