第1話 最推しのバッドエンド前夜
その夜、私は銀の燭台を持つ手をひどく震わせていた。
カタカタと、燭台の飾りが微かに鳴る。蝋燭の頼りない火が揺れるたび、薄暗い廊下の壁に私の影が細長く、まるで化け物のように伸びては縮んだ。
ここは、王都でも屈指の歴史を誇る名門、アルヴェイン公爵邸の北棟。そのさらに最奥にある、地下へと続く隠し通路だ。
普段なら、私のような下働きのモブメイドが近づくことすら絶対に許されない絶対領域。見回りの騎士の足音が遠ざかるのを待ち、私は息を殺して冷たい石造りの床に足を進めていた。
心臓が、うるさい。
肋骨の内側からハンマーで叩かれているように、ドクンドクンと痛いほど脈打っている。
怖いからじゃない。
いや、嘘だ。怖い。ものすごく怖い。
もしここを歩いているところを見つかれば、ただでは済まない。今の公爵家を実質的に牛耳っている継母――冷酷無比なエルザ公爵夫人に知られれば、文字通り私の首くらい簡単に物理的に飛ぶだろう。あるいは、彼女の溺愛する我儘な異母弟に見つかっても面倒なことになる。
あの親子は、公爵家の正統な血を引くたった八歳の子どもに対してすら、一切の容赦がない悪鬼羅刹なのだから。名もなきメイドの命など、路傍の石ころよりも軽い。
それでも、私は行かなくてはならなかった。
なぜなら――今夜は、あの子の人生が完全にぶっ壊れる「運命の夜」だからだ。
「……はあ、はあ……落ち着け、私。深呼吸、ひっ、ふー……」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほどかすれ、情けなく震えていた。
私の名前はクロエ。この広大な公爵家に仕える、大勢いるメイドのうちの一人。
特徴といえば、少し手先が器用で、家事全般をこなすための『生活魔法』がちょっとだけ得意なことくらい。それ以外は全くの平凡な、モブ中のモブ。
……だった、はずだ。
たった三日前までは。
三日前の昼下がり。厨房で熱湯の入った巨大なスープ鍋をひっくり返しそうになり、床に頭を強打した瞬間――私の脳内に、滝のような勢いで『前世の記憶』が流れ込んできたのだ。
深夜のオフィス。エナジードリンクの空き缶。終電帰りの揺れる電車の中で、スマホ画面を血走った目で見つめながら泣いていた社畜の私。
寝不足になるほどやり込み、有給を消化してイベントを走り、攻略本よりも隠しパラメータの条件を把握し、給料の半分をグッズとガチャ課金に突っ込み、果ては二次創作の限界オタクと化していた、あの乙女ゲーム。
タイトルは――『花冠のレガリア ~運命に祝福されし乙女と五人の貴公子~』。
そして、この世界は間違いなく、そのゲームの舞台となる剣と魔法のファンタジー世界だった。
最初は、頭を打ったことによる幻覚だと思った。仕事のストレスでおかしくなったのだと。
しかし、公爵家の複雑な見取り図、意地悪なメイド長の名前、王都で流行している魔導具の噂、そして何より――この屋敷で冷遇されている「銀灰色の髪を持つ少年」の名前を聞いた瞬間、私は自分の置かれた現実をすべて理解してしまったのだ。
レオン・フォン・アルヴェイン。
『花冠のレガリア』の攻略対象の一人にして、私の命に代えても尊い、最推しのキャラクター。
月光を紡いだような銀灰色の髪に、凍てつくように冷たい蒼い瞳。誰よりも美しく、誰よりも気高く、圧倒的な魔力と剣術の才能を持ちながら――誰よりも不遇な、公爵家の正統なる嫡男。
彼には、信じられないことに「ハッピーエンド」が存在しない。
どのルートを選んでも、どこかで必ず彼の心か身体が壊れる。
幼い頃から継母に虐げられ、実の父である公爵には無関心で見捨てられ、能力の劣る異母弟からは理不尽な嫉妬をぶつけられ続ける。心を閉ざしたまま成長し、ようやく学園で出会った光属性のヒロインに少しだけ心を開きかけるが、最終的には他ルートの都合で彼女にも裏切られる。
そして最後は、公爵家に代々伝わる呪いの武具に魅入られ、人ならざる恐ろしい魔物と化して討伐されるか、国家反逆の濡れ衣を着せられて処刑台の露と消えるのだ。
彼が魔物と化し、討伐される瞬間の最期のスチル(一枚絵)を、私は今でも鮮明に覚えている。
自らの血に濡れた白銀の髪。
泣きながら剣を向けるヒロインと、他の攻略対象たち。
そして、彼が最後に浮かべる、あまりにも静かで、すべてを諦めきったような安堵の微笑み。
『――ああ、やっと。これで終わるんだな』という、悲しすぎる最期のボイス。
あのエンディングを初めて見た夜、私はベッドの上でスマホを抱きしめ、嗚咽を漏らして泣いた。
翌日は目が腫れすぎて会社を休んだ。
こんなの理不尽すぎる。運営は人の心がないのか。ファンディスクで救済ルートが出るはずだと信じて五年待ったが、出たのはアクリルスタンドの新作だけだった。
なのに。
まさかその「悲劇の始まりの日」に、モブメイドとして自分が立ち会うことになるなんて。
私は立ち止まり、ひんやりとした石壁に背を預けた。
目の前には、錆びついた重厚な鉄扉がそびえ立っている。
北棟のさらに奥、地下室へ続く階段の入り口だ。
他の使用人たちの間では、北棟の地下は「使われなくなった古いワインセラー」や「ガラクタ置き場」だと言われている。
だが、ゲームの公式設定資料集(特装版特典)を隅から隅まで読み込んだ私は、そこが本当は何のために使われていた場所なのかを知っている。
――反抗的な奴隷や、罪人を閉じ込めるための、拷問と監禁の部屋だ。
今夜、八歳のレオンはそこで一晩中閉じ込められる。
理由は「継母のドレスの裾をうっかり踏んでしまったから」という、あまりにもくだらなく、理不尽なもの。
水も食事も与えられず、毛布の一枚もない、ネズミと虫が這い回る極寒の暗闇の中。
彼は助けを求めて泣き叫ぶが、誰も来ない。
そこで彼は初めて、『ああ、この世界には、自分を救ってくれる人間なんて一人もいないんだ』と骨の髄まで理解するのだ。
それが、彼の美しい心が決定的に壊れる、最初の一歩。
正真正銘の、バッドエンド確定前夜。
「……そんなの、絶対に認めるわけないでしょ」
私の喉からこぼれた声は、恐怖で震えていたけれど、意志だけははっきりとしていた。
押し殺していた怒りが、胸の奥でマグマのようにぐらぐらと煮えたぎっている。
あの子は何も悪くない。
前妻の子として生まれたことも、規格外の魔力を持って生まれたことも、美しい顔をしていることも、何一つ彼の罪じゃない。
なのに、このクソみたいな大人たちは、自分たちの勝手な都合と嫉妬だけで、あんなに小さな子どもを寄ってたかって傷つける。
前世では、画面の向こうでただ泣くしかできなかった。
イベントをスキップせずに見守り、最後に課金して彼に貢ぐことしかできなかった。
「どうか幸せになって」と祈るだけで、彼の運命を何一つ変えてあげることはできなかった。
でも、今は違う。
今の私は、このふざけた世界の中にいる。
この手で触れられる距離に、手を伸ばせば届く場所に、彼がいるのだ。
「……行くよ。推しのために死ねるなら本望だわ」
自分に言い聞かせるように囁いて、私は重い鉄扉に両手を添え、力一杯押し込んだ。
きぃぃぃっ、と鼓膜を引っ掻くような耳障りな音を立てて、扉が少しだけ開く。
途端に、カビと埃の混じった冷たい空気が流れ出てきて、思わず肩をすくめた。地下へ続く石の階段はインクをこぼしたように真っ暗で、湿気を帯びた重い空気が肌にまとわりついてくる。
私は燭台の火を手で庇いながら、苔むした階段を一段ずつ慎重に降りていく。
こつ、こつ、と靴音が響くたびに、私の鼓動は限界を超えて速くなる。
もし途中で誰かに見つかったらどうしよう。
もう手遅れで、彼の心がすでに壊れてしまっていたらどうしよう。
モブでしかない私が声をかけたせいで、余計に彼を傷つけ、シナリオが悪化してしまったらどうしよう。
いくつもの不安が、黒い靄のように頭をよぎる。
けれど、そのどれよりも強かったのは、ただ一つの燃えるような感情だった。
助けたい。
私の推しを、絶対に幸せにしたい。
ただ、それだけだった。
やがて長い階段を下りきると、狭い通路のどん詰まりに、小さな鉄格子の扉が見えた。
中から音は一切しない。灯りもない。ただ、淀んだ闇がそこにゼリーのように固まっているみたいだった。
私は乾いた唇を強く噛み、扉に近づく。
「レオン様……?」
ささやくように呼んでみたが、返事はない。
胸がひやりとした。嫌な汗が背中を伝う。
「レオン様、いらっしゃいますか……?」
恐る恐る、もう一度、少しだけ声を張って呼ぶ。
その時だった。
かさっ……。
かすかに、ほんのわずかに、奥の暗がりで布が擦れる音がした。
いた。
私は震える指でエプロンのポケットを探り、昼間のうちにこっそり厨房から拝借しておいた細い鉄串を取り出した。前世で「スパイ映画の真似事」として遊びで覚えたピッキング技術が、まさか異世界で役立つ日が来るとは思わなかった。
鍵穴に鉄串を差し込み、構造を探る。幸い、長年使われていなかった古い鍵は内部が半ば錆びついて壊れており、少し弄っただけで、ほどなくしてカチャリと小さく音を立てた。
開いた。
私はふうっと細く息を吐き出し、重い鉄格子を押し開ける。
燭台の淡い光が、暗い地下室の片隅を、まるでスポットライトのように照らし出した。
そこに、彼はいた。
冷え切った石壁に背を預けるようにして、膝を抱えて丸くうずくまっている。
着ているのは、貴族の衣服とは名ばかりの、ぼろ布みたいに薄く擦り切れたシャツ一枚。足元は裸足で、泥とすり傷だらけだった。
折れそうなほど細い肩は小刻みに震え、本来なら月光のように美しいはずの銀灰色の髪は、蜘蛛の巣と埃にまみれている。
俯いた顔には、なんの感情も浮かんでいなかった。
その姿をはっきりと視界に捉えた瞬間、私の息は完全に詰まった。
知っていた。
設定資料集のテキストで読んだ。ファンの間で語り草になっている過去エピソードとしても知っていた。
でも、テキストや二次元の絵で見るのと、生身の現実として目の当たりにするのは、まるで次元が違った。
小さい。
細い。
あまりにも、無力で、守られなさすぎる。
「……っ」
思わず、嗚咽のような声が漏れた。
その音に反応して、レオンがびくりと肩を大きく震わせた。
ゆっくりと顔を上げる。前髪の隙間から覗く、美しい氷蒼の瞳。
しかしその瞳は、まるで精巧に作られたガラス玉のように、一切の光と生気を失っていた。
「……誰」
何日も水を飲んでいないような、ひどく掠れた声だった。
その一言を聞いただけで、私の心臓はぎゅっと鷲掴みにされたように痛み、涙腺が決壊しそうになった。
彼は、「助けが来た」と思っていないのだ。
誰かが自分のためにここへ来てくれるなんて、最初から一ミリも期待していない。足音を聞いても、どうせまた自分に嫌がらせをしに来た義母の使いか、自分を嘲笑うためだけにやってきた者だと思っている。
「クロエです」
私はなるべく穏やかな、彼を驚かせないような声を絞り出し、冷たい床にそっとしゃがみ込んだ。
「アルヴェイン公爵家でメイドをしております、クロエと申します。……レオン様を、お迎えに上がりました」
「……お迎え?」
彼は虚ろな瞳のまま、小さく首を傾げた。
その反応は、警戒というより、私の言葉の意味が本気で理解できないといった様子だった。
「どうして」
どうして。
そうだよね。普通、そう思うよね。
だって、今まで彼が理不尽に罰せられた時、誰も助けに来てくれなかったんだから。
彼が泣いても、叫んでも、屋敷の大人たちは皆、見て見ぬふりをしてきた。冷酷な公爵夫人に逆らってまで、呪われた前妻の子を庇う者などいなかったのだから。
私は喉の奥にこみ上げる熱いものを必死に飲み込みながら、それでも彼を安心させるために、精一杯の笑顔を作った。
「寒いでしょう。冷たい床に座っていては、お風邪を召してしまいます。さあ、もう大丈夫ですよ」
「……大丈夫?」
レオンは『大丈夫』という言葉を、まるで知らない異国の単語を初めて口に出すように、不思議そうに繰り返した。
その瞬間、私の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
もう、だめだった。
メイドとしての矜持も、身分差も、シナリオの強制力も、そんなものは全部どうでもよくなった。
私は燭台を床に乱暴に置き、ためらうより先に、弾かれたように彼に向かって手を伸ばしていた。
「っ、え……?」
小さな戸惑いの声を漏らす彼の細い身体を、私は力の限り、けれど壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。
ひどく冷たかった。
信じられないくらい冷え切っていて、まるで真冬の雪原に何日も放置されていた氷の彫刻みたいだった。
背中に回した手には、骨の感触がごつごつと伝わってくる。公爵家の嫡男とは思えないほどの栄養失調状態だ。
「……っ!」
レオンの身体が、ビクンッと大きく跳ねて固まる。
彼がヒュッと息を呑む気配が、耳元で痛いほど伝わってきた。
当然だ。
彼が母親を亡くしてから今日まで、こんなふうに誰かに温かく抱きしめられたことなんて、ただの一度もなかったのだから。
私は自分の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちるのをもう止められず、彼の小さな背中をさすりながら声を震わせた。
「もう大丈夫です」
「……あ、……」
「怖かったですよね。一人で暗いところにいて、寂しかったですよね」
「……」
「辛かったですね。痛かったですね。えらかったです。よく頑張りましたね」
言いながら、私の方が大泣きしていた。
何を言えばいいのかなんてわからない。教育係でもない私が、どんな言葉をかけるのが正解なのかなんて知らない。
でも、今この時に必要なのは、立派な理屈でも、身分を弁えた態度でも、未来のシナリオの解説でもないはずだ。
この子は今、たった一人で世界に見捨てられたと思っている。
暗闇の中で、自分の存在意義すらわからなくなっている。
だったら、私が伝えなきゃいけないことは一つだけだ。
「レオン様」
私は彼の耳元で、はっきりと、この世界に刻みつけるように言った。
「私があなたを、絶対に幸せにします」
しん、と。
地下室に深い沈黙が落ちた。
カビ臭い冷えた空気の中で、私の紡いだその言葉だけが、魔法のように熱を帯びて漂っていた。
レオンは動かなかった。石像のように硬直している。
けれど、数秒遅れて――本当にぎこちなく、恐る恐る持ち上げられた小さな手が、私のメイド服の背中側の布を掴んだ。
きゅ、と。
本当にほんの少しだけ。小鳥が枝に止まるような、か弱すぎる力で。
ただそれだけのことなのに、私は彼が私を頼ってくれたことが嬉しくて、胸が張り裂けそうになった。
「……うそだ」
ぽつり、と。彼の唇から乾いた声がこぼれる。
「みんな、そうやって……僕に優しくして……でも、すぐいなくなる。母様の機嫌をとるために、僕を騙して、笑うんだ」
その声は、私を怒ってもいなければ、責めてもいなかった。
ただ、心の底から世界を諦めきっていた。
八歳の子どもの声じゃない。
何十年も絶望を味わい続けた、老人のような疲れ切った声だった。
「わかります」
私は彼を抱きしめたまま、即座に力強く答えた。
「信じられないですよね。私でも、絶対にそんな大人たちのことは信じません。疑って当然です」
レオンの指先が、私の服を握る力がわずかに震える。
「でも、私の言葉はうそじゃないです。絶対に」
私は彼から少しだけ身体を離し、真っ直ぐに彼の目を見た。
蒼い瞳は暗い井戸の底みたいに深く、少し触れただけでひび割れて粉々になってしまいそうなほど脆く揺れていた。
「私は、レオン様の味方です」
「……みかた」
「はい。何があっても。世界中のすべてが敵に回っても、私だけはあなたの味方です」
断言すると、レオンはまるで強烈な太陽の光でも見るみたいに、眩しそうに目を細めた。
「……どうして」
また、その問いだ。
私は一瞬だけ言葉に詰まる。
どうしてか。
本当のことを言えば、すごく簡単で、すごく重い理由がある。
あなたが私の最推しだからです。
どのルートでも報われないあなたを見るのが辛すぎて、今度こそこの手で絶対に幸せにして、最高の笑顔を見たいからです。
前世で何百時間もあなたに狂わされ、あなたのグッズで祭壇を作っていた限界オタクだからです!
……なんてこと、異世界転生したモブメイドが八歳の少年に言えるわけがない。不審者として通報されて終わる。
私は少しだけ考えて、それから、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、へへっと笑った。
「好きだからです」
ピタッ、と。
レオンが呼吸を止めたのがわかった。
あ、しまった。言い方。
いやでも、嘘じゃないし。推しとして愛してるし。ファンとしての最大の愛の告白だし。
私が内心で「やばい、変なメイドだと思われたかも!」とわたわたしていると、彼は信じられない奇跡でも見るような顔で、まじまじと私を見上げた。
「……僕を?」
「はい」
即答した。
「大大大好きです! 世界の誰よりも!」
最推しですからね! あなたのSSRカード引くために給料注ぎ込みましたからね!
心の中ではオタク特有の元気いっぱいのテンションで叫んだが、もちろん口には出さない。
だが、私の「全力の本音(※ファンとして)」は、どうやら純粋な彼にクリティカルヒットしてしまったらしい。レオンは完全にフリーズしてしまった。
そして次の瞬間。
ぽろり、と。
彼の大きな蒼い瞳から、一粒だけ、宝石のような涙がこぼれ落ちた。
私は息を呑んで言葉を失った。
レオン自身も、自分が泣いていることにまったく気づいていないようだった。不思議そうにまばたきをするたびに、透明な雫が次々と堰を切ったように頬を伝って落ちていく。
「……っ、あ……え……?」
小さく開いた唇から、混乱したような、子どもらしい舌足らずな声が漏れる。
彼は慌てて汚れた手の甲で目を擦ろうとしたが、涙は後から後から溢れてきて、止まらなかった。
その途端、彼の中で長年張り詰めていた糸が、完全に切れた。
「ひぐっ、……うあ、あああ……っ!」
静かに、音もなく泣き始めたかと思うと、やがてそれはしゃくり上げるような大きな嗚咽に変わった。
それは、ただの子どもの泣き声だった。
ずっとずっと我慢して、誰も助けてくれないから泣くことすら諦めていた小さな男の子が、初めて安心できる居場所を見つけて、感情を爆発させた瞬間だった。
「レオン様……っ」
私はもう一度、今度はさっきよりもずっと強く、彼を抱きしめた。
彼も、今度ははっきりと私の服にしがみついてきた。
小さな手が私のエプロンをちぎれんばかりに強く握りしめ、私の胸に顔を埋めて、子どものようにワンワンと泣きじゃくる。
「……こわ、かったぁ……っ」
かすれた、本音の声だった。
「はい」
「くらくて……だれも、こなくて……さむくて……っ」
「はい。寒かったですね」
「ぼく……ぼく、なんにも、わるいことしてないのに……っ」
「わかっています。レオン様は何も悪くありません」
しゃくり上げる呼吸だけが、カビ臭い地下室に響く。
私は「大丈夫ですよ」「私がいますよ」と何度も何度も繰り返しながら、彼の背中を優しく撫で続けた。
この瞬間、私は腹の底からはっきりと理解した。
もう、絶対に引き返せない。
ただのモブメイドとして、波風立てずに静かに生きる安全な未来は、今この瞬間に終わった。
私はこの子を救うと決めた。
継母に睨まれようが、権力者に目をつけられようが、ゲームのシナリオの強制力が働こうが関係ない。
この子をバッドエンドに行かせるものか。
私のもつ前世の知識と、この世界で得たささやかな『生活魔法』を総動員してでも、彼を絶対に幸せな未来へ導いてみせる。
最推しを、最高の環境で育成する。
それが、私の新しい人生のすべてだ。
どれくらいそうしていただろう。
やがてレオンの激しい嗚咽は少しずつ落ち着いていき、小さな身体からさっきまでの極度の強張りが抜けているのがわかった。
「……帰りましょう、レオン様」
私はそっと彼の背中から手を離し、優しく声をかけた。
「あなたのお部屋に戻って、暖かいお茶を淹れます。厨房から甘いクッキーもくすねてきました。あと、ふかふかの毛布でくるまって、今日はもう寝てしまいましょう」
「……また、ここに戻される」
レオンが、怯えた動物のように肩をビクッと跳ねさせた。
私はきっぱりと首を横に振った。
「戻しません」
「でも……母様が……」
「絶対にです」
その一言に、自分でも驚くほど重く、強い殺気のようなものがこもってしまった。
「あなたをこんな所に閉じ込めるような奴らは、私がまとめてゴミ箱に捨てておきますから安心してください」
「ごみばこ……?」
レオンは私の顔をじっと見つめた。
本当にこのメイドは頭がおかしいのではないか、とでも言うように。
それから、震える手で私の袖を掴んだまま、小さく頷いた。
「……うん」
その返事を聞いた瞬間、私は心の中で特大のガッツポーズを決めた。
よし! 第一関門突破! 最推しの好感度(信頼度)獲得!
私は立ち上がり、レオンに手を差し出す。
「立てますか?」
「……」
「足が痺れているかもしれません。ゆっくりで大丈夫ですよ」
彼は少しためらってから、その小さな手を私の手に重ねた。
冷たい。
でも、ちゃんと握り返してくれた。
私はその小さな手を両手で包み込むように温めながら支え、一歩ずつ地下室の外へ導いた。燭台の火が揺れ、深い暗闇を少しずつ押しのけていく。
しかし、階段を上りきり、彼に与えられている『自室』――北棟の隅にある、使用人部屋よりもひどい屋根裏部屋――に辿り着いた時、私は絶句することになった。
「……なんですか、この部屋は」
私は呆然と呟いた。
隙間風が吹き込む壊れた窓。カビの生えたベッド。床には分厚い埃が積もり、あまつさえ薄暗い部屋の四隅には、長年の嫌がらせによる『悪意の瘴気』のようなものまでうっすらと漂っている。
ゲーム内でも「劣悪な環境で育った」とテキスト一行で済まされていたが、まさかここまでひどいとは。こんな所に住んでいたら、呪われて魔物になる前に肺炎で死ぬ。
「ごめんなさい……僕の部屋、汚くて……」
レオンが私の服の裾を強く握りしめ、申し訳なさそうに俯く。
「謝るのはレオン様ではありません。……少々お待ちくださいね」
私は深呼吸をした。
このままでは、クッキーを食べるどころではない。
メイドの基本は掃除だ。前世で社畜だった私が、この世界で唯一神から与えられたチートスキル。それは攻撃魔法でも聖女の祈りでもなく、家事を極めるための【生活魔法】。
私は部屋の中央に立ち、魔力を練り上げた。
「ちょっと念入りにお掃除しますね。【生活魔法:お掃除】!」
私が指を鳴らした瞬間。
――カァァァァンッ!!
という清らかな鐘の音のような効果音と共に、部屋の中心から眩いばかりの純白の光の竜巻が発生した。
それはただの『お掃除』の範疇を大きく逸脱していた。
光の暴風が部屋中を駆け巡り、積もった埃を一瞬でチリ一つなく消し去り、カビを根絶やしにし、割れていた窓ガラスを謎の力で元通りに修復し、ついでに部屋に渦巻いていた悪意の瘴気や呪いまでをも、聖女の極大浄化魔法の如く完全に消滅させてしまったのだ。
光が収まった後、そこにあったのは、高級ホテルのスイートルームのようにピカピカに輝き、陽だまりのような暖かさと良い香りに包まれた完璧な空間だった。
「……え?」
レオンが、目を丸くして固まっている。
無理もない。たった今、一介のモブメイドが、神殿の最高位聖職者レベルの『絶対浄化結界』を無詠唱で発動させたのだから。
「ふう、綺麗になりましたね! ついでに食事も温めましょうか。【生活魔法:煮沸加熱】!」
私が厨房からくすねてきた冷え切った固いパンと、念のため持ってきたスープ(※実は継母の息がかかったメイドが微量の毒を仕込んでいた)に魔法をかける。
すると、毒素だけが紫色の煙となって蒸発し消え去り、スープは黄金色に輝く超高位の魔力回復ポーション(激ウマ)へと変化し、パンは焼きたての最高級ふんわりブレッドになった。
「さあ、冷めないうちにどうぞ! たくさん食べて、大きくなってくださいね!」
私が満面の笑みで盆を差し出すと、レオンは震える手で温かいスープを受け取り、一口飲んで――そのあまりの美味しさと、体の奥底から湧き上がる莫大な魔力の奔流に、再びポロポロと涙をこぼし始めた。
「おいしい……っ、あったかい……クロエ、あなたは、神様のお使いなの……?」
「いいえ、ただの通りすがりの、推し活中のメイドです」
「おしかつ……?」
「気にしないでください。さあ、パンもどうぞ」
私はニコニコと笑いながら、夢中で食事を頬張るレオンの頭を優しく撫でた。
そう。
この時の私はまだ全く気付いていなかった。
私が「ただの便利な家事魔法」だと思い込んで乱発しているこの能力が、実は国宝級の失われた古代魔法であり、後に世界を揺るがす規格外のチートスキルであることを。
そして。
今この瞬間、私の無償の愛と規格外の魔法に救われた八歳の少年が、これから私に対して『逃げ場のないほど重すぎる、常軌を逸した溺愛と執着』を抱くようになる最強のヤンデレ公爵へと育っていくことも――。
――後に「冷酷無慈悲な氷の公爵」と世界中から恐れられる少年が、たった一人のモブメイドに救われ、そして彼女に狂わされた運命の夜。
公爵家の誰も知らない屋根裏部屋で、世界で一番甘くて重い、痛快な物語の幕が上がったのだった。




