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第10話 7年後、顔面国宝の冷酷公爵令息が爆誕

 私が地下室で震える八歳の最推しを助け出し、前世のオタク知識とバグレベルの【家事魔法】をフル稼働させて『推し絶対覇王化育成計画』をスタートさせてから――早いもので、七年の月日が流れた。


 現在。

 王都の華やかな社交界や、血生臭い貴族たちの権力闘争の裏側では、ある一人の青年の名が、畏怖と絶望、そして狂熱的な憧憬とともに囁かれていた。


 レオン・フォン・アルヴェイン。


 北の最大派閥である名門アルヴェイン公爵家の正統な嫡男にして、わずか十五歳で無能な父親から領地運営の実務を完全に掌握した、実質的な若き公爵。

 あの伝説の剣聖すら「ワシの手に負えん怪物」と嬉しそうに舌を巻く神速の剣技。

 宮廷魔術師団長が「彼が本気を出せば、王都が半日で消し飛ぶ」と青ざめて警戒するほどの、底知れない規格外の魔力。

 そして何より――一度その氷のように蒼い瞳に見据えられれば、老練な政治家も、他国からやってきた誇り高い王女でさえも、一瞬で言葉を失い、魂を奪われるほどの『圧倒的かつ暴力的な美貌』。


 彼が社交界にデビューしてわずか二年。

 その名はすでに、ただの「優秀で美しい公爵令息」という枠を完全に逸脱していた。


『冷酷無慈悲な氷の貴公子』

『微笑みながら政敵の息の根を止める、北の処刑人』

『アルヴェインの美しい死神』


 ……などなど。

 そんな、中二病全開のろくでもなく物騒な二つ名が、王都の貴族たちの間で定着し始めているあたり、社交界というものは本当に噂好きで適当だと思う。


 もっとも、その恐ろしい噂の九割以上は、全くの誇張でも何でもない『ただの事実』でもあるのだけれど。


「……また、ですか」


 私は朝一番、公爵邸の本館にある豪奢な執務室で、ズキズキと痛むこめかみを指で押さえていた。


 目の前の重厚なマホガニーの執務机には、天井に届きそうなほど分厚い書類の束が、山のように積まれている。

 今年度の領地会計の黒字報告(※私が開拓した霊薬の園の利益が国家予算を超えた)、国境警備を担う騎士団の最新の再編計画、南方の巨大商会との独占契約案。

 そして極めつけは、“昨日、息の根を止めたばかりの継母(エルザ夫人)派の残党貴族たちの、資産差し押さえおよび一族追放リスト”。


 うん。

 重い。

 内容が物理的にも政治的にも重すぎる。


 だが、その恐ろしい書類の山の主は、対面の最高級の革張り椅子に深く腰掛け、信じられないほど涼しい顔で羽根ペンを走らせていた。


「クロエ。何か問題でもありましたか?」


 さらりとそう言ってペンを置き、こちらを見つめてくる青年は。

 私がかつて地下室で抱きしめた、“痩せ細って怯えていた、かわいそうな八歳の最推し”では、もはや全くなかった。


 長く伸びた銀灰色の髪はさらりと肩口を流れ、朝の光を受けて、まるで細いプラチナの糸のように白銀に輝いている。

 切れ長に成長した蒼い瞳は、極北の氷河のように澄み切っており、神がすべての黄金比を計算して造形したかのような整いすぎた顔立ちは、もはや存在するだけで周囲を平伏させる凶器だ。

 スッと通った鼻筋も、シャープな顎の線も完璧で、そこに『成長した大人の男』特有の、ゾクッとするような色気と鋭さまで加わっているものだから、うっかり真正面から直視すると私のオタクの心臓が物理的に爆発しそうになる。


 背も、信じられないほど高くなった。

 剣聖の過酷な訓練と、私が七年間毎日欠かさず食べさせ続けた特級魔獣肉(超絶バフ飯)の賜物で、十七歳とは思えないほど均整の取れた、しなやかな獣のような体格に仕上がっている。

 細身の黒い礼服越しでもハッキリとわかる、広い肩幅と長い手足。服の下には、無駄な脂肪が一切ない、彫刻のような筋肉が詰まっていることを私は知っている(※洗濯係なので)。

 まさに、顔面国宝にして最強の肉体を持つ、覇王の完成形だ。


 そして、それらすべての完璧な外見的要素を差し引いても、彼が一番「危険」なのは、その全身から常時漂っている空気だった。


 静かで。

 絶対零度のように冷たくて。

 そして、一切の隙がない。


 この七年間。

 継母のエルザ夫人や傲慢な義弟を、一切の情けを容赦なく徹底的に物理的・社会的に追い詰め。

 何もしない父親(公爵)から、当主としての実権と印璽を「事故に見せかけたクーデター」で完全に奪い取り。

 領地に蔓延っていた腐敗した貴族や役人たちを、ただ淡々と、虫でも潰すように物理的に整理(粛清)し。

 自分にとって真に必要な、優秀で忠誠心の高い人材だけを拾い上げてきた、その濃密すぎる七年間の血と権力闘争の歴史が、そのまま美しい人間の形になって座っているような男。


 それが、今のレオン・フォン・アルヴェイン(十七歳)である。


「問題しかありません」


 私は、自分の心臓の動悸を悟られないように、あえて重々しいメイドのトーンで言った。


「昨晩のうちに、敵対していた伯爵家の裏帳簿を暗部を使って押さえ、今朝の夜明け前には関連する商会をすべて物理的に封鎖し、さらに今日の昼までに、南部一帯の流通網をすべてアルヴェインの完全支配下(新体制)へ移す予定って、スケジュールがおかしくないですか? なんですかこの力技」

「効率重視です」

「効率の概念が、もはや戦争のそれなんですよ」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「違います」


 私が即答でツッコミを入れると、レオン様――いや、今や完全に“レオン様”というより“世界を裏で牛耳る魔王”に近い何かになっている私の最推しは、ふっと、薄い唇を綻ばせて笑った。


 ……笑うな。

 お願いだから、私に向けてその破壊力抜群の顔で笑うな。

 限界オタクの心臓がもたない。尊さで息が止まる。


「クロエ」

「はい、何でしょうか」

「朝からそんなふうに眉間に皺を寄せて難しい顔をしていると、せっかくの可愛い顔が台無しで、もったいないですよ」


 ……さらりと。

 本当に、息をするように自然に、そんなことを言う。


 私は数秒間、瞬きをするのも忘れて完全に停止した。


「…………はい?」

「ですから、あなたは無理に難しい書類など見なくていい。もっと私の傍で、いつもみたいに笑っていてください、と言ったんです」

「ちょっと待ってください、今、さらっと『可愛い』って言いました?」

「ええ。可愛いと申し上げました」

「いや、だからそこじゃなくて! なぜ朝一番の執務室で、そんな平然と人の理性を削るような爆弾発言を投下するんですか!?」

「不思議ですね。私はただ、私が世界で一番愛おしいと思っている真実を、そのまま口にしただけですが」


 信じられないほど、涼しい顔である。

 怖い。この男、本当に怖い。


 七年前は、私のエプロンの裾をきゅっと掴んで、私の後ろをひよこのようにちょこちょことついてくる、庇護欲をそそる儚げな美少年だった。

 それが今はどうだ。

 私が少しでも他の仕事に気を取られていると、後ろから足音もなく大型ネコ科動物のように背後に現れ。

 私の耳元、至近距離で甘い低音ボイスを囁き。

 平然と、一切の照れもなく、私のオタクとしての理性をゴリゴリと削ってくる、極めて危険な肉食生物に進化してしまっている。


 しかも、当の本人に「クロエをからかっている」という悪気や計算が一切なく、ただ『心からの本音を100%出力でぶつけてきているだけ』というのが、一番質が悪い。


「も、もう……っ! 冗談はそれくらいにして、真面目にお仕事の話に戻りますよ!」

「はい。クロエがそう言うなら」


 私が真っ赤になった顔を背けて強引に話を切り替えると、素直に「ふふっ」と笑って頷くあたりが、またズルい。


 私は一つ咳払いをして、山積みの書類の束をパラリとめくった。


 この七年間、私たちは本当に、目の回るような忙しさだった。


 私が【草むしり魔法】で引っこ抜いた北の沼地の主の跡地は、正式にアルヴェイン領の超厳重管理区域(主要霊薬生産地)となり、王家すら頭が上がらなくなるほどの莫大な利益と権力を公爵家にもたらした。

 庭から【土いじり魔法】で掘り当てた伝説の聖剣を手土産に、私は半ば強引に、辺境の酒場で飲んだくれていた隠居中の『剣聖ガレス』を見つけ出し、レオン様の専属の教育係として北棟へ引っ張ってきた。

 剣聖は最初こそ「公爵家の甘やかされたガキの面倒など、ワシが見るか!」と大層ご不機嫌だったが、レオン様が彼の前で一度だけ木剣を振った瞬間に、顔色を劇的に変えた。そしてその後は、なぜか「この歴史に名を残すであろう最高のバケモノ(逸材)を、ワシの手で最強に育て上げるのが楽しくて仕方ない」という、戦闘狂の偏屈老人へと見事に進化した。


 それに加えて、私が毎日錬成し続けた超絶バフ飯。

 呪いを一切寄せ付けない、完璧な神聖浄化結界つきの生活環境。

 魔力の流れを常に最適化する日々の生活魔法のケア。

 そして何より、レオン様自身の、血を吐くような凄まじい努力と執念。


 その結果、七年経ってどうなったかと言えば――。


 ……育ちすぎた。


 本当に、びっくりするほど、予定の三倍くらいはデカく(実力的に)育ってしまった。

 推しとして理想的に。

 いや、私が思い描いていた「立派な公爵」という理想のハードルを、遥か上空で飛び越えてしまった。


 剣術は、すでに剣聖から免許皆伝を叩きつけられるレベルの王国最強。

 魔法の威力と精密さは、もはや人間の規格外。

 頭脳は、老獪な政治家を赤子のように手玉に取るほどに切れる。

 顔は、言わずもがなの国宝級。

 しかも、対外的には氷のように冷酷で、誰もが近寄りがたい絶対零度の覇王のオーラを纏っているのに。

 なぜか、私と二人きりの空間(結界内)にいる時だけは、妙に距離が近く、過保護で、甘いのだ。


 何なのこの、冷酷覇王と甘えん坊の大型犬がハイブリッド融合したみたいな、奇跡の生き物。


「クロエ」


 再び、低く甘い声で呼ばれて、私は書類から顔を上げる。


「ひゃっ!?」


 気づけば、レオン様がいつの間にか執務机から音もなく席を立ち、私の座っている椅子のすぐ隣、真横に立っていた。


 近い。

 非常に近い。

 彼の長い足が私の膝に触れそうなくらい近く、彼が纏っている高級な香水と、清潔な石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。


「……また、子猫が驚いたような変な声が出ましたね」

「きゅ、急に背後から近づかないでください! 心臓が止まるかと思いました!」

「あなたが、私を無視して書類の数字に集中しすぎているからです。少し寂しかったので」


 そう言いながら、彼は長い腕をスッと伸ばし、私の手から一枚の決裁書類を事も無げに抜き取った。

 その際、彼の少しひんやりとした長い指先が、紙越しに私の指へ、意図的としか思えないほどゆっくりと、エロティックに触れて滑っていく。


 ドクンッ、と。

 私の限界オタクの心臓が、破裂しそうなほど大きく鳴った。


 私は慌てて、顔に集まる熱を隠すように視線を逸らす。

 だめだ。

 これくらい、いい加減慣れたと思ったのに、全然慣れていない。

 七年も一緒に生活しているのに、いまだにこういう「大人の男」としての至近距離の攻撃は、私には刺激が強すぎて無理だ。


「……ここの流通ルートの再編案は、私がすでに昨夜のうちに処理済みです」

 レオン様は私の隣に立ったまま、抜き取った書類の一行を、長い指でトンッと叩く。

「こちらの監査書類は、明日、王都から鬱陶しい監査官が来る前に、影の者に命じて完全に『もみ消し(整理)』させます。ですから、あなたは午後から、裏の霊薬庫の在庫確認だけを、のんびりとお茶でも飲みながら見ていてください」

「えっ、でも、この書類はこれからの公爵領の経営に関わる大事な……」

「私が全部やります。あなたは休んでいてください」

「いや、いくらレオン様でも、一人で執務を抱えすぎです! 過労で倒れますよ!」

「私の体力と魔力を舐めないでください。全く問題ありません」

「あります!」

「ありません。あなたに淹れてもらったお茶さえあれば、三徹でも余裕です」

「だからそれが問題だと言っているんです!!」


 私が立ち上がって反論し、彼を見上げると。

 レオン様は、不意にフッと表情を和らげ、私を見下ろすように少しだけ目を細めた。


「……クロエは、私が倒れるのが心配で、私の負担を減らしたいんですか?」

「メイドとして、そして何よりあなたの一番のファンとして、当然です!」

「なるほど。なら、私も全く同じ理由です」

「はい?」

「私の世界で一番大切な、あなたの細い肩にかかる負担を、これ以上一ミリも増やしたくない。あなたには、ただ笑って、私の傍で美味しいお菓子でも食べていてほしいんです」


 また、そういう激重なセリフを、呼吸をするように平然と言う。


 私は、思わず口をパクパクさせて閉じた。


 昔から、そうだ。

 この人は、時々びっくりするほど真っ直ぐで、重すぎる感情を、何でもない日常会話のトーンで口にする。

 しかも、八歳の頃なら「可愛いな」で済んでいたものが、十七歳の完成された覇王となった今、その破壊力が『顔面偏差値』と『声の低さ』と『身長差』によって、致死レベルの数百倍に跳ね上がっているのだ。


 ずるい。

 私の推しが、色んな意味で強すぎる。


「……と、とにかくっ」


 私は、爆発しそうな顔の熱を両手でパタパタと仰ぎながら、何とか三十代元社畜の平静を装った。

「私は、アルヴェイン家に雇われている『ただの専属メイド』なんですから、お給料分くらいはお役に立てることはきっちりやります!」

「……ただの?」

「はい。ただのモブメイドです」

「クロエ」

「はい?」

「この広大な公爵邸で、あなたのことを“ただのメイド”などと見下して思っている者は、すでに裏庭の土の下の肥料になった者を除いて、一人もいませんよ」

「えっ」


 私はきょとんとして、目を丸くした。


 すると、執務室の壁際で空気と同化するように控えていた若い執事見習いの青年が、ビクッ! と肩を大きく跳ねさせて、ガタガタと震えながら深く、深く、九十度のお辞儀をした。

 なんで今、あなたが反応したの。


「み、皆さんが私に親切にしてくださるのは、私が長くこの屋敷におりますし、その、レオン様が幼い頃からお世話をしている北棟の古株だからでして……」

「違います」

「……違うんですか?」

「ええ。全く違います」


 レオン様は、一刀両断に即答した。


「あなたが、私にとって『この命に代えても守り抜く、世界で最も大切な、唯一無二の伴侶(予定)』であり、あなたに逆らう者は私が一族郎党すべて物理的に消し去るということを、私の屋敷の者は全員、骨の髄まで理解している。……ただ、それだけのことです」

「…………」


 私は、完全に石像のように固まった。


 えっ。

 ちょっと待って。

 今、なんて?


 最も大切な伴侶(予定)? 逆らったら一族郎党消し去る?

 いや、たしかに長年専属メイドをやっているから、かなり近い立場(右腕的なポジション)であることは自覚している。

 自覚しているけれど。言い方。


 言い方が、強すぎるし、物騒すぎるし、なんか最後の方に聞き捨てならない単語(伴侶)が混ざってなかった!?


 後ろにいる執事見習いが、顔面を蒼白にしながら『だから言ったじゃないですか! 俺たち使用人は毎日レオン様の殺気に怯えながら生きてるんですよ!』と言わんばかりの必死な顔で、さらに深く頭を下げているのが視界の端に映る。

 何その空気。

 もしかして、私だけ何か、屋敷の重大な共通認識ルールを知らない?


「そ、それは……私が、幼い頃のレオン様を、少しだけお世話して育ててさしあげた恩義を感じてくださっているからであって……」

「ええ。あなたが私を、絶望の淵から救い出し、この手で育ててくれたからです」

「そ、そうですけど……」

「なら、私の認識と感情は、何も間違っていないでしょう。私はあなたに、私のすべてを捧げると決めているのですから」


 論理的には間違っていないのかもしれない。

 だが、私の心臓の耐久値的には完全にエラー(大問題)である。


 私はふらりと眩暈を覚え、視線を泳がせながら、なんとかこの甘くて重すぎる話題を変えようと、執務机の端へ手を伸ばした。


「と、とと、とにかく! 休憩も兼ねて、朝のお茶にしましょう! 朝の温かいお茶は、一日の活力のために大事ですからね! 私がすぐに淹れて……」

「お茶なら、もう淹れてあります」

「えっ」


 見れば、執務机の隅にある美しい銀のトレイの上に、すでに芳醇な湯気を立てる高級なティーカップが『二つ』、綺麗に並べて置かれていた。

 しかも、中に入っているのは、私が一番大好きな、王都でも滅多に手に入らない東方産の高級茶葉だ。


「い、いつの間に……」

「あなたが書類仕事に目を回して、眉間に皺を寄せている間に」

「……私の分まで、レオン様がご自身で淹れてくださったんですか?」

「当然です。私の淹れたお茶以外、あなたには飲ませたくありませんから」


 さらりと、独占欲の塊のようなことを言って頷かれる。


 しかも彼は、そのまま私の座る椅子の横へとスッと膝をつき、まるで騎士が主君に忠誠を誓うような優雅な動作で、カップをひとつ手に取った。


 えっ。

 まさか。

 いくらなんでも、それは。


「はい、クロエ。あーん、して」

「……はい?」

「朝から難しい顔をして頭を使っていたでしょう。糖分補給です。一口、どうぞ」


 差し出された、美しい装飾のティーカップ。

 そして、私を見上げて、極上に甘く、穏やかに細められた蒼い瞳。


 私は、口をパクパクと金魚のように開閉し、瞬きを繰り返した。


「いや、え、ちょ、待ってください」

「早くしないと、冷めてしまいますよ」

「いや、そうではなくてですね! 私メイドですし! レオン様は公爵様ですし!」

「ほら。口を開けて」


 完全に、“彼氏が彼女にする『あーん』”の至近距離だった。


 私は椅子の上で、カチコチに硬直する。

 後ろでは、執事見習いが『もう俺のことは空気だと思ってイチャイチャしてください!』とばかりに、壁に向かって完全に息を殺して気配を消している。

 見ないで。

 お願いだから、誰もこの光景を見ないで。私の尊厳が死ぬ。


「じ、じじ、自分で飲めますから! 手、空いてますから!」

「そうですか。……私が飲ませてあげたかったのに。残念です」

「本気で残念なんですか!?」

「ええ。とても」


 レオン様は、シュンと耳と尻尾を垂らした大型犬のように、本気で残念そうに目を伏せた。


 何なの。

 なぜそんな、母性本能をくすぐるような反則級の可愛い顔をするの。

 数秒前まで「敵対する伯爵家を物理的に潰した」とか恐ろしい報告をしていた、あの冷酷公爵令息と同一人物ですよね!?


 私が顔を真っ赤にしてわたわたしていると、彼は仕方なさそうにフッと微笑み、カップを直接私の手へと優しく持たせた。

 その際、彼の手が、私の指先ごとカップを包み込むように、意図的にゆっくりと添えられる。


 近い。

 彼の体温が熱い。

 推しの顔面が良すぎて、視覚情報の処理が追いつかない。無理。


「……少し熱いので、火傷しないように気をつけて」

「は、はい……いただきます……」

「ええ。ゆっくり飲んでください」


 耳元で囁かれる甘い声に抗えず、私は言われるがまま、彼の手が添えられた状態でお茶を一口飲んだ。

 ちょうどいい、完璧な温度。

 香りも、私が好きな濃さにバッチリと調整されている。

 悔しいほどに、美味しい。


「……すごく、おいしいです」

「よかった」


 その私の一言を聞いて、なぜか淹れた本人の彼の方が、心底ホッとしたように、そしてこの世の全てを手に入れたように、深く、満足そうに笑った。


 だめだ。

 本当に、私の心臓がだめだ。


 この七年間で、私の推しは、私の手によって立派に成長した。

 強くて、賢くて、美しくて――いや、色んな意味で、私の想定を遥かに超えて『育ちすぎた』。

 そして私自身はと言えば、いまだに彼の成長に精神が追いついておらず、“推しが今日も尊すぎてしんどい”で脳の思考回路がストップしてしまう、チョロい限界オタク(モブメイド)のままだ。


 たぶん、周囲の人間から見たら、公爵とメイドという身分を完全に無視した、だいぶ異常でおかしな関係性に見えるのだろう。

 だが私にとっては、これでもまだ「大事に手塩にかけて育てた最推しの、輝かしい成長を一番間近の特等席で見守れて幸せ」という『オタクとしての認識』が、九割以上を占めているのだ。


 残りの一割?

 ……そこは、見ないことにしている。見たら、色々と自分の感情に言い訳ができなくなるから。


「クロエ」


「ひゃいっ?」


 突然、ひどく真剣な低い声で名前を呼ばれ、私は変な裏声で返事をしてしまった。


「……今日の午後、王都から騎士団の視察と、面倒な貴族たちの挨拶回りがあります」

「はい。存じております。お着替えの準備は整えてありますよ」

「それがすべて終わったら。……夜は、私の部屋で、二人だけで一緒に夕食を食べましょう」


 私は、メイドとして自然に頷きかけて――はっとした。


「えっ、夕食なら、毎日私が作って、いつも北棟でご一緒していますよね?」

「ええ。毎日一緒に食べています」

「じゃあ、なぜわざわざ改まって誘うんですか?」

「……改めて、あなたを食事に誘いたくなったので。駄目ですか?」


 そんな、ちょっと拗ねたような、でも絶対に断らせないという甘い眼差しで、人の心臓を激しく揺さぶるな。


 レオン様は、私の返事を待ちながら、静かに、けれど逃げ場を塞ぐような熱を帯びた瞳でこちらを見つめていた。

 十七歳の、傾国レベルの美形が。あまりにも真っ直ぐに、まるで自分の求愛が受け入れられるのが世界で一番当然のことであるかのように。


 私は、彼のその瞳の引力に、完全に負けた。


「……はい。喜んで、ご一緒させていただきます」

「ありがとうございます。……楽しみにしていますね、私のクロエ」


 その瞬間、彼の表情が、これまでで一番甘く、ほんの少しだけとろけるように和らいだ。

 外の貴族たちや敵対者には決して見せることのない、私だけに向ける、無防備で柔らかな笑み。


 ああ、もう。

 この最高に尊い顔を見られるのが、世界で私一人だけだという事実だけで、推し活冥利に尽きるというものだ。

 たとえ最近、ちょっと――いや、かなり距離感とスキンシップの頻度がおかしくても。


 こうして、七年後のレオン様は、原作ゲームの設定をはるかに上回る“圧倒的最強の覇王兼・美形騎士候補”として、完璧な形で完成しつつあった。


 エルザ夫人の継母派閥は、彼の手によってほぼ物理的に壊滅。

 無能な父親の当主としての実権は、完全に剥奪されて名ばかりのお飾りに。

 領地経営は、私の開拓した霊薬バフもあって過去最高の超黒字。

 剣術も魔法も、人の枠を外れた規格外のバケモノ。

 社交界では「冷酷な死神」として恐れられ、使用人たちからは絶対の主として敬われ、騎士たちからは神のように畏怖されている。


 ――ただし、専属メイドである『クロエ』の前だけは、完全に別だ。


 私が淹れたお茶か、あるいは私に淹れてあげたお茶しか飲んで落ち着かず。

 私が少しでも視界からいなくなると、露骨に機嫌が悪くなって屋敷中が氷点下に凍りつき。

 時々こうして、まるで息をするように当然のこととして、ゼロ距離までスキンシップの距離を詰めてくる。


 本人はたぶん、幼い頃からの刷り込みで、私に甘えるのが普通だと思っている、無自覚なスキンシップなのだろう。

 少なくとも私は、必死に自分にそう言い聞かせて、まだそう思い込んでいた。


 推しが立派に、心身ともに健康に育ってくれて、ファンとして感無量!

 ちょっと、いやかなり私への分離不安(ヤンデレ気味)が強いのは、幼少期の過酷な虐待による愛情不足の反動かもしれないから、私が一生かけて、おばあちゃんになるまで彼の傍で見守ってケアしていかないとね!


 ……と。


 その頃すでに、このアルヴェイン公爵邸のすべての使用人や騎士たちの間では、とある『絶対の共通認識』が、とっくの昔に共有されていたのだが。


 若き絶対覇王であるレオン・フォン・アルヴェイン公爵令息にとって。

 あの『クロエ』という名の少女は、もはや“ただの専属メイド”などではない。


 彼の命。

 彼の魂。

 そして――彼の冷酷な世界において、唯一、絶対、神よりも何よりも最優先で愛され、守られるべき『逆鱗(未来の公爵夫人)』なのだと。


 もちろん、当のポンコツな私だけは、そんな屋敷中の緊迫した空気と、彼の強烈すぎる執着の矢印に一切気づかず、今日も元気に書類の山を片付けながら思っているのだった。


 推し、今日も顔が良すぎる……! 圧倒的国宝級……!

 しかも仕事がバリバリできて、世界最強クラスに強くて、私の前でだけちょっと不器用に甘えてくるとか、これ、推しのプロデュース(育成)大成功にもほどがあるんですが!? 最高かよ!!


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