石ころの結婚
――どぼん、と、沈む音がした。
この世にいくつかある理不尽のうちでも最悪なもののひとつは、恋に落ちる相手と瞬間は選べないということだ。
池の中に乱暴に石を投げ込んだようなその音は、婚約式で両者が名前を書く直前という、最悪のタイミングでやってきた。
「悪いけど、彼女を諦められない」
隣にいるハリエットにしか聞こえない、少し前までただの学院の同級生だったルークの、小声。利害関係の一致と互いに割り切っているからこそ出た台詞。
あろうことかその一言に、恋に落ちてしまった。
流されるまま婚約することにした彼女には、到底思い付きもしない非常識な悪あがきとも言える一途さに。
さっさと名前を書き終えた彼に続いて、ハリエットは震える手で署名した。
決して叶うことがない恋だと理解してしまったから。
***
ハリエットは、わりあいぼんやりした少女だった。
だったので、学院の高等部二年、17歳になってようやく婚約者が決まりそうになり、初めて顔合わせをしたときに、似たもの同士で良かったなあと思ったのだ。
「ハリエット・ソーントンと申します」
「ルーク・ジョーンズです」
中肉中背、取り立てて美形でもなければくすんだ色合いでもない茶色。貴族の中では埋没間違いなしの姿。
つまり、自分とそっくりな姿にほっとした。
人目を惹く美形は目の保養だが、釣り合わないと惨めになりそうだし、いらない嫉妬を受けるかもしれない。美形は遠くから眺めるに限る。
また彼も学院の成績は中の中、専攻はこの国の王宮勤めに無難な政治学。実家も彼自身もどこの派閥にも属さない中立派だと聞いている。その辺の一般量産型子爵令嬢にはぴったりだろう。
……きっと彼も同じように思ってくれるに違いない。
そう思って呑気に言葉を待ち、しばらくして彼は口を開いた。
「俺には好きな人がいるから、君に恋をすることはできない」
……そんなことはなかった。
彼はその口で凡庸な、けれど王族や高位の貴族にしか許されない言葉を口にしたのだ。
そうして皮肉にも、ハリエットはその青天の霹靂のような一言で彼を見直した。素直にすごいな、と思った。他人の評価や立ち位置を物ともしない胆力に。
何せ、ぼんやりした少女だったので。それがたぶん、全ての始まりだった。
――王国に数多いる貴族の末端。宮廷勤めでどこかの派閥に属してもいない、代々目立たず生き残ることが信条のソーントン子爵家の三女・ハリエットは、両親譲りの地味な娘だった。
目立った容姿もなければ特技もない、ふわふわ広がる扱いづらい髪の毛が悩みごとで、淑女教育だけは最低限修めたという、どこにでもいそうな貴族の娘だった。
だから王族貴族の大半がそうであるように、自分もまた早々に政略結婚の手駒、家系図というタペストリーの一部であること――そこから逃れる才覚なんてないことも理解していた。
ついでに、結婚相手は自分と似ているだろう、ということも。
物心つく前は素敵な恋愛を夢見ることもあった……かもしれないが、記憶の彼方だ。
何故なら、やはり両親譲りの容姿と目立ったところのない才覚を持つ兄姉たちがいたから。彼らが両親と同じように波風立たない学校生活を送り、堅実な職を得て、釣り合った結婚相手と結ばれていくのを見ていた。
それに祖父母に叔父叔母、おまけに似たもの同士の友人たちの、これも似たもの同士の両親――前例が知っている限りで十組も揃っていれば、いくらぼんやりした少女でも、在学中に現実主義者になるには十分だ。
「そういうのも夢見がちって言うんだよ」
婚約してから、こう考えるに至った経緯を説明したとき、ルークはどこか冷めた声でひどく現実的なことを言った。
「外からそう見えるだけで、それぞれに紆余曲折があったはずだろ」
二人が、いや国中の良家の子女が通う――送り込まれる――学校のひとつの、中庭に面した食堂のテラス席で。茶色の瞳で、ご学友に囲まれて談笑している美しく可憐な令嬢に目を向けながら。
ルークの睫毛はよくある長さのよくある傾きで好ましく、瞳の熱は恋をする男のそれだ。遠慮がない関係だからこそ近くで見られるのに、向けられるのが自分でないことに、胸がいっぱいになってしまう。
ハリエットは自分自身でもこんなのは理不尽な感情で、目が曇っているだけだと思うのだが、恋というものはロマンス小説よりもずっと馬鹿々々しくて、ままならないものらしい。
彼の眼差しを受ける意中の令嬢は、同学年のイーディス・シンクレア嬢。建国以来の名門伯爵家唯一のご令嬢で――、
「……殿下がおいでだ」
――我が国の第三王子であらせられるポール殿下の婚約者でもある。
明らかにテンションの下がった声で、ハリエットは登場を知る。こうやってすぐ発見するのも、ルークが彼女をよく見ているからだ。
……というより、二人が周囲にいる場合は、彼女を見ているのが通常の状態で、ハリエットに目を向けることの方が珍しい。
流石王子というべきか、いつも穏やかな笑顔で紳士然と話しかけるポールに、イーディスもまた礼儀正しくも婚約者らしい距離で親しげに席を空ける。
二人が肩が触れそうな位置に座って笑顔を向け合うので、ルークの眉間の皺が深くなる。
どうやったって二人の間に入るのは無理で無駄で、むしろ目立つ問題行動なのに。国内政治の都合で、産まれた時から婚約しているというのだから。
「やっぱり……親兄弟に任せて流されるままでさ、ぼんやりしていてもろくなことにはならないよな」
「あなたと私も同じではないの?」
「うだうだ悩んで悩みまくって、やめようと決心したときには婚約決定一週間前なら、凡庸な人間にはそうそう覆せないだろう。……結果が同じなだけで過程は違う」
抵抗したのか、と知ってハリエットは内心で落ち込む。
押し切らなかったのか、とは聞かないし、聞けない。両家の間にあるのは利害関係だけでなく、国内の政治的なバランスがどうとかこうとか上の意向だとか、中立を保つことの難しさをさんざん両親に諭されていたからだった。
どうやら平々凡々な貴族であるのにも苦労があるのだとハリエットが気付いたのは婚約の直前。
ついでに、量産型貴族令息に見えるルークが高等部入学と同時に恋をしてからというもの、学業に社交にと、知らないところで(だって婚約後も、ほとんど予定を教え合ったりもしないのだ)邁進していたということも。のらりくらりと婚約話を回避していたということも。
「……同じでは、ないの?」
「少なくとも、一週間は違う。ハリエット嬢も変わっただろ。口数が多くなった」
そう言われて、そうかしら、とだけ答えてハリエットは口を噤んだ。
彼女はこう見えても一応貴族の子女だったので、侍女やらメイドやらに世話をされる生活には慣れていた。
呼べば来る、不満を言えば謝ってくれる。時にお小言はあるけれど。
なので、自分の一言が本当になってしまうこと、相手の睡眠時間を奪ってしまう――相手が逆らえず、現実になる――ということも、貴族の義務として心得ていた。
つまり不用意な言葉は発さず、必要な言葉だけを選ぼうとしていた。まあ、あまり使用人数に余裕のある家ではなかったのもある。
それが変わったのは、たぶん、婚約者を好きになってしまったからだ。変わっただなんて指摘してくれるくせに、彼に好意を全く気付かれていないのは、幸いでもあり残念でもあるけれど。
「口数が多い女性は、嫌ではない?」
「嫌じゃないけど、集中させてくれ」
「……」
ルークはそれからも、婚約者の義務として一緒に昼食を共にしている間もパーティーに参加している間も、いや授業中だって、何かあるたびにイーディスを見続けた。
二人でいる時の話題の多くが彼女のことで、まるでハリエットのことを、話を聞いてくれる都合の良いぬいぐるみみたいに扱って、初めて恋に落ちた日のことまで語った。
それは婚約式のサインの直前なんて絶望的な状況ではなくて、入学後すぐハリエットと同じようにぼんやりしていたら転んで怪我をして、親切に保健室まで連れて行ってくれたなんて可愛いものだった。
ついにハリエットはひと月ほど経った頃、我慢できなくなってしまった。そうしてぼんやりながらも、誰にでも口を閉じていることはできても、目は日常で閉じることはできないと思い付き――件の伯爵令嬢の取り巻きになることにした。
***
イーディス嬢は可愛らしく可憐な外見に違わず、とても心の優しいご令嬢だった。王子の婚約者としての振る舞いを身に付けているからもあるのだろうか。
彼女の隣にいればルークの視界に入る、という邪な理由で(大劇場の舞台に上がるような気持ちではあったが)近づいたハリエットを、その学院一美しいのではないかと思う癖のないプラチナブロンドに見合った笑顔で、新しい友人として歓迎してくれた。
ハリエットは彼女と彼女の学友の側にいるため、勉学に美容に社交にと、努力した。イーディスの流れる美しい髪に憧れて、ブラシやお勧めの香油を就寝前に念入りに使ってみたりした。
今まで目立たずひっそりと、真ん中でいればいいやと思っていたのをやめたのだ。
成績優秀者が表彰されている張り紙で、常に上位にいる王子に並び立てるよう努力しているイーディスの、その側に名前が書かれるように。共にお茶会に出られるように。ルークの視界に入れるように。
取り巻き作戦を決行して一週間も経つ頃には、イーディスの清らかさにあてられて、すっかり彼女のことを好きになっていた。自分を恥じて、彼女たちになるべく恥をかかせることがないようにと心がけて――とはいえ、目的は達成するつもりだった。
「ソーントンさんは、今日はルークと一緒にいなくていいのかい?」
昼食の間、食堂のテラス席からちらちら見える麦わら色を確認していると、ふいに、畏れ多くも彫刻のように麗しい殿下に声を掛けられる。
毎日とは言えずとも、週に二、三回は殿下はこうして婚約者と昼食の時間を過ごしている。いつ見ても仲睦まじく、穏やかで心地よい空気が漂っていた。
礼儀作法の勉強にはなるが、ちまちまと小さく切ったお肉がなかなか喉を通らないのだけは、ハリエットには難しいところだ。……そう、取り入ったり顔を覚えてもらおうなんて野心は、なかったので。
「ご心配をおかけして申し訳ありません……今日は所用があるとのことですので」
先日知ったばかりだったが、ルークと殿下とは政治学の講義では度々意見を交換する仲なのだとか。
正確には……今日「は」でなく今日「も」だが、お行儀が良い王族はそんなことを言わない。
「殿下、恋愛ごとは人知外です」
天使のような微笑を浮かべるイーディス嬢は、こちらに気を遣ってくれているのが分かる。
ハリエットは恋愛といっても一方通行であることをよく承知していたので、「本当ですね」と彼女に頷きたかった――けれどできるわけもなく、最近上手に調節できるようになった、ほんちょっとだけ何か言いたげにも見える、曖昧な微笑にとどめた。
が、続くひと言にひそかに、その微笑が崩れそうになる。
「ハリエット嬢は、ジョーンズさんに相応しくあろうと、ずっと陰ながら努力されていらっしゃるのよ」
ついこの前結果が発表になった、学期末試験のことだろう。順位が上がったことを喜んでくれた。
ただ王子とイーディスの並ぶ名の、そのすぐ下には、ハリエットの名前はない。十何人か挟んだあとにルークの名があって、そのまただいぶ下だ。半分よりちょっと上といったところか。
キラキラ輝く宝石のようなカップルの前では、やっぱり石ころだった。ルークの言う通り、何とかするなら、もう少し早く行動すべきだったのだ。
でも何とかって何、ではある。あの日より前に恋に落ちるなんて不可能に思える。
「そうだね、余計なことを言った」
「――余計じゃありませんよ」
畏れ多いです、とハリエットが口にする前に、背後から美しいテノールの声が挟まれた。
「ルーク・ジョーンズは卒業後の進路、もう王宮の部署からお呼びの声がかかっているとか。ぼんやりしている場合ではないのでは?」
やって来たのは、書物を抱えたイーディス嬢のひとつ年下の弟、セドリックの姿だった。
キラキラ輝く王子様がダイヤモンドでイーディス嬢が真珠なら、こちらはアメジストか。艶やかな黒髪と紫の瞳はいずれもイーディスにない色だ。いずれ彼女が嫁ぐ予定なので、傍系から迎えられた後継ぎだという。
成績は勿論別の意味でも優秀らしく、かたちばかりの婚約者などよりも最新情報を知っている。……こんな風に。
ハリエットは初耳で驚いたことを悟らせないよう、笑顔を作った。
「ごきげんよう、シンクレア様」
「王族付きの政策部署だとか」
その一言は、まずはルークの視界に入れれば十分で――それほど彼と立ち位置は変わらないのでは、と考えていたハリエットを動揺させるには十分だった。
将来を見据えて、具体的に動いているとは思わなかった。卒業後も、結婚後もイーディスを見るために。
「婚約者を放っておくのは感心しないな。しっかり首輪でも付けておくのを勧めるよ」
セドリックは、顔を会わせるたびにハリエットにだけ当たりが強い。
下心を隠して近付く新参者が義姉に何か吹き込むのか警戒しているのだろうか。もしかして、いつも遠巻きにしている不審な婚約者を野放しにする、怪しい令嬢と思われているのか。そのどちらもだろうか。
間抜けという指摘なら当たっているかもしれない。
「……ルーク様は犬ではありませんし、婚約指輪なら私の指に嵌っています」
――偽物の、きつい指輪が。
言いたくもない台詞を苦々しい気分で言えば、
「忠犬は遠くから見守るだけでは飽き足らないだろうね」
と、返ってきて、さすがにハリエットは眉をひそめた。
「セドリック、いい加減にしなさい。私の友人を貶めるようなことは許しませんよ。一緒にいることが婚約者の証明ではないのですから」
柳眉を吊り上げてイーディスは庇ってくれたが、セドリックの言った意味を分かっていないだろう。だって彼女は、今まで、ルークに気付いたそぶりを見せたことがない。
ハリエットはぼんやりした茶色の目で、セドリックの美しい紫色の瞳を見返して、彼が言わんとしていることを悟った。彼は確実に、ルークが姉に恋をしていることを知っている。
「……ええ姉上、『一緒にいる』だけではありませんね。……では、用事がありますので、これで失礼」
セドリックの瞳は柔らかく姉とその婚約者を見てから、踵を返して見えなくなった。
「弟がごめんなさい、ハリエットさん。昔は可愛かったのに、最近は私の言うことをちっとも聞こうとしてくれないの。……殿下も、失礼いたしました」
「……いや、いいんだ」
爽やかに苦笑するポールの笑みはさすがに完璧だ。それから、もう私も用事があってね、と更に完璧な笑顔を見せると、「それではまた、イーディス」と去っていく。
その背中をイーディスは切なげな色を浮かべた瞳で見つめて見送るので、ハリエットは心から申し訳なくなる。
と同時に、視界の端、茂みの向こうに見えていたよくある茶色の髪もポールを追うように移動していくのが見えた。
「貴重な時間を、申し訳ありません……」
「あなたのせいではないわ、ハリエットさん」
いつもイーディスの側にいる子爵令嬢が、いち早く反応した。続いてイーディスも眉を下げる。更に申し訳ないと思うが、憂い顔も美しく見とれてしまいそうだ。
……もしこの様子をルークが見ていたら、と思えばハリエットは胸が締め付けられそうだった――とてもわがままな自覚はあったが。
「ええ、殿下はいつもお忙しいの。昔からそうだけれど、最近はこの時間しかお会いできなくて……。ねえ、あなたも、忙しいジョーンズさんを想ってあえて距離を取っていらっしゃるのでしょう」
そして、人の視線に晒され続けている王子の婚約者は、心根が美しいから、少々、石ころみたいな一般人の気持ちには鈍いところがある。
「自分のいないところで何をしているのかは、気にならない?」
「目標のために努力されていることは、信じています」
彼はあなたを見て、あなたに近づくために努力しているのです、とは言えない。だから答えられる部分だけを話せば、イーディスは切なげに微笑して、とんでもない一言を口にした。
「今度の夜会で、お二人の話を聞かせてくださらない?」
***
国内の貴族の子女の殆どは、在学中にその立場を認められるため、高等部の三年次までには王城で社交界に加わることになっている。
その頃には大方婚約者かその候補が決められているため、パートナーと参加するのが通例だ。
……そんな慣習がなければ、ハリエットはルークの腕に一度も捕まることはできなかっただろう。だってそれどころか、イーディスの隣にいても視界に殆ど入っていないことを、毎日、思い知らされていたから。
「最近、イーディス様と仲がいいとは思っていたけど」
「紹介してくれとは言わないのですね」
「さすがにそれは、俺のモラルに反するな」
屈託のない言いようは、ハリエットが彼には絶対に好意を見せないように気を付けていたからだ。
初めて腕を掴んで、そのたくましさにドキドキしていることも絶対に悟らせない。
始まる前から失恋しているのに、自分からダメージを負いに行く趣味はなかった。
少なくとも秘めてさえいれば、まだしばらくこの関係は続く……正直なところ、彼がこの不毛な恋をどうして続けていて、どうするつもりなのか、知りたかった。
「結果的にそうなりそうですけど。……婚約者でない人を、追いかけるのは……?」
なけなしの勇気を振り絞って尋ねれば――この辺り、絶対にルークには敵わないのだ――、歯を見せて笑う。
「言うようになったな。……ハリエット嬢も」
そんな姿を、親しいと取られたのか周囲の大人に微笑まれる。
事実は全く恋愛対象の外だからで、彼がまた悪人では――迷惑ではあったけれど――ないからだった。
政略結婚が大半のこの国では、実際のところ結婚後に他のパートナーを持つことも珍しくない。
二人は腕を組んだまま、夜会の会場に入る。既に社交界デビュー済みだったので、入り口で白々しい“婚約者”の肩書きが読み上げられた。
王城の広いホールでは、釣り下がるシャンデリアの更に上で描かれた天使たちに見守られながら、多くの男女が会話を交わしている。
ある者は食事を楽しみ、ある者は酒を持ち隅でひそひそ話を。ある者は顔を輝かせて、楽団が奏でる曲に乗って、中央でダンスを踊る。
「……実のところ、俺自身の恋愛がどうとかは、二番目なんだ」
「二番目というと?」
「一番目は、好きな人が幸せになることに決まってるだろ」
「誰も横恋慕しなければ、幸せになるのが決まっているのに? ……それじゃまるで」
不幸になることを知っているみたいな口ぶりだ、と言いかけて口を噤む。
「ハリエット嬢にだから言うけど、……“彼女”に保健室に連れてってもらった話、しただろ」
「ええ」
そんな信頼などいらないのに。第一、避けられていると思っていないのか――そんなことにも、気付いていないのか。婚約自体は絶対だと思っているのか。
どちらにせよハリエットはもう、会場を眺めてばかりのルークに視界に入れてもらおうとするのは、諦めていた。
「あの時彼女は一人だったんだ。……目は真っ赤で、頬に涙の痕があった」
「優しくされたから、好きになったのでは……?」
「そういう時に見知らぬ他人にまで優しくできる彼女は、すごく優しい人だろ」
甘い声は嫌だったが、内容には頷く。イーディスのことなら、恋敵であるはずのハリエットですら好きになったのだから。
「その時殿下はどこにいらしたと思う?」
「お忙しいのだから、用事では……」
「そう、外国の視察団のお相手だよ。その日に何かあったらしい。そのせいで色々動いて……」
「……かなり曖昧な話ですね」
「たぶん今日、分かる。ハリエットもイーディス様のことが好きなら、覚悟しておいた方がいいかもしれない――ああ、彼女だ」
突然声が明るくなって、視線の先には光り輝くうイーディスがいる。贈り物らしきダイヤのネックレス。ベージュからピンク色に裾まで染まっていくドレスは清楚な美しさを引き立てており、ハリエットも見惚れてしまう。
そして、その隣には何故か殿下に代わってエスコートしている、対照的な黒が印象的な、弟のセドリックが。
二人を多数の生徒たちが憧れの目で眺めながら遠巻きにしている中、無神経にもルークは自分からすたすたと歩み寄っていった。いや、本当に、たとえ不自然で不躾でも、ハリエットに紹介させる気がないのだろう。
「こんばんは、ハリエットさん。こちらが……?」
とはいえさすがにイーディスは、声を掛ける順番を誤ったりしなかった。
「はい、婚約者のルーク・ジョーンズです、イーディス様」
「……正式には、初めて、お目にかかります。覚えていらっしゃいますか?」
――ハリエットの台詞は、結局一行で終わった。
ルークがここぞとばかりに普段にはない長台詞を話し出したからだ。一歩引いた位置で待っていると、セドリックがこちらに横から二歩、三歩と、詰めてくる。
お互いの距離がまるで同性の親しい友人のように縮まった時、表面上穏やかな笑顔に、氷片を浮かべたような色が見えた。
「よく彼を連れて来たよね……君を見てるとイライラする」
「……ですが、勝手に下がれません」
「姉上のため? それとも婚約者のため?」
確かに誰にも聞こえない小声は、苛立ちを隠していない。そして目線はちらちらとイーディスとルークを見ている。
「私、失礼なことをしたでしょうか。初めてお会いしてから何度かしか会話をしていませんが……このような石ころが、とお思いでしたら謝罪いたします。それとも、」
そうして、彼が義姉に向けるアメジストの目に、ルークと同じ熱を見て取ってしまったのは、同類だから、だろうか。
「……ルーク様と同じでいらっしゃいますか」
「……」
ち、と、信じられないことに彼は小さく舌打ちをした。
ハリエットが目を丸くすると、弁解するように目が泳いでから、眉根が寄せられた。
「君と同じだから、イライラするんだと思う」
叶わぬ恋を。
「……ほら、見るといいよ、君の婚約者が何をずっと危惧していたのか」
皺が緩んでから、彼はハリエットにしか聞こえないように囁くと、普段通り貴族然とした仕草で、首をホールの中央に向ける。
同時に、わっと周囲で声が上がった。ホール中央で第三王子のポールがエスコートしているのは、長く美しい黒髪を靡かせた異国の女性だ。
見たこともない細密な刺繍に彩られたドレス。深いスリットから伸びる長い脚は、エスコートされながらもまるで振り回すような活力に満ちていた。
「二つ隣の国の王女殿下だ。外交は少し遠い国と縁を結んでおいた方がいいんだっていうのは地政学上の常識だけど」
一曲終わっても、そのダンスは続いた。二曲終わっても、三曲終わっても……。
ぼんやりもののハリエットでも意味は分かる。
「お披露目に近いですね……ただの接待では、ないということでしょうか」
「……義姉さんは、生まれた時から殿下に相応しくあろうとしてきたんだけど。それこそ見えないところで、血のにじむような努力を」
セドリックの視線を追って振り向けば、背後でイーディスは俯いて涙を目尻にためていた。それを優しく何か諭しながらルークが、隅に、テラスに続く窓の方へ寄ろうとしている。
セドリックがそちらにすぐ向かおうとするのを、しかし、ハリエットは留めるように、震える足を、踏み出した。
「……僕の邪魔をするの?」
「申し訳ありませんが、私が行きます。婚約者ですから」
「アリバイの立証でもするって? ……お人好しを通り越して馬鹿だね。僕の不興を本当に買ってでも、婚約者の恋路を助けるって?」
吐き捨てるように言われて、ハリエットは頷く。
「私もそう思いますけど、……恋ってままならないものですから」
ルークだってきっと諦めようとしてきたのだろうと、今日の会話で分かってしまった。
「……イーディス様、テラスへ参りましょう」
細身のイーディスを余計な視線から庇うように、ハリエットは彼女より肉付きの良い体とドレスで隠しながらテラスへ二人を出してから、告げる。
「ルーク様。私が立ち会うとなれば、変な噂も立たないでしょう」
「……ごめん」
「落ち着くまで、こちらにいましょう」
そう言えば、イーディスは目を潤ませ、それから涙をこぼし始めた。初めて見る顔で、初めて聞く声で、年相応の少女の顔で。
「……っ、ハリ……エット……わ、わたし、ずっと、あの方だけを……」
「私も失恋したことがあります」
必死に抑えようとする嗚咽混じりその冷えた背をさすりながら、目だけで驚いているルークに、今、しっかりと話すように同じように目で告げた。
……そんなことだけはできるようになっていた。
やがてイーディスの肩の震えが落ち着いたとき、ハンカチを差し出しながらそっと告げる。
「だから、大丈夫です」
「……ハリエットさんも、失恋したことがあるの?」
「ごく最近です。……私とルークはだから、何でもないんですよ」
「……ああ、あなたのことを何も知らずに……無神経なことを言ってごめんなさい」
イーディスは優しくて、清らかで、大事な友人だ。だから――大丈夫。
何と言っても自他ともに認めるぼんやりものなので。
落ち着いたイーディスに何事かを――出会った時のことからを囁きかけるルークから背を向けて、テラスと会場の際に立てば、セドリックが近づいてくる。
一瞬構えたものの、突き付けられたのは言葉の刃ではなく、果実水の入ったグラスだった。
「……シンクレア様もお人好しですね」
受け取りながら微笑すれば、嫌そうな顔をされた。
「窓じゃなかったらグラスでも見たらいい」
「え?」
「……化粧、落ちてる」
グラスに映る顔に、頬に手をやれば、何故だかハリエットの目から水が伝っていたのだった。
「申し訳ありません……みっともないところを、汚いものをお見せして」
「……それ飲んだら代わってやる。義弟でも問題ないだろう。……その辺のか弱そうな令嬢に見えるのに、思ったより頑固なんだな」
「彼のおかげです」
量産型令嬢はみんな同じようなものだろう、とルークに告げられるまでのハリエットは考えてきた。
彼によって、以外にも「ふつう」にバリエーションがあったことを思い知らされた。その枠を自分で飛び出したっていいことも。
報われない恋の報酬としては、十分だと思う。
「……救いがたいお人好しだな、君は」
「でしたら、ずっとイーディス様を見守ってきたセドリック様も、同じなんでしょう?」
美しい顔がしかめられるが、別にそれは、嫌がっているようなものではなかった。
***
あの夜会からすぐ、第三王子と他国の姫君の婚約が正式に発表された。
イーディス嬢のことは多少噂にのぼったけれど、デリケートなことで、そしてよくあることなのですぐに誰も口にしなくなった。
ルークは最初はハリエットを交えてだけ会っていたものの、ほとぼりが冷めれば二人でいる姿をよく見るようになった。
――あの後、ルークとハリエットの婚約も、破棄されたので。別にこちらは少しも話題にならなかった。
だって第三王子の婚約者が変わったので、国内の力関係が変わったのだ。当然だった。他にも破局したカップルはいる。中には、引き裂かれた本物の恋人たちもいただろう。
ルークは最後まで、ハリエットが他に好きな人がいるから自分に協力してくれたものだと信じて、とてもとても感謝してくれた。
……将来王子の妃となる彼女のためにと政治学を選んだという彼は、いわゆる一途というか、恋に溺れた男だったのだろう。が、その結果ポールと親しくなろうとして、国内政治や周辺国の動向も察知するに至って、イーディスの将来を案じていた。
そのルークは婚約解消してから、色々な意味でハリエットには手が届かない人になった。
石ころが磨かれていつの間にか宝石になるなんてことはないのに、その石ころに素敵な誰かが宝石と名前を付けて磨いたせいで、彼は本物の宝石になってしまったのだ。
拾ってポケットに入れて丁度良い彼はもう本当に、全く、そこにはいなかった。
イーディスにプロデュースされた彼の容姿も姿勢も、マナーも、隣に立って遜色ない。
――めでたしめでたし、だ。たった一人を除いて。
「……僕さ、卒業したら実家に帰ろうと思うんだ」
中庭で仲睦まじく視線を交わし合う二人を、遠く――食堂のテラス席に座って眺めるというより監視しながら、セドリックは言った。
すっかり冷めきった紅茶をすする姿には覇気がない。伯爵家に王家の後ろ盾がなくなったせいで、視線が集まらなくて、気楽になったのだという。
「あの二人が上手くいったら、婿取りになるだろうね。傷心の姉をどこか侯爵家にでも出すなんてことは義両親もしないと思うんだ」
「……セドリック様には、戻る場所があるんですか?」
「貧乏領地だけど麦畑が綺麗なところでさ。姉上に会うまでは一番綺麗なところだと思ってたんだ」
確かに、イーディス様は美しく、優しい。
遠方から連れてこられたセドリックを優しく包み、家の中から勉強からマナーから、色々教えてくれたらしい。
「僕が曲がりなりにもそれなりにできてたのは姉上のおかげだったけど、彼女と結婚するわけにはいかないから」
「……」
そこは、曲がりなりにも子爵家のルークとは決定的に違うところだ。義姉と結婚させる方法はないではない。が、実際、伯爵家としてのメリットは何もないから。
「……そんなことまで私に話していいんでしょうか」
ハリエットは割とぼんやりものだったので、何故だか人の話を聞くことが多いらしい、と気付いたのは割と最近のことだった。
「建国以来ずーっと中立で、目立たないソーントン家の、ぼんやりした君は話しやすい。知らないのか、君の兄の学友に王子がいるの」
「いえ、全く」
「人に言えない買い物を頼むのにいいらしい」
「我が家にそんな取り柄があったんですね」
「だから話すけど……正直言って、義姉といちゃついてる様子を、四六時中見せられるのは僕でもきつい」
今も時々、ルークとイーディスが同席するところにわざわざ通っていることを、同じことをしていたハリエットは知っている。
婚約破棄後すぐにルークの存在が噂になるのはまずいから。
「私が言うのもなんですが、もう十分、頑張られたと思いますよ」
ハリエットよりもずっと長い間、義姉に恋をしてきて。彼女をずっと間近で見守ってきて。そんなことものすごく忍耐強くなければ、できるものではない。これ以上は無茶と言うものだろう。
「……しばらくしてから二人の噂が立つのなら、義両親も諦めがつくかもしれない」
「そうですね」
「……ところで、卒業後の進路をわざわざ話したことへの感想は?」
「特に何もありませんが……」
真顔でハリエットが答えたら、セドリックに顔をしかめられた。しかし顔が良いというのは得だと思う。彼女が同じことをしたら、醜いものを見せられたとなるばかりだから。
「……確かキラキラしたものは苦手だって言ってたな」
「はい」
相手に合わせる、というのは上でも下でも気を遣う。同じような家格と同じような容姿と才覚であったなら、考えることも似てくる。社交とか金遣いとか生活レベルが似通っているというのは、相手の性格という最大の変数以外で煩わされることがない。
「もし卒業しても行き先がなかったら、僕の家で面倒を見てやってもいい……と思っているんだが、どう思う?」
「それは、ありがとうございます。それまでに手に職を付けておけるよう、頑張りますね」
「……意味分かってる?」
ハリエットがありがたく頷けば、また、眉間に皺が寄る。
「はい。将来のご心配をありがとうございます。
私、今更ですけど、ルーク様みたいに、何か得意なことを見付けてみようと思ったんです。王都でこうやって政略結婚に振り回される人たちを見て、嫌だなと思って。
……そんなに皺ばかり作っていると、戻らなくなってしまいますよ」
――そうやってハリエットの恋は、井戸に沈む岩のようにゆっくりと終わっていった。
それからもルークはとても誠実にイーディスに接していて、その理由が彼女の美点からだとハリエットは納得したので。
そうして、そんな彼に傷心の彼女が癒されて心惹かれていくのもまた自然なことだったのだ。
子爵家と伯爵家が縁を結ぶに釣り合わないという懸念点も、ルークはどうかして王子に売った何かの恩で、取り戻そうとしているらしい。
***
――既に知っていたけれど、この世にいくつかある理不尽のうちでも最悪なもののひとつは、恋に落ちる瞬間は選べないということだ。
しかしそうそう最悪なタイミングが二度も続けてやってくるというのは、どうかと思う。
「婚約の契約破棄、でしょうか」
今から――約一年前。
面倒を見る、というのが、行き場のない悪友の仕事と住居の斡旋をしてやる、くらいの意味だと思っていたハリエットは、卒業後にセドリックの実家である男爵領に行って、契約結婚の提案に二週間くらい悩んだ挙句に、申し出を受けることにした。
主に両親からの干渉というか、しつこい説得を避けるためだ。
王都から離れた男爵家の屋敷は威厳と品はあったが、使い込まれた古い館で、お上品にしていなくても良いところも気に入った。
「とりあえずここで仮の婚約者として過ごして、身の振り方を考えるように」
年下なのにしっかり者のセドリックに言われるまま、ハリエットはいろいろ手を出してみた。何でもやってみて、慣れれば良いと思えるようになったからだった。
広がりがちな髪も、上品なマナーも、古い館も。王都から離れた土地での仕事も。
結局、特技なんてものは特に見つからなかったが……曲がりなりにも貴族令嬢、針子やレース編みの適性はあった。あと、鉱物の採集なんていう趣味もできた。
それでセドリックが学院を卒業して暢気に玄関で出迎えたら、何故かものすごく不機嫌な顔をしていた。
長期休暇にはそんなことはなかったので、何か外であったのだろう――とぼんやり考えていると、そのまま手を掴まれて連れてこられたのは、執事が整えてくれていた彼の部屋だった。
年代物のコンソールテーブルに置かれた書類とペンに、遠くからでも浮き上がって見える、見覚えのある契約という単語に、嫌な思い出がよみがえる。
「私、ここに仕事のつもりで来たんですが」
「……そう言うと思ったから、もう実際に来てもらってこの一年で判断してもらおうと思っていたんだけど。まだ『いつまでいて良いでしょうか』とか言うから」
「……成果がなくて呆れられましたか。……失恋した者同士の同情心で受け入れてくださったことは解っていますが……」
「……違う。君が解ってないならこちらからはっきり言うけど、君を愛する――」
それで、ハリエットは両手で素早く耳を塞いだ。
そのせいだろう、セドリックはもっと不機嫌そうな顔になる。
確かに無作法この上ないが、一度失恋を経験しているからには今度は譲る訳にいかなかった。無個性平凡量産型令嬢でも足掻いていいと教えてもらったから。
彼が口を閉じたのを確認して安心だとハリエットはパッと手を離したその瞬間、近づかれて手を取られる。
「何をするんですか」
「それはこっちの台詞だよ。――何をしてるの」
「婚約破棄をされるつもりなんでしょう? さすがに全部聞くのはどうかと思いましたので。愛する、まで聞けばいいと思って」
言っていることがめちゃくちゃであることは、ハリエット自身も理解している。こういうのは、セドリック流に言えばこじつけとか論理の破綻とか交渉の失敗とか言うのだ。
「どうして」
「……愛する、まで聞けば、そこで終わりではないですか。だって……二度も、愛することはないなんて……」
語尾が力なく消えていく。
一度目耐えられたのは、その時、その台詞に恋に落ちてしまったからだ。
でも二度目、好きな人から言われるのは違うのだ。まったく。今度こそはルークの時のように心に秘めたままでいられる自信がない。
「いいからちゃんと聞け。……もう一度言うけど、君を愛する――」
「やめてください」
「……全く、度し難いな。……君を愛することはないなんて言ったやつを忘れて、このままここにいてくれないか」
ハリエットは耳を疑った。十秒ぐらいは頭の中で反芻して、理解しがたい台詞を聞き直した。
「今、何て言いました? 聞き間違いですよね」
「だから、卒業して伯爵家を出た。これから――大学部の生活と並行して――爵位を継ぐ準備をするから。君が婚約者としてずっとここに……いて欲しい。君さえ良かったら、だけど」
「……え、嘘。だって、契約上の婚約だって」
「わざわざ嘘でそんなことを言うか。“契約上”の婚約じゃなくて、君を“仮予約”して婚約しておこうって言ったんだけど。覚えてない?」
「覚えてません」
「……ああやっぱり、そんなことだろうと思った」
自分事に関しては鈍いことこの上ないからな、とまるで年上のようにこぼされる。実際一学年しか違わないし、ハリエットと違ってしっかり者ではあるが。
「ええ……ですがそれって、おかしいですよね。セドリック様が私と婚約する意味ってないじゃないですか?」
真顔で問い返せば、意味が分からないと首を振られた。
「それでどうして耳塞ぐんだ……いや、その前に……何で自分は好かれないと思ってるんだよ」
「だって、量産型令嬢で、その辺の石ころで、髪だってあれだけ手入したのにすぐに広がって、イーディス様とは全く――」
「じゃあ逆に聞くけど、そう思ってて何でそんなあの夜会の時みたいな、失恋したみたいな顔してるんだよ。……これ自分で言うの、馬鹿みたいだな」
セドリックはぼやいて、肩で息を大きく吐く。そうして、掴んでいた手を離した。ハリエットは離して欲しかったのに、馴染んでいった体温が離れていくのを寂しく感じる。
「……だってもう、学院には年下の可愛らしいお嬢さんがいっぱいですし、これから進学先にはもっと宝石のように輝く素敵な方々が……」
「貧乏男爵家のみすぼらしい男でも変わらず見てくれるようなのって、そうそういない。所詮僕は宝石なんかじゃなくて、偽物のガラスだったしね」
「……それ、は」
政略結婚の相手としては一気に忌避されるようになるだろう。というより、そういえば、その可能性を周囲は考えていたから、決まった人がいなかったのだろう。
「この辺り、一年見て分かっただろ。うちの領地には流行最先端の仕立て屋とか菓子店とかないんだ。宝石なんて遠くで見る分にはいいけど、失くすのも欠けるのも怖くて落ち着かない。手に馴染む石ころの方がいい」
「そんな理由ですか……」
「君の領民からの評判もいい。あれこれ領地でやっている仕事に興味を持ってくれるって」
ハリエットは首を傾げそうになって、怒られそうなので止めた。適性を探すために首を突っ込んで、話を聞いた覚えはあるので、そのことだろう。
「あと、お人好し過ぎて、なんかの犯罪にでも巻き込まれそうだから放っておけないし」
「……はい。でもあれは、ルーク様とイーディス様だったから特別です」
「そこもだね。あれだけ尽くすくせに、誰も懐に入れない。――君の“特別”になってみたかったんだけど」
…………。
ハリエットはそこで初めて、頬をほんの少し染めて震えているセドリックに気付いた。なので、少し勇気を出しておずおずと。
「……もう、特別ですけど。だから婚約破棄したくなくて耳を塞いでみるなんておかしなことを」
「何? おかしいことしてる自覚はあったの? ……じゃなくて」
「……セドリック様みたいな人が気にかけて、拾ってくれて面倒見てくれて、一緒にいて、……視界に入れてくれて。それで……好きにならないとか、私みたいなのには無理ではないでしょうか」
声は少し震えていた。その震えは多分、ルークやイーディスからも聞いたことがあるもの。本心だから、曝け出すのに勇気がいるもの。
だって、契約結婚――と思っていたもの――を持ち掛けられた時に気付いてしまった感情は、落ちた二度目の恋は。今度は捨てたいと思えなくて、だからみっともなく足掻くために……。
そろそろと顔を伺えば、彼は先ほどよりもう少し頬を染めて口元を緩めていた。
「『私みたいなの』じゃなくて、馬鹿みたいなお人好しのハリエット嬢が、『みたいな』じゃない僕を……じゃないの? ……石ころだろうが、同じものは一つもないだろ」
「……っ」
初めて見たぎこちない、でも本物の微笑。
だからハリエットはさんざん練習していたはずの口元の微笑を作ることができなくて、口元を引き結び――、
「いつも思い切りの方向が変なんだよ。ねえ、これからは側で見て支えてるから。君も僕を見て目を逸らさないで、逃げないで……しがみついて欲しい」
――床を蹴る。少しだけ広げられた腕に向かって。
そしてみっともなく、ハリエットは本物の婚約者の胸に文字通りしがみつく。しがみついて、それから辿々しく抱きしめられる。
コンソールテーブルに置かれていたのが、取り寄せた、気の早い結婚許可証だとハリエットが知ったのはそのすぐ後のこと。
今度は緊張で震える手でサインをすれば、セドリックも同じように手がぎこちなかった。それから何度も名前を眺めて不格好さを指摘しあった後。
セドリックは執事を呼ぶ前に、勢い余って解けて広がってしまった、ハリエットの髪を梳いた。




