第15話 退職願と夜逃げ(ファンとしての卒業)
アルヴェイン公爵家を長年蝕んでいたエルザ夫人と義弟アルベルトが、極寒の流刑地へと永久追放されてから――三日後。
私は、深夜の自室の小さな木製デスクに向かい、真っ白な高級便箋を前にして、完全に石像のように固まっていた。
「…………」
インクをたっぷり含ませた羽ペンの先は、紙の数ミリ上でピタリと止まったまま、一文字も書けない。
いや、違う。
書けないんじゃない。
何度も書いて、何度も悩み、何度も「これじゃない!」とぐしゃぐしゃに丸めて捨てて、すでに目の前の便箋は五枚目なのだ。
足元のゴミ箱の周りには、失敗作の白い紙くずが雪玉のように無数に転がっている。
『拝啓、レオン様。今まで大変お世話になりました』
……違う、堅すぎる。まるで他人のようだ。
『レオン様が立派な覇王に成長されたお姿を最後まで見届けられて、私はオタクとして幸せです。思い残すことはありません』
……重い。重すぎる。しかも意味不明だ。これじゃ完全に事切れる前の遺書だ。
『公爵家も平和になり、そろそろ自立なさっても大丈夫そうなので、私は旅に出ます。探さないでください』
……何目線だ。どの口が言ってんだ。しかも絶対探されるやつだ。
「うう……っ、文章力がない……!」
私は、両手で頭を抱え、デスクに額をこつんとぶつけた。
決めた。
三日前、あの断罪の親族会議が終わった夜、北棟の庭で、私ははっきりと決意を固めたはずなのだ。
私の最推しであるレオン様は、もう大丈夫だ。
諸悪の根源だった継母も義弟も完全に排除され、公爵家の実権も財力も武力も、ほぼ完全に彼の手中に収まった。仕事もバケモノみたいにできるし、人も自由に動かせるし、剣も魔法も世界最強クラスで、顔の良さに至っては国宝を超えて世界遺産レベルだ。
もはや、前世の原作ゲームの設定を遥かに凌駕する、『理想の絶対覇王(推しの完全体)』である。
なら、彼を導く役割を終えたモブ(私)は、そろそろ綺麗に退場すべきなのだ。
これ以上、素性も知れない平民のメイドが彼の最側近として図々しくそばに居座り続ければ、若き公爵として王都の社交界を歩み始めた彼の輝かしい経歴に、「変な女を侍らせている」という余計な醜聞(影)を落とすことになりかねない。
何より私は、“ただのモブメイド”で、本来ならこの高貴な物語のメインステージに立ち入っていい人間ではないのだから。
……そう、この数日間、何度も何度も自分に理屈を言い聞かせてきた。
なのに、いざこうして『退職願(お別れの手紙)』を書こうとすると、鉛を飲んだように胸の奥がぎゅうぅっと苦しくなって、視界が滲んでしまう。
「いやいやいや、泣くな私。これはあれだよね」
私は顔を上げて、両手で自分の頬をパンッと叩き、涙腺に言い聞かせる。
「ただの、推しの卒業式みたいなものだから。そりゃ寂しいよ。だって七年間だよ? あの暗い地下室で出会ったあの日から、毎日一緒にご飯を食べて、私が手塩にかけて育ててきたんだもん。そりゃ、プロデューサーとしての親心的なものも湧くよね」
うん。
そうだ。
これはただの親心だ。
限界オタクとしてのファン心だ。
長年仕えたメイドとしての情もある。
だから、こんなに胸が引き裂かれそうに苦しいだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。断じて。
私は深く深呼吸をして、新しい便箋を手元に引き寄せた。
今度こそ、泣かずに書く。
推しの未来を邪魔しない、綺麗で完璧な『卒業の言葉』を。
『親愛なるレオン様へ
今まで、本当にありがとうございました。』
そこまで書いて、また少しだけ目頭がツンと熱くなる。
彼の、あの氷のように蒼い瞳や、私にだけ向けてくれる甘く無防備な笑顔が脳裏に浮かぶ。
だめだってば。
まだ泣くところじゃない。泣いたらインクが滲んで読めなくなる。
私は震える唇をギュッと噛み締め、一文字一文字、祈りを込めるように続きを書いた。
『あなたが立派に成長なさり、立派な当主として公爵家を背負って立つお姿を、一番近くで見届けられたこと。私は、心から幸せに思っております。』
羽ペンの先が、微かに震える。
『私の専属メイドとしての役目は、もう十分に果たし終えたと感じております。これからは、遠く離れた場所からではありますが、あなたの幸せと、さらなるご活躍を心よりお祈りしています。』
遠くから。
そう、遠くから。
自分で書いたこの言葉を見た瞬間、胸の奥が抉られるように変にひりついた。
もう、明日から彼のためにお茶を淹れることも、彼の手の温もりを感じることもないのだと実感して。
でも、書くしかない。彼を完璧な存在にするために。
『私はしばらくこの家を離れ、自分の人生を歩んでみようと思います。どうか、私を探さないでください。
七年間、本当に幸せな夢を見せていただきました。どうか、お身体とお仕事のしすぎにはお気をつけて。』
最後に、少しだけ迷ってから、本音を一言だけ書き足す。
『遠くから、ずっとずっと、あなたのことを応援しています。
クロエ』
書き終えた瞬間、私は羽ペンを置き、しばらくの間、息をするのも忘れて動けなかった。
夜の自室は、ひどく静かだった。
部屋の外からは、夜番の騎士たちが遠くの廊下を行き交う微かな足音と、冬の冷たい風の音だけが聞こえる。
私はそっと便箋を持ち上げ、インクを乾かしながら読み返す。
「……うん。これで、完璧」
余計な感傷は書いていない。
本当のことだけだ。
私はただ、推しが誰にも邪魔されず、最高の環境で幸せでいてくれればいい。
そのために、私は前世の記憶とチート魔法をフル活用して、ここまでやってきた。
だったら最後も、彼に無駄な執着をさせず、できるだけ迷惑をかけない形で、綺麗にフェードアウトするべきだ。
「よしっ」
私は、自分に気合いを入れるように小さく声を出し、手紙を綺麗に折りたたんで、封筒へ入れた。
涙の跡がついていないことを光に透かして確認してから、赤い蝋でしっかりと封をする。
これを、明日の朝、彼に直接手渡しで――いや、絶対にだめだ。
あんな、捨てられた子犬みたいな目で「行かないで」と言われたら、私の決意なんて一秒で粉砕されてしまう。絶対に無理になる。
となると、古典的だが『置き手紙』にして、深夜にこっそり消える(夜逃げする)しかない。
私は決意を固めると、音を立てないようにベッドの下から、あらかじめ用意しておいた古びた小さなトランクを引っ張り出した。
中身は、必要最低限のものだけ。
着替えの地味な平民用の服が数着。
メイドとしてのこれまでの給料(少しの貯金)。
霊薬園でこっそり採取した、換金用の薬草の種。
それから、前世の記憶を取り戻してから夜な夜なこっそり書き溜めていた、“いつか自分のカフェを開く時のためのメニュー案&経営ノート”。
そう。
旅立ち先(逃亡先)はもう、ずっと前からなんとなく決めていた。
このアルヴェイン公爵領からは馬車で数日かかる、隣国との国境付近にある小さな街道沿いの宿場町。
そこなら、王都からも遠く離れているから身分を隠して暮らしやすいし、商人の往来も適度にあるから、細々と小さな店をやるにはちょうどいい。
私の【家事魔法】をフル活用して、旅人たちに温かいバフスープと焼き菓子と、美味しいお茶を出す、小さな癒やしのカフェ。
前世の社畜時代では、資金も時間もなくてそんな余裕は微塵もなかったけれど。もしこの異世界で第二の自由な人生があるなら、絶対にやってみたいと密かに夢見ていたのだ。
転生して、他人のために生きた後に、その次の老後の人生まで設計しているのも変な話だけど。
でも、今の私はもう“レオン様をバッドエンドから救うためだけに存在する機能”ではなくなっても、いいはずだ。
「……たぶん」
小さく呟くと、やっぱり胸がキュッと少しだけ痛んだ。
◇ ◇ ◇
その日の夜は、緊張と寂しさで、ほとんど一睡もできなかった。
翌日も、私は極端にレオン様に悟られないよう、必死に“いつも通りの完璧なメイド”として働いた。
朝、彼の執務室に極上の香りの東方茶を淹れ。
午前中は、山積みの書類仕事の仕分けと補助をし。
午後は、北の霊薬庫へ行って帳簿と在庫の確認をし。
夕方には、大厨房でレオン様と騎士団への差し入れ用の、栄養満点の特製魔獣スープまで丁寧に仕上げた。
できるだけ、いつも通りに。
彼に少しの違和感も抱かせないように。
……完璧にこなしたつもりだったのだけれど。
「クロエ」
午後の執務室で。
書類からふいに顔を上げたレオン様が、低く静かな声で私の名を呼んだ。
「はい? 何でしょうか、レオン様」
「今日は、なんだかとても変ですね」
心臓が、ヒュッと止まるかと思った。
「えっ」
「朝からずっとです」
彼は手にしていた羽ペンをコトリと置き、氷のように澄んだ蒼い瞳で、私の心の奥底まで見透かすように真っ直ぐに見つめてくる。
「あなたは今日一日、ずっと……私に何か重大な隠し事をしているような、上の空の顔をしている」
鋭い。
鋭すぎる。
政敵の嘘を見抜く、その恐ろしい覇王の観察眼を、ただのメイドの私に向けないでほしい。
「そ、そそそんなことありませんよ? 私はいつも通りの有能なメイドですが?」
「あります。私の目は誤魔化せません」
「いえ、本当に、気のせいですってば」
「クロエ」
一段低く、凄みのある声で呼ばれる。
それだけで、ヘビに睨まれたカエルのように言い逃れしづらくなるの、本当にズルいと思う。
私は、顔を引き攣らせながら無理やり笑った。
「……す、少し、最近仕事が忙しくて、寝不足なだけです!」
「……また、夜更かしを?」
「はい! 昨夜はちょっと、遅くまで考え事をしておりまして」
「考え事? 何をしていたんですか」
「ええと……私の、将来設計を少し」
言ってから、致命的な失言だったと激しく後悔した。
ピタリ、と。
レオン様の目が、瞬きすら忘れたように止まった。
「将来設計」
「は、はい。まあ、その、いつかのための、ただの妄想というか……」
「いつか? それは、私と共に歩む未来の公爵夫人としての……」
「違いますよ!? 私は平民ですから!」
空気が、一瞬にして変わった。
執務室の温度が、物理的に数度下がった気がしたのは、たぶん気のせいではない。窓ガラスがミシミシと嫌な音を立てている。
私は慌てて、大火事になりそうな話を逸らそうと両手を振った。
「た、たとえば、私がおばあちゃんになった老後とかですね! どこか静かな田舎で、小さなお店でもできたらいいなーみたいな、そういう庶民の夢の話でして!」
「店」
「は、はい。通りすがりの旅人にお茶とか焼き菓子とかを出すような……」
「どこで」
彼から、一切の表情が消えていた。
いや、消えていたというより。
嵐の前の海のように、恐ろしいほど静かすぎる、絶対零度の顔になっていた。
「えっ」
「どこで、店を出す気ですか?」
私は一瞬だけ、嘘の地名すら思いつかずに答えに詰まり――それが、致命的だった。
レオン様の蒼い瞳が、スッ……と、刀の刃のように極限まで細まる。
「……クロエ」
「はいっ」
「まさか」
「いえ、まさかじゃないです! まだ何も!」
「何が、まさかじゃないと言うんですか」
低く、静かで、絶対に獲物を逃がさない捕食者の声。
私は完全に硬直した。
この人、勘が鋭い。
昔からそうだったけれど、今は特に、私に関することへの執着と察知能力が恐ろしいほどにバグレベルで鋭い。
私が少しでも自分から離れようとする変化を見せると、秒で気づいて空気が凍りつくのだ。
もうだめかもしれない。完全に怪しまれている。
いや、まだだ。
今ここで計画がバレたら、私の夜逃げ(退職)計画は水泡に帰す。一生この屋敷から出られなくなる。
「と、とととにかく! まだ老後の夢の段階で、何も具体的には決まっていませんので!」
私はペコリと深く頭を下げ、話題を強引に切り替えた。
「本日のところは、監査院からのこの急ぎの書類の決裁を先に済ませてしまいましょう! はい、ペンをどうぞ!」
強引に書類を突きつけて話を打ち切ると、レオン様は数秒間、何も言わず、微動だにしなかった。
ただ、私をジッと見つめるその沈黙が、ひどく、ひどく重かった。
やがて彼は、何か恐ろしい考えを飲み込むように静かに視線を落とし、ペンを受け取った。
「……そうですか」
それだけ。
それ以上追及されなかったことにホッとしたはずなのに、私はなぜか、ひどく後ろめたい罪悪感を覚えてしまった。
◇ ◇ ◇
そして、運命の夜。
公爵邸の明かりが落ち、騎士たちの見回りの足音も遠のき、屋敷がすっかり寝静まった深夜二時。
私は自室で、目立たない黒に近い濃紺の地味な平民用のワンピースへと着替え、上から顔を隠すための厚手で古びたフード付きマントを羽織った。
足元にあるトランクは小さい。機動力と持ち運びやすさ重視だ。
机の上には、赤い蝋で封をした『退職願(お別れの手紙)』。
その白い封筒へ視線を落とした瞬間、胸がまた、ギュッと締め付けられるように痛んだ。
「……行こう」
声に出さないと、自分の決意が鈍って、足が動かなくなりそうな気がした。
私は手紙を両手で大事に持ち上げると、そっと自室を出て、忍び足でレオン様の執務室へと向かった。
合鍵で音を立てずに中に入り、彼の綺麗に整頓された執務机のど真ん中に、その手紙をそっと置いた。
明日の朝、彼が執務室に入れば、きっと最初に見る場所だ。
いや、本当は見つけた瞬間に血相を変えて追いかけてきそうで怖いから、できれば昼過ぎくらいにもう少し遅く見つけてほしいのだけれど。
「……七年間、本当にありがとうございました。ごめんなさい、レオン様」
誰もいない暗い執務室で、彼がいつも座っている椅子に向けて、小さく呟いて深く一礼する。
それから私は、振り返ることなく部屋を出た。
音を立てないように、裏技の【生活魔法:足音消去(忍び足)】をかけながら、広大な屋敷の廊下を歩く。
北棟の夜は、ひどく静かだ。昔は瘴気が漂い、寒くて暗くて嫌な場所だったのに、今はちゃんと人間の住む温かい温度がある。
部屋のあちこちに、私が日々の家事でかけた魔法の気配が残っていて、神聖結界も、清浄な空気も、二人で過ごした生活の痕跡の全部が“ここがあなたの居場所だったんだよ”と語りかけてくるみたいで、少しだけ泣きそうになる。
でも、絶対に振り返らない。
階段を下り、
使用人用の狭い裏口の鍵を開けて抜け、
冷たい風が吹く広い庭を横切る。
冬の夜明け前。
空はまだ真っ暗で、星すら見えず、東の地平線の端だけがかすかに白み始めている。
私は息を殺して、屋敷の裏門の小さな通用口を抜けた。
うまくいった。
警備の騎士にも、誰にも見つかっていない。
「……よしっ」
私は、屋敷の敷地から完全に出たところで、小さく安堵の拳を握った。
事前に商人ルートで手配して頼んでおいた、乗り合いの長距離馬車は、公爵邸から少し離れた街道沿いの停留所に停まっているはずだ。
夜明けとともに、国境付近の隣町へ向けて出発する始発便。
巨大な貴族の屋敷からこっそり抜け出した、荷物の少ない地味な平民の小娘一人くらい、乗客の誰の記憶にも残らない。
私はフードを深く目深に被り直し、凍えるような街道へ向けて小走りで急いだ。
冷たい冬の空気が頬を刺す。
でも、足取りは不思議と思ったより軽かった。
寂しい。
ものすごく寂しい。
今すぐ屋敷に引き返して、いつものように朝の温かいお茶を淹れて、何でもない顔で「おはようございます、レオン様」と笑い合いたい。
でも、それではだめだ。
私は、この世界で“遠くから推しを見守るだけのファン”になるのだ。
それが一番きれいで、誰にも迷惑をかけないハッピーエンドな卒業だ。
推しの輝かしい人生に、モブメイドの私という余計な執着(汚点)を残さないために。
やがて、薄暗い街道沿いに、ランプを灯した古びた大きな馬車が見えてきた。
初老の御者が、寒そうに身を縮めて眠そうに欠伸をしている。
他の乗客はまだ少ない。分厚いコートを着た旅商人らしき男が一人と、大きな荷物を抱えた老婦人が一人だけだ。
「あの、すみません。国境の隣町行きで間違いありませんか?」
「おう、姉ちゃんか。もうすぐ夜明けとともに出るよ。早く乗りな」
私は心底安堵して、馬車の中へ乗り込んだ。
トランクを膝の上に抱え、一番奥の窓際の席に座る。
これで、終わりだ。
あと数分、もう少しだけすれば夜が明けて。
馬車が動き出して。
このアルヴェイン公爵領とも、あの美しすぎる愛しい人とも、少しずつ、永遠に距離ができていく。
私は、そっと窓の外の、流れていく景色になるはずの暗闇を見た。
ここからは、もう屋敷の影は見えない。
でもきっと、あの場所にはもう、私の知らない、彼が主役の輝かしい未来が動き始めているはずだ。
「……どうか、元気でいてくださいね」
誰にも聞こえない、震える声で窓ガラスに向かって呟く。
「ちゃんと夜は寝て、ご飯も残さず食べて、お仕事しすぎないで。たまには一人でも、お茶をゆっくり飲んで休んで……」
そこで、自分の言っていることの矛盾に少しだけ笑ってしまう。
「……まあ、たぶん最後のお仕事しすぎないっていうのは、あの性格じゃ無理かな」
あの人はきっと、私がいてもいなくても、相変わらず忙しく世界を飛び回るだろう。
でも、もう大丈夫。彼は最強だから。
そう、自分に言い聞かせて、強く思いたい。
御者が「さあ、出発するぞ!」と手綱を取る音がした。
繋がれた二頭の馬が、ブルルッ! と小さくいななく。
出発だ。
私の新しい人生の。
その、馬車がガタンと動き出そうとした、瞬間――。
ゾクリ、と。
私の背筋を、氷の刃で撫でられたような、尋常ではない悪寒が走った。
「……え?」
何かが、おかしい。
空気が、完全に変わった。
冬の明け方の自然な冷たさとは次元が違う、もっと濃くて、重くて、呼吸すら困難になるような、圧倒的な『魔力の圧』みたいなものが、一瞬で馬車の周囲の空間を完全に満たしたのだ。
「ヒィィッ!?」
手綱を握っていた御者が、悲鳴を上げて硬直する。
馬たちも、何かに怯えるようにブルブルと震え、ピタリと動きを止めて一歩も前に進まなくなった。
向かいの老婦人が、ガタガタと震えながら不安そうに外を見る。
旅商人が「なんだ!? 山賊か魔物か!?」と顔を青ざめて身を乗り出す。
私も、反射的に窓の外へと目を向けた。
まだ夜明け前の、視界の悪い薄闇。
誰もいないはずの、静寂に包まれた街道の数メートル先。
そこに――。
何かが、いた。
人影。
いや、見間違いであってほしいほどに見覚えのある、長身で圧倒的な存在感を放つ影。
周囲の空間を歪めるほどの凄まじい魔力を纏い。
夜明け前の白み始めた空を背にして。
まるで、世界の終わりを告げる死神のように、あるいは最初からずっとそこで私を待ち構えていたかのように、音もなく静かに立っている。
その、夜空の星屑のような銀灰色の髪が、風もないのに魔力の奔流でフワリと揺れていた。
「……うそ、でしょ」
私の喉が、ヒュッと引き攣って鳴る。
そんな。
馬鹿な。あり得ない。
まだ、私が置いた手紙を見つける時間じゃない。
まだ屋敷の誰も起きていないはずで。
絶対に誰にもバレないように、匂いも魔力も消して、逃走ルートだって時間帯だって完璧に選んだのに。
人影が、無音で一歩だけ、馬車の方へ前へ出た。
その、暗闇の中でもハッキリとわかる氷のように蒼い瞳が。
真っ直ぐに馬車の窓を――いや、厚いコートのフードで顔を隠している『私』だけを、逃げ場のない捕食者の目で、正確に捉え、射抜いている。
背中に、滝のような冷たい汗が伝った。
終わった。
私の逃亡計画が完全に終わったのだと、本能で理解した瞬間。
馬車の外で、御者が恐怖でかすれた声を漏らす。
「な、なんだ、あいつは……人間じゃねえ、バケモノか……!?」
だが、その先は続かなかった。
なぜなら次の瞬間、その人影(レオン様)の足元から立ち上った、大気を震わせるドス黒い魔力の気配だけで。
周囲の空気が、そして重力そのものが、完全に彼の支配下に置かれ、凍りついたからだ。
逃げられない。
この男の腕の中から、この世界のどこへ行こうとも、絶対に。
そう、魂のレベルでハッキリわかるほどに。
私は、トランクを膝に抱えたまま、窓際で石像のように完全に硬直した。
胸の鼓動が、警鐘のようにうるさく鳴り響いている。
頭の中は真っ白で、思考が完全に停止している。
なのに、目だけは、恐怖と圧倒的な引力に魅入られたように、目の前の影から一ミリも離せなかった。
レオン様。
どうして。
どうやって。
なぜ、こんなにも早く、私の完璧な逃亡を見破って、ここにいるの。
わからない。
私のオタクの頭脳では、今の彼のこの異常な執着の行動原理が、全く処理できない。
でも、一つだけ、確かなことがあった。
私の“推し活からの、綺麗なファンとしての卒業”は――。
たぶん、いや絶対に、私が思い描いていたような穏便な形では、絶対に終わらせてもらえない。
こうして、私の渾身の退職願と完璧な夜逃げ計画は。
夜明け前の冷たい街道で、想像を絶する最悪の形で発覚した。
置き手紙を残し、
小さなトランク一つで、
隣町行きの馬車へこっそり乗り込んで、自由になるはずだったのに。
その出発の先に待ち受けていたのは、自由な新生活の始まりなどでは決してなく。
怒りと、絶望と、そして逃げ場のない狂気的な『激重な執着』の魔力を纏った最推しによる。
明らかにただ事ではない、ホラーチックな“お迎え(強制送還)”だったのである。




