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化粧をしないまま一日を終えたのは、これが初めてだった。
事務室の空気は、どこか落ち着かない。
視線は多いのに、誰も踏み込んでこない。
腫れ物に触るような距離感が、かえって居心地を悪くしていた。
それでも仕事は待ってくれない。
「フィーアさん、こちら……確認をお願いできますか」
声をかけてきたのは、若い騎士だった。
確か、騎士団長付きの隊に所属している――
「ランスさん、でしたね」
「は、はい」
名を呼んだだけで、彼は背筋を正した。
過剰なほどきちんとした態度に、少しだけ意外な気持ちになる。
書類に目を落とし、必要な箇所を指摘する。
「ここが未記入です。それから、この表記は最新のものに直してください」
「……あ、本当だ。助かります」
受け取る指先が、わずかに震えていた。
「……説明が、的確で」
ぽつりと、付け足すように言われる。
「前から……いえ、すみません」
それ以上は続かなかった。
褒め言葉に慣れていないのが、はっきりと分かる。
「仕事ですから」
そう返すと、彼は小さくうなずいて下がっていった。
それから、ランスが事務室を訪れることが増えた。
用件はいつも明確で、余計な話はしない。
必要なことだけを聞き、必要なだけ礼を言う。
ただ――
視線が、以前よりも柔らかだった。
(気のせい、よね)
そう思おうとした、その日の午後。
「フィーアさん」
書類をまとめていると、再び声がかかった。
「この箱、資料室まで運ぶんですよね」
「ええ、そうですが……」
「副隊長に確認済みです。
……持っていきますね」
そう言って、返事を待たずに箱を持ち上げる。
「それ、重いですよ」
「大丈夫です」
きっぱりとした返答だった。
断る理由を探す間もなく、並んで廊下を歩くことになる。
会話はなかった。
足音だけが、一定のリズムで響く。
不思議と、緊張はしなかった。
評価も、探るような視線もない。
ただ、仕事として隣を歩いている。
資料室の前で、箱を受け取る。
「ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ」
彼は一礼して踵を返しかけ――
一瞬、迷うように立ち止まった。
「……隊長のこと……」
フィーアの胸が、わずかに跳ねる。
「……いえ、...............すみません。」
それだけ言って、深く頭を下げる。
「失礼します」
背中が遠ざかっていく。
フィーアは、その背中を見送るしかなかった。




