第3話 【煮沸魔法】で毒素を旨味に変換
推しであるレオン様の自室を、うっかり神殿の最奥レベルの『絶対防衛結界』で覆い尽くしてしまった翌日。
私は朝から、薄暗い北棟の廊下の片隅で、一人深々と頭を抱えていた。
「……やっぱり、どう考えてもやりすぎた気がする。いくらなんでも光の竜巻はアウトでしょ私……」
ぼそりと呟いて、冷たい石壁に額をこつんと当てる。
一晩経っても、昨日の光景が脳裏から離れない。
カビと呪いに満ちていた部屋を吹き飛ばした白金の竜巻。床と壁に刻み込まれた謎の神聖幾何学模様。そして、部屋全体をすっぽりと覆った、どう見ても高位の結界魔術な何か。
あれを「田舎のおばあちゃんの知恵袋」や「ちょっと掃除が得意なだけ」で押し通すには、さすがに無理があった。レオン様も完全に「奇跡」を見るような目で私のことを拝んでいたし。
けれど、不幸中の幸いと言うべきか、今のところ公爵邸内で騒ぎにはなっていない。
北棟は本館からも使用人たちの居住区からも微妙に切り離された場所だし、継母であるエルザ公爵夫人やその取り巻きたちは、そもそもレオン様の部屋(と彼の生死)になど微塵も興味がない。
結界は「悪意」や「害をなすもの」を弾く仕様になったらしく、掃除の確認に来た意地悪なメイド長が部屋に入ろうとした時は、見えない壁に弾き飛ばされて尻餅をついていたが、彼女は「床が滑った」と勘違いして怒って帰っていった。
つまり、私が何かとんでもない魔法を使ったことは、今のところ誰にもバレていない。
……たぶん。おそらく。メイビー。
「よし。バレてないならオールセーフ。悩むのはやめよう。バレる前に次の死亡フラグをへし折るのが先決だわ」
私は両手で自分の頬をパンッと叩き、気持ちを切り替えて顔を上げた。
絶対に安全な居場所は、ひとまず確保できた。
でも、それで終わりじゃない。
乙女ゲーム『花冠のレガリア』の序盤において、幼いレオン様の命と精神を削り、バッドエンドへのレールを敷いた「凶悪イベント」はいくつも存在する。
その中でも、特に早い段階で発生し、彼のポテンシャルを決定的に奪う最悪のイベントが――『食事に混ぜられる遅効性の毒』だ。
表向きは「生まれつき体が弱いため、風邪をこじらせた」というただの体調不良として処理される。
けれど実際は、エルザ夫人側に飼われている裏切りの使用人が、毎日の食事に少量ずつ『魔力封じと衰弱の毒』を盛り、彼の身体と、公爵家特有の強大な魔力回路をじわじわと内側から蝕んでいくのだ。
原作ゲームでは、このイベントのせいでレオン様は常に体調が悪く、剣術も魔法も本来の能力の十分の一も発揮できなかった。プレイヤーの間では「レオンルート、序盤の環境デバフがえぐすぎて難易度ルナティック」「公式はレオンに親でも殺されたのか」と有名だった、極悪非道なトラップである。
そして、私の前世の記憶とゲームカレンダーを照らし合わせると、その本格的な「毒盛りイベント」が始まるのは――まさに、今日なのだ。
「絶対に阻止する。私の推しの胃袋に、一ミリグラムたりとも毒なんて入れさせない」
ぐっと両拳を握りしめ、私はメラメラと闘志を燃やした。
問題は、どうやって阻止するかだ。
正面から「そのスープ毒入りですよね?」なんて指摘すれば、ただのメイドであるこちらが不敬罪で消されかねない。証拠もないし、相手は公爵夫人の息がかかった連中だ。
なら、どうするか。
答えは一つ。現物を、私が力技で押さえる(奪う)しかない。
私は本館にある大厨房の方へ視線を向けた。
朝の仕込みが落ち着き、昼食の準備が始まる時間帯。北棟のレオン様へ回される食事は、いつも本館の豪奢な食事とは別口で、隅っこの方で雑に扱われる。その分、監視の目も薄い。
いける。私ならやれる。推しへの愛があれば不可能はない。
そう気合いを入れた、その時だった。
「……クロエ」
不意に背後から呼ばれて、私はびくりと肩を震わせて振り返った。
そこには、真新しいシーツのように真っ白なシャツを着た、レオン様が立っていた。
部屋の外の明るい廊下で見ると、改めてその線の細さが胸に刺さる。まだまだ子どもらしい小柄な身体に、不釣り合いなくらい整った美貌。銀灰色の髪は私が今朝ブラシで綺麗に整えたのでさらさらだが、どこか儚く消えてしまいそうに見えるのは、やはり痩せすぎているせいだろう。
でも、昨日までと決定的に違うことが一つあった。
その蒼い瞳が、怯えることなく、まっすぐに私を見上げているのだ。
「レ、レオン様! おはようございます!」
「……おはよう」
小さな声。
けれど、彼から自発的に、挨拶をしてくれた。
うっ、偉い。偉すぎる。挨拶ができただけでSSR確定の尊さ。全私がスタンディングオベーションで拍手喝采である。
「お加減はいかがですか? 昨日の夜は、きちんと眠れましたか?」
「……うん。すごく、深く眠れた」
「本当ですか!」
私は思わず、嬉しさのあまり身を乗り出した。
「それは素晴らしい進歩です! 悪夢は見ませんでしたか? 寒くはありませんでしたか?」
私が矢継ぎ早に尋ねると、レオン様はわずかに目を瞬かせ、それからほんの少しだけ、口元の力を抜いた。
笑った、というほどのはっきりとした表情ではない。でも明らかに、私の過保護な反応を鬱陶しがるどころか、心地よく受け入れてくれている。
「部屋……すごくあたたかかった。ずっと、お日様の中にいるみたいだった」
「よかったです! お日様パワー全開にしましたからね!」
「……それに、頭も、前みたいに重くない。息がしやすい」
私は胸の内で「っしゃあ!」と特大のガッツポーズをした。
やっぱりあの部屋の瘴気、相当ひどかったんだ。
それが私の【お掃除魔法(極)】で改善されたなら、大成功である。
――ただし、まだ足りない。
部屋の空気を浄化しただけで満足してはいけない。体の内側に入る『毒』を止めない限り、彼の命を根本的には救えないのだから。
「レオン様、お昼はいつも通り、こちらへ運ばれてくるものを召し上がりますか?」
「……うん。たぶん、メイドが持ってくると思う」
その返事に、私は笑顔のまま心の中で深く頷く。
よし、現場を押さえよう。
「では本日は、私が少しだけお手伝いさせていただきますね」
「……手伝い?」
「はい。お食事の準備とか、味見とか、毒見とか」
「……味見? 毒見?」
レオン様は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。
公爵家で毒見など、身分の高い大貴族の当主ならともかく、冷遇されている子供に行われることはないからだ。
私はその純粋な視線を受け止めながら、なるべく自然に言い添える。
「とても大事なことなんです。推し――いえ、私の最も大切な方の健康管理は、メイドとしての最重要任務ですから」
「……」
レオン様はまた少し黙り、それから私のエプロンをきゅっと掴んで、静かに言った。
「クロエは、僕のことを本当に……その、“大切”だと思ってるの?」
捨てられた子犬のような、不安に揺れる問いかけ。
それに、私は一切のためらいを持たなかった。
「もちろんです」
即答すると、彼の長い睫毛がぴくりと跳ねる。
「とても、とても大切です。世界中の何よりも」
私の最推しなので。あなたがいなければ、私がこの異世界で生きる意味なんてないんですから。
心の中では今日も限界オタク全開で断言しつつ、私は慈愛に満ちた(つもりの)笑顔を作った。
するとレオン様は、さっと視線を逸らし、雪のように白い耳の先だけをほんのりと赤く染めた。
……あれ?
今の会話の流れで、照れる要素あった?
いや、愛を伝えすぎたか? でもまあいいか。照れてる顔も国宝級にかわいいから。
「では、私は少し大厨房へ行って参ります。お部屋の結界――じゃなくて、お部屋の鍵はしっかりかけて、絶対に誰も入れないでくださいね!」
私は一礼して、その場を離れた。
向かう先は本館の大厨房。
これから、推しの命を懸けた戦場へと赴くのだ。
公爵家の厨房は、昼食の準備で朝から凄まじい熱気と喧騒に包まれていた。
料理長が怒鳴り声を上げ、下働きのメイドたちが小走りで交差する。大鍋の蓋が鳴り、高級な肉の焼ける匂い、高価なスパイスの香り、飛び交う怒号。
普段なら「異世界の厨房すげー!」と呑気に観察するところだが、今日の私の目には、ただ一つのターゲットしか映っていなかった。
厨房の隅。
北棟のレオン様へ回される、貧相なパンと少量のスープが乗ったみすぼらしい配膳盆。
そのすぐ横で、周囲の目を盗むようにして、懐から小さなガラスの小瓶を取り出しているひとりの女。
見つけた。
女の名はサラ。
北棟の雑務を担当している中堅メイドで、エルザ公爵夫人付きの古株だ。原作ゲームでは立ち絵すらないモブだったが、毒イベントの背景で「夫人の息がかかったメイドが食事を運んでいた」というテキストがあった。まさにこいつだ。
彼女は料理長たちが豪勢なメインディッシュの盛り付けに気を取られている隙に、小瓶の蓋を開け、北棟用のスープ皿の中へ、透明な液体を一滴、二滴と素早く落とした。
どくんっ、と私の心臓が大きく鳴る。
やっぱり。
間違いない、あれだ。レオン様の魔力を削り、体を衰弱させる遅効性の毒薬。
私は一瞬、飛び出して女の腕を掴み上げたくなる衝動に駆られたが、すんでのところで堪えた。
今ここで捕まえても、「ただの調味料です」「見間違いでしょう」とシラを切られて終わる。決定的な証拠が弱すぎるし、相手は絶大な権力を持つ公爵夫人側の人間だ。下手をすれば「平民上がりのメイドが言いがかりをつけた」と、私の方が屋敷から追放されてしまう。
だからここは――奪う。
物理的かつ、圧倒的な速度で。
「サラさぁぁぁぁぁぁぁん!!」
私は、太陽のように明るく元気な(そしてクソデカい)声を張り上げて、猛ダッシュで彼女に駆け寄った。
「ひぃっ!?」
突然の背後からの大声に、びくりっ!とサラの肩が跳ね、彼女は慌てて小瓶をエプロンのポケットにねじ込んだ。
「な、なによクロエ! 大声出さないでよ、びっくりするじゃない!」
「お疲れ様です! 北棟の配膳ですね、私が持っていきます!!」
「はあ!?」
彼女があからさまに顔をしかめ、私を睨みつける。
「あなた、今日は別口の持ち場があるでしょう。勝手なことしないで」
「終わりました! 完璧に! 今日は北棟の特別清掃もあるので、ついでに私が責任を持って運びます!」
ぐいっ、と私が強引に配膳盆に両手をかけると、サラも慌てて盆の反対側を掴んだ。
「結構よ! これは私が持っていくって決まってるの!」
「でもサラさん、あちらのテーブルの銀食器磨きがまだ終わっていないとおっしゃってましたよね! お忙しそうですし!」
「忙しくないわよ! 余計なお世話よ!」
「いえいえどうぞ私に! 若い力にお任せください!」
「いいから離しなさいっ!」
端から見れば、ただの「仕事熱心な後輩」と「配膳を譲らない先輩」による、謎の微笑ましい押し問答である。
けれど、私には彼女の焦りが痛いほどわかる。
この人は、絶対に自分で運びたいのだ。なぜなら、途中で誰かにスープをこぼされたり、味見をされたりして、毒の事実が露見するのを極端に恐れているからだ。確実に対象の口に入るまで、自分の監視下に置きたい。
逆に言えば、ここで私が強引に奪ってしまえば、相手は公の場で私を止める正当な理由がないため、かなり動きにくくなる。
「おい、そこのメイド共!!」
突如、地響きのような低い怒声が飛んだ。
大厨房の絶対権力者、料理長だった。
「配膳でも何でもいい、さっさと持って行け! ここは戦場だ、通路でモタモタしてんじゃねえ! 邪魔だ!!」
「はいっ! 直ちに運びます!」
勝った。
料理長の鶴の一声を利用し、私は光の速さで盆をサラの手から引ったくるように持ち上げ、一礼もそこそこに厨房を飛び出した。
「ちょ、ちょっと待ちなさいクロエ――!」
背後でサラの焦燥しきった声がしたが、全く聞こえないふりである。
というか、今さら追ってきてももう遅い。
私は北棟へ向かう長い廊下を、スープを一滴もこぼさないというメイドの神業スキル(前世のファミレスバイト仕込み)を駆使して全力疾走した。
盆の上には、澄んだ琥珀色のスープ、固そうなパン、少量の野菜炒め。
見た目は本当に普通だ。普通すぎて、腹が立ってくる。
「待っててください、レオン様。こんなクソみたいな毒、絶対に食べさせませんから」
やがて北棟の最奥、光り輝く神聖な部屋の前にたどり着き、私はノックもそこそこに勢いよく中へ入った。
「レオン様! お昼をお持ちしました!」
レオン様は、結界によってピカピカになった窓辺の椅子に座り、古い本を読んでいた。
昨日までなら考えられない、穏やかな光景だ。日の光の差し込む部屋で、少しだけ落ち着いた顔をしている。それだけで私は涙腺が緩みそうになる。
「……クロエ? なんだか、すごく息を切らしてるけど」
「はい! 少々運動をしておりまして! ただしお食事の前に、少々お待ちください!」
私はテーブルに盆を置き、問題のスープ皿を親の仇のようにじっと見つめた。
透明感のある琥珀色のスープ。
香りは悪くない。
でも知っている。これが、推しの人生を狂わせる最悪の毒入りアイテムだ。
さて、どうする。
窓から捨てるのは簡単だが、代わりの食事がない。ただでさえ栄養失調なのに、一食抜くのはレオン様にとって致命的だ。
かといって厨房へ戻って新しく作り直せと言えば不審がられるし、サラがまた別の手段で毒を仕込んでくるかもしれない。
なら――この場で『浄化』、できないかな。
ふと、昨日までの出来事が頭をよぎる。
お掃除魔法(極)で、部屋の呪いも瘴気も消滅した。
なら、料理における『煮沸消毒』とか『アク取り』みたいな家事魔法の延長で、毒の成分だけをどうにか抽出して消せるのでは?
うん。
私のバグった能力なら、いける気がする。
私はそっと、スープ皿の上に両手をかざした。
「クロエ、何してるの」
「少々、スープの温め直しと、最終調理を」
「……それ、湯気が出てるし、全然冷めてないよ」
「気持ちの問題です! より美味しくするための儀式です!」
レオン様の極めて真っ当な指摘を勢いと笑顔で押し切り、私は目を閉じて魔力を集中させ、小声で唱えた。
「ええと……【生活魔法:煮沸消毒】! 悪い菌と毒素だけを完全に飛ばして、ついでに美味しくなぁれ!」
次の瞬間。
ぽわぁっ、と。
スープの表面が、まるで太陽の欠片が落ちたかのように、強烈な金色の光を放ち始めた。
「……あ」
やっぱり、今回もただでは済まなかった。
スープ皿の上空数センチに、複雑な炎の紋様を描く魔法陣がふわりと浮かび上がり、スープ全体がボコボコと激しく沸騰し始める。
なのに、陶器の皿は全く熱くならないし、テーブルクロスも焦げない。熱エネルギーは、スープの中の『不純物』だけにピンポイントで作用しているらしい。
すると――
じゅわぁぁぁぁ……ッ!!
沸騰するスープの表面から、どす黒い紫色の煙が、まるで悲鳴を上げるように立ち上った。
「な、なになにあれ!?」
思わず叫ぶ。
いや、私がやったんだけど。あまりにもビジュアルが邪悪すぎる。
紫の煙は、ドクロのようにおぞましくねじれながら空中へ昇り、不快な臭いをまき散らしていく。焦げた薬草と、腐った泥を混ぜたような、鼻の奥がツンとする明らかな「毒」の匂いだ。
レオン様が椅子から立ち上がり、はっと息を呑む。
「……毒」
「やっぱり!? っていうか煙の形が完全にアウトじゃないですかこれ!」
そうだとは思ってたけど、こうして視覚化されると、エルザ夫人への怒りでマジで血管が切れそうになる!
紫煙は魔法陣の光に焼かれ、数秒ほど苦しそうに揺らめいた後、ぱちんっ!と弾けるように完全消滅した。
同時に、魔法陣も光の粒子となってスープの中に溶け込んでいく。
そして、毒が完全に抜けた後。
スープの色が、劇的に変わった。
くすんだ琥珀色でしかなかった安物の液体は、まるで溶かした黄金のように澄みきった輝きを放ち始めたのだ。
表面には柔らかな光沢が浮かび、湯気と一緒に、脳髄を直接刺激するようなものすごく良い香りが立ちのぼった。
「……え?」
私は目を瞬いた。
なんか、さっきより明らかにおいしそう……というか、高級レストランの幻のメニューみたいな雰囲気になってるんだけど。
ただ毒が抜けただけじゃない。
数日間じっくり煮込んだ高級鶏肉の圧倒的な旨味と、香味野菜の極上の甘み、そこへほんのりと甘く神聖な魔力を帯びたような芳醇な香りが加わって、見ているだけでよだれが止まらなくなる。
「なぜ……?」
私がぽかんとしていると、レオン様が警戒心を解き、皿に近づいて小さく呟いた。
「……魔力が、集まってる」
「はい?」
「そのスープ……星みたいに、光ってる」
言われてよく見ると、たしかに黄金のスープの表面に、きらきらとダイヤモンドダストのような微細な光の粒子が漂っている。
なんなのこれ。エリクサー? 魔力入り超絶バフ栄養食?
「ええと……結果オーライ、でしょうか?」
「……毒が、入ってたのに?」
「結果的に、伝説のコンソメみたいにおいしそうになったので……?」
「……」
レオン様が、信じられないものを見るような無言になった。
ですよね。
私も自分の家事魔法のデタラメっぷりが意味わからないです。毒を旨味と魔力に置換する錬金術とか、ゲーム設定でも聞いたことない。
部屋に、ゴクリと唾を飲み込む音だけが響く妙な沈黙が落ちる。
私は銀のスプーンを持ち、黄金色のスープをひと口すくった。
いくら毒が消えた(ように見える)からといって、いきなり推しであるレオン様に食べさせるわけにはいかない。万が一ということもある。ここは毒見係としてのメイドの責務を果たすべきだ。
「では、私がまず安全確認の毒見を――」
「だめっ」
ぴしゃり、と。
強い声で止められた。
「え?」
レオン様が私の手首を、小さな両手でぎゅっと掴んでいた。
その顔は、さっきまでの儚い少年のものではなかった。強烈な警戒と、失うことへの恐怖をまとった、妙に鋭く、大人のような表情。
「毒だったんでしょ、それ」
「今はたぶん、私の魔法で完全に浄化されて大丈夫です!」
「『たぶん』で、食べないで」
低い声だった。
八歳という年齢に似合わないほど、はっきりとした、有無を言わせない拒絶。
私は思わず目を丸くする。
もしかして。
私のことを、本気で心配してくれてる?
え、ちょっと待って。推しが私の身を案じて止めてくれるとか、尊すぎて天に召されそう。
「でも、もしもの事があったら大変ですし、味見は必要で――」
「僕が、飲む」
「もっとだめです!!」
即座に言い返すと、レオン様は私の手首を掴んだまま、一瞬だけ黙った。
そして、暗い海のような蒼い瞳で、じっと私を見つめてくる。
「……クロエは、僕が毒を飲むのは嫌?」
「嫌に決まってます! あなたの体に少しでも害のあるものは、私が全部消し飛ばします!」
「……じゃあ、クロエが飲むのも嫌だ」
私は、完全に固まった。
えっ。
今、なんて?
さらっと、とんでもないことを言われた気がする。
レオン様は私の困惑など気にせず、スープ皿を睨みつけたまま、静かに、けれど熱を帯びた声で続けた。
「あなたに、少しでも危ないことをしてほしくない。僕のせいで、あなたが傷つくのは……絶対に、嫌だ」
その言葉は静かだった。
でも、はっきりしていて、まっすぐで、一切の嘘がなかった。
たったそれだけのことなのに、胸の真ん中が不意打ちみたいにドクンと鳴って、目頭が熱くなる。
だめだ。八歳児にこんな真顔で、こんなイケメン度MAXのセリフで守られたら、私の限界オタクの心臓がもたない。
これが、後にヒロインはおろか敵国すらも焼き尽くすほどの『過保護なヤンデレ公爵』の片鱗だということに、私はこの時気づくべきだったのだ。
「レオン様……」
「だから、一緒に確認する」
「一緒に?」
「うん。半分ずつ。もし毒が残ってたら、二人で一緒に倒れよう」
究極の連帯責任を提案されてしまった。
私はしばらく迷った。
でも、このまま押し問答してもスープが冷めるだけだし、私の直感(とチート魔法の実績)が、これは既に極上のバフアイテムに変化していると告げている。
それに――この子が、自分を犠牲にするのではなく、「私と一緒に」生きるか死ぬかの選択をしてくれたことが、ファンとしてたまらなく嬉しかった。
「……では、ほんの少しだけですよ」
私がそう言って譲歩すると、レオン様はほっとしたようにこくりと頷いた。
私は新しいスプーンを二本用意し、まず自分が、ほんのひと口だけ黄金のスープを口に運んだ。
「……ッ!!」
おいしい。
びっっっっくりするほど、おいしい!!!
なんだこれ。
舌に触れた瞬間、爆発的な旨味が口いっぱいに広がる。優しいのに、恐ろしいほど深い。
胃に落ちた途端、体の芯にじわりと熱が染み込んでいくみたいな味だ。ただのスープじゃない。飲んだ瞬間に、全身の細胞が歓喜し、「命が輝く」という概念そのものを飲んでいるみたいな、そんな究極の感覚。
「え、うまっ……おいしすぎます……」
思わず素のオタクの語彙力で本音が漏れる。
それを見て安心したのか、レオン様もそっと自分のスプーンでひと口飲んだ。
次の瞬間。彼の蒼い瞳が、限界まで見開かれた。
「……あたたかい」
「ですよね! 最高においしいですよね!」
「……体の中が、すごく熱い」
私はぎょっとして立ち上がった。
「熱すぎます!? 毒ですか!? やだ吐き出してください!」
「ちがう、苦しくない。……すごく、力が溢れてくる」
レオン様は胸元を両手で押さえ、戸惑いと驚きが入り混じった顔で息をつく。
「……流れてる」
「何がです?」
「魔力が。ずっと、冷たくて固まっていたものが……一気に」
その一言に、私は思わず息を呑んだ。
原作ゲームで、レオン様は「生まれつき桁外れの魔力量を持つが、幼少期は回路が詰まっており、うまく機能していない」という設定があった。継母からの毒や瘴気、長年のストレスが重なって、水道管が錆びつくように魔力回路が常に閉塞していたのだ。
それが、今――。
レオン様の華奢な身体の周囲に、淡い黄金色の粒子が、ふわり、ふわりと舞い上がり始めた。
銀灰色の髪が魔力風でさらりと揺れ、部屋の空気が、彼の持つ強大な魔力に共鳴してわずかに震える。
「うわっ……すごい……」
「……っ」
レオン様自身も、自分の身体から溢れ出す力に驚いたように、自分の両手を見つめる。
白く細い指先の皮膚の下で、青白い光(魔力の脈動)が、ドクン、ドクンと力強く波打っているのが見えた。
「魔力回路が……完全に、開通してる?」
私は呆然と呟いた。
ただの煮沸消毒じゃなかった。
毒を無効化して旨味に変えた上に、何故か『状態異常の完全回復』と『魔力回路の強制開放&最大HP・MP超絶アップ』という、チートすぎるバフ効果まで付与されていたのだ。
なんだこれ。
私の家事魔法、本気でヤバすぎる。そのうちただの洗濯で死者とか蘇生するんじゃないか。
「クロエ」
不意に名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
レオン様が、黄金の湯気の向こうから私を見つめている。
その目は、昨日までの光を失ったガラス玉とはまるで違った。まだ物理的な細さはある。でも、その瞳の底には、圧倒的な魔力の光と、生きるための確かな熱が灯っていた。
「……おいしい」
ぽつり、と。
花が咲くような、柔らかく、そして力強い声で言って、彼はまたスープを口に運んだ。
私はもう、胸がいっぱいで、限界を突破してどうにかなりそうだった。
推しが、おいしいって言った。
ちゃんとご飯を食べてる。
しかも、原作のデバフを跳ね除けて、最強の魔力に目覚めようとしている。
勝った。
私は、この理不尽な乙女ゲームの世界のシナリオに、完全勝利したのだ。
「たくさんありますからね! このスープを飲んで、パンも食べてください!」
「……うん。でも、これはクロエの分も……」
「私は大丈夫です! 後で厨房のつまみ食いをしますので!」
「だめ」
「えっ」
「半分って、約束した」
ぴしゃり、と大公爵のような威厳で言われてしまった。
その顔が妙に真剣で、絶対に譲らないという頑固さがあって、私は思わず吹き出して笑ってしまった。
「ふふっ……はい、そうですね。半分こ、ですね」
私が大人しく頷いて自分のスプーンを動かすと、レオン様はほんの少しだけ、満足そうに目を細めた。
その小さな変化が嬉しくて、私はつい顔が緩みっぱなしになる。
でも次の瞬間、不意に背筋に冷たいものが走った。
この毒入りスープを仕込んだメイドのサラ、そしてその後ろにいるエルザ夫人は、毒殺計画が失敗したことに気づくだろう。
レオン様が衰弱するどころか、魔力を開花させて元気になれば、次はもっと露骨で暴力的な手(例えば暗殺者など)を打ってくるかもしれない。
つまり――ここから先は、もっと本気で彼を守り抜かなければならない。
食事、寝具、剣術の訓練、魔法の制御、生活環境、周囲の人間関係。
全部だ。
彼に関わるすべての要素を、私が裏から手を回して最強の環境に整える。
推しを、絶対にバッドエンドになんか行かせないために。
私は決意を新たにしながら、あっという間に空になったスープ皿を見下ろした。
黄金色の雫が、皿の底でわずかにキラリと光っている。
その光を見つめながら、レオン様が静かに、祈るような声で言った。
「クロエ」
「はい?」
「……あなたがいれば、僕は、死なない?」
その問いはあまりに小さく、あまりに切実だった。
私は一瞬だけ、言葉を失う。
八歳の幼い子どもが、こんなふうに「明日、自分が死ぬかもしれない」という恐怖を前提に確認しなければならない世界なんて、やっぱり絶対におかしい。
だから私は、世界そのものに喧嘩を売るつもりで、迷わず答えた。
「死なせません」
レオン様の瞳が、大きく揺れる。
「絶対に。あなたには、これから最高の幸せだけが待っています。私が保証します」
きっぱり言い切ると、彼はしばらくの間、瞬きもせずに私の顔を見つめていた。
やがて、そっと視線を伏せ、私のエプロンの裾をもう一度、壊れ物を包むように優しく握った。
「……じゃあ、信じる」
昨日の地下室で聞いた言葉。
でも今度は、少し違った。
ただ絶望の中で誰かにすがるような響きではなく、彼の魂の底から湧き上がる『静かな確信』と『絶対に手放さないという執着』が、色濃く混じり合っていた。
私はその言葉の重みを受け止めながら、胸の奥で固く誓う。
ええ、信じてください。
私はあなたを愛してやまない、限界オタクですから。
その悲劇の人生、私の家事魔法で、残さず全力で救済してみせます!
こうして、序盤最大の関門である『遅効性の毒による死亡フラグ』は、私の無自覚チートによってあっけなくへし折られた。
ただし、その代償として。
レオン様の中では、また一つ、ある確かな認識が狂気的なまでに深く刻まれることになる。
暗い呪いの部屋を光で満たし、
死をもたらす毒すら恵みの力に変え、
何度でも自分を地獄から救い上げる、唯一無二の少女。
彼にとってクロエは、もはや「ただの優しいメイド」ではなかった。
絶対的な救いだった。
神の奇跡だった。
そして――この命を懸けてでも、誰にも渡してはならない、自分だけの光になり始めていた。
もちろん、その頃のポンコツな私は、彼の心にそんな激重な執着が育ち始めていることなど微塵も気づきもしない。
ただピカピカになった空の皿を見て、ひたすら感動と達成感に打ち震えていただけだ。
やった……!
推しがちゃんとご飯を食べて、しかも「おいしい」って言ってくれた……! もうメイド人生に悔いなし!!




