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第16話 逃亡失敗、そして溺愛監禁の始まり

 終わった。


 完全に、私の人生の第二章(スローライフ編)は、始まる前に終わった。


 それが、夜明け前の薄暗い街道のど真ん中で、行く手を阻むように立ち塞がっている『彼』の姿を見た瞬間の、私の極めて率直な感想だった。


 ガタガタと揺れていた乗り合い馬車は、急ブレーキをかけたようにピタリと停止している。

 薄く白み始めた冬の空の下。

 荒野に続く一本道のド真ん中に立つその姿は、一幅の宗教画のように美しく、そして――あまりにも、現実離れした恐ろしさを放っていた。


 夜空の星屑を溶かしたような、美しい銀灰色の髪。

 夜の冷気をそのまま刃にしたような、極寒の蒼い瞳。

 神がノミを振るって造形したかのような整いすぎた顔立ちは、普段の私なら「今日も推しの顔面が国宝級! ありがとうございます!」と拝み倒すほどに見惚れるはずなのに、今の私にはそんなオタク特有の余裕は一ミリも残されていない。


 なぜなら、純粋に、死ぬほど『怖い』からだ。


 いや、言い方が悪い。誤解なきように言っておくが、レオン様ご本人が幽霊や魔物のように怖いわけではない。

 彼が今この瞬間に全身から纏っている空気が、完全に“ご主人様を追ってきた忠実な大型犬”などではなく、“絶対に逃がしてはならない唯一の獲物(私の命)を捕捉した、飢えた最強の捕食者(絶対覇王)”のそれだったからだ。


 ゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォッ……!


 目に見えない、けれど肌をビリビリと焼くような圧倒的で暴力的な『魔力の重圧プレッシャー』が、街道一帯の空気を完全に支配し、重力を捻じ曲げている。

 馬車を引いていた屈強な二頭の馬は、白目を剥いて口から泡を吹き、完全に膝を折ってガクガクと痙攣している。

 手綱を握っていた初老の御者も、同乗していた旅商人も老婦人も、全員がカエルのように喉をヒュクヒュクと鳴らし、絶対的強者を前に気圧されたように完全に黙り込んで、息を潜めていた。


「……うそ、でしょ……」


 私の喉の奥からかろうじて漏れたのは、その情けない掠れ声だけだった。


 どうして。

 早すぎる。早すぎるなんてもんじゃない。

 だって、彼への『退職願(お別れの手紙)』は、つい一時間ほど前に執務室の机に置いたばかりだ。まだ朝にもなっていないし、屋敷の誰も起きていないはずで。

 絶対にバレないように、私の家事魔法で匂いも足音も魔力も完全に消して、完璧な逃走ルートを構築したはずなのに。


 なのに、どうして彼は今、息一つ乱さずに、私の目の前に立っているのだ。


 しかも、その冷たすぎる蒼い瞳で、馬車の窓枠にへばりついている『私』だけを、一寸の狂いもなく正確に捕捉している。


 ザッ。ザッ。


 レオン様は、ゆっくりと一歩、また一歩と、軍靴の音を響かせて馬車へ近づいてきた。

 その足取りは恐ろしいほどに静かで、一切の乱れがない。

 けれど、彼が一歩近づくごとに、私の中の『逃げ道』という概念が、物理的にも精神的にも完全に削り取られて、なくなっていく感じがした。


「……クロエ」


 地を這うような、心臓の臓腑を直接撫で上げるような低い声が、夜明け前の冷たい空気を震わせる。


 私は、ビクッと肩を大きく揺らした。


 だめだ。

 声まで怖い。

 いや、怒鳴り散らして激怒しているならまだマシだ。声のトーンが一切の感情を排したように静かすぎて、逆にサイコパスみがあって怖すぎる。


「こんな朝早くに。……私に黙って、どこへ行くつもりですか」


 私は、完全に石像のように硬直した。


 馬車の反対側の扉から飛び降りて逃げる?

 無理だ。この尋常じゃない魔力圧の中で、私の足が動く気がしない。

 魔法を使って空へ飛ぶ?

 もっと無理だ。剣聖をも超える神速の彼に、呪文を詠唱する前に秒で首根っこを掴まれて叩き落とされるのがオチだ。

 今の本気でキレているレオン様から、モブメイドの私が逃げ切れる未来ルートが、ゲームのバグ技を使ってもまるで見えない。


 沈黙に耐えきれなくなったのか、恐怖で震える御者が、ガチガチと歯の根を鳴らしながら恐る恐る口を挟んだ。

「ひぃっ……あ、あ、あのぅ、お貴族様……! こちらの、お、お客様のお知り合いで……?」

「ええ」

 レオン様は、私から一切の視線を外さないまま、氷のように冷たく、けれど狂おしいほどの熱を帯びた声で答える。

「私の、命よりも大切な人です。……私から、永遠に離れることなど許されない、私の半身です」


 やめてください。

 そういう、王都の劇場で役者が叫ぶような激重な愛の告白みたいな言い方は、私の心臓にも、巻き込まれた御者の精神衛生上にも悪いです。


 ほら見ろ。同乗していた旅商人が「あ、これ痴話喧嘩か貴族の駆け落ちの連れ戻しだ。俺マジで関係ないんで命だけはお助けを」と言いたげに必死に視線を逸らし、老婦人に至っては何かを完全に察したのか、「若いって激しくていいわねぇ……」と祈るように胸の前でシワシワの手を組んでニコニコしている。


 やめて。おばあちゃん。

 変な誤解を深めて、遠い目で青春を回顧しないで。これはそんな甘酸っぱいラブストーリーじゃなくて、限界オタクの夜逃げ失敗ホラーサスペンスだから。


「レ、レオン様……」

 私は、カラカラに乾いた喉から、ようやく震える声を絞り出した。

「どうして、ここに……」


 レオン様はそこで、ほんのわずかに、その美しすぎる長い睫毛を伏せて、目を細めた。

 けれど、それは決して私に見せるいつもの甘い笑顔ではない。

 いや、むしろ微笑んでいたとしても、絶対に安心してはいけない、獲物を追い詰めた捕食者の歓喜の笑みだ。


「どうして、ですか」

 彼は、氷を砕くような声で静かに繰り返す。

「あなたがいなくなったからです。私の世界から、光が消えたからです」


 ヒュッ、と。私の喉が情けなく鳴る。


 その一言に込められた、狂気的なまでの重さに、私は完全に言葉を失った。


「……手紙を、見ました」

「もうですか!? だって、まだ置いてから一時間も経ってないんですよ!?」

「私が昨夜、あなたに『今日は早く休んでください』と言ったのを覚えていますか?」

「は、はい……」

「あなたが自室に戻った後。……あなたが本当にちゃんと眠っているか、私が毎晩、あなたの部屋の扉の前から『寝息と魔力の波長』を確認しているのを知りませんか?」


「…………は?」


 今、さらっと背筋が凍るようなストーカー発言(新事実)が飛び出してきたんですけど!?

 毎晩!? 毎晩私の部屋の前で、私の寝息を確認してたの!? ヤンデレのセキュリティ管理、怖すぎる!!


「夜中の三時。……あなたの穏やかな寝息と気配が、屋敷から完全に消えました。私は心臓が止まるかと思いました」

 レオン様は、一歩、また一歩と、馬車の窓辺へと近づいてくる。

「急いであなたの部屋へ行き、あなたのクローゼットの荷物が減っているのを確認し、執務室へ向かいました。そして、机の上にあった、あのふざけた真っ白な封筒の『遺書』を見たんです。……頭がおかしくなるかと思いました」

「い、遺書じゃありません! 立つ鳥跡を濁さずの、円満な退職願です!」

「私にとっては遺書も同然です。あなたが私の傍からいなくなるということは、私の世界が完全に終わるということなんですから」


 その“頭がおかしくなるかと思った”という一言に、なぜか途方もない、血の匂いがするような執念を感じてしまって。私は馬車の座席で、半歩だけズルズルと後ずさった。

 いや、狭い馬車の座席だから、実質一センチくらいしか下がれていないのだが。


 レオン様は、馬車の窓のすぐ横に立つと、圧倒的な長身から、見下ろすように私を捉えた。

 蒼い瞳と、目が合う。

 その奥で燃える、ドス黒い炎。


 逃げられない。

 魂が、そう警鐘を鳴らしている。


「降りてください」


 静かな、絶対零度の命令。


「え、ええと……それは、その……」

「クロエ」


 低く、甘く、名前を呼ばれる。

 だめだ。彼にその声で名前を呼ばれると、私のメイドとしての、ファンとしての忠誠本能がバグって、逆らえる雰囲気が完全に消え去ってしまう。


 でも、ここで素直に馬車を降りたら、もう私の自由な人生は全部終わる気がする。

 ファンとしての美しい卒業も、完璧な夜逃げ計画も、隣町でオープンする予定だった『まったりスローライフ・カフェ構想』も、何もかも。

 そして何より、彼が未来に迎えるべき“本当のヒロイン(公爵夫人)”の席を、私が物理的に塞ぐことになってしまう。


「私は、その、ちゃんとお手紙にも書いた通りです!」

 私は、最後の勇気を振り絞って、窓枠にしがみつきながら叫んだ。

「私はもう、これからは、遠くの町から、あなたのファンとして応援を――」

「認めません」


 即答だった。


 あまりにも、コンマ一秒の迷いもない見事な即答だったので、私は一瞬、何を言われたのかわからなかった。


「……はい?」

「そんなもの、私が認めるわけがないでしょう」


 蒼い瞳が、夜明けの薄明かりの中で、狂気を孕んで冷たく光る。


 その瞬間、私は腹の底からハッキリと理解した。


 あ、これ。

 本当に、心の底からガチで怒ってるやつだ。


 今までこの七年間で見てきた、どんな敵に対する冷たい顔よりも静かで。三日前の親族会議での断罪の時よりも感情が凍てついているのに。

 その瞳の奥にある『私を手放さないという熱(執着)』だけが、火砕流のように異様に強くて、重い。


「ど、どうしてですか!?」

 私は、恐怖を誤魔化すように、半ばやけっぱちで言い返した。

「もうレオン様は、誰もが認める立派な当主になられましたし! 私みたいな素性の知れないモブが、これ以上いつまでも傍にいなくても、絶対に大丈夫ですし! これからは若き公爵様として、立派な奥様を迎えて、相応しい輝かしい未来があってですね――」

「だから?」

「だから……っ!」


 そこで、私の言葉が詰まった。


 だから、あなたの未来の邪魔になりたくない。

 だから、私は綺麗なうちに身を引くべきだ。

 そう、立派な大人のファンとして言いたかったのに。レオン様の、そのあまりにも切実で、捨てられたくないと泣き叫んでいるような深い目を見た瞬間。

 なぜか、私の喉の奥が、強力な魔法で塞がれたように言葉が出なくなってしまう。


「私は……っ」

 ようやく絞り出した私の声は、自分でも驚くほど、情けないほど弱々しかった。

「私は、ただの、あなたに仕える専属メイドです。それ以上でも以下でもないんです」


 言った。


 これまで七年間、彼との距離が近づきすぎるたびに、何度も何度も自分に言い聞かせて、口にしてきた言葉。私と彼を隔てる、絶対的な身分のシールド

 それを、最後の盾みたいに突き出した。


 すると、レオン様は、しばらくの間、何も言わなかった。

 ただ、窓越しに私をジッと見ていた。

 冷たくもなく、優しくもなく、ひたすら静かに。嵐の前の海のように。


 その沈黙が、やけに、永遠のように長く感じられた。


 やがて彼は、ほんの少しだけ、諦めたような、ひどく悲しげな息を吐く。


「……あなたは、まだ、そんなふざけたことを言うんですね」


 その声には、怒りよりも、深い絶望と失望に近いものが滲んでいた。


 私は、胸が刃物で刺されたように痛くなった。


「あなたは本気で、自分が“ただのメイド”という言葉だけで済むと、私がそれで納得してあなたを手放すと、そう思っていたんですか」

「え……」

「七年前。あの絶対の暗闇の地下室で、凍えていた私を、泣きながら強く抱きしめて」

「……っ」

「呪いの部屋を神殿のように浄化して。私を殺すはずだった毒を祓って。領地を救って。私に最強の剣を与えて。私を絶望から救い出して、奪われた公爵家を取り戻させて」

「そ、それは全部、メイドとしての業務の延長というか、私の『推しプロデュース』の一環といいますか……!」

「黙って」


 ピシャリと。

 有無を言わさない、絶対権力者の声で遮られた。


 私は、ビクッと肩を震わせて、完全に口を閉ざした。


 レオン様は、初めて、私に対してハッキリと怒りを露わにしていた。

 声を荒げて怒鳴るわけではない。

 むしろ、恐ろしいほど静かだ。

 でも、その静かさの中に、“あなたのその馬鹿げた言い訳(嘘)を、もうこれ以上一秒たりとも聞きたくない”という、激しい感情がハッキリと乗っている。


「あなたは、私のすべてを変えたんです」

 彼の声が、地を這うように低く落ちる。

「私の命も、私の死んでいた心も、私の絶望しかなかった未来も」

「……」

「なのに。私が一人で生きていけるほど立派に育ったから、はい終わり。あとは遠くから見守るから、さようなら。……本気で、そんな無責任な紙切れ一枚で済ませるつもりだったんですか?」


 完全に、図星だった。


 私は、ぐうの音も出ず、何も言い返せない。


「……ふざけないでください」


 その、吐き捨てるような一言に、私の心臓がドクンと大きく鳴る。


 見上げた先。

 レオン様の蒼い瞳には、今まで見たことがないほど、色濃く、激しい感情の濁流が渦巻いていた。


 怒り。

 焦燥。

 私に捨てられたという、血を流すような痛み。

 そして、それらすべてを飲み込むほどに――どうしようもなく深くて、狂気的で、重すぎる『愛と執着』。


「あなたが、私に対してどれだけ残酷で、無責任なことを言っているのか。……本当に、わかっていなかったんですね」

「む、無責任……?」

「ええ。極刑に値するほどの、重罪です」


 彼は、ついにしびれを切らしたように一歩、馬車の扉を強引にこじ開けて、中へ乗り込むように身を寄せてきた。

 同乗者たちがヒィッ! と悲鳴を上げて座席の隅へ固まる。


 近い。

 逃げられない。

 馬車の中に、彼が纏う冷たい夜気と、圧倒的なオスの気配が充満する。


「私に、あの夜、“生きて”と言っておいて」

「……っ」

「私があなたを絶対に“幸せにします”と、神のように誓っておいて」

「……」

「私に、温もりと、愛されることの喜びの全部を、自分の手で教え込んでおいて」

「……」

「今さら、あなただけが、私の世界からいなくなるなんて」


 最後の言葉は、彼の奥歯を噛み締める怒りと、捨てられた子供のような哀しみが混ざって、微かに掠れていた。


 私は、息を止めた。


 これまで七年間、彼の異常なまでの過保護さに触れて、何度も“この推し、ちょっと私への執着が重いかもしれない”と、オタクの勘で感じたことはある。

 でも、それをずっと見ないふりをしてきた。

 その彼の本音のドス黒い感情ヤンデレを、こうして逃げ場のない場所で、真正面から叩きつけられたのは、初めてだった。


 そして、彼の追及は、まだ終わらない。


「――『俺』から、本気で逃げられるとでも思ったのですか?」


 ゾクリ、とした。


 “俺”。


 彼が公爵家を継いでから、公の場でも、私と二人きりの時でも、ずっと「私」という落ち着いた一人称を使っていたのに。

 その『俺』という、むき出しのオスの自我が出た瞬間、空気が完全に、決定的に変わった。

 普段の外向けの“完璧な若き公爵(私)”ではない。完全に、感情の深いところ、理性をかなぐり捨てた本能から出た声だ。


 私は、完全に恐怖とトキメキのパニックで固まる。


「レ、レオン様……っ」

「降りてください」


 もう一度。

 今度はさっきよりも静かで、絶対に、神が相手でも逆らわせないという覇王の声。


 だめだ。

 もう本当に無理だ。ゲームオーバーだ。


 私は半ば涙目で、助けを求めるように初老の御者を見るが、御者は「いやぁ、今日の空は星が綺麗だなぁ!」と全力で明後日の方向を向いて視線を逸らしていた。

 ですよね。

 こんな恐ろしい貴族の痴話喧嘩(修羅場)、巻き込まれたくないですよね。


 老婦人はなぜか「あんなイケメンに熱烈に追いかけられるなんて、若いって最高ねぇ」みたいな顔をしてウンウンと頷いているし、旅商人は「私は荷物です、ただの荷物です」と言わんばかりに丸まって震えている。


 助けは、どこにもない。


「……っ、わかり、ました……」


 私は観念して、震える手でトランクを握りしめ、ガクガクと震える足で馬車の踏み台へと足をかけた。


 その、瞬間だった。


 グイッ!!! と。

 私の細い腕を、信じられないほどの強い力で引かれる。


「きゃっ!?」


 次の瞬間、私の視界が、空中でグルリと天地がひっくり返るように回った。


 何が起きたのか、私の脳の処理が追いつくより先に。

 私は、ふわりと重力を失って宙に浮き上がり――。


「えっ!?」

「遅いです。歩くのが」


 低い、吐息の混じった声が、私の耳元で直接響く。


 気づけば私は。

 トランクを落とし、夜明けの冷たい空気の中で、レオン様の逞しい両腕の中にすっぽりと収まっていた。

 背中と膝裏を支えられる、いわゆる『お姫様抱っこ(強奪バージョン)』である。


「ちょ、ちょっと待ってください!? 何してるんですか!?」

「待ちません」

「ここ、外です! 街道です! 人がいっぱい見てます!」

「私があなたを愛していることを、世界中に見せつけているわけではありませんが。別に誰に見られようと構いません。不服があるなら、見ている奴らの目を潰すだけです」

「結果的に特大の公開処刑になってます! やめて!」


 私は顔から火が出るほど真っ赤になり、彼から降りようとじたばたと暴れるが、彼の腕は鋼鉄の万力のようにビクともしない。


 嘘でしょ。

 昔から剣聖に鍛えられていたとはいえ、今のレオン様、三十代元社畜の成人女性である私を、びっくりするくらい羽毛のように軽々と抱え上げている。しかも、片腕だけの力でも絶対に逃げられる気がしないほどの、圧倒的な筋力差。


「お、お願いですから降ろしてください! 自分で歩けますから!」

「嫌です」

「嫌って何ですか! 子供ですか!」

「降ろしたら、あなたはまた、その細い足で、私の手の届かない遠くへ逃げるでしょう」

「それは……」

「ほら。図星でしょう」


 完全に、私の行動パターンを読まれている。


 私は言葉に詰まり、顔を真っ赤にしてますますじたばたともがいた。

 だが、レオン様は腕の拘束力をさらに強め、私を自分の厚い胸板にギュッと押し付けるだけだった。


「もう、絶対に……死んでも離しません」

「っ……」


 その、切実すぎる一言が。私の心臓に、ドスンと重く落ちる。


 朝焼けのオレンジ色の光が、少しずつ地平線から強くなっていく中で。

 私を見下ろす彼の横顔は、恐ろしいほどに整っていて、美しかった。

 でも今は、その美しさ以上に、私を失う恐怖に怯え、絶対に手放すまいとする、追い詰められた狂気的な男の顔に見える。


「あなたは、自分がいなくなれば、それが私の未来のためになるとでも思ったのでしょうが」

 彼は、私を軽々と抱きかかえたまま、屋敷の方角へ向けてゆっくりと歩き出しながら言う。

「そんなもの、ただのあなたの自己満足です。私にとっては、最大の迷惑であり、拷問です」

「うっ」

「私は、あなたにいてほしい」

「……」

「私の傍に」

「……」

「永遠に。ずっと」


 胸が、痛いほどに、激しく鳴る。


 その彼の言葉が、どういう種類のもの(愛)なのか。

 私はまだ、完全にきちんと理解できていなかった。

 いや、本当はオタクの勘で気づいているのに、あえて理解したくなかったのかもしれない。


 だって、私はただの一介のファン(モブ)で、

 彼に仕えるただのメイドで、

 ただ、私の最推しが、誰にも邪魔されず最高に幸せに生きてくれれば、それでいいと、自分の身の丈を弁えていたはずなのに。


 なのに今、彼のこの熱い腕の中で抱えられながら、耳元で聞かされているのは。

 そんなファンと推しという関係性のような、軽いものでは全然なかった。


「レオン、様……」

 私の声は、自分の感情が制御できず、情けないくらい震えていた。

「私は、そんな……あなたの隣に立つような、立派な人間じゃ……」

「わかっています」


 彼は、私の言い訳を即座に遮って、答えた。


「あなたは、自分の価値も、私のこの感情も、何もわかっていない」


 グサリと、核心を刺される。

 でも、否定できない。


「だから、私がこれから一生かけて、教えてあげます」

「えっ」

「何度でも。あなたが、私なしでは息もできないと泣いて理解するまで」

「ちょ、待ってください、なんか話がヤンデレのバッドエンドみたいで怖いです!」

「怖くありませんよ。私はあなたを愛しているんですから」

「その目が十分怖いです! 焦点が合ってないです!」


 私が半泣きで言い返しても、彼はまるで聞く耳を持たない。

 むしろ、獲物を完全に捕獲した安堵からか、少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「大丈夫ですよ、私の可愛いクロエ」

「何が大丈夫なんですか!?」

「もう二度と、あなたを不安にさせるものも、あなたを私から遠ざけるものも、すべて私が排除して近づけません」

「いや、そこじゃなくて、私の自由意志の問題で!」

「安心してください。……一生、俺のこの腕の中から、絶対に逃がしませんから」


 私は、完全に口を閉ざして、黙った。


 いや、もう黙るしかなかった。


 あまりにも真っ直ぐで。

 あまりにも重くて、狂気的で。

 冗談の余地なんて一ミリも存在しない、絶対零度の執着の声音で、そんなホラーチックな愛の告白(監禁宣言)をされてしまったら。限界オタクの語彙力では、もう何も反論できない。


 夜明けの冷たい街道を、私を抱いて屋敷へと戻る彼の足取りは、恐ろしいほど速く、そして力強かった。

 私は、彼に抱きすくめられた腕の中で硬直したまま、私の乗るはずだった馬車が、遠ざかっていくのを絶望的な気持ちで見つめた。


 国境の隣町。

 のんびりスローライフの小さなカフェ。

 遠くからの、安全で平和な推し活。


 私の思い描いていた自由な未来予想図の全部が。

 朝靄の向こうへ、ガラガラと音を立てて崩れ去って消えていくみたいだった。


 終わった。

 本当に、私の平穏なモブ人生は終わったのだ。


 私の穏便な“ファンとしての卒業計画”は、ここで完全に、最推しの実力行使によって瓦解したのである。


 ◇ ◇ ◇


 屋敷の巨大な鉄門へと戻る道のりの間、私は「重いですから」「もう歩けますから」と、何度か降ろしてほしいと必死に訴えた。


 だが、そのたびに。


「だめです。全く重くありません。羽のようです」

「お願いです、降ろしてください! 逃げませんから!」

「嘘ですね。あなたの言葉はもう信じません」

「信じてくださいよぉ……!」

「今は黙って、大人しく私に抱かれていてください」


 と、ピシャリと、ことごとく却下された。


 ひどい。

 私が丹精込めて育てた推しが、育ちすぎた結果。圧倒的な腕力と、論破する話術と、覇王の圧によって、完全に物理的に封じ込められている。


 けれど、何よりひどくて、私が自分自身に一番絶望しているのは。

 その彼の力強い腕の中が。

 自分の自由が完全に奪われているというのに、思ったよりずっと、温かくて、心地よくて、たまらなく『安心』してしまっている自分自身のオタク心(本能)だった。


 七年前。

 あの暗い地下室から、私が手を引いて連れ出した、冷え切っていた小さな手は。

 今や、私を簡単に抱き上げ、世界中のどんな外敵からも守り抜くほどに、大きく、逞しくなっている。

 その確かな体温と、狂気的なまでの愛の力強さに、どうしようもなく“愛され、守られている”と感じてしまって、私は自分のチョロさに腹が立った。


 違うでしょ、私。

 私は彼のために、身を引いて逃げようとしたのに。

 これではまるで、自分から檻の中(彼の腕の中)に嬉々として飛び込んだみたいじゃないか。


「……クロエ」


 屋敷の立派な門が見え始めた頃。

 レオン様が、ふいに優しい声で、私の名を呼んだ。


「はい……」

「帰りましょう。私たちの、家に」


 その、甘く囁かれた『私たち』という言葉が、妙に心地よくて、やさしくて、同時に逃げ場のない呪いのように重かった。


 私はもう、抵抗することも諦め、何も言えずに、ただ彼の胸に顔を埋めた。


 こうして、私の渾身の夜逃げ(退職)は、大失敗に終わった。


 絶対に見つからないと思っていた逃走ルートも。

 完璧な名文だと思っていた置き手紙も。

 隣町での夢のカフェ新生活も。

 全部まとめて、最推し本人のバグレベルの執着心と索敵能力によって、物理的に回収・粉砕された。


 しかも、ただ屋敷に連れ戻されたのではない。


 “俺から逃げるな”

 “ずっと傍にいろ”

 “一生、逃がさない”


 そんな、甘いラブコメどころか、明らかにホラーに近い激重なヤンデレ宣言付きである。


 これはもう、穏便でハートフルな『推しに溺愛されるルート』どころではない。

 何かが、私の手に負えない巨大な何かが、決定的に始まってしまった。


 ファンとしての美しい卒業どころか。

 むしろ、ここからが本当の地獄(本番)――みたいな、狂気と愛欲に満ちた顔を、レオン様が私を見下ろしてしているのが一番怖い。


 そして私はまだ、この時点では、自分のしでかした事の重大さを全然わかっていなかったのだ。


 七年前、地下室で私がただの親心で拾い上げた小さな命が。

 私の知らないところで、どれほど重く、深く、暗く、絶対に逃げ場のない『狂愛』へと育ち切っていたのかを。


 ただ一つ、ハッキリと確定していたのは。


 無自覚チートなモブメイドの“平穏なスローライフ退職”の夢は。

 若き氷の公爵様の圧倒的な愛によって、文字通り物理的に抱き潰され。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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後編も、近々アップロードいたします。

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