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ほんの些細な変化だった。
書類の提出に来たウィンダは、いつもなら一言二言、必ず何か声をかけていった。
「助かった」「また頼む」「その計算、前より分かりやすかった」
内容はどうでもいい。
ただ、そこに視線と間があった。
けれど今日は違った。
「こちら、修正しました」
そう言って差し出された書類を受け取り、フィーアが顔を上げるより早く、ウィンダは一歩引いた。
「……ありがとう」
それだけ言って、すぐに踵を返す。
「あ、あの……」
呼び止めた声に、ウィンダは一瞬だけ立ち止まった。
だが振り返らない。
「何か不備がありましたか?」
声音は丁寧で、騎士団長として完璧だった。
だからこそ、フィーアの胸に小さな棘が刺さる。
「いえ……問題ありません」
「そうですか。では」
それだけだった。
背中が遠ざかっていく。
もう、月明かりの下で並んで歩いた男の面影はない。
――距離を、置かれている。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
(……私が、断ったから)
分かっている。
当然の結果だ。
期待させて、拒んだのは自分なのだから。
それでも。
書類を整える指先が、わずかに震えた。
以前は、隣に座って教えた。
笑って「やったぁ」と子供みたいに喜ぶ顔を見た。
夜の娼館で、あんなにも近く――
「……いけない」
フィーアは小さく息を吐き、思考を断ち切った。
これは自業自得だ。
彼は何も悪くない。
それなのに。
事務室の扉が閉まった音が、やけに大きく響いた。
まるで、
もう一つの扉まで閉じられてしまったような気がして。
***
ウィンダが事務室を出て行ったあとも、フィーアはしばらくその場に立ち尽くしていた。
花束は、受け取らなかった。
だから机の上には何も残っていない。
それなのに、胸の奥だけがやけに重い。
(……断ったのよ)
自分で決めたことだ。
誰に強制されたわけでもない。
静かに椅子に腰を下ろし、いつものようにペンを取る。
書類に目を落とす。
数字を追う。
――追えない。
視界が、わずかに滲んだ。
(どうして、こんな……)
王子様のような正装。
迷いのない声。
片膝をつくほどの覚悟。
それを拒んだ自分が、今さら動揺する資格などないはずだった。
けれど。
(嬉しかった……)
その事実だけは、どうしても否定できなかった。
自分が「選ばれた」こと。
過去も、身分も、仕事ぶりも――
全部含めて、妻にしたいと言われたこと。
喉の奥が、ひくりと鳴る。
(でも、まだ……)
弟の学費。
返しきれていない恩。
自分の人生を、自分で立たせるという誓い。
そのどれもが、ウィンダの腕にすがる未来を許してくれなかった。
――幸せになってはいけないわけじゃない。
ただ、「今」ではなかった。
だから断った。
それだけのはずだった。
なのに。
机の上に、ぽつりと一滴、落ちた。
「……あ」
慌てて袖で拭う。
誰も見ていない。
事務室は静まり返っている。
「……情けない」
そう呟いた声は、驚くほど小さかった。
彼が去ったあとに残ったのは、安堵ではなく、
静かで、冷たい後悔だった。
――私は、本当に正しい選択をしたのだろうか。
その問いに答えが出る前に、フィーアは深く息を吸い、背筋を伸ばした。
書類に向き直る。
いつも通りの、文官フィーアに戻るために。
ただ、胸の奥で、
何かが確実に始まってしまったことだけは、もう否定できなかった。




