序章:常識の檻と目覚め
1. 都の日常の檻
慣性の都——エーテルナの中心にそびえるこの都市は、全てが完璧な調和の中にあった。建物は均一なグレーの合金で覆われ、太陽の光を正確に反射する。街路は自動清掃機によって一日に三度磨かれ、埃一つ落ちていない。
都の常識は「効率」であり、「無駄」は最大のリスクと見なされていた。誰もが決められた役割を持ち、決められた時間通りに動き、決められた量の生産物を生み出していた。
しかし、その完璧さこそが、アークには底なしの空虚に見えた。都を歩く人々の顔には、喜びも、怒りも、深い思考の跡もない。ただ、「効率」という名の常識に沿って動く、滑らかな仮面だけがあった。
彼らが着る服、彼らが手に持つ生産物、それら全てには、作り手が込めるべき「自己創造の意図」が欠落していた。
下級作業員であるアークの一日は、常に無味乾燥なコンベアの振動と共に始まる。
「物を作る時自分がどのように作られているか」——かつて、イデア信仰の時代には、職人はそう自問したという。だが、都の労働者たちは、自分たちが何の部品を作っているのかさえ知らされない。ただ、パネルに表示された数値に従い、感覚を麻痺させて手を動かす。この行為は「生産」ではなく、ただの「運動」だった。物に生命が宿る余地はどこにもない。
「今日も、また澱を増やしてしまったな…」
アークは誰もいない作業場の隅で、心の中でつぶやいた。
彼には都の人々が感じ取れない、物から発せられる微かな淀みを感じる能力がある。それが彼の「残滓の鑑」の体質だった。物から漏れ出る、無自覚な生産の苦痛と、無関心な消費の記憶。それが都を覆う透明な濁りとなり、人々の精神を蝕んでいた。
2. 無感性の都が生んだ苦悩
夕刻、アークは自分の区画の集合住宅へと戻った。家の扉を開けた瞬間、都の統一された静寂とは異なる、痛々しいほどの不協和音が彼を迎えた。
妹のリベラが、リビングの隅で体を丸めていた。
「……お兄ちゃん。今日のテレビ、音が大きすぎた。あの、あの司会者の声が、全部、ただのノイズに聞こえるの」
リベラは神経が過敏になりすぎていた。
彼女は都のシステムが作り出した、感性が過剰なゆえに都の「無感性」に耐えられない、精神的な病を患っていた。
彼女は、都で大量生産された家具や家電製品が発する「澱」を、アークのように明確に追体験することはなくとも、その冷たい空虚感を「ノイズ」として常に感じ取っていた。
アークはテーブルの上にあった、都から配給された光沢のある合成樹脂のコップを手に取った。残滓の鑑の力が発動する。
一瞬、アークの視界が歪む。
冷たい工場。
機械的な作業。
コップを製造した労働者の心は、ひたすらに「今日のノルマを終えたい」という疲労感だけ。
消費者の手元に届いた瞬間、コップは「代用品」として扱われ、すぐに新しいものに交換され、何の記憶も持たずに廃棄される。
その苦痛が、アークの胸を締め付けた。
「こんな物に、どうして精神の安定が宿る?」
父、エルゴが帰宅した。
彼は作業服を整然とハンガーにかけ、アークの行為を見て眉をひそめた。
「アーク。またそんな効率の悪いことをしているのか。そのコップは、都の基準を満たした完璧な製品だ。君が触れることで、衛生基準が下がる」
エルゴは顔を曇らせ、いつもの「常識」を振りかざした。
「都の生活は、全てが効率で最適化されている。君の言う『魂』などという非科学的な感傷は、社会の歯車を狂わせる『非効率』だ。リベラに必要なのは、君の空想ではない。ただ安静にすることだ。我々は皆、都の常識に従って自立しているんだ」
アークは反論できなかった。都の常識という檻の中で、父は正しい。しかし、この正しい常識が、リベラを、そして都全体を静かに腐敗させている。
3. カイドスの影
翌日、アークの不安は最悪の形で現実のものとなった。
主席建築士カイドスが、都のメインタワーから全住民に向けて「効率の最大化」に関する重要発表を行った。
カイドスは、感情を一切含まない機械的な声で、淀みによるイデア循環の停滞を認めつつ、その解決策を発表した。
「現在の淀み排出システムは、わずかに人為的な干渉を許すため、非効率を生んでいる。これより、我々は『新型・無感性ジェネレーター』を導入する」
カイドスの言葉は簡潔だった。「無感性ジェネレーター」は、生産過程から人々の感情や意図を完全に隔離し、イデアを「資源」として無機質に抽出する装置だ。
これにより、物から発せられる「澱」を地下の「澱の山」へ一元的に、かつ高速で排出できるようになるという。
「生産と消費のプロセスから感情的ノイズを排除することで、都は究極の安定と効率、すなわち真の自治を達成する」アークはテレビの前で凍り付いた。
それは淀みを浄化するのではなく、淀みを加速させ、隠蔽する行為だ。感情を排除した生産は、物に生命を宿らせる機会を永久に奪う。そして、淀みは排出されるのではなく、地下の山に凝縮されていくだけだ。
その夜、リベラの症状は一気に悪化した。
「来る……来るわ、お兄ちゃん。あの、冷たい、声が。物が私を…捨てていく時の、あの声が」
リベラは悲鳴を上げ、全身を震わせた。新型ジェネレーターが稼働した瞬間から、都全体の「澱」の濁りが増幅したのだ。
アークは妹を抱きしめることしかできなかった。彼の腕の中で、リベラは都の常識という病に食い尽くされようとしていた。
「常識というものは新鮮な感性さに出会わないと底なしに腐敗していくものだ」
イオの工房の古い書物で読んだ一節が、アークの頭に響いた。カイドスの効率至上主義こそが、その「底なしの腐敗」の具現化だった。
アークの心の中で、決意が燃え上がった。単に都から逃げるのではない。この腐敗の根源を断ち、リベラと都を救わなければならない。そのためには、都の常識の外に存在する、真の「命の創造」の術、すなわち淀みを浄化する力を手に入れなければならない。
4. 追放された者との出会い
アークは、都のシステムに最も通じ、かつシステムによって見捨てられた人間を探した。その先にいたのが、元エリート技術者のシエナだった。
シエナは、都のエネルギー循環システムの「非効率」を指摘したことで、カイドスによって解雇され、現在は都の最外縁にある廃墟同然のコンテナで隠遁生活を送っていた。
彼女の周りには、都が「不良品」として廃棄した、無数の部品や機器が散乱していた。アークがコンテナの隙間から声をかけると、シエナは冷ややかな目で彼を見上げた。
彼女の瞳には、都のシステムが生み出す淀みとは異なる、個人的な虚無感が宿っていた。
「生産と消費は一つの生命の働き…ですか。感傷ですね。私はただの数字と効率のために尽くし、そしてその効率の名のもとに捨てられた。物と同じですよ」
シエナは自嘲気味に言った。彼女の言葉には、自分自身がシステムに仕える「物」として扱われ、不要になった瞬間に冷酷に切り捨てられた者の、深い痛みが滲んでいた。
彼女は物を作り出した側であったにも関わらず、そのシステムによって、彼女自身が廃棄物とされたのだ。
アークは妹リベラの苦しみを話し、「淀みの山」を浄化するための情報を求めた。シエナはしばらく無言で、アークの瞳の奥にある強い共感の力を見つめていた。やがて、彼女は一つのデータチップを差し出した。
「カイドスの新型ジェネレーターは、淀みを排出しているのではない。地下の山で淀みを凝縮させ、それを強力なエネルギー源として再利用しようとしている。それが都の真の安定の仕組みです」
シエナは続けた。
「その凝縮された淀みは、あなたの能力、残滓の鑑でしか触れられない。都の常識では、それはただの無害な残留物として処理される。つまり、浄化できる可能性があるのは、あなただけだ」
彼女は都を破壊するのではなく、都のシステムを制御する「無感性ジェネレーター」の構造データと、それを一時的に停止させるための設計図をアークに渡した。
「私は感性を信じない。ですが、もし都の効率至上主義が間違っていることを証明できるなら、それは数字と論理ではなく、あなたの感性でしかあり得ない」
シエナは協力を約束した。彼女の知識は、アークの「感性」を都の「論理」と対決させるための、最強の武器となる。都の常識に縛られた父エルゴの価値観から自立するためにも、アークはこの協力を受け入れるしかなかった。
「自立の工房、ですか。都の常識の外に、真の『命の創造』があるというなら、私もその目で見届けてみましょう」
アークはデータチップを握りしめ、夜の闇に消えた。
都の冷たい夜風が、彼の背中に、新たな旅立ちへの決意を刻み込んでいた。
5. 旅立ちと決意
夜明け前、アークは荷物をまとめていた。都の配給品ではなく、祖父の代から隠されていた古い革の鞄。そこには、多少の不便さはあっても、確かな「使い込まれた記憶」の温かみがあった。
リビングを通ると、父エルゴが暗闇の中で座っていた。まるでアークの行動を予測していたかのように。
「出ていくのか」
父の声には怒りはなく、ただ深い諦念があった。
「父さん。僕は、この都の『正しさ』が、リベラを殺すのを見ていられない」
「外の世界は無秩序だ。効率も保証もない。お前がしようとしていることは、確率論的に言えば自殺行為だ」
エルゴは立ち上がり、アークの前に立った。その背中は、都のシステムを支えるために酷使され、小さく見えた。
「父さん、覚えてる? 僕が小さい頃、父さんが手で作ってくれた木の玩具のこと。あれだけは、どんなに古くなっても、僕の手になじんで、温かかった。あれには『命』があったんだ」
エルゴの表情がわずかに揺らいだ。しかし、彼はすぐに無表情な労働者の顔に戻った。
「……あれは非効率な時間の浪費だった。行け。だが、戻る場所があると思うな。都の常識から外れた部品は、二度とシステムには組み込まれない」
それは父なりの、不器用な絶縁であり、警告だった。アークは深く頭を下げた。
「ありがとう、父さん。僕は部品じゃない。人間として、戻ってくるよ」
最後に、アークはリベラの部屋に入った。彼女は薬で眠っていたが、その眉間には苦痛のしわが刻まれていた。アークは彼女の枕元に、シエナから受け取った「澱」を遮断する微弱な周波数を出す古い装置——かつてシエナが個人的に改造したもの——を置いた。
気休めかもしれないが、少しは「ノイズ」を減らせるはずだ。
「必ず、治す方法を見つけてくる。待っていてくれ」
アークは妹の額に手を触れた。そこには、都の冷たい合成樹脂とは違う、守るべき確かな体温があった。都の最外縁ゲート。巨大な防壁が、内側の「秩序」と外側の「混沌」を隔てていた。
シエナから教わったセキュリティホールを使い、重いゲートをこじ開ける。隙間から吹き込んできたのは、都の空調された無臭の風ではなく、土と草、そして湿った森の匂いが混じり合った、強烈な「生」の匂いだった。
それは荒々しく、未整理で、しかし圧倒的に新鮮だった。「命が発見できるように創造できるか」その問いが、アークの胸で高鳴った。
アークは一歩、外の世界へと足を踏み出した。背後でゲートが閉まる音が、彼の過去と常識を断ち切る音のように響いた。目の前には、鬱蒼とした森と、その先に広がる見たこともない荒野。
そこは腐敗した常識が及ばない場所であり、同時に、彼が自らの手で「道」を切り拓かなければならない、真の自治が試される大地だった。
「行こう。ここからが、本当の『生産』の始まりだ」アークは荒野を見据え、力強く地面を踏みしめた。その瞳には、もはや迷いの色はなく、ただ未知なる「感性」への渇望だけが映っていた。
(序章 完)




