17
遠征から戻った騎士団を労う名目で、領主主催の祝賀パーティーが開かれた。
華やかな音楽と笑い声。
久しぶりの平穏を祝うかのように、会場は熱気に満ちている。
ウィンダは壁際に立ち、杯を手にしながら人の流れを眺めていた。
――帰ってきた。
無事に遠征を終えた。それだけのはずなのに、胸の奥は落ち着かない。
「隊長、お疲れ様です!」
明るい声で声をかけてきたのは、ランスだった。
「今日は主役ですね」
「主役は、無事に戻れた全員だ」
そう答えながらも、ウィンダの視線は無意識のうちに、会場を探していた。
――いない、か。
少しだけ、安堵と失望が入り混じる。
「……あ」
そのとき、ランスが言葉を失った。
「どうした」
「い、いや……」
ランスの視線を追った瞬間、ウィンダの思考は止まった。
会場の中央。
人だかりの中に、ひときわ目を引く女性がいた。
淡い色のドレス。
髪は丁寧に結い上げられ、いつも伏し目がちだった視線は、堂々と前を向いている。
――フィーア。
一瞬、別人かと思った。
あれほど地味で、目立たない存在だったはずの彼女が、
今は自然に、そこに立っている。
そして――
「……あんな顔、する人だったっけ」
ランスの呟きが、耳に残った。
彼の視線は、はっきりとフィーアを追っている。
それは、以前よりも近い。
親しさを含んだ、距離のない眼差しだった。
胸の奥が、きしむ。
――やはり、俺の知らないところで。
自分が遠征に出ている間に、
彼女は前へ進んでいたのかもしれない。
ランスをみつけ、フィーアが柔らかく笑った。
その光景が、決定打になった。
「……似合っているな」
声をかけたのは、ウィンダだった。
フィーアは驚いたように振り向き、次いで、はっと息を呑む。
「隊長……お帰りなさい」
「無事で何よりだ」
言葉は、形式的だった。
自分でも分かるほど、距離を取っている。
「今日は、王宮の補佐としてここに参加しています」
「…そうか」
その一言で、会話を切ろうとした。
「……貴族の場も、もう慣れただろう」
フィーアの表情が、僅かに揺れた。
「それは……」
「よく似合っている」
褒め言葉のはずだった。
だが、その奥に滲んだ棘を、彼女は見逃さなかった。
「……隊長は」
声が、かすかに震える。
「私が、ここにいるのは……お嫌ですか」
ウィンダは、答えなかった。
答えられなかった。
「……俺の心配など、もう不要だろう」
そう言って、背を向けかけた瞬間――
袖を、強く掴まれた。
「あっ……待ってください!」
感情を抑えきれない声だった。
周囲の視線も、音楽も、すべてが遠のく。
「ここでは……」
フィーアは必死に息を整え、小声で続けた。
「……少し、来てください」
拒む隙はなかった。
彼女はウィンダの腕を引き、中庭へと連れ出す。
その背中を、ランスは呆然と見送っていた。
――あんな顔、俺には見せなかった。
胸の奥で、何かが静かに終わった。
自分は、最初から届かない場所にいたのだと、理解してしまった。
***
「……どうして、突き放すんですか」
中庭で、フィーアは声を震わせた。
「私が、嫌いだからですか」
「違う」
「なら、どうして!」
堰を切ったように、言葉が溢れる。
「プロポーズを断ったのは……嫌いだからじゃありません!」
ウィンダは、息を呑んだ。
「弟の学費が、まだ残っていたんです」
「……」
「私……、あなたの負担になりたくなかった。
もう守られるだけの存在でいたくなかった」
涙が、頬を伝う。
「あなたの隣に一緒に立てる、誇れる自分でいたかった……!」
声が、崩れる。
「なのに……それで、あなたを失いそうになって……」
フィーアは、俯いた。
「……後悔しています」
沈黙が落ちる。
ウィンダは、ゆっくりと彼女に近づいた。
「……愚かだな、俺は」
フィーアの顎に、そっと指をかける。
「そんな理由で、拒まれていたなんて……」
視線が合う。
「愛おしいに決まっているだろう」
涙に濡れた瞳を、真正面から見つめて。
「そんなふうに、俺を想ってくれる女を」
フィーアの肩が、小さく震えた。
「……隊長」
「フィーア」
名を呼ぶ。
もう、距離は取らなかった。
抱き寄せられた瞬間、フィーアの胸に溜め込んでいたものが一気に溢れた。
鎧越しでも伝わる体温。
確かな腕の力に、足元が揺らぐ。
「……離さないでください」
自分でも驚くほど、縋るような声だった。
ウィンダの腕が、さらに強く回される。
「……二度と、突き放したりしない」
低い声が、耳元に落ちる。
その距離が近すぎて、息がかかる。
心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうだった。
「俺は……お前に触れるたび、抑えていた」
その告白に、フィーアの喉が鳴る。
「拒まれたと思っていたからだ。
だが――」
顎に添えられた指が、そっと持ち上げる。
「……今は違う」
視線が絡んだまま、逃げ場はない。
「……フィーア」
名を呼ばれるだけで、体の奥が熱くなる。
「ウィンダ様……」
呼び返した瞬間、唇が重なった。
激しいものではない。
確かめるような、慎重な口づけ。
だが、それがかえって、胸を締めつけた。
触れたまま、離れない。
「……好きです」
唇が触れる距離で、フィーアは囁いた。
「ずっと……怖いくらい」
ウィンダの呼吸が、僅かに乱れる。
「……それ以上、言うな」
そう言いながらも、額を重ね、離れない。
「連れて行きたくなる」
抑えた声に、熱が滲んでいた。
フィーアの背中に回された手が、ゆっくりと下りる。
触れられているだけなのに、体が正直に反応してしまう。
「……ここでは、だめです」
そう言いながらも、拒む力はなかった。
「分かっている」
ウィンダは名残惜しそうに、唇を離した。
「だから……約束だけ、させてくれ」
フィーアは、震える息を整えながら頷く。
「必ず、迎えに行く」
「……はい」
それだけで、十分だった。
離れる直前、もう一度だけ、短く口づけられた。
それは、夜を越えるための合図のようだった。
⸻
中庭の柱の影で、ランスは動けずにいた。
声も、姿も、はっきりと見えてしまった。
フィーアの、あんな表情。
必死で、感情をさらけ出している姿。
――俺には、見せなかった。
胸が痛んだが、不思議と恨みは湧かなかった。
「あぁ……そうか」
小さく、息を吐く。
自分は、最初から違う場所にいたのだ。
剣を握る手に、力を込める。
「……隊長」
あの人の選んだ人なら、間違いない。
ランスは、静かに踵を返した。
誰にも見られず、誰にも知られない失恋だった。




