5フィーア視点
――引き出しが、空だった。
一瞬、思考が止まる。
指先で、もう一度確かめるように引き出しの奥をなぞる。
だが、そこにあるはずの布包みは、どこにもなかった。
(……ない?)
喉が、ひくりと鳴った。
白粉も、口紅も、眉墨も。
長年使い続けてきた、あの一式が――きれいさっぱり消えている。
「…………」
誰かの悪戯?
それとも、清掃の際に誤って?
どんな理由を並べても、現実は変わらない。
今日は、化粧ができない。
指が、わずかに震えた。
(落ち着いて)
何度も、自分に言い聞かせる。
仕事は仕事だ。
顔を見せる場ではない。
それなのに。
胸の奥に、じわじわと広がる不安は、理屈では抑えられなかった。
(……今日は、誰とも話しませんように)
鏡代わりに、磨かれた金属の縁を覗く。
そこに映るのは、いつもの“堅物な文官”とは違う顔だった。
余計な色が、何もない。
隠すための線も、影もない。
「……ひどい顔」
そう呟いた声は、思ったより弱々しかった。
始業の鐘が鳴る。
逃げ場はない。
フィーアは背筋を伸ばし、事務室へ向かった。
――気づかれない。
きっと、誰も気にしない。
そう信じたかった。
だが。
「……あれ?」
最初に声を上げたのは、ミアだった。
「フィーアさん……今日、化粧……」
言葉が、途中で止まる。
周囲の視線が、ふっと集まるのが分かった。
いつもは気にもならないはずの気配が、刺すように重い。
「……寝坊しました」
とっさに、そう答えた。
ミアは一瞬きょとんとして――
それから、じっとフィーアの顔を見つめた。
「……え?」
驚き。
困惑。
そして、なぜか――戸惑い。
(やっぱり、おかしい)
フィーアは俯き、書類に視線を落とす。
心臓の音が、やけに大きい。
周囲が、ひそひそとざわめき始めた。
「……化粧、してないよな」
「でも……なんか……」
言葉にならない違和感。
フィーアは、ペンを握る力を強めた。
(見ないで)
(気づかないで)
けれど。
その願いとは裏腹に、
彼女自身も気づいてしまっていた。
――隠していたはずのものが、
今、何も守られていないことを。
そしてこの日が、
自分の評価を大きく変えてしまう一日になることを。
最初に変化が起きたのは、誰かの大きな声ではなかった。
書類を受け取りに来た騎士が、フィーアの前に立ち――
一瞬、言葉を失った。
「……あ」
それだけだった。
だが、その短い声は、妙に空気を揺らした。
「どうかしましたか」
フィーアは顔を上げず、淡々と問いかける。
騎士は慌てて咳払いをした。
「い、いえ……その、今日の書類はこちらで……」
言葉が、どこかぎこちない。
いつもなら軽口のひとつも叩く男が、必要以上に距離を取っている。
次に来た者も、同じだった。
「……あの」
「はい」
視線が、ふっと逸れる。
だが、すぐに戻ってきて――止まる。
それが、何度も繰り返された。
ミアが、ついに我慢できずにフィーアの横に立つ。
そして、真正面から彼女の顔を見た。
「……フィーアさん」
低く、確かめるような声。
「……もしかして、今まで……」
言葉が続かない。
ミアは、息を呑んだまま、フィーアの顔をじっと見つめている。
光の加減で、はっきりと分かる。
白い肌。
整った目鼻立ち。
伏せた睫毛の長さ。
――飾らない方が、ずっと。
「……え、なに」
後ろから、誰かが囁いた。
「……きれい、じゃない?」
「今まで、あんな顔だった?」
ざわめきが、じわじわと広がる。
だが、奇妙なことに――
誰も笑わなかった。
誰も、馬鹿にしなかった。
それどころか。
「……すごく、落ち着いて見える」
「仕事できそうな顔してる……って、前からか」
評価が、別の方向へと動き始めていた。
フィーアは、書類から顔を上げられずにいた。
胸の奥が、きゅっと縮む。
(……気づかれてしまった)
守ってきたものが、暴かれたのではない。
むしろ逆だ。
――隠していた価値を、勝手に見つけられてしまった。
「……今まで、損してたんじゃない?」
誰かのその一言が、決定打だった。
ミアは、はっとしたように口を塞ぎ、
そして、申し訳なさそうにフィーアを見る。
「……ごめんなさい。でも……」
その続きは、言わなくても分かった。
フィーアは、小さく息を吸った。
「……仕事に戻りましょう」
そう言って、ようやく顔を上げる。
事務室に、静寂が落ちた。
誰もが思ったのだ。
――今まで、自分たちは何を見ていたのだろう、と。
そして同時に。
この日を境に、
フィーアを見る目が、確実に変わってしまったことを。




