前 いにしへの
時は平安、まだまだ貴族の時代だった頃。
京の外れをぱたぱたと走る女童がいた。
振り分け髪はとても艶やかで、黒目がちの瞳はぱっちりと大きい。誰が見ても非常に可愛らしいと評されるだろう彼女が向かったのは、さして大きくもない邸。
慣れた様子で門番に挨拶をして中に入ると、少女は迷いなくすたすたと歩いていく。
「鬼武え、遊ぼ!」
簀子に手をかけて勾欄の間から顔を覗かせ、喜々として呼びかける。その視線の先で、何やら書物を読んでいた少年が、静かにそれを置いて振り向いた。
「……竹姫。私の名前は鬼武じゃなくて、鬼武丸なんだけれど。いつになったら正しく呼べるの?」
ほんの少し眉根を寄せた少年は、今年で十一歳。竹姫よりも一つ年上だ。
「いいじゃない、鬼武の方が。あたし好きよ、鬼武って名前。いかにも武士らしくて」
「そういう問題じゃなくて……」
けろりと返した竹姫に、鬼武丸は疲れたような声を出す。きゃらきゃらと笑った竹姫は、ね、遊ぼともう一度催促した。ため息を一つ落としてすいと立ち上がり、鬼武丸は彼女に歩み寄ると再び腰を落とす。
「竹姫。仮にも貴族の御息女が、ここのような武士の家に来ちゃいけない。いつもそう言っているだろう?」
「ええ。そして最後にはいつも、遊んでくれるのよね」
全く動じずににっこりと笑った竹姫は、それはそれは愛らしくて。
どうやら今日も、海よりも深いため息をついた鬼武丸の負け。
ひょいと勾欄を飛び越えると、その外側のほんの狭い場所に立つ。片手で勾欄をつかみながら、彼は竹姫に手を差し伸べた。
「ほら、つかまって」
預けられた小さな手をしっかりと握って、細いながらも筋肉のついた腕に力をこめる。引っ張り上げた彼女の手を離して素早く腰に回し、しっかりと支えた。
「やっぱり鬼武ってすごいわ。どこにこんな力があるの?」
無邪気に喜ぶ竹姫に、鬼武丸は形の良い唇をほころばせて苦笑する。
「そりゃ、歌や手習いの練習だけしていればいい貴族の御子息方とは違って、私は武士の子だからね。鍛錬も積むさ。――でも、お願いだから早く中に入ってくれないかな?この体勢、結構つらいんだけど……」
ほぼ片手だけで二人分の体重を支えるのは、鍛えているとはいえきついものがある。
慌てた竹姫が勾欄によじ登ったのを確認すると、彼も再び身軽に飛び越えた。危なっかしく乗り越えようとしている彼女を支えて腰掛けるような体勢にさせると、その小さな足から草履を脱がせて簀子に伏せる。
腰を支えて抱き下ろすと、竹姫はまっしぐらに彼の部屋に入っていく。文机の上に置かれた書物を見て、大きな目がさらに大きく広がった。
「兵法の本、かな?すごい、難しいの読んでるのね」
「私もあと数年で元服だから。そろそろこういうことも始めないとね」
「ふうん」
面白くなさそうにうなずいた竹姫は、本人に了解も取らずにそれを片付けてしまう。代わりに隅の方にあった碁盤を持ってこようとしているが、力が足りずに引きずるような形になってしまっていた。
苦笑した鬼武丸が彼女から碁盤を受け取り、軽々と持ち上げて縁側にほど近い場所に据える。
「またこれ?いつも途中で機嫌が悪くなるくせに」
「いいの!」
飽きないなあと笑う鬼武丸に、竹姫がむきになって口答えをした。
「今日こそ負けないんだから!」
「はいはい」
二人で向かい合わせに座り、しばらく静かな時間が流れる。ぱちりぱちりと碁石を打つ音だけが響いていたが、さほども経たないうちに怒ったような声で破られた。
「ああああっ、もう!やめた!!」
「また竹姫のわがままが出た」
からかう響きを含んだ鬼武丸の言葉に、彼女は頬を膨らませて横を向く。
「だって負けるんだもの」
「手を抜いたって怒るくせに」
「だって、馬鹿にされてるみたいじゃない!」
じゃらりと石を崩して片付け始めてしまう竹姫に、鬼武丸も諦めてそれを手伝った。
「何をする?蹴鞠?貝合わせ?」
「貝合わせ!」
喜色を浮かべた彼女にうなずき、碁盤を持って立ち上がる。
「待ってて。母上からお借りしてくるよ」
「行ってらっしゃい」
元気な声に送られて、彼は裾をさばいて歩き出した。




