第5話 【草むしり魔法】で不毛の地が霊薬の園に
私が裏山でチート狩猟を繰り広げ、レオン様の食事を完全無欠のバフ飯に変える『超絶食事改革』を始めてから、およそ二週間。
広大で冷え切ったアルヴェイン公爵邸、その最奥にある北棟の周辺では、小さな異変のさざ波が静かに、しかし確実に積み重なっていた。
「……ねえ、最近、北棟の嫡男様の顔色、なんだかすごく良くない?」
「気のせいでしょ。あんな呪われた部屋で、ろくな食事も与えられずに暮らしてるのよ? いつお亡くなりになってもおかしくないって、メイド長も言ってたわ」
「でも私、この前、裏庭で嫡男様が木の枝を振ってるのを見たのよ。その時の目つきが……なんていうか、すごく綺麗で、恐ろしかったの。空気がビリッて震えたような気がして……」
「やめなさいよ! エルザ奥様や義弟君の耳に入ったら、面倒なことになるわ。私たちは何も見なかった、それでいいのよ」
朝の廊下の片隅で交わされる、使用人たちのひそひそ話。
公然と口にはしないものの、誰もが何かの「決定的な変化」を感じ始めている証拠だった。
ガリガリに痩せ細って、いつ死んでもおかしくないと思われていた、公爵家の正統な嫡男。
そのレオン様が、ここ最近で目に見えて、劇的に変わってきていたのだ。
幽霊のように青白かった頬には健康的な血色が戻り、折れそうだった手足にはうっすらとだがしなやかな筋肉がつき始めている。
俯きがちだった歩き方は、公爵家の血筋を感じさせる堂々としたものに安定し、そして何より――あの子はもう、ただ理不尽な暴力に怯えて絶望しているだけの、弱い少年ではなくなり始めていた。
私は廊下の角で、エプロンの埃を払うふりをしながらその噂話を聞き流し、内心でふんすっと得意げに胸を張った。
当然です。
だって私の血と汗と魔力(と時空魔法庫の裏山産・高級魔獣肉)の結晶たる『推し育成計画』が、今まさに順調に推移しているのですから!
……とはいえ、順調に育ち、周囲の目を惹き始めているからこそ、厄介な新たな問題も湧いて出てくるのが乙女ゲームのシナリオというものだ。
「クロエ」
不意に、澄んだ涼やかな声で名を呼ばれ、私はぴんと背筋を伸ばして振り返った。
「はい、レオン様!」
そこには、今日も国宝級に麗しい私の最推しが立っていた。
まだ八歳のあどけなさを残しつつも、最近は切れ長の目元に、氷の刃のような芯の強さが宿り始めている。私が毎朝ブラシで丁寧に整えている銀灰色の髪は、窓からの光を反射してキラキラと輝き、以前よりずっと「高貴な人間」らしい、圧倒的なオーラを放っていた。
尊い。
今日も推しの顔面が良くて、空気が美味しい。大地の恵みに感謝。
「……また、何か変なこと考えてるでしょ」
「えっ? 考えてませんよ? 今日のランチのメニューくらいしか!」
「顔に出てる。すごく、ニヤニヤしてる」
少し呆れたみたいに小さなため息をつかれて、私は慌てて緩みきった頬の筋肉を引き締めた。
最近、レオン様はほんの少しだけ口数が増えた。
地下室で出会った頃なら、必要最低限の言葉しか発さず、ただ怯えるだけだったのに。今では、私に対してだけは、短くてもちゃんと自分の意思や感情を返してくれるようになっている。
その信頼されているという変化が、オタクとしては嬉しくてたまらない。
「本日はお天気がよろしいので、お庭を散歩されますか? お茶もお持ちできますよ」
「……それもいいけど。その前に」
レオン様が、そこでスッと表情を消し、言葉を切った。
彼の氷のような蒼い瞳が、私の肩越し――廊下の向こう側を、射抜くように見つめている。
その視線の先には、毒々しいほど派手なドレスに身を包んだ、ひとりの中年女が立っていた。
エルザ公爵夫人――レオン様の継母だ。
相変わらず過剰に飾り立てた宝石の数々に、他者を見下す冷たく傲慢な目。
その後ろには、丸々と太って意地の悪そうな顔をした義弟と、夫人の取り巻きである使用人たちが数人、ぞろぞろと付き従っている。
いかにも“嫌な予感と面倒事しか運んでこない最悪の集団”である。
私は反射的に、レオン様を庇うように半歩前に出た。
そんな私の無意識の動きを見て、エルザ夫人の真っ赤な口元が、醜く歪む。
「まあ。飼い主に媚びる、忠犬のような薄汚いメイドですこと」
吐き捨てるような、嫌味ったらしい声。
私ははらわたが煮えくり返りそうになるのを必死に抑え、三十代元社畜の完璧な営業スマイルを顔面に貼り付けた。
「恐れ入ります、エルザ公爵夫人様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「ふんっ。お前のような下賤の者に用はないわ」
彼女は露骨に不快そうに鼻を鳴らし、それから、以前とは見違えるように立派に育ち始めているレオン様へ、ねっとりとした蛇のような視線を向けた。
「レオン。お前、最近少しばかり顔色が良くて、元気そうではないの。……生意気にも。だから特別に、公爵家の当主代行であるこの私が、お前にも素晴らしい『仕事』を与えてあげようと思ってね」
絶対に、ろくでもない話だ。
私が心の中で警戒レベルを最大値のレッドゾーンに引き上げたその時。夫人の背後にいた義弟が、小馬鹿にするようにくすくすと下品な笑い声を上げながら言った。
「北の沼地を開拓しろってさ。お前みたいな呪われた奴には、お似合いの泥遊びだろ!」
――来た。
私は一瞬で思い出した。
原作ゲームの序盤から中盤にかけて発生する、レオン様を徹底的に追い詰める悪辣な嫌がらせイベントの一つ。
“呪われた北の底なし沼の開拓”だ。
公爵領の最も外れにある、不毛で致死量の瘴気に満ちた広大な沼地。
人も家畜も近づけず、作物など雑草一本まともに育たない完全な『死に土地』であり、過去に歴代の当主たちが何度も莫大な資金と人員を投じて開拓を試みては、犠牲者を出して失敗してきたという、いわくつきの厄災エリアだ。
当然、そんな国家事業レベルの難題を、魔力も政治力もない(と思われている)八歳の子供にどうこうできるはずがない。
つまりこれは、仕事などではない。
最初から失敗することが確定している無理難題を押し付け、「やはり前妻の子は無能だった」「公爵家の財産を食い潰すだけの穀潰しだ」という烙印を押し、大義名分を得て彼を公爵家から完全に追放するための、見せしめの処刑台なのだ。
原作ゲームでも、このイベントでレオン様は泥まみれになって必死に足掻いた挙句、倒れて高熱を出し、使用人たちの嘲笑を浴びて、さらに絶望と孤立を深めていた。プレイヤーたちの間でも「エルザマジ許さん」「ここでレオンの心がポキっと折れる音がした」と語り草になっている胸糞イベントである。
「……どういう意味でしょうか」
レオン様が、感情を完全に押し殺した静かな声で問う。
エルザ夫人は、豪奢な扇で口元を隠しながら、獲物を嬲るように楽しげに言った。
「そのままの意味よ。お前も公爵家の血を引く一員だと言うのなら、屋敷の隅でタダ飯を食っているだけでなく、領地のために少しは働くべきでしょう?」
「北の沼は、過去の当主たちが長年手をつけても無駄だった危険な場所です。今の僕に、どうにかできるはずがない」
「だからこそよ」
彼女の目が、ねっとりと、底意地悪く嗤う。
「最近少し元気があるのなら、せいぜい身を粉にして役に立ってもらわないとね。もし開拓できなければ……お前はやはり、公爵家の名に泥を塗るだけの『無能な呪われた子』だったというだけの話。その時は、相応の処分を下すわ」
その場の空気が、氷点下まで冷え込んだ。
夫人の背後にいる使用人たちの中には、可哀想にと目を逸らす者もいれば、露骨に面白がってにやにやしている者もいる。
誰も、本気であの沼が開拓できるなどとは思っていない。
これはただの、弱い子供一人に責任を押しつけて、その失敗と絶望をあざ笑うための悪趣味な舞台装置だ。
私は胸の奥で、静かに、しかし火山が噴火する直前のようなドス黒い怒りを燃やした。
ああ、もう。
本当に腹が立つ。クソババアめ。
この人たちは、どうしてこうも平然と、無力な子供の尊厳を踏みにじって笑えるんだろう。
今すぐここで【生活魔法:ゴミ出し(空間廃棄)】を発動して、このババアたちを丸ごと異次元のゴミ箱にシュポンッ! と捨ててやりたい衝動に駆られたが、それでは公爵家が機能不全に陥り、レオン様の立場も危うくなる。
だが、当のレオン様は、怯えることも泣き叫ぶこともせず、ただ無表情を貫いていた。
蒼い瞳をわずかに伏せ、そして――ほんの一瞬だけ、私の顔を見上げた。
私はその視線を受けて、力強く、ほんの少しだけ頷いた。
――大丈夫です。私に任せてください。
その意味を込めて。
するとレオン様も、周囲には絶対にわからない程度に、かすかに目を細め、口の端をほんのわずかに上げた。
「……承知しました。お受けいたします」
「ええ。期限は三日よ。せいぜい泥水でもすすって足掻きなさいな」
エルザ夫人はそれだけ言い捨てて、勝利を確信したような足取りで去っていく。
義弟はわざとらしく肩をすくめ、「せいぜい泥遊びでも頑張れよ、呪いの子!」とゲラゲラ笑いながら後を追った。
その愚かな背中を見送りながら、私は無言でエプロンの下で拳をボキボキと鳴らした。
「……クロエ」
レオン様が、静かに呼ぶ。
「はい」
「無理だ。あれは、どう考えても子供の僕にできる仕事じゃない。領地軍を一個師団投入しても浄化できなかった場所だ」
その声は落ち着いていたけれど、過去の理不尽な仕打ちを思い出したのか、どこか諦めと疲労が混じっていた。
無理もない。常識的に考えれば絶対に不可能なのだ。
でも、私は知っている。
このイベント、原作では超厄介なバッドエンド直結の嫌がらせだった。
けれど、今の私たちには――より正確に言えば、日に日に威力がバグり始めている私の『家事魔法(物理)』には、わりと余裕でどうにかなりそうな気がしている。
「まずは、現地を直接見に行きましょう」
「……見に行けば、何とかなるの?」
「はい。何とかします」
私がきっぱりと自信満々に答えると、レオン様はじっと私の顔を見つめた。
「クロエは……本当に、いつも当たり前みたいにそう言う」
「はい」
「どうして、そんなに迷わないの? 僕に関われば、クロエだって母様に目をつけられて、ただじゃ済まないのに」
私は、彼の不安を吹き飛ばすように、とびきりの笑顔で笑ってみせた。
「推しを最高の形で幸せにすると、私の魂が勝手に決めたからです」
「……」
レオン様は、もはやその意味不明な単語を訂正しなかった。
“推し”が具体的に何なのか、たぶん完全にはわかっていないだろうに、「自分が無条件で愛され、尽くされる対象」なのだということだけは理解し、私がそういう生き物なのだと完全に受け入れ始めている節がある。
「行きましょう、レオン様。呪われた沼だろうが何だろうが、要するに庭の草むしりと水質改善の延長線上みたいなものです。サクッとお掃除して、あの夫人たちに特大の『ざまぁ』をお見舞いしてやりましょう!」
「……庭の、草むしり?」
国家規模の災害エリアを前にして出たあまりにも庶民的なワードに、不思議そうに首を傾げながらも、彼は私の差し出した手を取り、ついて歩き出した。
その日の午後。
私とレオン様は、公爵邸からかなり離れた、北の辺境にある沼地へと向かっていた。
もちろん正面から堂々と馬車で行けば余計な監視がつくので、人目の少ない裏道から徒歩でのこっそりとした視察である。
やがて、生命力の消え失せた枯れた木立を抜けた先に、それは現れた。
「……うわぁ」
私は、思わず嫌悪感に満ちた声を引き攣らせて漏らした。
それは、私の想像をはるかに絶する地獄絵図だった。
視界の果てまで続く、底なしのどす黒いぬかるみ。
ヘドロのように粘り気のある黒ずんだ水。
水面からブクブクと泡を立てて立ち上る、薄緑色の毒々しい靄(瘴気)。
周囲の木々は完全に生気を吸い取られて白骨のように枯れ果て、雑草一本、虫一匹まともに生息していない。空気までが鉛のように重く、足を踏み入れる前から、肌がピリピリと焼け焦げるような嫌な感覚があった。
まさに、絶対不毛の地。
呪われた底なし沼という悪名に、一寸の狂いもふさわしい。
「これは……想像以上にエグいですね」
さすがの私も、ゲームの画面越しで見ていた以上の禍々しさに言葉を失いかける。
すると隣で、レオン様が眉根を寄せ、低く警戒するような声で呟いた。
「……瘴気が、尋常じゃなく濃い。昔、僕の部屋に充満していた呪いなんか、比べ物にならないレベルだ」
「やっぱり、レオン様にはわかるんですね」
「クロエのご飯を食べて魔力回路が開いてから……前より、魔力の流れが少しだけ鋭く視えるようになったんだ」
私はその横顔を見て、ほんのり嬉しくなる。
栄養状態と環境が整ったことで、感覚も鋭く冴え渡ってきているのだろう。原作の『魔力視』の才能が、少しずつ表に出始めている証拠だ。
……とはいえ、今は彼の才能より、目の前のこのドブ沼だ。
「ふむ」
私は腰に手を当てて、プロの清掃業者のような目で現場をぐるりと見渡した。
致死量の瘴気。
底なしのぬかるみ。
白骨化した枯れ木。
あと、たぶん……いや、絶対に、あの泥の底に『ヤバい元凶』が埋まっている。
というのも、沼のど真ん中あたりだけ、不自然に水面がドクン、ドクンと心臓の鼓動のように脈打って揺れていたのだ。しかも時々、ぼこぉっ! と巨大なヘドロの泡が浮かび、濃密な瘴気を撒き散らしている。
原作知識がなくても一発で怪しいとわかるが、私はゲームの設定を知っている。
この沼が長年浄化できなかった真の原因は、地中深くに根を張った“沼の主”が存在するからだ。
巨大な魔樹(モンスター・トレントの亜種)。
大地の地脈から魔力を吸い上げ、代わりに猛毒の瘴気を撒き散らして周囲の土地を死なせる、極めて悪質な寄生型の厄災魔獣。
原作の中盤では、国境防衛隊と高位魔術師が総出で討伐隊を組んで挑むレベルのボスキャラであり、普通に考えれば、今の私やレオン様が触れていい代物では決してない。
だが。
「……これ、要するに厄介な雑草が根を張ってるだけの『草むしり案件』では?」
「……は?」
レオン様が、信じられないものを見る目でこちらを見た。
「いや、瘴気の原因がドブ泥じゃなくて、あの中心に埋まってる巨大な『根っこ』にあるなら、庭の厄介な雑草を引っこ抜くのと、根本的な理屈は似たようなものかなと」
「似てないと思う。どう見ても命に関わる大災害だと思う」
至極真っ当な正論だ。八歳児の方がよほど冷静である。
でも、私のバグった家事魔法って、だいたいそういう『強引な概念の拡大解釈』で動いている気がするんだよね。
お掃除で呪いが消えたんだから、草むしりで魔樹が抜けない道理はない。
「少しだけ下がっていてください、レオン様。服が汚れますから」
「危ない! あれはただの沼じゃない、泥の中に絶対何かいる!」
「大丈夫です! 私の草むしり検定一級(自称)の腕前をお見せします!」
本当に大丈夫かは知らないが、今までのチート実績からすると多分大丈夫だ。
むしろレオン様をこれ以上この瘴気の中に置いておく方が危険だ。
私は沼地のギリギリ手前に立ち、靴の先でぬかるみをつついた。
ぐちゅり、と嫌な音がして、靴の革が少しだけ変色する。猛毒だ。
「ええと……庭の雑草は、根元から綺麗に、一気に、残さず」
私は目を閉じ、両手を沼の中心に向けてかざした。
すると、じわりと私の足元に、エメラルドグリーンの眩い光の魔法陣が広がった。
裏山で巨大猪を瞬殺した時と同じ、家事魔法の起動感覚だ。
「――抜きますね! 【生活魔法:草むしり(根こそぎ・範囲最大)】!!」
私が大声で唱え、指を鳴らした、次の瞬間。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォォッ!!!
マグニチュード7クラスの凄まじい地鳴りが鳴り響き、大地が激しく揺れた。
「えっ」
私が間抜けな声を出したのと同時に、広大な沼全体の水面が大嵐のように波打つ。
黒い泥が数十メートルの高さまでドカンッ! と巻き上がり、沼の中心部から、巨大な何かが持ち上がってきた。
ボコォォォォォォォォォォォッ! ズズズズズズズズズズッ――!
「クロエ! 下がって!」
レオン様の緊迫した声が飛ぶ。
私は反射的に身を引き、レオン様を庇うように両手を広げた。
沼の中央から現れたのは――巨大な『木』だった。
いや、木という言葉で表現するには、あまりにも禍々しく、おぞましい怪物だった。
幹の太さは家一軒分ほどもあり、樹皮はどす黒い紫色に脈打っている。
大蛇のようにうねる無数の根が泥の中から千切れんばかりに飛び出し、枝の先には、ギョロギョロと動く巨大な目玉のような瘤がいくつもついている。
幹の中心にある巨大な裂け目は、まるで深海魚の口のように大きく開き、そこから致死量の瘴気をゲロのように噴き出していた。
『ギシャァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!』
「うわああああ! めっちゃキモいのが出た!!」
「だから言っただろ! 沼の主だ! 本で読んだことがある、魔樹の突然変異体だ!」
やっぱり知ってたんですね!? さすが私の推し、知識量も豊富!
私が呑気に感心している間にも、巨大魔樹は怒りの地鳴りとともにこちらへ傾く。
数十本もの太い根が地面を掴み、泥を猛烈な勢いで撒き散らしながら、這い出してくる様は、絶望的なホラー以外の何ものでもなかった。
普通なら、ここで全滅イベント発生である。
「ご、ごめんなさい! 雑草にしては、思ったより大物でした!」
「今それ言うこと!? 逃げるよ、クロエ!」
珍しく、レオン様が完全に余裕をなくした大きな声を出した。
よほど切羽詰まっているらしい。彼が私の手を引いて逃げようとしてくれるのが、尊くてたまらない。
しかし、ここで逃げたら沼はそのまま放置される。
領地の人々が苦しみ続けるし、何より、あのクソババア(エルザ夫人)の企み通り、レオン様への『無能』というレッテルと嫌がらせが成立してしまう。
それだけは、絶対にだめだ。
推しの名誉は、私が守る。
私はぐっと歯を食いしばり、レオン様の手を優しく解いてから、一歩前に出て、地面の奥深くへと意識を向けた。
庭の雑草を抜く時に一番大事なコツは何だっけ。
表面だけ千切ってはいけない。根元をしっかり掴んで、土の中に残さないように、一気に力を込めて引き抜くことだ。
つまり――
「おんどりゃああああ! 根こそぎ、残さずいきます!!」
私は、両手を空に向けて、引っこ抜くような動作で力一杯握り込んだ。
すると、私の足元から放たれたエメラルドグリーンの魔法陣が、瞬く間に沼地全体――半径数百メートルにわたって一気に拡大した。
泥の下、土の中、地下数十メートルの深層深くまで光の根が走り、魔樹の根という根に、光のワイヤーが絡みつく。
次の瞬間。
ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!
とてつもない衝撃波と共に、家一軒分もある巨大魔樹が、丸ごと、数十メートルの高さまで空中に持ち上がった。
「――――ッ!?」
言葉にならない悲鳴を上げたのは、私か、レオン様か。
いや、たぶん両方だ。
地中深くにがっちりと食い込んでいたはずの無数の根が、バキバキバキバキッ! という鼓膜が破れそうな音を立てながら、一斉に地面から強制的に引き抜かれていく。
泥の滝が逆流するように噴き上がり、瘴気が渦を巻き、まるで山の一部そのものが重力を失って持ち上がったかのような、神話級の光景だった。
「ぬ、抜けるのぉぉぉぉ!?」
「抜けましたああああああっ!!」
叫びながら、私は半ば本能のままに、握り込んだ両腕を背後の空の彼方へ向けて、思い切り振り抜いた。
すると、巨大魔樹は、本当に庭の小さな雑草をポイッと捨てるみたいに――
スポーンッ! と。
信じられないほど軽快で間抜けな効果音と共に、地面から完全に抜けた。
「…………」
「…………」
巨大な根の塊をぶら下げた魔樹が、悲鳴を上げる間もなく空中で一瞬だけ静止する。
次の瞬間、ズシャァァァァァァァンッ!! と、遥か向こうの地平線の彼方(おそらくエルザ夫人の実家がある方角)へ向けて、ロケットのように放り出され、二度ほど地面で跳ねて、完全に沈黙した。
……あっちの被害は知らない。私が捨てたのはただの雑草だから。
静かになった。
あまりにも、急に。
吹き荒れていた暴風が、ピタリと止む。
沼から際限なく立ち上っていた毒々しい薄緑色の瘴気がみるみるうちに薄れて大気中に溶け、どろどろに濁っていた水面が、鏡のように静まり返っていく。
「……え」
私はぽかんと口を開けた。
やったの?
私、本当に、国家の災害レベルの元凶を、ただの草むしり魔法で引っこ抜いて投げ捨てちゃったの?
すると、地面がまた、カタカタと小さく震えた。
今度は、先ほどのような魔獣が這い出てくる不穏な揺れではない。
もっと温かくて、柔らかい、生命が躍動して一斉に『芽吹く』ような、神聖な感覚。
次の瞬間。
ズモッ、ズモモモモッ! と、可愛らしい音を立てて、浄化された沼地のあちこちから、一斉に無数の新芽が顔を出した。
「えっ、わっ、なにこれ!?」
新芽は、私の目の前で早送りを見ているかのような速度であっという間に伸び、蕾をつけ、一気に花開いた。
暗闇で淡く光る青い花。
クリスタルのように透き通る銀色の葉。
純金でできたような葉脈を持つ、真っ白な大輪の花。
どれもこれも、前世の図鑑はおろか、ゲームのアイテム欄でも見たことがないような、異常なほど美しい植物ばかりだ。
それだけじゃない。
黒ずんでいた泥水は、信じられないほど澄み切った清流へと変わり、ブクブクと湧き出る泉になった。致死量のぬかるみだった地面は、ふかふかで栄養満点な黒土へと変わっていく。
枯れて白骨化していた周囲の木々にまで、淡い緑色の若葉が瞬く間に戻り、空気が一気に、神殿の最奥にある聖域のように清らかで甘い香りに満たされた。
さっきまでの地獄のような死に土地が、ほんの数十秒で、天国のような別世界(お花畑)へと変貌してしまった。
「な、なにこれ……魔法の森……?」
私が呆然とその幻想的な光景を眺めて呟いた、その時。
隣でレオン様が、ガクッと膝から崩れ落ちそうになりながら、ほとんど息を呑むように言った。
「……霊薬草、だ」
「はい?」
「王都の最高位の薬師でも、一生に一度お目にかかれるかどうかという……国宝級の、幻の霊薬の群生地……」
私は、自分の足元で風に揺れている美しい花を見た。
えっ、これ?
雑草抜いた跡地に、そこらへんのタンポポみたいにボコボコ生えてるけど?
「えーと、この白いお花もですか?」
「たぶん、死者すら蘇らせると言われる『月雫草』」
「じゃ、じゃあ、この青いやつは?」
「……魔力枯渇を完全に回復させる『星屑の癒し』……金貨数百枚でも買えない、最高級の錬金素材……」
「この、いかにも高そうな金色の葉っぱは?」
「……知らない。公爵家の禁書庫の図鑑でも、見たことがない。たぶん、神話の時代の植物……」
最後のやつ、未知の超激レア霊薬らしい。
私は、一周回って完全に無言になった。
どうやら、沼の主(巨大魔樹)を無理やり根こそぎ引っこ抜いたことで、その魔樹が長年せき止めて、溜め込んでいた土地本来の莫大な地脈の魔力が、一気に解放されたらしい。
その結果、不毛の地どころか、国家予算レベルの価値を持つ『超高濃度の霊薬畑』が、雑草のように大量発生するボーナスエリアになってしまったのだ。
「……あの、レオン様。私、またちょっと、やりすぎましたかね?」
「……“また”って自覚は、一応あるんだね」
レオン様の声が、完全に悟りを開いた僧侶のように呆れていた。
でも、その蒼い瞳は、沼の主が消え去り、光り輝く霊薬で満たされた美しい大地を見つめたまま、かすかに、しかし確かな熱を帯びている。
「……すごい」
ぽつり、と。彼が震える声で言った。
「クロエは、本当に……奇跡みたいに、何でもできるんだね」
「そ、そんなことないですよ! ただの家事の延長です!」
「ある」
珍しく、強い口調で即答された。
私は言葉に詰まる。
レオン様はゆっくりとふかふかの黒土の地面にしゃがみ込み、咲き始めたばかりの月雫草の白い花に、壊れ物に触れるようにそっと触れた。
その横顔は静かだったけれど、地下室にいた頃の絶望に満ちた顔ではなく、生気に満ちていて、どこか――自分の所有物を自慢するような、誇らしげですらあった。
「……これなら」
彼が低く、地を這うような声で呟く。
「もう、誰にも、僕のことを無能だなんて言わせない」
その言葉に、私は一瞬だけ目を見張った。
ああ、そうか。
これは、ただエルザ夫人の嫌がらせを跳ね返しただけの話じゃない。
レオン様自身にとって、「公爵家の嫡男として、領地に莫大な利益をもたらすことができた」という、生まれて初めての『実績』と『自分の存在価値の実感』になるのだ。
もちろん、実際に巨大な沼の主をぶん投げて更地にしたのは99%私のチート魔法のおかげだけど、この開拓事業の責任者はレオン様だ。
成果がレオン様の手柄として公式に扱われるなら、それでいい。
むしろ、そうあるべきだ。それが推し活というものだ。
「はい」
私は力強く、誇らしげに頷いた。
「これは、間違いなくレオン様が責任者として成し遂げた偉業です」
「……でも、実際にやったのは全部クロエが」
「私は、主の命に従って、ほんのちょっと雑草を抜くお手伝いをしただけの、ただのメイドですから」
私が悪戯っぽくウィンクをしてにっこり笑うと、レオン様は何か言いたげに、複雑な感情が入り混じった目で私を見た。
けれど結局、反論はせずに言葉を飲み込んだ。
ただ、その私を見上げる視線は、やけに長くて、暗く、静かで、底なし沼のように深かった。
それから私たちは、ひとまず証拠として採れそうな霊薬をいくつか慎重に摘み、沼地全体の浄化と安全を確認してから、足取り軽く屋敷へ戻った。
――当然、その後の公爵邸は大騒ぎ(パニック)である。
「き、北の沼が完全に浄化されただとぉぉ!?」
「しかも、跡地に国宝級の霊薬が雑草のように群生しているらしいぞ!」
「馬鹿な! 何十年も、誰にも手がつけられなかった死の土地だぞ!? それをたった一日で!?」
報告を受けた領地の管理人や文官たちは目を剥いてひっくり返り、エルザ公爵夫人は持っていたティーカップを落として顔を青鬼のように引きつらせ、義弟は「何かの間違いだ! あいつがやったわけがない!」と涙目で喚き散らした。
しかし、騎士団を連れて現地へ確認に行った者たちは、皆一様に、光り輝くお花畑と化した旧・沼地を前に、絶句して膝から崩れ落ちるしかなかった。
死の沼は跡形もなく消え失せ。
代わりに、アルヴェイン公爵家の財力を数倍に跳ね上げるほどの莫大な利益を生む、永遠の『霊薬の園』が広がっていたのだから。
エルザ夫人たちは「たまたま自然浄化の時期が重なっただけだ」「前から浄化の兆しがあったのを、あの子が運良く横取りしただけよ」などと、顔を真っ赤にして苦しい言い訳を並べ立てた。
だが、そんな苦しい言い訳を、もう誰も信じない。
三日以内に不可能な仕事を押しつけられた、不遇の嫡男が。
たった一日で、無傷で。
領地の価値と歴史を根底からひっくり返すほどの、圧倒的な成果を出した。
その揺るぎない事実と、レオン様への「畏怖」だけが、公爵邸の空気を完全に支配したのだった。
その夜。
私はいつものように、神聖結界で守られたレオン様の部屋で、食後の温かいハーブティーを淹れていた。
湯気の向こうで、レオン様は昼間摘んできた『月雫草』の銀色の葉を、ランプの光に透かしてじっと見つめている。
「今日はお疲れさまでした、レオン様。大勝利でしたね」
「……クロエも、お疲れさま」
「私はただの草むしりをしただけですから」
「だから、あれはどう見ても雑草のサイズじゃなかった」
ですよね。わかってます。
私がへらりと笑って誤魔化すと、レオン様は小さく息をついた。
でも怒っているわけではなく、どこか私の常識外れな行動に諦めたような、それでいて深い安堵が混じった顔だった。
そして不意に、彼は花をテーブルに置き、静かに言った。
「クロエ」
「はい?」
「僕が、もっと強くなれば」
彼の氷のように蒼い瞳が、まっすぐ、私の魂の奥底まで射抜くように見つめてくる。
「あなたは、もうあんな危ないことを、一人でしなくて済む?」
私は一瞬、息を止めた。
その問いは、私が想像していたよりずっと、ずっと重く、切実だった。
ただ守られ、助けられるだけの庇護欲をそそる存在じゃなく、自分も圧倒的な力を持ちたいと。
『あなたを守るために』、無力な子供のままでは終わりたくないと、彼は明確な意志を持ってそう言っているのだ。
私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、ゆっくりと、彼を安心させるように微笑んだ。
「はい。レオン様が強くなってくだされば、私はその後ろに隠れていられるので、きっと、もっと楽になります」
「……そう」
レオン様は、ふっと視線を伏せる。
その瞬間の彼の横顔は、八歳の子供のそれではなく、後に『冷酷公爵』として世界に君臨する男の、ゾクッとするような艶と凄みを帯びていた。
「じゃあ、強くなる」
静かな、宣言だった。
「誰にも負けない。あなたに二度と、危険な真似なんてさせない。……僕が、あなたのすべてを守るから」
それは、子どもの無邪気な気まぐれじゃない。
彼の魂の芯の奥で燃え始めた、確かな執着と意志の声だった。
彼の中で、『クロエに依存する』という感情が、『クロエを所有し、外敵から完璧に守り抜く』という保護者の視点へとシフトし始めた、決定的な瞬間だったのだ。
私はそんな彼の激重な内心のシフトに気づくこともなく、ただ「推しが成長へのモチベーションを高めてくれた!」と無邪気に喜び、そっと温かいティーカップを差し出した。
「素晴らしい心意気です! そのためにも、今はしっかり食べて、しっかり寝て、健やかに育ってくださいね」
「……うん」
「あと、明日からは、いよいよ本格的に『剣術の先生』を探しましょう」
「先生?」
「はい! せっかく芽が出てきた最強の才能、最高の環境で伸ばさないともったいないですから!」
私がウキウキと提案すると、レオン様はカップを受け取りながら、わずかに目を細めた。
「クロエは、本当にいつも、僕の先の未来のことばかり考えてるね」
「当然です」
私は誇り高く胸を張る。
「推し育成には、計画性と長期的視点が絶対に必要なのです!」
「……またその言葉。でも、いいよ。あなたが望むなら」
少し呆れたような口調。
でも、その響きは以前よりずっと柔らかく、そして底なしの甘さを帯びていた。
私はそんな彼の変化にこっそり頬をゆるめながら、心の中で次の『プロデュース計画』のチェックリストを確認していた。
食事改善、大成功。
生活環境の結界化、完了。
毒殺の阻止、継続中。
領地での実績作り、国宝級の成果でクリア。
次は、いよいよ教育だ。
超一流の剣術の師匠を見つけ出し。
そして、いずれはあの強大すぎる魔法の訓練環境も整える。
私の推しを、誰からも見下されない『最強』に育てるための道のりは、まだ始まったばかりなのだから。
――この事件以降、公爵邸の中ではもう一つ、これまでにない新しい噂が囁かれ始めていた。
『北棟の嫡男様の傍には、奇跡を起こす【女神のようなメイド】が影のように寄り添っている』
『あの娘が関わった場所では、不吉な呪いが消え、ありえないほどの成果が生まれる』
『まるで、神の祝福そのものを味方につけているかのように――』と。
だが、その噂を誰よりも深く、狂気的なまでに胸に刻み込んでいたのは、他ならぬレオン様本人だった。
絶望の暗闇から自分を引き上げ。
死の毒から身を挺して守り抜き。
理不尽な死の沼すら、自分を輝かせるための恵みの地へと変えてみせた少女。
彼にとってクロエは、ますます“ただのちょっと魔法が使えるメイド”などではなくなっていく。
絶対的な救いであり。
奇跡の具現化であり。
自分の冷たい世界の中心を照らす、たった一人の、手放せば生きていけない『光』。
……もちろん、その頃の鈍感な私は、彼のその逃げ場のないほど重すぎる感情に一切気づかず、全く別の意味で浮かれまくっていたのだけれど。
やった……! やりましたよ!
推しが領地経営で、いきなり特大の結果を出した!
これでもう「不遇なだけの可哀想な美少年」じゃない! エルザ夫人へのざまぁも完了したし、未来の最強名君ルート、順調すぎますー!!




