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第7話 傲慢な義弟との御前試合(瞬殺)

 北棟の寂れた裏庭から、建国神話に語られる伝説級の【星星の聖剣】を、ジャガイモの種芋を植えるついでに掘り当ててしまった翌日から。

 私は、メイドとしての本来の業務すら霞むほど、急激に忙しくなった。


 表向きはいつも通り、公爵邸の北棟で誰からも期待されずに雑務をこなすだけのモブメイド。

 だが、その実態は――。


『最推し(レオン様)絶対覇王化計画・教育環境超絶整備フェーズ』への突入である。


「まずは、あの偏屈な“剣聖ガレス・エルドラン”の現在の潜伏先を裏ルートで特定して……」

「同時に、レオン様の肉体改造のための【時空魔法庫】産・特級魔獣肉のストック補充(狩猟)も継続して……」

「食事の超絶バフ効果は維持しつつ、継母サイドの暗殺者や毒の混入ルートは、私の【お掃除魔法(空間自動浄化)】で24時間体制で完全ブロックして……」

「ついでに、レオン様のベッドの下に隠してあるあの物騒な聖剣が、エルザ夫人の犬どもに見つからないための【認識阻害】の家事魔法も定期的にかけ直して……」


 私は朝から、北棟のバルコニーでシーツをパンパンと干しながら、ぶつぶつと今後のプロデュース方針を頭の中で整理していた。


 やることが多い。多すぎる。前世のブラック企業時代の繁忙期すら可愛く思えるほどのタスク量だ。

 でも、めちゃくちゃ楽しい。


 だって、私の命に代えても尊い最推しが、私の手によって日々順調に、健やかに、そして最高に美しく育っているのだから。


 私がこの世界で記憶を取り戻すまでの以前のレオン様は、ひたすら理不尽に“奪われる側”だった。

 温かい食事も、安らかな眠りも、人としての尊厳も、輝かしい未来も。屋敷のクソみたいな大人たちによって何もかも勝手に奪われ、ただ暗闇の中で耐えるしかなかった。


 けれど、今は違う。


 少しずつだが、彼自身の力で、ちゃんと取り戻している。

 バフ飯で漲る体力を。

 沼地を霊薬の園へ変えたという自信を。

 そして何より、「自分はここにいていいのだ」「前に進んでいいのだ」という、人間としての当たり前の感覚を。


 その健気な変化が嬉しくて、私はもう毎日、彼の寝顔を見るたびにこっそり感動の涙をハンカチで拭っていた。


「……クロエ」


 不意に、背後から澄んだ鈴の鳴るような声で呼ばれて顔を上げると、バルコニーの入り口にレオン様が立っていた。


「あ、レオン様! おはようございます!」


 今日も圧倒的に顔が良い。国宝級の美しさだ。

 最近は本当に血色がよくなった。私の超絶バフ食事と、神聖結界での完璧な睡眠環境ってマジで偉大だ。氷のように蒼い瞳の奥に宿る強い光も、地下室で初めて会った頃の絶望に満ちたそれとは、もはや完全に別人のものになっている。


 ただ、一つだけ少し気になることもある。


 私を見つけると、前よりはっきりと、躊躇いなく近づいてくる。

 私が北棟にいないと、わざわざ本館の近くまで(結界の外に出てまで)探しに来る。

 そして、なぜかやたらと私の手や、エプロンの袖を、息をするように自然に掴むのだ。


 たとえば今も。


「……おはよう」


 短く挨拶を返した彼の白い手が、私のメイドエプロンの端を、きゅっと、絶対に離さないとでも言うようにさりげなく握りしめていた。


 うん、最高にかわいい。大型犬の甘えん坊みたいだ。

 でも、ちょっと私への依存度と執着心が、日に日に急上昇している気がしないでもない。まあ、推しに必要とされるのはファンとして最高の誉れなので、全く問題はないのだが。


「どうされました? 朝食にはまだ少し早い時間ですが、お腹が空きましたか? また【大剣牙猪】の極厚ステーキを焼きましょうか?」

「……違うよ。朝からそんな重たいもの食べられない」


 冷静にツッコミを入れつつ、レオン様は少しだけ表情を硬くした。


「……今日、あの男(公爵)が来る」

「はい?」


 私は一瞬、きょとんとした。


 公爵。つまり、レオン様の実の父親であり、アルヴェイン家の現当主。

 前妻(レオン様の生母)が死んでからというもの、エルザ夫人を後妻に迎え、レオン様を北棟に追いやって完全に放置し、継母の虐待を黙認してきた、諸悪の根源にして最大の無能父親だ。


「珍しいですね。北棟へ視察にいらっしゃるのですか?」

「違う。今日、本館の広い中庭で、義弟アルベルトの剣の稽古を視察するらしい」

「へえ……」


 そこまで聞いて、私のオタク特有の『イベント察知アンテナ』がビンビンに反応し、激しい嫌な予感がした。


 義弟――アルベルト。

 エルザ夫人が公爵との間に設けた息子で、レオン様より二歳年上の十歳(※原作設定)。

 ゲームでは、幼少期からレオン様を「呪われた無能」と見下し、ことあるごとに恥をかかせ、暴力を振るおうとしてくる、絵に描いたような三流の噛ませ犬ポジションだ。


 しかも今の時点では、エルザ夫人の工作もあり、周囲からは「元気で明るく、剣の才能にも恵まれた愛され次男」としてチヤホヤされているぶん、タチが悪い。

 自分より下だと思い込んでいる相手(レオン様)には、露骨に残酷に振る舞う、典型的な虎の威を借る狐タイプである。


「……それで、レオン様もその中庭へ呼び出されたのですか?」

「……うん。父上からの直接の命令で、『お前も兄として、弟の稽古を見学して学べ』って」

「うわぁ……絶対にろくでもない、陰湿な嫌がらせイベントの匂いしかしませんね」

「たぶんね」


 レオン様も、私のゲーマー用語イベントをスルーして、静かに同意した。


 私は、彼に握られているエプロンの裾ごと彼の手を握り返して安心させたい衝動をグッとこらえながら、高速で脳内会議を開いた。


 無能な公爵が来る。

 甘やかされた義弟の剣の稽古がある。

 その場に、わざわざ冷遇しているレオン様も呼び出す。


 どう考えても、ただの見学ではない。

 “二人を公の場で比較して、レオン様を徹底的に貶めるための舞台装置”だ。


 原作ゲームでも、序盤にこれと全く同じ胸糞イベントがあった。

 義弟アルベルトが、わざと公爵や大勢の騎士たちの前で優秀さ(※大したことない)を見せつけ、その直後に「兄上もやってみろ」とレオン様を無理やり円の中に引きずり出す。

 満足な食事も与えられず、体調不良(毒)で剣すらまともに振れないレオン様は、義弟に一方的に打ち据えられ、公爵から「お前には剣の才能すら欠片もない、アルヴェイン家の恥だ」と吐き捨てられる。

 そこから、屋敷内での侮辱や嫌がらせがさらに加速していくという、レオンルートにおける最悪のトラウマ形成イベントだ。


 だが。


 今のレオン様は、あの悲惨な原作のレオン様とは、文字通り『次元』が違う。


 毎日、私の錬成した超絶バフ飯(特級魔獣肉)を限界まで食べている。

 神聖結界の中で、呪いも瘴気も一切ない完璧な睡眠をとっている。

 毒の摂取量はゼロ。

 しかも、伝説の【星星の聖剣】の持ち主として適性を認められ、魔力回路は完全に開通している。

 何より、私が横から見ている限り、彼が裏庭で自己流の素振りをしている時のあの木剣の軌道と速度は、すでに騎士団の熟練兵士すら凌駕する尋常じゃない威力を誇っているのだ。


 つまり――。


「レオン様。これ、向こうの罠に見せかけた、私たちにとっての最高の『逆転チャンス(ざまぁイベント)』では?」


「……チャンス?」


 レオン様が、不思議そうに小首を傾げる。


「はい。もし向こうが、公爵様や大勢の騎士たちの前でレオン様を痛めつけて恥をかかせるつもりで舞台を用意してくれたのなら。逆に、レオン様が彼らを圧倒的な実力でねじ伏せて、分からせるための最高のステージになります」


 私はぐっと拳を握り、悪魔のようにニヤリと笑った。


「今のレオン様なら、あのふんぞり返っている連中の度肝を抜くことができます。完全勝利です」

「……でも、僕はまだ、誰からも正式に剣を習ってない。ただクロエが見ている前で、木の枝を振っていただけだ」

「才能と地力が違います。レオン様は天才ですから」

「クロエは、僕のことになると、すぐにそうやって大袈裟に言う」

「大袈裟じゃありません。ただの真実と、推しへの客観的な評価です」


 私が迷いなくにっこりと断言すると、レオン様は少しだけ目を伏せ、握っていたエプロンの端をさらに強く握りしめた。


「……もし、僕が失敗して……無様に負けたら?」


 その声は、消え入りそうに小さかった。

 相手が強いから怖い、という自信のなさではない。

 “私の期待を裏切って、私が自分に失望して離れていってしまうのが怖い”という、切実な響きだった。


 私はその震える声を聞いて、胸がきゅっと締め付けられた。


 そうだよね。

 この子はずっと、親からも周囲からも、何かをやる前から「どうせお前は呪われた無能だ」と決めつけられ、踏みにじられてきたんだ。

 彼にとって、失敗することそのものの痛みより、失敗した時に浴びせられる「やっぱり駄目だったな」という冷たい言葉や、見捨てられる視線の方が、ずっとずっと恐ろしいトラウマになっているのだろう。


 私はレオン様の前へスッと回り込み、彼の目線に合わせて優しくしゃがみ込んだ。


「失敗しても、全く問題ありません。私が許します」

「……え?」

「最初から何でも完璧にできる人なんていません。負けたら負けたで、次に勝つための教訓にすればいいだけです。でも――私は、今のレオン様が、昨日より、一週間前より、ずっと強く、逞しくなっていることを、誰よりも一番近くで見て知っています」


 私の言葉に、氷のように蒼い瞳が、揺れながらじっと私を見つめ返す。


「だから、絶対に大丈夫です」

「……大丈夫?」

「はい。もしあの馬鹿げた大人たちが、結果を見て何か酷いことを言ってきたら、私が心の中で彼らの髪の毛を一本残らず毟り取って、末代まで呪われるように全力で罵倒しておきますから」

「……心の中なんだ」

「表に出してメイドが暴れたら、物理的にクビになってレオン様のお側にいられなくなるので」


 私が大真面目な顔で答えると。

 レオン様の口元が、ほんの少しだけ、ピクッと動いた。


「……ふっ」


 笑った。

 声も出ないほどの小さな笑みだったけれど、確かに、彼の顔から強張った緊張が抜け落ちていた。


 私は内心で特大のガッツポーズをした。

 よし。緊張、ほぐれた。推しの笑顔、プライスレス。


「あと、一つだけアドバイスです」

 私は少しだけ声を落とし、悪い顔で囁いた。

「無理に勝とうとして、怪我をする必要はありません。でも……もし相手が、明確な悪意を持ってレオン様を傷つけようとしてきた時は、一切の遠慮なく、全力でやり返してください」

「……やり返して、いいの? 相手は、母様が可愛がっている義弟だよ?」

「もちろんです。自分の身を守ることは、絶対に悪いことじゃありません。むしろ、売られた喧嘩は倍の利子をつけて買い取るのが、覇王への第一歩です」

「はおう……?」


 それを聞いたレオン様は、しばらく黙っていた。

 やがて、私のエプロンの端を掴む手に、強い決意を込めるようにギュッと力を込める。


「……わかった。やり返す」

「はい、その意気です!」

「クロエが、僕を見ててくれる?」

「もちろんです! 瞬き一つせずに!」


 むしろ、最前列の特等席で見ますとも。

 オタクの全力応援(うちわとペンライト完備)モードで。


 そうして迎えた、運命の午後。


 アルヴェイン公爵邸の広大な本館中庭には、騎士たちの訓練用として、白い砂を敷き詰めた広々とした円形の模擬戦スペースが設けられていた。

 周囲には、公爵家の名のある騎士見習いたちや、高位の使用人たちがズラリと集まり、どこか「次男坊の接待試合」を楽しむような、浮ついた空気が漂っている。


 その特等席の中央には、この屋敷の絶対権力者である公爵が、偉そうにふんぞり返って座っていた。


 立派な髭と威厳のある顔立ちではあるが、その目は冷たく、底が浅い。

 自分の正統な嫡男が地下室でどんな悲惨な扱いを受けてきたか見ようともせず、エルザ夫人に唆されて都合のいい次男だけを可愛がる、典型的な『無能な権力者』の顔だった。


 その隣には、今日も毒々しいドレスを着飾ったエルザ継母。

 そして、円形の砂場の中央で、得意げに新品の立派な木剣を肩へ担いだ、丸々と太った義弟・アルベルト。


「父上、ご覧ください! 本日の稽古では、ただの素振りだけでなく、年上の騎士見習い相手にも一歩も引かずに勝てるところをお見せいたします!」


 変声期前の甲高い声が、中庭に響く。

 周囲の取り巻きの騎士たちは「おお、さすがはアルベルト若様!」「十歳にしてその体格、将来は王国騎士団長も夢ではありませんな!」と、見え透いた調子のいいお世辞と相槌を打つ。


 私は、見物する使用人たちの列の一番後ろで、にこやかなモブメイドの営業スマイルを完璧に保ちながら、内心で激しく毒づいていた。


 うるさいなこいつ。口の肉から落とせよ豚。


 アルベルトは年齢のわりに横に体格がよく、装備も無駄に上等だ。

 ただの木剣での稽古だというのに、わざわざ高価なミスリル鋼が編み込まれた見栄えのいい軽鎧を着込み、手にしている木剣も、名工が削り出した重さのバランスが良い特注品を使っている。


 一方、私の推しであるレオン様は、北棟の私室からそのまま連れてこられたような、装飾の一切ない簡素なシャツとズボン姿。

 最近でこそ私の(裏金による)手配で、清潔でサイズの合ったまともな衣服を着られるようになったが、それでも隣に並ぶ義弟の豪華な装備とは、扱いが段違いだった。


 やがて、アルベルトが騎士見習い(※明らかに手加減してわざと負けてあげている接待要員)を相手に軽く模擬戦を終え、得意満面で振り返った。


「どうでしたか、父上! 私の太刀筋は!」

「うむ。悪くない。非常に力強く、公爵家の血筋にふさわしい素晴らしい剣撃だったぞ、アルベルト」


 公爵が、満足げに深く頷く。


 それを見たエルザ夫人は、勝ったも同然とばかりに扇で口元を隠し、「オーホッホ」と下品に笑った。

 完全に、台本通りのつまらない茶番劇である。


 そして――案の定。

 次の瞬間、アルベルトはにやにやといやらしい笑みを浮かべながら、見学の列の隅に静かに立っていたレオン様の方へと振り返った。


「そういえば、そこに兄上もいるんだったな。影が薄すぎて気づかなかったよ」


 来た。


「せっかく父上がお忙しい中おられるんだ。ただ突っ立って見ているだけじゃなく、兄上も円の中に入って、僕みたいに剣を振ってみたらどうだ?」

「アルベルト様、それは……レオン様は剣の訓練など一度も……」

 と、まともな神経をした一人の騎士が止めようとしたが、エルザ夫人がすぐに冷たい声で口を挟んだ。


「あら、いいではないの。兄として、弟の立派な姿を見て大いに励みになるかもしれないわ。それに、彼もアルヴェイン家の名を継ぐ『嫡男』だと言うのなら、剣の一振りくらいできなければ、お飾りの無能として笑われるだけですものね?」

「……そうだな。レオン、前に出ろ。アルベルトの胸を借りて、少しは稽古をつけてもらえ」


 公爵までが、レオン様の体調や実力差など一切考慮せずに無情に頷いた。


 はい、出来レース確定。


 私は一瞬で理解した。

 最初から、この親子(公爵以外)はこうするつもりだったのだ。


 わざわざ当主である公爵や騎士たちの前でレオン様を無理やり引きずり出し、圧倒的な装備差と体格差でボコボコにして、みっともなく逃げ惑う姿を晒させる。

 そして、「やはり前妻の子(嫡男)は救いようのない無能だ。次期公爵はアルベルトにふさわしい」と印象づけるための、完全な嫌がらせの儀式。

 控えめに言って、反吐が出るほど性格が悪い。


「どうした兄上、まさか弟の僕が相手でも、怖くて逃げるつもりじゃないよな?」


 アルベルトが、木剣の切っ先をチャラチャラと揺らしながら、レオン様へ向けて下品に笑う。


 その豚のような顔には、絶対的な確信があった。

 自分がこの貧弱で哀れな兄に負けるはずがない。圧倒的に勝って、優越感に浸れると信じて疑っていない、浅ましい顔だ。


 レオン様は、しばらくの間、無言で俯いていた。

 周囲の視線が一斉に彼に集まる。

 嘲り、好奇心、哀れみ、そして大半の冷たい無関心――様々な負の感情が混ざった重い目。


 けれど、彼は。

 ゆっくりと顔を上げ、静かに、そして誰よりも堂々とした足取りで、前へ出た。


「……やる」


 ざわり、と。

 その声のあまりの冷たさと静けさに、中庭の空気がわずかに揺れた。


 私は、息を呑んで見つめた。


 レオン様の背筋は、一本の鋼の糸が通ったようにまっすぐだった。

 ほんの二週間前まで、こんな敵意に満ちた場では、ただ怯えて俯き、震えることしかできなかった小さな少年が。

 今は、ちゃんと自分の足で、堂々と決闘の円の中へ入っていく。


 その頼もしい一歩を見ただけで、私の涙腺は決壊しそうなくらい胸がいっぱいになった。


「はっ、威勢だけはいっちょ前だな! 兄上、木剣でいいのか? ああ、北棟にはそんなものないか。可哀想だから、僕の使い古しを貸してやってもいいぞ!」


 アルベルトが見下すように嘲笑う。


 すると、横にいた騎士から、稽古用の安い予備の木剣が一本、ぞんざいにレオン様の足元へ向けて放り投げられた。

 レオン様はそれを、空中で片手で無造作にパシッと受け取り、静かに、流れるような動作で中段に構えた。


 その木剣の構えは、剣聖のような完成された洗練さはない。

 けれど、一切の無駄がなかった。

 肩の余計な力が完全に抜け、重心が大地に根を張ったようにピタリと安定している。何より、木剣の切っ先が全くブレていない。


 あ、これ。

 素人目でもハッキリわかる。

 『やばいやつ(絶対的強者)』の構えだ。


 私は、エプロンを強く握りしめ、完全にアドレナリンが沸騰してテンションが限界突破した。


 いける。

 これはいける。

 うちの推し、たぶん相手を秒殺できる。


「……双方、構え! 始めッ!!」


 審判役の騎士の、合図の号令が飛んだ。


「オラァッ!!」


 アルベルトは、号令と同時にはしたない奇声を上げ、すぐさま力任せに踏み込んだ。

 年上で体格も上。勢いと体重任せではあるが、普通の八歳児相手なら一撃で骨を折るには十分すぎる脅威だ。しかも本人は、完全に“格下の無能を潰す”という明確な悪意を持って、レオン様の顔面を狙って全力で木剣を振り下ろしてきている。


 ブンッ! と、重い木剣が空を裂く。


 だが、レオン様は表情一つ変えず、ただ半歩だけ、スッと後ろへ引いてかわした。


 おおっ。綺麗。


「チィッ! 逃げるな!」


 続けざまに、怒りに任せて二撃、三撃。

 アルベルトは得意げに連続で荒々しく打ち込むが、そのたびにレオン様は、まるで風に舞う木の葉のように、ミリ単位の最小限の動きだけで全てを完全に回避する。

 まだ一度も、自分の剣を振って反撃しない。

 ただ、氷のように冷たい目で、相手の愚直な動きを見ている。まるで、低次元な魔獣の攻撃パターンや軌道を分析するみたいに。


 周囲の騎士や使用人たちが、異変に気づいてざわつき始めた。


「……おい、見たか? 今の」

「全部避けたぞ……? あの貧弱な嫡男様が、アルベルト様の全力の連撃を……」

「いや、でも防戦一方で押されているのでは? 逃げているだけだ」


 余裕の笑みを浮かべていたエルザ夫人の眉が、不快そうにピクリと動く。

 アルベルトも、自分の渾身の一撃がただの一度も当たらないことにだんだん苛立ってきたのか、顔を茹でダコのように真っ赤にして激昂した。


「ちょこまかと! 逃げ回るしか能がないのか、この呪われ――」


 怒りで視野が狭くなり、攻撃が極端な大振りになる。

 致命的な、隙だらけの胴体。


 私は、思わず両手を胸の前で強く祈るように握りしめた。


 今。

 今です、レオン様。やっちまってください。


 その瞬間。


 ずっと後ろに引いていたレオン様の右足が、初めて、一歩だけ『前』へ踏み出された。


 ふわり、と。

 まるで重力という概念が存在しないかのように見えた。


 軽い。

 一切の力みがない。

 私が毎日作るバフ飯で鍛え上げられた無尽蔵の魔力と筋力が、瞬時に木剣へと伝達される。

 今まで、裏庭でたった一人で木の枝を振って素振りしてきた、あの洗練された神速の軌道が、そのまま現実に顕現したみたいだった。


 安い木剣が、アルベルトの胴へ向けて、下から上へスッと薙ぎ払われる。


 ただ、それだけの、ごくシンプルな動作だった。


 なのに――。


 バシィィィィィィィンッ!!!!


 落雷でも落ちたかのような凄まじい破裂音と共に、空気が、空間ごと真っ二つに裂けた。


「……え?」


 公爵か、あるいは騎士の誰かが、間抜けな声を漏らす。


 次の瞬間、アルベルトの握っていた高級な木剣が、目にも止まらぬ速度で空高く――遥か彼方の屋根を越えるほどの高さまで――弾き飛ばされた。

 いや、弾き飛ばされたどころではない。アルベルト自身が、手首に受けた尋常ではない衝撃によって、身体ごと空中で半回転させられ、両足が完全に地面から浮いた状態になっている。

 彼は、何が起きたのか理解できず、空中で一歩も踏み込めないまま完全に固まっていた。


 そして。

 レオン様の木剣の切っ先は、空中で硬直するアルベルトの喉元、皮膚に触れるか触れないかの数ミリ手前で、ピタリと、一ミリのブレもなく完全に止まっていた。


「……っ」


 着地したアルベルトの豚のような顔から、一瞬にして全ての血の気が引いて真っ青になった。


 周囲が、水を打ったように静まり返った。


 風の吹く音すら止まったかのような、絶対的な沈黙の中。

 私はただ一人、心の中で、スタジアムの観客全員分の熱量で絶叫していた。


 勝ったあああああああああああああああ!!!!


 しかも美しい!

 無駄な暴力を使わず、圧倒的な実力差(次元の違い)を見せつける、めちゃくちゃ美しくて残酷な勝ち方!!


 アルベルトは、本当に何が起きたのか全くわかっていない顔をしていた。

 それもそのはずだろう。彼には、まともに打ち合った実感すら一秒もなかったはずだ。自分が完全に攻め立てて、相手を追い詰めていると思った次の瞬間、見えない速さの一撃で武器を弾き飛ばされ、気づけば自分の喉元に死神の鎌(木剣)を突きつけられていたのだから。


「う、うそだ……!」


 義弟の喉の奥から、ヒュッと引き攣った声が震える。


「こ、こんなの、今のは、ただの偶然――!」


 負け惜しみを言い終わる前に。

 レオン様の冷たい瞳がスッと細まり、突きつけていた木剣の切っ先が、アルベルトの喉元へ向けて、ほんの数ミリだけ「クッ」と動いた。

 まるで、「次喋れば、このまま喉を貫くぞ」という、明確な殺意と威圧を伴って。


 それだけで。

 アルベルトは「ヒィッ!」とビクッと肩を跳ねさせ、恐怖で後ずさった拍子に自分の足をもつれさせた。


 ドサッ。


 真っ白な砂の上に、情けなく、カエルのように尻餅をつく。


 さらに、その瞬間。

 彼の豪華な軽鎧の下、ズボンの股間のあたりから、じわりと温かい色の染みが広がり、砂の上にポタポタと水滴が落ち始めた。


「…………」


「…………」


 中庭の空気が、完全に、絶対零度に凍りついた。


 私は、目を見開いて口元を手で覆った。


 えっ。

 まさかの。


 アルベルト本人も、自分の股間の惨状に気づいたらしく、顔を真っ赤どころか土気色の死人のように変えて、ガタガタと震えながら身を縮める。


 失禁。

 した。

 圧倒的な強者への、純粋な恐怖で。

 十歳にもなって、大衆の面前で。


 うわぁ……。


 いや、自業自得だし一ミリも同情はしないけど。これは流石に精神的ダメージ(ざまぁ)がデカすぎる。


 沈黙を破り、エルザ夫人が発狂したような、悲鳴に近い金切り声を上げる。

「ア、アルベルト!! ああ、なんてこと! すぐに着替えを! 誰か、早くこの子を中へ連れて行きなさい!!」

 公爵は、完全に口を開けたまま絶句して硬直している。

 周りの騎士たちも使用人たちも、あまりの衝撃的な結末と、次男の醜態に、誰一人すぐには言葉を発せず、目を泳がせている。


 その混乱と恥辱の中心で。

 レオン様だけが、ただ一人、恐ろしいほどに静かだった。


 ピタリと止めていた木剣をゆっくりと下ろし、砂の上で泣き濡れる相手を、ただ淡々と、ゴミでも見るような冷ややかな目で見下ろしている。

 怒鳴りもしない。

 勝ち誇って笑うこともしない。

 ただ、冷酷なまでに「お前と僕とでは、そもそも生きている次元が違う」という結果だけを無言で突きつけるその姿は――。


 ゾクリとするほど、威厳に満ちて、美しかった。


 私は、危うくその場で地面に額を擦り付けて平伏しそうになった。


 なにこれ。

 私の推し、強すぎる。

 強くて、冷酷で、美しくて、最高すぎるんですが!?


 その瞬間、私はもう、オタクとしての情動を我慢できなかった。


「さっすがレオン様ーーーッ!!」


 パンッ! と、静まり返った中庭に、私が力いっぱい両手を打つ拍手の音が響いた。


 しまった、と一瞬我に返った時にはもう遅い。

 公爵も、エルザ夫人も、騎士たちも、皆の視線が一斉に最後列にいる私へと突き刺さる。


 でも、推しが最高に輝いているこの瞬間、オタクの称賛はもう止められない。

 私は近くの洗濯物カゴにあった白い布を咄嗟に丸めて掴み、即席の推し応援うちわ(ペンライト)みたいに頭上で激しくブンブンと振った。


「お見事でした! 圧倒的です! さすがはアルヴェイン公爵家の真の嫡男様! すっごくかっこいいです!!」


 場違いなほど明るく、鼓膜を突き破るような称賛の叫びが、中庭中にこだまする。


 静寂。

 エルザ夫人の殺意の視線を伴う、ものすごい静寂。


 だが、その張り詰めた沈黙を破ったのは――。


 ふっ、と。

 小さく、本当に小さく息を吐き出す音だった。


 レオン様だ。


 彼は、私の奇行に一瞬だけ目を丸くして驚いた後。

 ほんのわずかに、本当にわずかに、硬く結ばれていた口元をふわりと緩めた。


 笑った。


 圧勝して、初めて。

 他でもない、私の馬鹿みたいな声を聞いて、少しだけ。


 その神がかった破壊力を持つ一瞬の微笑みに、私の心臓は完全に、致死量の矢で撃ち抜かれた。


 だめ、無理。

 尊すぎて私のHPがゼロになる。


「こ、こ、こんなものはまぐれだ! 偶然木剣が当たっただけだ!!」


 騎士に抱えられながら、泣き喚くアルベルトが惨めに喚く。

 だが、恐怖で涙と鼻水(と尿)にまみれたその声は震えきっていて、誰の耳にも説得力など一欠片もなかった。


「……そうだな」

 と。

 不意に低く、重い声で言ったのは、今まで絶句していた公爵だった。


 全員の視線が、ビクッと当主の言葉に引き寄せられる。


 公爵は、信じられないものを見るような顔で、レオン様をまじまじと見つめていた。

 その目は、これまで「どうせ前妻の産んだ無能だ」と決めつけて放置してきた己の愚かさを恥じるような、初めて『真の才能を持つ自分の息子』を直視したような顔だった。


「もう一度、勝負をやり直せ……と言いたいところだが」

 彼は、泣き叫ぶアルベルトから目を逸らし、言葉を切る。

「……必要ない」


 その短い、断絶の一言だけで、空気が完全に変わった。


 つまり、公爵は公の場で完全に認めたのだ。

 少なくとも今の一撃が、偶然やまぐれなどではなく、明確で圧倒的な『才能と技量の差』から生まれた、完全勝利であると。


 エルザ夫人の顔が、屈辱で般若のようにひきつる。

 アルベルトは、父親に見捨てられたことに気づき、絶望で唇をわななかせて泣き崩れた。完全な、完膚なきまでの『ざまぁ』の達成である。


 対して、レオン様は勝ち誇ることも、公爵に媚びることも一切しなかった。

 ただ静かに、借り物の木剣を放り投げ、審判役の騎士に一礼だけして、一切振り返ることなくその場を下がった。


 私は慌てて、周囲の殺気立った視線を背中に受けながら、レオン様の後を小走りで追う。


「レオン様! 本当に、本当にすごかったです! 感動しました!」

「……全部、聞こえてたよ。あのうるさい声」

「当然です! 観客席の誰よりも全力で応援しましたから!」

「……すごく目立ってた。母様が殺しそうな目でクロエを睨んでたよ」

「しまったとはミリ単位で思ってます! 今夜は自室に厳重な防犯結界を張って寝ます!」


 でも、後悔など一ミリもない。

 推しの晴れ舞台に歓声を上げないオタクなどいないのだ。


 中庭の喧騒を離れ、人気のない、夕陽が差し込む静かな北棟の廊下へ入ったところで、前を歩いていたレオン様が、ふいにピタリと足を止めた。


「クロエ」

「はい?」

「……勝ったよ」


 振り返ったその顔には、今まで自分を抑圧してきた強者を打ち倒したという、まだ信じられない、という高揚感の色が少しだけ残っていた。


 私は、心からの優しい笑顔を向ける。


「はい。誰の目にも明らかな、圧倒的な完勝です」

「僕が、勝てた」

「レオン様が、ご自身の力で証明したんです」


 そう言い切ると、彼はしばらく黙って、自分の両手を見つめていた。

 それから、ぽつりと、本音を呟く。


「……本当は、すごく怖かった。また無能だって笑われて、お前には生きる価値がないって言われるのが、たまらなく怖かった」

「……はい」

「でも。クロエが、あそこでずっと僕を見てるって思ったら……不思議なくらい、身体が勝手に動いたんだ」


 その言葉に、私は一瞬、息を止めた。


 静かな廊下。

 オレンジ色の午後の光。

 その中で、レオン様の蒼い瞳だけが、世界でたった一つの宝物を見るように、まっすぐ私だけを映していた。


「……だから」


 彼は少しだけ迷うように目を伏せ、それでも、強い意志を持って続けた。


「もっと、強くなる。あの男(公爵)にも、誰にも、二度と僕たちの運命を邪魔させないくらい、圧倒的に」


 胸が、熱く、甘く締め付けられる。


 ああ、本当に。

 この子は、私が守るべきか弱い存在から、自らの手で運命を切り開く覇王へと、ちゃんと前へ進み始めているんだ。


「はい」


 私は、彼の手を両手で包み込み、力いっぱい頷いた。


「レオン様なら、絶対に、世界で一番強くなれます」

「……うん」

「自己流でこれなんですから、次はもっとちゃんとした、最強の剣の先生を用意しますからね! 楽しみにしていてください!」

「クロエ」


「はい?」


「……ありがとう。あなたがいてくれて、本当によかった」


 それは、とても小さな声だった。

 でも、地下室で出会った日から今日までの中で、一番はっきりとした、心からの重い“ありがとう”だった。


 私は笑顔のまま、心の中でガッツポーズを突き上げる。


 よし!

 対外的実績(武力)、圧倒的スコアで追加。

 公爵への印象改善(というより恐怖の植え付け)、大成功。

 義弟と継母へのざまぁ、歴史に残るレベルで最高。

 そして何より、レオン様の自信が大きく育った。


 完璧すぎるのでは?


 ――この日を境に、アルヴェイン公爵邸での空気力学は、さらに激変することになる。


 北棟の嫡男レオンは、ただ耐えるだけの病弱な無能ではない。

 木剣一本で、手加減なしに年上の弟を圧倒し、恐怖で失禁させるほどの恐ろしい実力と冷酷さを持った『化け物』なのだと。


 それはまだ屋敷の中だけの小さな波紋だったが、確実に、そして急速に広がっていった。


 そして同時に。

 レオン様の心の中にも、また一つ、ある確かな、そして取り返しのつかない感情が深く積み重なっていく。


 暗闇で怯える自分を信じ。

 背を押し。

 自分の勝利を、自分のこと以上に大声で、誰よりも喜んでくれる唯一の少女。


 その彼女の存在が、どれほど甘く、どれほど深く、呪いのように自分を満たしていくのかを、彼はまだ正確な言葉で定義できなかった。

 けれど、確実に、骨の髄まで理解し始めていた。


 自分はもう、彼女の瞳が自分に向けられていない世界(場所)には、絶対に生きては戻れないのだと。


 ……もちろん、その頃のポンコツな私は、彼のそんな激重な依存と執着心にはまったく気づかず。

 ただひたすら、別の意味で大興奮して浮かれていたのだけれど。


 やった……! やりましたよ!

 推しが御前試合で、まさかのノーダメージ圧勝!

 しかも冷静に瞬殺して、あのクソ生意気な義弟に完璧な『おもらしざまぁ』まで決めた!

 最高、最高すぎる……! この調子で、目指せ世界最強!!


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