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第14話 若き公爵の誕生と、メイドの決意

 親族会議という名の苛烈な断罪劇において、エルザ元夫人と義弟アルベルトが極寒の『グランディア凍鉱山』へと永久追放されてから――早くも、一ヶ月の月日が流れた。


 その後のアルヴェイン公爵邸は、これまでの七年間が嘘のように、驚くほど静かで平穏な空間になっていた。


 いや、正確には「屋敷の空気を汚していた、不快で無駄な騒音が完全に消え失せた」と言うべきかもしれない。

 南棟のサロンで毎日わざとらしく響いていた、取り巻きの貴族婦人たちの下品な高笑いも。

 使用人たちの間にはびこっていた、夫人派か嫡男派かという不毛で陰湿な派閥争いも。

 レオン様を「呪われた無能」と嘲る、根拠のない悪意に満ちた噂話も。

 今はもう、この広大な屋敷のどこを探しても、チリ一つ残っていない。完全に浄化(駆逐)された。


 本館の広い廊下を歩けば、すれ違う使用人や騎士たちは皆、壁際に立ち止まり、深い敬意と絶対的な畏怖をもって、深く頭を下げる。

 長年誤魔化されていた領地の帳簿は、一セントの狂いもないほど完璧に透明化され、各地の代官からの報告も以前よりずっと迅速で明確になった。

 私が開拓した『北の霊薬園』から上がる莫大な利益は、公爵家の金庫をこれでもかと潤し、最新の装備を与えられた騎士団の再編と士気向上も絶好調。

 当主である父親(現公爵)は、もはや己の無能さと責任を突きつけられて完全にすっかり老け込み、表向きの来客用の席にただの置物として座っているだけで、領地と屋敷における実務の全権は、事実上すべてレオン様が完全に掌握していた。


 もう、誰の目にも明らかだった。


 このアルヴェイン公爵家は、名実ともに、若き天才であるレオン様のものだ。


「……すごいなぁ、本当に」


 私は、朝の澄んだ空気に満ちた、レオン様専用の真新しい豪華な執務室で、決裁待ちの書類をトレイに並べながら、しみじみと感慨深げに呟いた。


 七年前。

 あの絶対の暗闇に包まれた、カビ臭い地下室で。

 ボロボロの薄いシャツ一枚で、膝を抱えてガタガタと震えていた、あの不遇で可哀想な八歳の少年が。


 今では、この広大なアルヴェイン公爵家の絶対的な実権を握り。

 腐敗しきっていた領地を完全に立て直し。

 自分を害そうとする政敵を、氷のような冷酷さで次々と社会的に退け。

 誰もが「彼こそが次代の公爵にふさわしい、いや、彼以外にはあり得ない」と心から認め、平伏するほどの、圧倒的な覇王へと成長したのだ。


 もちろん、彼がその玉座に至るまでの七年間の努力は、並大抵の血の滲むようなものではなかった。


 あの伝説の剣聖ガレスによる、毎日が死と隣り合わせの地獄のしごき訓練。

 私のバグレベルの【家事魔法】による、異常な環境整備と超絶バフ飯の消化吸収。

 莫大な富を生む、霊薬事業の立ち上げと流通ルートの確保。

 自分に忠誠を誓う者だけを選別した、直属の騎士団の掌握。

 エルザ継母派の陰湿な暗殺や妨害工作の、徹底的な物理的排除。

 そして、何もしない無能な父親の尻拭いと、王都の古狸の貴族たちとの高度な政治的駆け引き。


 普通の十七歳の貴族の青年なら、どれか一つを任されただけでも、重圧で胃に穴が開いて逃げ出しているだろう。

 でも、レオン様は逃げなかった。全部、自分の頭脳と力でやった。

 全部、完璧にやり切って、結果を出して勝者となったのだ。


 私の推しが、あまりにも立派すぎて、そして努力家すぎて。

 私は朝から、感動のあまり目頭を押さえてちょっと泣きそうになっていた。


「……朝から、何を一人で泣きそうになっているんですか、クロエ」


 不意に、背後のゼロ距離から、チェロの低音のように響く甘い声が降ってきて、私は「ヒャンッ!?」とカエルのような変な声を上げて肩を跳ねさせた。


「レ、レオン様!?」


 バッと振り返れば、そこには今日も今日とて、神の傑作としか思えない圧倒的顔面国宝の最推しが立っていた。

 というか最近、本当に彼の美しさの完成度が高すぎて、直視するだけでオタクの目が潰れそうになる。


 肩口まで伸びた、月光を編み込んだような銀灰色の髪。

 凍てつく極北の湖みたいに透き通った、吸い込まれそうな蒼い瞳。

 長身で無駄のない、しなやかな獣のような体躯に、今日は室内用の簡素な黒いシャツとスラックスというラフな出で立ちのはずなのに、ただそれだけで一流の彫刻のように様になってしまう、致命的で暴力的なスタイル。

 それに加えて、対外的にはすっかり“若き冷酷公爵”として王都中に定着した、絶対的な落ち着きと、周囲をひれ伏させる覇気のオーラ。


 ……なのに。

 なんで私の前にいる時だけ、そんな足音と気配を完全に殺して、私の背中のすぐ後ろから耳元で囁くように現れるのはどうしてですか。暗殺者のスキルですか。

 心臓に悪いので、本当にやめていただきたい。


「な、泣きそうというか、ただの感動です」

 私はバクバクと跳ねる心臓をメイド服の上から必死に押さえながら、早口で誤魔化した。

「レオン様が、本当に立派な当主になられて……私、専属のメイドとして、もういつ死んでも悔いはないなと、過去を振り返って胸を熱くしておりまして」

「……朝から、縁起でもない死ぬなんて言葉を使わないでください。あなたが死ぬなら、私が世界を道連れにしますよ」

「規模がデカすぎるんですよ! 冗談ですから!」

「私は本気ですが。……それに、朝からそんなにうるさいほど心音を響かせて。あなたが油断しすぎているだけです」


 そう言って、レオン様は私のすぐ隣、肩と肩が触れ合いそうな位置へと一歩、自然に距離を詰めてくる。


 近い。

 近いですってば。

 十七歳の成長した大人の男の体温と、高級な石鹸の爽やかな香りが、私のパーソナルスペースを完全に侵食している。


 しかし、レオン様本人は、そんな私の動揺など全く気にした様子もなく、当然のように私の横から机の上を見下ろし、私が美しく並べた書類の束に目を通した。


「今日の午前の決裁分は、これだけですか?」

「はい! 領地の税収報告と、王都の監査院からの急ぎの確認書類だけ、優先して手前に出してあります」

「ありがとうございます。さすが私のクロエ、完璧な仕事ですね」

「いえいえ、お気になさらず! これが優秀な専属メイドの務めですので!」


 私が、胸を張って得意げにそう答えた、その瞬間だった。


 ピタリ、と。

 書類をめくろうとしていたレオン様の白く長い指が、空中で止まった。


「……また、それですか」


 彼の声から、先ほどまでの柔らかい甘さがスッと消え、急激に温度が下がった。


「え?」

「メイド」

「……はい?」


 何か、まずいことを言っただろうか。

 私がきょとんとして小首を傾げると、レオン様はなぜかひどく不機嫌そうに、氷のような蒼い瞳を細めて私を見下ろした。


「クロエ」

「はい」

「あなたは、もう少し、この屋敷における『自分の本当の立場と価値』を、正しく理解した方がいい」

「立場? 私の価値?」


 なんの話だろう。


「私は、アルヴェイン公爵家に雇われている、ただの給料制の専属メイドですよ? どこからどう見ても」

「……それを、私は全力で否定しているんです」


 静かなのに、妙に重く、強い執着を孕んだ声だった。


 私は思わず、パチパチと瞬きをする。


 最近、こういう謎の問答がたまにあるのだ。

 私が自分のことを「ただのメイド」とか「私はレオン様の裏方ですから」と謙遜するたびに、なぜかレオン様が、あからさまに不愉快そうな、それでいてどこか傷ついたような微妙な顔をするのだ。


 でも、事実だしなぁ。

 私は、前世でしがない社畜の限界オタクだった女が、乙女ゲームのモブメイドに転生しただけの、平民の存在であって。

 由緒正しきアルヴェイン公爵家の実権を握り、いずれ王家すら凌ぐ権力を持つことになるこの若き冷酷覇王とは、身分も立場も、天地ほどに違いすぎるのだ。


「でも、本当に、私はただの裏方ですし。レオン様がこうして立派になられた今、私が表に出るようなことは……」

「私にとって、あなたを裏方などで済ませるつもりは、一ミリもありません」

「はい?」

「……いえ。今はいいです。いずれ、嫌でも分からせますから」


 なんか、最後の方にすごく物騒で、背筋がゾクッとするような言葉が聞こえた気がするんですけど。よくない気がする。

 しかし、レオン様はそれ以上何も言わず、少しだけ苛立ったような手つきで書類の束を持ち上げ、重厚な執務用の革張りの椅子へと腰を下ろした。


 私は、彼のその態度に少しだけ首を傾げながらも、気を取り直して、部屋の隅の暖炉でお湯を沸かす準備に移った。

 執務前のお茶は、一日の活力のためにとても大事だ。

 特に最近は冬本番でひどく寒いし、若き当主代理として彼が処理しなければならない領地の話も、王都の貴族たちとの腹の探り合いも、心身を削る重たいものばかりだ。せめて朝のこの時間くらい、ちゃんと温かくて美味しいものを飲んで、ホッと一息ついてほしい。


「レオン様、今日は少しだけ、濃いめに強めに淹れますね。頭がスッキリしますから」

「……ええ。クロエの淹れてくれるものなら、私は泥水でも毒でも喜んで飲みますよ」

「それ、他の使用人や貴族が聞いたら、レオン様が狂ったと思って泣いて逃げ出すか、恐れおののくか、どっちかですね」

「私の狂気は、あなたにしか向けられていませんから、周囲の反応などどうでもいいです。それに、恐怖で平伏してくれるなら都合がいい」

「自分の悪役(冷酷)ムーブに自覚あるんですね……」

「ええ。あなたを守るための壁ですから」


 あるんだ。

 しかも、その冷酷さの理由が「私を守るため」とか、サラッと激重なことを言う。


 私は思わず、顔が熱くなるのをごまかすように、ポットのお湯の音に集中した。


 極上のお茶を淹れながら、私はちらりと、視線の端で彼の横顔を盗み見た。

 真剣な、氷のような表情で書類へ目を落とし、羽ペンを淀みなく走らせ、必要事項に次々と的確な指示を書き込んでいくその姿は。

 もう完全に、大人の“仕事のできる絶対権力者”のそれだった。


 ……本当に、私の『役目』は、もう終わりなのかもしれない。


 不意に。

 そんな、冷水を浴びせられたような静かな考えが、私の胸の奥をよぎった。


 お茶を注ぐ手が、ピタリと止まる。


 役目。

 そう、私のこの世界での『役目』だ。


 私はずっと、私の最推しである彼を、原作の理不尽な地獄のバッドエンドから救うために、ここにいた。

 彼の命と心を救うために、地下室の扉を開け、環境をチート魔法で整えて、最高の食事を作って、育てて、敵の悪意から守って、全力で支えてきた。


 でも、今のレオン様は。

 もう、私なんかが庇わなくても、自分の足でしっかりと立てる。

 どころか、私が裏から一切手を出さなくても、彼自身の圧倒的な頭脳と武力で周囲の人間を動かし、巨大な公爵家を治め、どんな強大な敵をも退けることができるのだ。


 最大の癌だった継母も義弟も、完全に退場(永久追放)した。

 原作にあった数々の理不尽な死亡フラグは、根こそぎへし折った。

 領地の財政も完璧に立て直した。

 父親から若き公爵としての実権も、完全に握った。


 だったら――。

 ただの“推し活”の延長でここまでやってきた私の役目は、もう、十分すぎるほどに完了したのではないか。


「……クロエ?」


 ハッとして顔を上げると、レオン様が書類から目を離し、不思議そうにこちらを見ていた。


「ポットのお湯、カップから溢れますよ」

「えっ、わっ、熱っ!」


 私は慌ててポットを傾ける手を戻し、テーブルを布巾で拭いた。

 危ない危ない。考え事に夢中になって、メイドとしての基本を忘れるところだった。


「すみません、少し、ぼんやりしてしまって」

「……何を、そんなに深刻な顔で考えていたんですか」

「ええと……」


 私は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 ここで、正直に「もう私がレオン様の傍にいなくても大丈夫そうなので、そろそろ暇をいただいて屋敷を出ようかと考えていました」と、言うべきか?

 いや、ダメだ。言ったらたぶん、彼は変に心配するし、絶対に引き留めようとしてくる。

 でも、適当な嘘で誤魔化すのも、彼にはすぐに見抜かれてしまいそうで苦しい。


「……これまでの、七年間の激動の日々のことを、少し振り返りまして。本当に、遠くまで来たなぁ、と」


 結局、当たり障りのない、ふわっとした答え方になってしまった。


 レオン様は、手にしたペンを置き、しばらくの間、無言で私をジッと見ていた。

 その蒼い視線が、妙に静かで、深くて、私の魂の奥底の嘘まで探り当てようとするみたいで。私は少しだけ、居心地の悪さに視線を泳がせた。


「……そうですか」

 やがて彼は、小さくそう言って、再び書類へ目を落とした。


 それ以上は、深く追及されなかった。


 なのに、なぜだろう。

 私の胸の奥に、小さなトゲが刺さったような、妙な違和感と罪悪感が残った。


 ◇ ◇ ◇


 その日一日、私はずっと、上の空でそのことばかりを考えていた。


 午前中、執務室でレオン様の補助をしながら。

 午後、広大な北の霊薬庫の在庫確認をしながら。

 夕方、厨房で彼のための極上の魔獣スープを仕上げながら。


 レオン様の成長と完成度は、誰の目にも明らかだ。

 もう、不審なモブメイドである私が傍にいなくても、彼は絶対に大丈夫だ。世界で一番幸せになれる。

 そう、頭では論理的に理解している一方で、胸のどこかが、ドロドロとした鉛を飲み込んだように落ち着かない。


 でも、私はその“落ち着かなさ”の正体を、あえて見ないふりをした。


 これはきっと、子離れならぬ“推し離れ”の、ただの寂しさだ。

 ずっと手塩にかけて全力で応援し、育ててきた最推しが、私の手から離れて立派な大人の男として巣立とうとしている。

 プロデューサー(ファン)として、それは本来、最も喜ばしい最高のハッピーエンドのはずなのに、ちょっとだけ自分の手持ち無沙汰さに胸がキュッとしているだけだ。


 うん。

 そういうことに、しておこう。


 夕食後、レオン様が領地の騎士団長との夜の会合に向かったのを見送った後。

 私は一人で、冷たい冬の風が吹く北棟の小庭へと出た。


 かつて、私が【土いじり魔法】で伝説の聖剣を掘り当て、レオン様の栄養補給のための薬草を育て、彼が必死に木剣の素振りをするのを、毎日座って見守っていた思い出の場所。

 冬の夜の空気は肺が凍るほど冷たいけれど、私が張った神聖結界のおかげか、肌を刺すような厳しい寒さではない。


 ふう、と吐いた白い息が、夜の闇に溶けて消えていくのを見ながら、私は満天の星空を見上げた。


「……終わったんだなぁ、私の仕事」


 ポツリと、夜空に向かって呟く。


 本当に、長かった。

 あの絶望の地下室の出会いから始まって。

 呪いの部屋の【お掃除】浄化、

 毒スープの【煮沸消毒】による超バフ化、

 魔獣肉の【時空魔法庫】による徹底的な栄養管理、

 呪われた北の沼の【草むしり】による霊薬園への開拓、

 伝説の聖剣発掘と、剣聖のスカウト、

 義弟との御前試合での圧勝、

 プロの暗殺者の【全自動洗濯】丸洗い、

 親族会議での【整理整頓】による大逆転劇、

 そして、諸悪の根源である継母たちの永久追放。


 全部、二人で乗り越えた。


 全部の死亡フラグを、完璧にへし折った。


 バッドエンドへ続く道筋ルートは、もうこの世界のどこにも残っていない。


 だったら――私は、そろそろ本当に、綺麗に身を引くべきなのだ。


 公爵家の絶対的な実権を握り、やがて社交界の中心で光り輝く『若き完璧な公爵』の隣に。

 素性も知れない、妙な魔法を使う“ただの平民のモブメイド”が、いつまでも一番近い側近のような顔をして居座っているのは、対面的にも政治的にも絶対に不自然だ。

 しかも私は、本人が思っている以上に、この公爵家の機密と彼の中枢へ入り込みすぎている。


 これ以上、私が彼の傍に執着して居座り続ければ。

 いずれ、高貴な身分の令嬢を正妻として迎えるであろうレオン様の、輝かしい将来と名誉に、余計な影(醜聞)を落とすことになりかねない。


「……一番綺麗な時に、未練なく遠くから見守るポジションに移行するのも、一流のファンの愛の形だよね」


 自分に言い聞かせるように、震える唇で呟く。


 そうだ。

 私はもともと、ただの一介のファン(限界オタク)なのだ。

 推しが不幸なバッドエンドを回避し、最高に幸せに、笑顔で生きてくれるなら、それで十分だ。

 彼の特別な隣の席にいることが、私の目的じゃない。

 むしろ、これほどまでに近くで、彼の素晴らしい成長の過程を一番の特等席で見届けさせてもらったのだ。


 これ以上の見返りを望むのは、オタクとしての出過ぎた真似(贅沢)というものだ。


 私は、冷たい手でぎゅっとエプロンの胸元を握りしめた。


 寂しい。

 少し……ううん、本当は、胸が張り裂けそうなくらい、すごく寂しい。

 でも、それでいい。

 愛する推しの完璧な未来を邪魔しないためなら、このくらいの喪失感、三十代の元社畜のメンタルなら平気で耐えられる。


「……クロエ」


 不意に。

 背後の闇の中から、ヒヤリとするほど低い、静かな声がした。


「ひゃんっ!?」


 またしても、足音も気配もゼロ!

 飛び上がるようにして振り返ると、そこには、騎士団長との会合に行っていたはずのレオン様が、夜の闇に溶け込むような黒い外套を羽織って、静かに立っていた。


「い、いつからそこにいらしたんですか!?」

「あなたが、『終わったんだなぁ』と空に向かって呟いたあたりからです」

「ほぼ最初からじゃないですか! 会合はどうされたんです!?」

「あなたがいなくて集中できなかったので、重要な指示だけ出して五分で終わらせて帰ってきました」

「職権乱用が過ぎますよ公爵様!!」


 私が顔を赤くして抗議すると、レオン様はわずかに、氷のような瞳を細めた。

 そのまま、足音も立てずに、スッ、スッと、肉食獣のような滑らかな歩みで私へ近づいてくる。


「こんな夜更けの冷える庭で、一人で何をしていたんですか」

「……少し、夜風に当たって考え事を」

「……また」

「はい?」


 何か言いかけて、彼は奥歯を噛み締めるように言葉を切った。

 その表情は、ひどく読み取りづらい。

 外の貴族たちへ向ける冷たい能面の仮面とも違う。かといって、私にだけ見せる甘くやわらかな顔とも少し違う。


 何か、巨大で恐ろしい衝動を、必死に鎖で縛り付けて堪えているような、ギリギリの顔だった。


「冷えます」

 結局、彼はそれだけを短く言った。

「あなたの体が冷たくなる前に、中へ戻りましょう」


 私は、一瞬だけ迷った。

 でも、今、彼と二人きりで温かい部屋に戻ってしまえば、固まりかけていた私の『卒業の決意』が、彼の甘さに絆されて揺らいでしまいそうな気がしたのだ。


「……すみません、もう少しだけ、ここで風に当たっていたい気分なので。レオン様は先にお戻りください」

 私が静かに、けれど明確に拒絶してそう答えると。

 レオン様の蒼い瞳が、スッ……と、刀の刃のように極限まで細まった。


「クロエ」

「はい」

「……最近、あなたは少し変です」

「えっ」

「私と目を合わせない。私の傍から離れようとする。一人で、いつも何か遠くの未来のことを考えている」

「そ、それは、気のせいで……」

「私に言えない、何か『隠し事』をしているんですか?」


 その鋭い刃のような問いに、私は完全に息を詰まらせた。


 言えない。

 というか、絶対に言えない。

 “あなたの推し活はコンプリートしたので、そろそろファンとして身を引いて、明日の夜にでも『夜逃げ(退職)』しようと計画を練っています”なんて、どうやってこの重すぎる青年に説明すればいいのか。絶対に閉じ込められる。


「……大したことではありません。ただの、メイドのとりとめもない悩み事です」

「私にとっては、あなたのすべてが『大したこと』です」


 地を這うような、重く低い声だった。


 私は思わず、ビクッと顔を上げる。

 そこには、いつもの静かなレオン様がいた。

 でも、私を見下ろすその瞳の奥の深淵だけが、ひどく暗く、ドス黒い、狂気のような熱を持ってドロドロと渦巻いていた。


「あなたのことは、髪の毛一本から、その思考のすべてまで、残さず全部……私が」


 そこで彼は、またハッとして言葉を切る。

 喉元まで出かかった、あまりにも危険で重すぎる『呪い(本音)』を、無理やり自制心で飲み込むみたいに。


 そして次の瞬間には、彼はまた、スッと深呼吸をして、もう元の静かで完璧な『冷酷公爵令息』の顔に戻っていた。


「……いえ」

 小さく首を振り、彼は自分の手で自分の顔を覆う。

「申し訳ありません。私が焦りすぎました。……今は、いいです」


 まただ。


 最近のレオン様は、こうして私に対して、何か決定的な言葉を言いかけては、強引にやめることがある。

 まるで、獲物を追い詰めるための『鳥籠』の準備が完全に終わるのを、じっと息を潜めて待っているかのように。

 そのたびに、私の胸の奥は、正体不明の警報アラートが鳴り響くように妙にざわつくのだ。


 でも私は、その彼の言葉の本当の意味を、あえて深く考えないようにした。


 深く考えたら、きっと、私自身の決意が鈍って、色々と取り返しがつかなくなるから。


「本当に、夜風は身体の毒です」

 レオン様は、私のすぐ目の前まで音もなく歩み寄り、彼が羽織っていた温かい黒い外套を、私の華奢な肩にふわりと優しくかけた。

「今日はもう、これ以上何も考えずに、私の傍でゆっくりと休んでください。クロエ」


 その彼の体温が残る外套の温かさと、抗えない距離の近さに、私は思わずこくこくと素直に頷いてしまう。


「は、はい……」

「……素直で、いい子ですね」

「今のは、レオン様の圧に逆らえなかっただけです」

「そうですか」


 彼は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、私の頭を撫でて、愛おしそうに笑った。

 けれど、その美しい微笑みの奥底で燃えているものが、今日はいつもより少しだけ、恐ろしいほどに重く、暗く見えた。


 私はそれを見ないふりをして、彼に肩を抱かれるようにして、一緒に屋敷の温かい中へと戻った。


 私の決意は、もう完全に固まっていた。


 あと数日。もう少しだけ、彼が公爵としての地盤を盤固たるものにするための準備を見届けたら。

 きちんと思い出の荷物を最小限に片づけて、彼には絶対に迷惑にならない形で、静かに置き手紙だけを残して屋敷を去ろう。(※夜逃げ)

 そして、このアルヴェイン領からは遠く離れた隣国の小さな村で、私の【家事魔法】を活かして、ひっそりと小さなカフェでも開いて、のんびりとスローライフを送るのだ。


 たまに、旅の商人たちから王都や領地の噂話を聞いて。

 あの人が、今日も元気に、強く、誰よりも美しく、絶対の覇王として生きていることを知れたら、それでいい。


 私は、それだけで、一生幸せに生きていける。


 ……そう、自分に何度も、何度も言い聞かせながら。


 この静かな冬の夜。

 若き公爵としての地位をほぼ完全に手にしたレオン様の隣で、私は静かに、彼への“限界オタクからの卒業(永遠の別れ)”を決意した。


 推し育成は、完璧に大成功した。

 バッドエンドの死亡フラグは、完全消滅した。

 だったら、次は用済みになったモブが、美しい物語の舞台から身を引く番だ。


 私のその独りよがりな選択が、やがて彼の逆鱗に触れ、どれほど恐ろしい『ヤンデレ覚醒の特大の導火線』に火をつけることになるのかも、全く知らずに。


 そしてその頃、私の肩を抱くレオン様の方もまた、心の中で静かに、私とは全く真逆の『狂った確信』を深めつつあった。


 邪魔だった継母たちが消え。

 父親の権限も完全に失われ。

 公爵家と領地、そして騎士団の実権は、今や完全に自分の手中にある。

 もう、彼がクロエを自分のものにするために邪魔をする障害は、この世界のどこにも、ほとんど残っていない。


 つまり――。

 ようやく、“彼女をこの腕の中に永遠に閉じ込め、絶対に失わないための『鳥籠(城)』の準備”が、完璧に整いつつあるということだ。


 もちろん、当のポンコツな私は、そんな彼の恐ろしい内心の計画には微塵も気づかず。

 ただ少し寂しく、そして少しだけプロデューサーとして誇らしい気持ちで、夜空を見上げながら思っていたのだった。


 私の推し、本当に立派な覇王になったなぁ……。(しみじみ)

 ここまで大きく、強く育ってくれたなら、もう私は彼の隣にいなくても、遠くのカフェから見守るだけで絶対に大丈夫だよね!

 ……ちょっとだけ寂しいけど、それもファンの幸せな『推し活からの卒業ハッピーエンド』だよね!


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