黒の旋律 2
地を這うような轟音――倒れた巫女のもとへ駆け寄り治療を施す者、戦線を維持するため必死に陣形を立て直す者。
それでも、状況は最悪だった。
巫女の村を包囲するように、魔人たちが大胆に迫る。
その足取りは緩慢だが、姿は多種多様。
農具を握った魔人、武器を持った魔人、そして馬か獣か分からないほど動物と融合した異形までいる。
その光景は、まさに地獄絵図だった。
もちろん巫女たちも必死だ。
神力を武器に応戦するが――魔障獣以外との戦闘経験がない彼女らは、徐々に押され始めていた。
「ウッヒッヒ♪ よわいよわい、もっと叫んで! 巫女たちの絶望、いい音だぁ♪ 甘美甘美ぃ~♡」
魔人たちの背後、黒紫の肌に六本の腕を持つ異形が、クネクネと肩を揺らして笑う。
割れた口の奥で、粘つく舌がいやらしく蠢いた。
「現代の巫女、どんな者かと思ったら全然じゃん☆ つまらないじゃん♪ ザコザーコ♡」
その嘲りに、怒りを覚えた巫女のひとりが神力を放とうとした――「だからよわいって」
その呟きと同時に、巫女の腕が爆ぜ飛ぶ。
甲高い悲鳴。
地面に飛び散る赤。
その異形の笑みは、より歪んだ。
かつては人だったはずの魔人たちが、引きずるような足取りで巫女たちに迫る。
そのうち一体が、立ち上がれない巫女へ牙を剥いた時――地鳴りの咆哮。
風を裂くように、ティナの影が戦場を駆け抜けた。
「止めなさいっ!」
鋭い声とともに放たれた神力は、巨大な槍となり、異形の一体を貫き粉砕する。
ティナの到着は誰よりも早かった。
ババーバたちを追い越し、迷いなく戦場へ飛び込んだのだ。
「ここから先、ひとりも通させない……!」
その瞳には決意が宿っていた――だが、そう見えたのは一瞬だけ。
襲いかかる魔人、その動きは鈍く、思考も遅い。
だが――その声が耳に触れた瞬間、ティナの心は揺らぐ。
「……こ、ころして……くれ……」
「……ごめん……お母さん……」
歪んだ口から漏れた、意味を成さないはずの声。
だが神に近い存在であるティナには、それが“人の声”として届いた。
這うように迫ってくるその異形は、口をぱくぱくと開閉させながら発する。
「……もう……ゆるし……て……」
「……きこえ……ない……なに、も……みえ……ない……」
懇願とも呪いともつかぬ声を絞り出していた。
ティナの神力が、わずかに揺らぐ。
その表情は、明らかに悲痛だった。
「これ……人なの……?」
その瞬間――風が鋭く走り、魔人の身体が縦に断たれた。
「!?」
ババーバが放った風の刃だった。
彼女は迷いも容赦もなく、それらを切り捨てる。
「ババーバ……なに、して……」
震えるティナに、ババーバの怒声が叩きつけられる。
「耳を貸すんじゃないよッ!」
「……え?」
「ワタシにも聴こえはする……けれど、こうなっては救いようがない。 ならいっそ地に還してやる方が無難さね!」
ティナの瞳が揺れ、言葉が出ない。
「同情するな、ティナ! それはもう人間じゃない。巫女は神の意志を伝える者。情じゃなく、村を守る使命で動くんだよ……“聖導”ならばなおさらね」
ティナは唇を噛むが、足は動かない。
その時、遅れて戦場へ駆け込んだカイルが息を呑んだ。
目の前に立つ、一体の見覚えのある鎧を身に纏う魔人――「……ジーク……」
かつての親友――その面影をわずかに残した異形。
黒き血筋を幾つも生やし、剣と同化したような異質な腕を構える。
「……カ……イ……ィ……ル……」
その魔人は、確かにカイルの名を呼んだ。
カイルは一瞬、目を閉じた。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。そして、誰にも届かぬほどの小さな声で呟く。
「……すまない」
静かな決意とともに、カイルは剣を構える。
一閃。
ジークだったものの身体は、音もなく崩れ落ちた――が、その刹那。
「おっおっおっ? 君たち、そんな関係だったのー?」
滑稽に、興味深げに、嗤う声。
異形たちの主――六本腕の魔神が、裂けた口を歪ませてにやりと笑う。
「じゃあ、もっと面白くしよっか♪」
そう言うやいなや、魔神は自らの腕の一本を“もぎ取った”。
どろりとした黒い血が地に落ち、その腕は躊躇なくジークの亡骸へと投げつけられる。
黒い腕は、まるで意思を持つかのように蠢き、肉体へと侵食していく。
「ぐおおおぉぉおああああ……ッ!!」
ジークの肉体が激しく脈動し、闇の波動が戦場に一気に広がる。
「魔神の身体の一部を取り込むと……強くなるぞ~? 倒せるかなぁ?」
愉悦に満ちた声で、魔神は心底楽しそうに嗤った。
魔神の身体と融合した魔人ジークの暴威が、辺境の巫女の里を蹂躙する。
その腕が振るわれるたび、大地は抉れ、巨木が吹き飛ぶ。
巫女たちは術をもって応じるも、押し寄せる暴力はすべてを叩き潰し、戦線は崩壊の瀬戸際まで追い込まれていく。
「くっ、持ちこたえられない……!」
防御に回った巫女たちの膝が地を打つ。
敵の攻撃は刻一刻と激しさを増し、回復する隙すら許されない。
それでも陣頭指揮を取るセイラは、必死に戦列を繋ぎ止めていた。
そんな中、高台の上に佇む魔神は――声こそないが、醜く歪んだ口を開き、ただ楽しげに笑っていた。
その笑みひとつで状況を支配し、まるで遊戯でも見るように指を弾く。
「……ッ!?」
次の瞬間、見えない刃が空を裂き、セイラの身体を貫いた。
「うぐっ……!」
背から噴き出す鮮血。膝をついたセイラの前に、影が落ちる。
魔人ジークが跳躍し、巨大な拳を振りかぶった。
避けられない――そう悟った刹那、重く、鋭い音が戦場を裂いた。
ババーバが、地を蹴ったのだ。
老いた身ながら、巫女としての誇りを背負い、矍鑠とした動きのまま戦場に戻る。
次の瞬間――ババーバの杖が、ジークの拳を正面から受け止めていた。
「ぬうっ!」
衝撃が爆ぜ、大地が軋む。
それでも高台の魔神は、声もなく、ただ嗤い続けている。
「ジーク! もうやめろ!!」
崩れた地を踏みしめ、カイルが叫ぶ。
その声には怒りではなく――深い痛みが宿っていた。
一瞬、魔人ジークの動きが止まる。
だが次の瞬間、その顔が憎悪に歪む。
「ダマレェッ!!」
狂気を孕んだ咆哮が響く。
「オレが死んだのは、オマエのせいだ!! お前が……オマエが、オレたちを殺したんだァアア!!」
その叫びは、ティナやババーバだけでなく、戦場中に響いた。
そして何より鋭く、深く、カイルの胸を抉った。
「俺が……? お前たちを……殺した……?」
カイルの手から力が抜け、剣先が地を擦る。
瞳から光が失われていく。
「小僧!!」
戦場にババーバの怒声が響く。
「尻拭いはどうしたって言ってるんだよッ!!」
だがその言葉は届かない。
カイルの心にはぽっかりと穴が開き、後悔の影がじわりと染み込んでいく。
その様子を――魔神は高台から見下ろし、醜く、声もなく嗤う。
まるで囁くように、「そう、それでいい」と。
まるで願うように、「崩れろ。壊れろ」と。
【このままなら、すぐにこちら側に転生――】
「バカが……っ!」
呻くように吐き捨て、ババーバが駆けた。
カイルはもう、思考を止めていた。
ジークの叫びだけが胸に残り、世界が遠のいていく――その刹那。
魔人ジークの拳が振り下ろされる。
怒りと憎しみを凝縮した、渾身の一撃。
避ける暇などない。
空気が裂けた――だが。
痛みは、来なかった。
カイルは無傷のまま、そこにいた。
その前に立ちはだかったのは――ババーバ。
「……な、ぜ……?」
震える声が漏れる。
ババーバはジークの渾身の一撃の余波で膝をつき、神衣は破れ、口元から血を垂らしていた。
肩を上下させながら、それでも顔を上げる。
「さぁ……なぜかねぇ……」
痛みに顔を歪めつつも、しわだらけの顔に、身内にしか見せない笑みを浮かべる。
「私も……焼きが回ったのかもねぇ……こんな小僧ひとり、かばって……」
その姿は、寂しげで――そして誰よりも強かった。
魔神が表情を歪ませ、指を弾く。
空気が震える。
“それ”は、光すら追いつけぬ速度で放たれた。
目に見えない矢が、ババーバの胸を――正確に、容赦なく貫いた。
老巫女の身体がのけ反り、血が噴き出す。
そのまま、崩れ落ちる。
――何も、できなかった。
ティナはその瞬間まで、ただ見ていることしかできなかった。
「……お、おばあちゃーんっ!!」
張り裂ける悲鳴が、戦場に響き渡った。




