『引き合う魂』
スマートフォンの表示時刻が12時を示した頃、ようやく空が白み始めた。俺はあの後2回の休憩を挿みながらひたすら歩き続けた。不思議なのは体力的な疲れは多少感じるものの、足には痛みや疲れを感じていないことだ。体力的な疲れも一日中歩いている割には然程でもない。それが『シール』のくれた木の実の効果なのか、それとも何か別な要因なのかは今の俺には知る由もないが、先を急ぎたい現状の俺には願ったり叶ったりである。
それにしても夜明けが午後12時を過ぎてからということは、この星の一日が約36時間ではないかと予想する。後々の体調に少し不安を感じてしまう。何しろ俺の体内時計は一日約25時間で、地球の24時間でさえ時折変調をきたしていたのだ。たった1時間でもそんな調子なら、12時間も違った場合にはどんなことになるのかあまり想像したくない。もっとも、今はそんなことを想像しても仕方ないのだが。
さて、川を渡ってから約12時間経った。休憩を除けば約10時間歩いたことになる。俺の歩く速度が5キロメートル毎時だとすると50キロ程は進んだだろうか。目的地である霊峰ル・ガルドが少しずつ大きく見えてきている為、かなり進んでいることが実感できる。
そう思考を巡らせていると、眼下にこれまでにない景色が広がった。
クレーターだ。
おそらく随分昔に隕石か何かにより出来たと思われるもの。直径約2キロメートル程だろうか。中心部は雨水によるものか、湧水によるものかは分からないが、直径約300メートル程度の池がある。この辺りの植物とは特徴が大きく異なる植物が、池の周りを囲うように300メートル程密生している。更にそれを取り囲むのは大小様々な岩石群地帯だ。約200メートルほどあるその地帯には植物がほとんどない。そこからさらに約300メートルまで荒地が広がっており、その周りをこの辺の植物が囲んでいる。
はっきり言って異様な景色だ。一様な草原の中にポッカリと異世界が出現したように思える。迂回する様に歩を進める。
クレータの外周を半分くらいまで歩いた時だった。
フランス語のような少し上品な感じの声が聞こえたと思った次の瞬間、俺の足元に火球が着弾した。不幸中の幸いに火球はかすりもしなかったが、俺は着弾時の衝撃で3メートル程吹っ飛んだ。胸が早鐘を打つ。冷静になろうと努め、火球が飛んできた方向を見やると、岩石群地帯の岩陰から岩陰へ移動する人影らしきものを見付けた。
まさか、肉食動物の類に襲われるより先に現地人に襲われる羽目になろうとは…。しかし、俺には抗う術が無い。せめてこの拳が届く間合いでないと、俺には何もできないのだ。人影が消えた岩に意識を集中しつつ、ジリジリと後ずさる。後ろにはただ草原が広がるのみだが、幸運にも近くに藪があったのだ。人影が半身を岩から覗かせると、またしてもフランス語らしき言葉が聞こえた。
今度は一部始終が見えた。
人影が言葉を発すると同時に、岩から覗かせた半身の一部…おそらく手だろう…が眩く光り、そこに燃え盛る火球が現れた、火球は人影の手を離れると、一直線に俺の胴体目掛けて飛んでくる。しかし、すぐに動くべく身構えていた俺は、火球が放たれるとほぼ同時に横っ飛びに跳び、藪の中に突っ込んだ。
時間差で後方から轟音が聞こえる。思えば、最初の火球に比べて2倍以上の大きさがあったように見えた。しかし、今は後方確認より人影に集中する。藪の中に入ってみればわかるが、こちらから外を見るには問題なく、向こうから藪の中を確認するのは難しい。
人影は今度はフランス語のような言葉ではなく、スペイン語のような言葉を乱暴で早口に叫びながらこちらへ向かってくる。俺は第五匍匐の姿勢になり後退する。こんな時に、無駄な知識が役立つ。人影が近づくにつれ、それが俺たち地球人と変わらない見た目の“人”であることが確認できた。ある意味ショックだった。この星の人に偏見を持ってしまいそうだ。或いは、この一帯では紛争が起きているのかもしれないが、俺には関係ない。善良な異星人に対する仕打ちにしては酷いと思う。
その人物が藪の近くに到達する前に、岩石群地帯の方から別の声が聞こえた。俺を狙った人物はその声を聞くと慌てるようにして踵を返し、岩石群地帯へと走り戻っていった。俺は静かにふぅと溜息を吐き、そのままの姿勢で後退していった。
クレーターの外周から1キロメートル程距離を取った所で仰向けになる。ここまで第五匍匐で来たのだ、どっと疲労の波が寄せてきた。全身汗と草の汁と泥まみれだ。個人的な意見だが、さっきの俺よりも今の俺なら突然襲われても文句は言えなさそうだ。この状態では獣に見られても仕方がないだろう。
いつの間にか日も昇ってきていた。時刻を確認すると、もうすぐ13時半になろうとしている。1キロ移動するのに1時間も掛けていたらしい。俺には軍隊は無理そうだ。もっとも、入るつもりはないのだが。
俺は仰向けのまま体を休めながら、先ほどの人物を思い出してみた。見た目は地球人と変わらない。濃い茶褐色の肌の、おそらくは女性だった。服装は獣の毛皮を加工したものだったように思う。露出無く且つ動きやすそうな、それなりに身を護ってくれそうなものだった。
それにしても…だ。一番の驚きは襲われたことでも、現地人が地球人と変わらないことでもない。火球だ。あれは、俺が厨二症候群的なことを差し引いて考えても“魔法”としか思えない。ここでの正式名称はもちろん知らないが、一定の言葉によって物理現象を引き起こすなど、魔法としか言い様がない。いつも妄想していたにもかかわらず、目の前で実際に見てしまうと相当の驚きだった。
時刻14時。俺はまだ動けずにいた。怖いのだ。距離は取ったものの、攻撃魔法のようなものを平気で放ってくる者がまだどこかに潜んでいると思うと迂闊に動けない。しかし、いつまでもこのままでいる訳にはいかない。
そういったジレンマの中、殆ど無意識に「アトラスさん、助けて下さい」と心の中で呟いた時だった。またも心に響く声が聞こえてきた。
――我の加護を受けし者。
我を呼べばお前は消耗する。
初めに教えた事は覚えているな。
先ず、霊鳥王国ガルダの町外れにある書店の主を頼れ。
言語の事は心配ない。
我がお前に語るように、彼の者も語ることができよう。
先ほどの者共の事も心配ない。
この地では我の加護を受けし者に害を為すことはできん。
良いか。
我を呼ぶならば
霊鳥王国で彼の者に教えを乞うてからにするのだ。――
『アトラス』の声を聞くことで精神的には安心できたが、体を疲労感が襲う。これが『アトラス』の言う「我を呼べばお前は消耗する」ということなのだろうか。
あれほど歩いてきたのに疲労感は少なかった。それなのに今の疲労感はひどい。形容し難いほどに。無理に喩えるなら風邪をこじらせ高熱が出たあとの疲労感に似ている。その倍以上に体が重くだるい。俺はそのまま意識を失ってしまった。
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目覚めた時には既に18時を回っていた。4時間近く気を失っていたようだ。幸い、身体はどこも失っていないし丸焦げになってもいない。どうやら、俺を襲った人間は追撃を諦めたようだ。さっきの疲労感はファンタジー的な考えでいくと魔力の枯渇だったのだろうか。『アトラス』を呼ぶのは大魔力が必要なのかもしれない。今後は気を付けよう。
何にしても先を急ぐのが第一だ。俺はこの星のことを何も知らないし、正樹のことも気になる。書店の主という人物が『アトラス』の言うとおり力になってくれることを信じて今は進むしかない。
4時間近くも気を失っていたおかげで疲労感は嘘の様に無くなり、体力にも問題はない。天候は相変わらずの快晴だ。今は地球で言うところの午前9時前後だろうか。時折吹く風がカラッとした爽やかさで肌を撫でてくれる。自分が今ドロドロであるという事実を一時忘れさせてくれる程だ。今はまた元の歩みを取り戻し、ひたすら歩いている。
そんな俺の歩みに追随してくる者がいた。…白いリスのような小動物だ。『シール』の巨木がある林で見た種に色以外は似ている。先ほどの藪を出た時から付いてきているのだ。付いてくる他に何かをするわけでもなく、俺を襲う気配もない。すでに2時間以上歩いているが、ずっと付いてくる。何か懐かれる様なことをしただろうか。今は放っておくことにする。
更に1時間歩き、時刻は21時41分。俺は地べたに座り休憩をとることにした。すると、リスのような小動物も俺の傍らに寝そべった。正直、可愛い。このまま付いてこられると確実に情が湧くだろう。一体どうして付いてきているのか全く見当もつかないが、今のところ問題はない。いいさ。来たければずっと一緒に来ればいい。俺も一人でいる寂しさが紛れるというものだ。そんなことを考えたり、目的地を眺めて休憩した後、22時に再び歩き出した。
やはり、この星の一日は約36時間あるらしい。今、俺の真上に日が昇っており時刻は24時10分だ。俺の地球の時間とほぼ12時間のズレがあることになる。予想通りだったが、これに慣れるのは大変そうだ。
快晴の正午というと暑くてバテそうだが、そんなことはなく、昨日同様に北海道の初夏の陽気といった感じだ。とても気持ちが良い。俺が精神的に落ち込まずに済んでいるのは、心に響く声のおかげもそうだが、天候によるところも大きいと思う。
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俺は歩いた。ただひたすら。あの後、休憩は1度だけ取り、がむしゃらに歩いた。驚くことにリスのような奴も変わらず付いてきている。時刻はわからない。俺は正午の確認後スマホの電源を切った。12時間ずつズレる時刻を目安に計画を立てることもできるのだが、それよりもここの時間感覚に慣れることを優先した。今の空の色はオレンジだ。この星の夕焼けは長い。俺は日没まで歩くつもりでいた。もし途中に身を隠して休めるような場所があればそこで眠る。なければ日没後に藪で眠る。そういう行き当たりばったりな考えで言った方が、精神的にも楽なのだ。何もわからない地であれこれ計画を立てても精神的な負担になるだけだ。
目的地『霊峰ル・ガルド』は時間と共にその姿を変えていく。今は炎のような色に輝いている。この星に来てから何キロ歩いただろう。思えば、ずいぶんと近づいたものだ。ようやく、山の麓に広がる町が見えるようになっていた。山の裾野にここからでも分かる大きな建物があり、それより少し低い場所に町が広がっている。また、塀が町を取り囲んでいるようだ。そして、俺が今いる場所は広大な台地だった。少し先からはずっと下り坂が続いている。なるべく緩い傾斜を選んで歩かなければ、滑落しそうだ。
この眺めは、地球で家の近所の山から町を見たときに似ている。この台地の高さは眼下に広がる平野より200mくらい高いだろう。そして、あの町までの距離はおそらく50キロメートル以下だ。
あと半日…この星では三半日か。ようやくここまで来た。
この星では1日半だが、俺にとっては2日…いや、もっと長く感じた。ようやく目的地を間近に感じられるようになり、俺は急激な眠気に襲われる。近くにちょうど良さそうな藪を見つけたので、そこに身を隠すようにして横になった。リスのような奴も一緒に来ると、傍らで眠りにつく。
まどろみながら、俺は心に響く声の主達に改めて感謝した。
この星に来て右も左もわからない俺にアドバイスをくれた『アトラス』。進むべき方向を示してくれたことで、俺の心は強く在れた。実際どういうものかはわからないが加護もくれた。
一宿一飯の恩義のある『シール』。この星にきて初めて安心して眠ることができた。さらに、摩訶不思議な木の実のおかげで、空腹に悩むことなくここまで来れた。まだ二粒ある木の実は大切に持っておこう。
川の渡り方を教えてくれた『ラブラドル』。『アトラス』との上下関係がありそうだったが、おかげで無事に川を渡る事ができた。
ここへきても、俺は誰かのおかげで“生かされている”のだ。なんとありがたいことか。願わくば、正樹にもこの幸福があらんことを。
―そして俺は、しばし眠りについた。
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《勇樹が聞いた声の主達。
それは引き合う魂が齎す奇跡。
そして奇跡は心に響く声との出会いだけではない。
序幕に続く第1幕にて
それは語られる。
邪魔な語り手は再び身を隠すとしよう。
これより第1幕が始まる。》
第一幕は10月12日19時投稿の予定です。