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第2話 【お掃除魔法】は国宝級の浄化結界

 レオン様をあの忌まわしい地下室から連れ出し、こっそりと空き部屋に寝かせた、その翌朝。


 私は寝不足でクマの浮いたひどい顔のまま、使用人用の井戸で汲み上げた刺すような冷たい水を、ばしゃばしゃと顔に浴びていた。


「……っ、冷た! よし、目は覚めた!」


 手ぬぐいで顔を乱暴に拭いながら、私は小さく気合いを入れる。

 冷水のおかげで、頭にかかっていた靄は多少すっきりした。が、私が直面している現実は、控えめに言っても全くすっきりしていない。


 昨夜の出来事を思い返すだけで、胸がぎゅっと締め付けられるように痛む。


 あの、氷のように冷え切っていた小さな手。

 光を失い、世界の一切を諦めきっていた怯えた蒼い瞳。

 それでも最後に、震える指で私のエプロンの裾を不器用に掴んで、「信じる」と言ってくれた、あのか細い声。


「いや、尊いとか萌えるとか言ってる場合じゃないのよクロエ……。事態は一分一秒を争うクソゲー状態なんだから」


 思わず濡れた前髪を押さえ、深いため息を吐く。


 昨夜は人目を避けて北棟の空き部屋へレオン様を連れていき、厨房からこっそりお借りした(※後で私の給料から天引きしてもらう予定だ)温かいミルクと柔らかなパンを食べてもらった。

 その後、使っていない清潔な毛布を何枚も重ねて彼を寝かしつけたのだが、私はその横でほとんど一睡もできなかった。


 なぜなら、根本的な問題が何一つ解決していないからだ。


 レオン様は今も公爵家の正統な嫡男であり、同時に、継母であるエルザ公爵夫人から陰湿な虐待を受けているという最悪な立場に変わりはない。

 私が昨夜、一時的に彼を助け出したところで、今日から急に公爵家の待遇が改善されるわけがないのだ。

 それどころか、「地下室から勝手に抜け出した」という理由で、エルザ夫人に余計に目をつけられ、さらに酷い罰を与えられる可能性すらある。


「まずは、絶対に安全な『居場所』の確保……それが最優先ミッションね」


 私は朝日が昇り始めた王都の空を見上げ、強く拳を握りしめた。


 前世のゲーム知識――『花冠のレガリア』の公式設定資料集(特装版特典・六千円)の記述によれば、現在のレオン様に与えられている自室は、北棟の最奥にある元・重病人の隔離室だ。


 日当たり最悪、風通し最悪、湿気最悪、調度品最悪。

 しかも悪辣なことに、エルザ夫人がわざわざ裏社会の商人から買い集めた『いわくつきの呪具』や『微弱な瘴気を放つ骨董品』が、嫌がらせとしてその部屋の四隅に配置されているのである。


 ゲーム本編ではサラリとテキスト一行で流されていた設定だが、コアなプレイヤーたちの間では有名な考察ポイントだった。

 『あの部屋、物理的な環境よりも魔法的な環境が最悪すぎる』

 『レオンが魔物化する呪いの遠因って、幼少期のあの部屋で日常的に瘴気を吸わされてたせいだろ絶対』と。


 貧弱な食事。

 慢性的な寝不足と寒さ。

 心身を削る孤独。

 そして、部屋中に蔓延する悪意の瘴気による、魔力循環の致命的な歪み。


 レオン様が原作であんなに美しくも狂気じみた精神状態に追い詰められていったのは、周囲の人間関係だけが原因じゃない。

 彼に与えられた生活環境そのものが、毒のようにじわじわと彼の心と体を壊していたのだ。


「だから、まずあの部屋を何とかする。物理的にも、魔法的にも」


 私はメラメラと燃える決意を胸に、使用人用のエプロンの紐をきつく結び直した。


 幸いなことに、今日の午前中、私は北棟の雑務と掃除の当番に当たっている。

 つまり、不自然ではない形で、堂々とレオン様の部屋に入ることができるのだ。


 問題は――あの部屋に渦巻いているであろう、呪いと瘴気をどうするか、だが。


 普通に考えれば、一介のモブメイドにどうにかできる代物ではない。神殿から高位の神官や祓魔師を大金で雇わなければ無理だろう。

 でも私には、この絶望的な状況をひっくり返せるかもしれない、たった一つの『心当たり』があった。


 三日前、前世の記憶を取り戻してからというもの、私は自分の身体に起きている妙な変化に気づいていた。


 この世界でのクロエは、どうも異常なまでに『家事』が得意すぎるのだ。


 いや、少し得意という次元ではない。明らかにおかしい。バグっている。


 例えば一昨日、厨房で焦げ付いた大鍋を洗おうと水に触れた瞬間、指先から淡い光が漏れ、こすりもしていないのに数十個の鍋の汚れが一瞬で消滅し、ついでに新品の銀食器のようにピカピカに研磨された。

 昨日、洗濯物を干そうとした時は、「早く乾いてほしいな」と思っただけで、都合よく温かい突風が吹き荒れ、濡れたシーツが五秒でふんわりと乾いた。おまけにフローラルな良い香りまで付与されていた。

 床を拭けば、腐りかけていた木材が最高級のツヤを取り戻して自己修復し、料理の野菜を包丁で切れば、なぜか鮮度が採れたての状態に若返った。


 最初は「転生者によくあるチート特典かな? 乙女ゲーム世界だし、そういうのもあるよね!」くらいに軽く考えていた。


 だが、冷静に考えれば異常だ。

 しかも私は、なぜかそれらの現象を「ちょっと便利な家事魔法(誰でも使える生活魔法の延長)」だとしか認識できず、無詠唱で息をするように乱発できてしまうのだ。


 ……うん、控えめに言って怪しすぎる。

 私のこの力、絶対にただの『生活魔法』じゃない。下手したら国家を揺るがすレベルのヤバい魔法の気配がする。


 しかし、今は自分の能力の正体など考察している暇はない。


 使えるものは何でも使う。

 それが禁忌の力だろうと魔王の力だろうと知ったことか。

 私の命に代えても尊い、最推しの命と未来を救うためなのだから。


「クロエ、何一人でぶつぶつ言ってるの? 早くしないとメイド長に怒られるわよ」


 同僚メイドのマリナが、洗い立てのシーツを入れた桶を抱えながら、怪訝そうな顔でこちらを見た。


「あっ、マリナ! いえ、今日はちょっと気合いを入れて北棟の掃除をしようかなって、シミュレーションしてたの!」


「えぇ……信じられない。ほどほどにしなさいよ。北棟なんてどうせ誰も寄り付かないし、エルザ奥様もあそこが綺麗になることなんて望んでないんだから」


 彼女は呆れたように肩をすくめ、忌々しいものを見るような目で北棟の方角を一瞥し、そのまま足早に去っていった。


 私はその背中を見送りながら、心の中で小さく呟く。


 ……みんな、見て見ぬふりをしてる。

 北棟で、あの幼い男の子がどんな酷い扱いをされているか、本当は知っているくせに。

 エルザ夫人の権力が怖いから、自分に火の粉が降りかかるのが嫌だから、全員が「見えないもの」として蓋をしているのだ。


 でも、私は見てる。

 私は知ってる。彼がどれだけ泣きたかったか。どれだけ痛かったか。


 だからもう、絶対に見て見ぬふりなんてしない。


 私は決意と共に掃除用の清潔な布と水の入ったバケツを抱え、薄暗い北棟へと足を踏み入れた。


 公爵邸の豪華絢爛な本館とは打って変わり、北棟はひときわ空気が重く、冷たかった。

 廊下は日中でも薄暗く、窓は小さく、壁紙にはうっすらと黒ずんだカビが浮いている。まるで別の廃墟に迷い込んだかのような錯覚さえ覚える。


 その最奥。

 ひときわ重苦しい空気を放つ、分厚い木の扉の前で、私は足を止めた。


 昨夜は一時的に空き部屋に寝かせたとはいえ、レオン様をずっとそこに隠しておくわけにはいかない。

 最終的には、表向きこの部屋を「彼が普通に、健康的に住める場所」に作り変えなければならないのだ。


 私はバケツを下ろし、一度深く深呼吸をしてから、控えめに扉をノックした。


「レオン様。おはようございます、クロエです」


 数秒の沈黙の後、扉の向こうから、かすかに衣擦れの音がして、小さく警戒するような声が返ってきた。


「……どうぞ」


 ギギィィッ、と油の切れた蝶番が不快な音を立てる。

 扉を開けた瞬間、まず私の鼻腔を強烈に突いたのは、むせ返るような湿ったカビの臭いと、鉄錆のような血の匂いだった。


「うっ……」


 思わず顔をしかめ、持っていた布で口元を覆う。


 部屋の惨状は、私の想像をはるかに絶していた。

 窓は小さく、分厚い曇りガラスには泥と埃がこびりつき、朝だというのに光がほとんど入らない。剥がれかけた壁紙には不気味な染みが浮き、部屋の四隅には真っ黒なカビがびっしりと繁殖している。

 古びたベッドはスプリングが壊れてひどく軋み、カーテンにはいつから洗っていないのか分からないほどの埃が層を成して積もっていた。


 それだけじゃない。

 なんというか――目に見えない『空気』そのものが、鉛のように重いのだ。


 肌にねっとりとまとわりつくような不快感。

 息を吸うたびに、肺の奥がじわりと冷やされ、生命力が削り取られていくような悪寒。

 部屋の四隅に無造作に置かれた、薄汚れた壺や欠けた彫刻の置物から、黒い靄のようなものが絶えず滲み出ているのが、魔力感知能力の乏しい私にすらハッキリと見えた。


 前世のゲーム知識がなくたってわかる。

 これは、ただの汚れじゃない。明確な『悪意』と『呪い』だ。


 こんな空間で、八歳の子供に毎日寝起きしろというのか。正気の沙汰じゃない。悪魔の所業だ。


 レオン様は、そんな部屋の中央にある壊れかけのベッドの端にちょこんと腰掛け、身を縮めるようにしてじっとこちらを見ていた。

 昨夜の激しい涙の跡は消えていたけれど、その表情はまだ硬く、警戒の色が抜けきっていない。


 でも、入ってきたのが私だとわかった瞬間。

 彼の小さく尖った肩の力が、ほんの少しだけ、ふっと抜けたように見えた。


 それだけで、私の胸はたまらなくきゅっと締め付けられた。


「おはようございます、レオン様。昨夜はよく眠れましたか? お加減はどうですか?」


 私は努めて明るい、いつものメイドとしての声を作って尋ねた。


「……普通」


 彼は視線を床に落としたまま、ぽつりと答える。


 普通、か。

 絶対に普通じゃないし、こんな瘴気の部屋に戻ってきて平気なわけがないのだけれど、今は無理に聞き出さない方がいいだろう。


「そうですか。それはよかったです。では本日は、私の当番ですので、こちらのお部屋を徹底的にお掃除させていただきますね」


「掃除……?」


 レオン様が、きょとんとした顔で顔を上げた。

 その蒼い瞳には「どうしてこんな汚い部屋をわざわざ?」という疑問がはっきりと浮かんでいる。


「はい。レオン様がもう少し快適に、温かく過ごせるようにしたくて」


「……別に、いい。汚れていても、空気が苦しくても、もう慣れてるから」


 その言葉を聞いた瞬間、私は心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃を受けた。


 慣れてる。


 そのたった四文字が、あまりにも痛かった。

 こんな、人が住むべきではない劣悪な呪いの部屋に押し込められていることを、まだたった八歳の子供が「慣れてる」という言葉で自己完結し、諦めようとしている。

 どれだけの時間、どれだけの苦痛を一人で耐え忍んできたのか。想像するだけで発狂しそうになる。


 私は、奥歯をギリッと噛み締め、湧き上がるエルザ夫人への殺意を笑顔の下に強引に押し隠した。


「私が嫌なんです」


「……え?」


「推し――いえ! 私の大切なあるじのお部屋が、こんなホコリとカビと謎の黒いモヤモヤにまみれた状態だなんて、私のメイドとしてのプライドが許しません!」


 危ない危ない。

 怒りのあまり、うっかりオタクとしての本音が漏れそうになった。


 レオン様は目を丸くして私を見つめていたが、やがて困ったように小さく視線を逸らし、ぎゅっと自分の膝を抱え直した。


「……好きに、すれば」


「はい! では、お言葉に甘えて好きにさせていただきます!」


 よし、言質は取った。許可は下りた。


 私はバケツを置き、腕まくりをして部屋の中央に立つ。


 さて。普通の掃除なら、まずは窓を開けて換気をしてからホコリを払うのがセオリーだ。

 だが、この部屋に充満している空気の重さと瘴気は、窓を開けた程度でどうにかなるレベルではない。換気したところで、外の空気が汚染されるだけだ。


 だったら――ここは出し惜しみなしで、ちょっと念入りに、私の『家事魔法』の限界を試させてもらおう。


 私は目を閉じ、体の奥底にある魔力のようなものを意識し、両手を部屋全体に広げるようにかざした。


「ええと……お掃除、お掃除、と。とにかく綺麗に、清潔に、ふかふかに……」


 私が口にしたのは、日々の家事でなんとなく使っている、簡単な生活魔法の起動句だ。

 本当に、ただの“ちょっとすごい汚れ落とし”のつもりだったのだ。


「悪いものは全部消えろ。隅々まで、完璧に綺麗にしてください!」


 私がそう叫び、指をパチンと鳴らした、次の瞬間。


 ――カァァァァァァンッ!!!


 部屋全体に、巨大な教会の鐘を間近で鳴らしたような、神々しくも鼓膜を震わせる轟音が響き渡った。


「えっ!?」


 私が間抜けな裏声を上げたのと同時に、足元の床板から、目を焼くような眩い白金色の光が爆発的に噴き上がった。

 純白の光の帯が、床一面に複雑怪奇な幾何学紋様(魔法陣)を一瞬にして描き出し、その中心――私の足元から、猛烈な光の竜巻が生まれた。


 いや、竜巻という生易しいものではない。

 それはまるで、天界から地上へ降り注ぐ光の柱だった。


「え、え、ええええええええ!?」


 光の暴風が部屋中を荒れ狂う。

 埃が舞い上がる――かと思いきや、埃だけではない。壁紙に染みついたどす黒いカビ、床板の隙間に染み込んだ長年の汚れ、カーテンにこびりついた悪臭、それらの一切合切が、光に触れた瞬間に「ジュッ!」と音を立てて蒸発していく。


 さらに恐ろしいことに、部屋の四隅に置かれた呪具から滲み出ていた黒い靄(瘴気)が、まるで意思を持っているかのように光から逃げ惑い、壁の裏や天井の梁へと隠れようとした。

 だが、光の竜巻はそれを許さなかった。


『ギィィィィィィャァァァァァァァァァァッ!!』


 耳を塞ぎたくなるような、呪いの断末魔。

 黒い靄は光の触手に絡め取られ、引きずり出され、一瞬にして浄化の炎に焼かれて完全に消滅した。呪具そのものも、音を立ててひび割れ、ただのガラクタの石ころへと還元されていく。


 ぞわり、と私の背筋に冷たいものが走る。


 これ、絶対ただの生活魔法じゃない。

 なんかすごい神聖なやつだ。勇者とか聖女が魔王を倒す時に使うようなエフェクト出てるもん。


「ク、クロエ……っ!?」


 強風に銀髪を煽られながら、ベッドの上のレオン様が目を限界まで見開いて叫んだ。

 その蒼い瞳には、部屋を飲み込む光の竜巻と、真ん中でアワアワしている私の姿がはっきりと映っている。


「す、すみませんレオン様! ちょっと念入りにやりすぎたかもしれません! あと少しで終わると思いますので!」


「ちょっと……の規模じゃ、ない……っ!」


 ですよね! 私もそう思います!


 しかし、一度発動してしまった魔法は止まってくれない。

 むしろ、ここからが本番とばかりに、天井近くまで伸びた光の柱が、ばしんっ! と弾け、部屋の四隅、壁、窓、扉へと幾筋もの光の線を走らせた。

 光の線は意思を持つように這い回り、みるみるうちに部屋全体を巨大で神聖な魔法陣の結界で包み込んでいく。


 空気が、ピリピリと震えた。


 その直後。


 ぱぁんっ、と。

 世界が生まれ変わるような澄み切った破裂音が響き、目に見えない強固な膜のようなものが、部屋の六面を完全に覆い尽くした。


 ぴたり、と風が止む。

 舞い上がっていた光の粒子が、雪のように静かに床へと降り注ぎ、消えていく。


 完全な、静寂。


「……」


「……」


 私とレオン様は、口を開けたまま、しばらくその場で完全に固まっていた。


 やがて、恐る恐る目を開けて、私は部屋の惨状――いや、現状を見回した。


「……え、ここ、どこ?」


 そこは、全く別の部屋だった。


 さっきまでの陰鬱で不気味な空気は、跡形もなく消え去っている。

 壁紙は新築の高級ホテルのように真っ白に輝き、床板は最高級の蜜蝋で磨き上げられたように艶やか。窓ガラスは曇り一つなく透明になり、そこから差し込む朝の陽光が、部屋中をきらきらと照らしている。

 黒ずんでいたカーテンは柔らかな生成り色の高級シルク(のような手触り)に変わり、軋んでいたベッドは頑丈に修復され、シーツは天国の雲のようにふかふかに膨らんでいた。


 何より、劇的に変わったのは『空気』だ。


 澄んでいる。

 春の朝の森の奥深く、妖精が住む泉のほとりにいるかのように清らかで、甘い香りがする。息を吸い込むだけで、肺の奥から細胞の隅々までが浄化され、活力が湧いてくるような神秘的な感覚。


 さっきまでの、肌にまとわりつくような寒気と瘴気は完全に消え失せ、むしろ部屋全体が、母親の胎内のようにほんのりと温かい。


「……きれいになった……っていうか、リフォームまでされてる?」


 思わず呟く。

 いや、綺麗になったけど。完璧な住環境になったけどさ。


 どう考えても、メイドの掃除の規模がおかしい。


 私はおそるおそる、近くの壁に指で触れてみた。

 さらり、としている。カビの跡などミクロン単位で存在しない。

 床を踏み込んでも、さっきまでぎしぎし鳴っていたはずの腐った板が、一枚板の無垢材のようにどっしりと安定している。


 えっ、素材の修復とアップグレードまで自動でされた?

 生活魔法の『お掃除』の定義、この世界ではどうなってるの?


「……」


 強烈な視線を感じて振り返る。


 レオン様が、ふかふかになったベッドの上から、私をまじまじと見下ろしていた。

 その表情は、昨日地下室で見せた絶望とも、今朝の怯えとも、全く違っていた。


 驚愕。

 呆然。

 そして――圧倒的な存在に対する、深い『畏れ』と『信仰』。


「レオン様? あの、埃とか被りませんでしたか?」


 私が首を傾げて尋ねると、彼ははっとしたように息を呑み、ゆっくりとベッドから降りた。


「……クロエ」


「はい」


「あなたは……本当は、何者なの?」


「え? アルヴェイン公爵家に雇われている、ただの平メイドですが?」


 私は胸を張って即答した。


 だって給料もらってるし。エプロン着てるし。

 すると、レオン様はますます混乱したような、理解が追いつかない顔になった。


「メイドが……ただの掃除で、こんな、奇跡みたいなこと……できるわけない」


 その震える小さな声に、私はツーッと冷や汗が背中を流れるのを感じた。


 まずい。

 これは非常にまずい。


 もしかして、この世界の普通の家事魔法って、光の竜巻とか出ないのでは?(※出ません)

 呪いのアイテムを粉砕して、空間ごと聖域化するような機能はついてないのでは?(※絶対についていません)


 どうしよう、どう誤魔化そう、と内心で激しくあわあわしながらも、私は三十代の元社畜としてのポーカーフェイスを必死に保ち、愛想笑いを浮かべた。


「え、ええと……私は田舎の出身でして、ちょっとお掃除の裏ワザに詳しいだけなんです! 昔のおばあちゃんの知恵袋的なやつです!」


 苦しい。

 マリアナ海溝より深いレベルで苦しすぎる言い訳だった。


 案の定、賢いレオン様はそんな雑な嘘で納得するはずがなかった。

 彼は裸足のまま、完全に浄化された床をゆっくりと歩き、部屋の中央に立つ私へと近づいてきた。

 部屋の空気が劇的に軽くなり、魔力循環が正常化したおかげか、先ほどよりも彼の足取りはずっとしっかりしている。


 彼はそっと新しくなった壁に触れ、透明な窓辺に立ち、そして光の魔法陣がうっすらと染み込んでいる床を見下ろした。


「……瘴気が、全くない」


「しょうき?」


 私はすっとぼけてきょとんとしてみせる。


「ずっと……この部屋にいると、頭が割れるように重かった。息も苦しくて、夜は悪夢ばかり見て眠れなくて、体が鉛みたいに冷たかった。……でも、今は、全然苦しくない。すごく、温かい」


 レオン様は自分の小さな両手を胸元に当てた。

 信じられない、というように。自分の体に起きている劇的な回復を確かめるように。


「……あ」


 その時、私は彼越しにあるものに気がついた。


 部屋の四隅、天井の境界、扉の枠、そして窓ガラス。

 そこに、先ほどの白金色の光の線が、非常に薄い幾何学模様となってうっすらと焼き付いているのだ。

 まるで、目に見えない強固なガラスの壁が、部屋を丸ごと包み込んでいるかのように、空気がそこでわずかに屈折して揺らめいていた。


 試しに、私が窓辺に手を伸ばしてみると、

 ふわっ、と。

 柔らかいが、絶対的な拒絶を伴う魔法的な反発力が返ってきた。


「えっ、なにこれ。壁?」


 結界だ。


 ゲームの知識を持つ私には一目でわかった。

 しかも、そこら辺の魔術師が張るようなチャチな物理障壁じゃない。

 外部からの物理攻撃、魔法攻撃、毒ガス、精神干渉、そして悪意そのものを完全に弾き返す、ゲーム終盤のボス戦でしかお目にかかれないような『絶対防衛結界』だ。


 私が自分のしでかした事の重大さに絶句していると、レオン様がぽつりと、確信に満ちた声で呟いた。


「……聖域だ」


「はい?」


「僕、一度だけ本で読んだことがある。大聖堂の最奥にある、神様が降り立つ祭壇は、あらゆる邪悪を退ける光の壁に守られているって。……それと、同じ空気がする」


 大聖堂の最奥って、あの国王陛下ですら立ち入りを制限される国宝級の神聖エリアのことですか?

 私は詳しく知らないが(ゲームでは背景CGでしか出なかったし)、少なくともメイドの日常的なお掃除でヒョイッと再現していい場所ではないことだけは確かだ。


「え、ええと! 部屋の空気がきれいなのは良いことですよね! 健康第一! これで夜もぐっすり眠れますね!」


 私は冷や汗を拭いながら、無理やりポジティブにまとめに入った。


 しかし、レオン様はそんな私を、静かに、じっと見つめ上げていた。

 昨夜の怯えきった小動物のような目とは違う。

 もっと静かで、深くて、そして――熱い粘度を持った、縋るような視線。


「クロエ」


「はい」


「昨日も、今日も……どうして、僕にこんなすごいことをしてくれるの」


 また、その質問だ。


 でも今回は、昨日よりずっと重く、彼の魂の根幹に関わるような真剣な問いだった。


 私は少しだけ考え、スカートを少し持ち上げてしゃがみ込み、彼と目線をまっすぐに合わせた。


「昨日も言いましたよ」


「……好きだから?」


「はい」


 私が屈託なくにっこりと答えると、レオン様の白く長い睫毛が、ふるりと震えた。


「私は、あなたに元気で笑っていてほしいんです。ちゃんと温かいベッドで眠って、美味しいご飯を食べて、誰にも邪魔されない安心できる部屋で過ごしてほしい。……ただ、それだけです」


 それは、打算でも何でもない、私の心からの本音だった。


 推しには、絶対に幸せでいてほしい。

 理不尽で辛い目に遭わず、温かい光の中で笑っていてほしい。

 それって、ファンとしてそんなにおかしなことだろうか。


 でも、生まれつき誰からも無条件の愛を与えられず、「利用価値」か「憎悪の対象」としてしか扱われてこなかったレオン様にとっては、私の言葉はまるで理解できない異世界の概念のようだった。

 彼は目を見開き、信じられないものを見るように私の顔を探った。


「……見返りも、要求しないの?」


「見返り?」


 私は真顔で首を傾げた。


「レオン様が元気で幸せそうにしてくれているお姿を見られるだけで、私にとっては大勝利ですが? むしろ福利厚生が良すぎてこっちがお金を払いたいくらいです」


「ふくり……こうせい?」


「あっ、いえ! とても大切で、無償で応援したい人、みたいな意味です!」


 危ない。またオタク用語と社畜用語が混ざった。

 でも、私の「あなたからの見返りなんて一切求めていない」という真意は、たぶん通じたはずだ。


 レオン様は、しばらくの間、息をするのも忘れたように黙っていた。

 それから、まるで火に触れるかのようにためらいながら、一歩、また一歩と私の方へ近づいてきた。


「……僕は」


 彼の声は、消え入りそうに小さい。


「僕は、公爵家の子だけど……母様には嫌われてるし、父様も僕を見ない。お金も権力も、君に渡せるものは何も持っていない。君をこんなすごい魔法使いだと知ったら、きっと悪い大人たちが君を利用しようとする……。僕は、君を守る力もない。何も、返せない」


「そんなの、一切気にしなくていいです」


「でも……っ」


「いいんです」


 私は、彼の言葉を遮るように、はっきりと、力強く言った。


「あなたは、そこにいてくれるだけでいいんです。レオン様の存在そのものが、私にとっては奇跡みたいなものなんですから」


 その瞬間。


 レオン様は、まるで雷に打たれたような、あるいは世界の真理を悟ったような顔をして、大きく息を呑んだ。


 あ、また何か大袈裟なこと言っちゃったかな、重かったかな、と少し不安になる私をよそに。

 レオン様は静かに唇を強く引き結び、そして次の瞬間、私のエプロンの端を、両手でぎゅっっっと強く握りしめた。


「……っ」


 昨日の夜、地下室で私の袖を掴んだ時より、ずっとずっと強い力。

 絶対に、何があってもこの手を離さないという、幼いながらも強烈な執着を感じさせる力だった。


「……クロエ」


「はい」


「ここに、いて」


 蒼い瞳が、私だけを映し出して真っ直ぐに見つめてくる。

 その瞳の奥底に、小さな、けれど決して消えることのない暗い炎が灯ったのを、私はまだ知る由もなかった。


「僕のそばに、ずっといて」


 私は、その上目遣いと懇願の声に、一秒で陥落した。


 だめだ。

 無理。可愛すぎる。尊すぎる。

 こんな最推しのお願い、神の命令よりも重い。断れるわけがない。


「はいっ! もちろんですとも!」


 私が鼻息荒く即答すると、レオン様はわずかに目を丸くした。

 自分がこんなにすんなりと受け入れられることに、まだ慣れていないのだろう。


 でもすぐに、ほんの少しだけ、彼の強張っていた頬の筋肉が緩み、力が抜けた。


 それは、明確な「笑顔」と呼ぶにはあまりにも微細な変化だった。

 けれど、昨日の地下室で見た絶望の顔を知っている私には、それがどれほど巨大で、尊い第一歩なのかが痛いほどわかった。


 私は胸の奥がじんわりと温かく、そして熱くなるのを感じながら、心の中でガッツポーズを決めた。


 よし!

 ミッション第一段階、完了!


 完全無欠の安全な居場所の確保。

 ついでに、部屋ごと神殿レベルの超絶対防御結界化に成功!


 ……うん、ちょっと予定より大掛かりで目立つことになった気もするけど、細かいことは気にしない。結果オーライだ。

 これで、継母のエルザ夫人が何かの嫌がらせをしようと部屋に入ろうとしても、結界に弾かれて物理的に一歩も入れないはずだ。ざまぁみろである。


「では、お部屋もピカピカになりましたし、次はさっそく、厨房から温かい紅茶と朝ごはんを運んできますね!」


「あさごはん……」


「はい。育ち盛りなんですから、お肉も野菜もモリモリ食べましょうね!」


 私が意気揚々と立ち上がろうとすると、エプロンを握っていた手が少しだけ緩み、レオン様が小さな声で呟いた。


「……クロエ」


「はい?」


「……ありがとう」


 それは、かすれた、小さな声だった。

 でも、昨夜のような絶望の中のうわ言ではない。

 ちゃんと自分の意思で、明確な感謝と好意を持って、私に向けられた言葉だった。


 私は、思わず今日一番の満面の笑みを浮かべた。


「どういたしまして!」


 ――この時の私は、自分のしでかした事の本当の意味を、まだ全く理解していなかった。


 私が「ちょっと念入りに」発動した【お掃除魔法】が、古代神殿の最奥にのみ存在するという『神聖防衛結界』そのものであり、後々、エルザ夫人がレオンに刺客を送り込んでも全てこの見えない壁に跳ね返され、彼女を恐怖と発狂の淵に追いやることになるなんて。


 そして、この日から。

 レオン様が本気で私を“ただの優しいメイド”ではなく、“自分だけを救いに降り立った、絶対に手放してはならない唯一の女神”として認識し、その重すぎる執着と狂愛の根を深く張り始めることになるなんて。


 春の光が差し込む、清められた絶対安全な聖域の部屋で。


 小さな公爵令息は、まだ誰にも気付かれないまま、静かに、しかし確固たる一つの決意を胸に芽生えさせていた。


 ――この人は、僕の世界を変える奇跡だ。

 ――だから、僕の命に代えても、絶対に、誰にも渡さない。


 そして私は、そんな彼の激重な内心の変化など露知らず。

 ただただ能天気に、ウキウキと今日の朝ごはんのメニューを考えていたのだった。


 よかった……!

 これで推しが、カビと呪いの部屋で寝なくて済むぞー!


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― 新着の感想 ―
作者様の物語でよくあるのですが、前のページに書かれいるような事がまた書かれていて重複していたり、辻褄が合わなかったりするのが気になります。 今回の場合は1でレオンの部屋を綺麗にしたはずなのに、2でまた…
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