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家に帰ると、先に帰っていた弟が台所で鍋を見ていた。
「姉さん、おかえり」
「ただいま」
それだけのやり取りなのに、声が少し掠れていた気がして、フィーアは思わず背を向ける。
「……疲れてる?」
「ちょっと、ね」
嘘ではない。
けれど理由は違った。
夕食の支度をしながら、弟はちらりと姉の横顔を盗み見た。
長く一緒に暮らしてきたから、分かる。
今日は、いつもと何かが違う。
「事務所で、何かあった?」
弟の声は、探るというより心配そのものだった。
「……何も」
一瞬の間。
包丁を置く音が、やけに大きく響く。
「姉さん」
「なに?」
「それ、何もない人の顔じゃない」
思わず、笑ってしまった。
「……鋭いわね」
鍋に火をかけながら、フィーアはぽつりと続ける。
「ちょっとね、昔のことを思い出しただけよ」
「昔?」
「自分の人生を、どう生きるかって話」
弟はそれ以上踏み込まなかった。
ただ、静かに椅子を引いて座る。
「姉さん」
「なに?」
「俺はさ」
少しだけ言葉を探す間があって、
「姉さんには、幸せになってほしい」
その一言は、まっすぐだった。
フィーアの手が止まる。
「……今も、十分幸せよ」
自分に言い聞かせるような声音だった。
「仕事もあるし、住む場所もあるし、あんたも元気だし」
「うん」
弟は頷いた。
「でも、それは“我慢してる幸せ”じゃない?」
胸を、正確に射抜かれた。
「……そんなこと」
「姉さん、誰かのために生きるの、上手すぎるんだよ」
火の揺らぎが、視界を歪ませる。
「俺の学費のことなら、気にしなくていい」
「それはだめ」
即答だった。
「私が決めたことだから」
「分かってる。でも」
弟は少しだけ笑った。
「俺、姉さんが誰かに選ばれるの、嫌じゃないよ」
むしろ、と言いかけて、言葉を飲み込む。
「……姉さんが、笑ってるなら、それでいい」
フィーアは、何も言えなかった。
ただ、湯気の向こうで、
自分の心がどこに向いているのかを、否応なく突きつけられていた。




