16
その日の夜、フィーアは珍しく自室で机に向かっていなかった。
帳簿も、書類も閉じたまま、椅子に浅く腰かけて、ぼんやりと窓の外を見ている。
「……姉さん?」
控えめな声に、はっとして振り向いた。
そこには、帰省中の弟が立っていた。
「どうしたの、もう寝る時間でしょう」
「それは姉さんのほうだよ。灯りもつけずに」
弟はそう言いながら、慣れた様子で向かいの椅子に座った。
小さなころから、姉の沈黙には慣れている。
「……仕事、うまくいってない?」
「いいえ。むしろ、その逆よ」
王宮勤めのサポート。
周囲からの評価。
責任ある役目。
事実だけを並べれば、順調そのものだ。
「じゃあ、なんでそんな顔してるんだよ」
フィーアは一瞬、言葉に詰まった。
弟には隠し事をしないと決めていたはずなのに、胸の奥に沈んだ感情がうまく形にならない。
「……断ったの」
ぽつりと落とした一言に、弟の眉が動く。
「なにを?」
「……プロポーズ」
しばらく沈黙が流れたあと、弟は驚くほど静かに息を吐いた。
「……本気の?」
「ええ。皆の前で」
「……そっか」
責めるでも、驚くでもない反応だった。
「どうして?」
フィーアは指先をきゅっと握りしめる。
「嬉しくなかったわけじゃない」
「うん」
「……むしろ、嬉しかった」
その瞬間、弟の視線が少しだけ鋭くなる。
「じゃあ」
「でも、怖かったの」
言葉にした途端、胸がきゅっと締め付けられた。
「私が欲しかったのは、彼の覚悟なのか、それとも――逃げ場だったのか、分からなくなってしまって」
「……」
「弟の学費も、借金も、全部“まだ途中”で……そんな状態で、彼の人生に入っていいのかって」
フィーアは小さく笑った。
「ね。面倒くさいでしょう」
「……姉さんらしい」
弟はそう言って、少し間を置いてから続けた。
「でもさ」
「なに?」
「姉さんが幸せになるのに、条件なんていらないと思う」
その言葉に、フィーアは目を伏せた。
「……私ね」
「うん」
「本当は、家庭を持つことも、嫌いじゃないの」
「……」
「いつか、子どもがいたらいいなって……そんなことも、考えたことがある」
それは誰にも言ったことのない本音だった。
「じゃあ」
「……でも、それを“今の私”が望んでいいのか分からなかった」
弟は立ち上がり、フィーアの頭にそっと手を置いた。
「姉さん」
「なに」
「俺はさ、姉さんが自分で選んだなら、どんな答えでもいいと思ってる」
「……」
「でも、もし“遠慮”だけで幸せを手放すなら、それは嫌だ」
フィーアの喉が、ひくりと鳴った。
「……ありがとう」
弟はにっと笑う。
「だからさ。学費のことなら心配すんな。俺、ちゃんと返すから」
「ふふ……約束よ」
弟が部屋を出たあと、フィーアはひとり、静かに息を吐いた。
――本当は、伝えたかった。
――あの人に、ちゃんと。
でも、今はまだ、その言葉を持つ資格がない気がして。
窓の外に浮かぶ月を見上げながら、フィーアは胸の奥で、そっと名前を呼んだ。
ウィンダ様......




