カイルの使命 4
目を開けると、夜はすでに明けていた。
祠の中は薄明かりに包まれ、静寂が満ちている。
外からは鳥の声すら聞こえず、森全体が息を潜めているようだった。
カイルはゆっくりと身体を起こし、耳を澄ませた――獣の気配はない。
昨夜の嵐のような戦いが嘘のように、世界は穏やかだった。
慎重に外を観察する。
木々の間を抜ける朝の風。
陽光が斜めに差し込み、薄い霧が流れる。
黒獣の姿も、血の匂いもない。
「……この祠のおかげか?」
独り言のように呟くと、カイルは腰の袋から粗末な物ではあるが、非常食用の干し肉と乾燥パンを取り出した。
それを祠の前にそっと置き、深く頭を垂れる。
「皆に加護を……巫女への導きを」
静かに祈祷を捧げ、手を合わせる。
やがて顔を上げ、リリーの首を撫でる。
「行こう、リリー……仲間のもとへは戻らない。俺達は自分の使命を果たすため、巫女を探そう」
リリーが小さく嘶き、カイルを見上げる。
その瞳に映る信頼を確かめ、二人は再び森の奥へと歩みを進めた。
不思議なことに、森は静かだった。
昨日あれほど獣が蠢いていたとは思えぬほど、空気が澄んでいる。
まるで、別の場所に迷い込んだような――そんな錯覚すら覚える。
だが、油断はしない。
剣の柄に手を置き、気配を探る。
その時だった。
遠くから、低い遠吠えが聞こえた。
カイルの表情が険しくなる。
仲間が襲われている可能性――巫女を探すのは大前提だが、昨日殿を務めたように仲間が危機ならば助けねばならない。
その一念で、音のする方へと馬を走らせた。
やがて木々の密度が増し、獣の匂いが濃くなる。
血のような、腐臭のような匂い。
リリーから下馬し、そっと身を潜め周囲を伺うと、カイルはすぐに悟った。
「……ここは、棲みかか」
魔障獣の群れが潜む巣穴。
それを守る黒獣たちが、一斉にカイルの存在に気づいた。
低い唸り声が幾重にも重なり、森が揺れる。
「最悪だ……」
小さく呟いた瞬間、カイルはリリーに飛び乗った。
「逃げるぞ!」
リリーの蹄が地を蹴り、再び森を裂く。
背後からは咆哮、枝を砕く音、重い足音。
追撃の群れが迫る。
枝の間を渡る黒い影。
上から、横から、前から――獣たちは息を合わせて襲いかかってくる。
だが闇夜とは違い、森の中とはいえ陽光は差す。その為、対応は昨晩より明らかに楽ではあった。
カイルは剣を抜き放ち、幾つもの爪を弾き返した。
「くっ……!」
だが、多勢に無勢。肩をかすめる鋭い痛みが走り、血が滲む。
それでもカイルは剣を振り、リリーを守る。
その時、川のせせらぎが耳に届いた。
流れる水音――命の音。
「……川か!」
一か八か。
方向も、距離も分からない。
だが、森の中を宛もなく逃げるよりは、流れに沿った方が生き残れる。
リリーの手綱を操り、川の方角へと駆け出す。
枝を避け、根を飛び越え、風を切る。
しかし、黒獣たちは容赦なく迫ってきた。
再び、木の上から一体が飛びかかる。
カイルは剣で受け流すが、すぐに次が来る。
背後を狙った一撃が、肩口に深く食い込んだ。
背中に走る激痛。
それでも歯を食いしばり、リリーの背にしがみつく。
ようやく木々の先に光が見えた。
川だ。だが――
「段差か!?」
視界の先、川面までは高い崖。
迷う時間はない。リリーが飛越し、川沿いに着地するが、体勢を崩した瞬間、背後から黒獣が迫った。
爪が空を裂き、カイルの背を再び捉える。
更なる痛みが走り、落馬、膝が崩れた。
「くそぉぉぉぉっ!!!」
怒りとも悔しさともつかぬ叫びが、森に響く。
それでもカイルは倒れまいと剣を杖代わりに立ち上がる。
だが、鋭くうねる獣の尾が唸りを上げる。今にも、その身を貫かんとしていた。
その刹那、鋭い声が響き――光が走った。
轟音。
光。
風。
次の瞬間、魔障獣は地を揺らすほどの音を立てて倒れ伏す。
カイルが見上げた先に立っていたのは、一人の少女。
日を弾く赤い紐に束ねられた髪、澄んだ瞳。
信じられないものを見たように、カイルはただ呟いた。
「君……は……」
ティナは少しだけ首を傾げ、柔らかく笑った。
「私はティナ。 あなたは?」
「おれ、は……」
言葉を紡ぎかけた瞬間、カイルの身体が崩れ落ちた。
意識が途切れ、剣が静かに地を打つ。
ティナはしゃがみ込み、そっとカイルの顔を覗き込んだ。
その瞳には、恐怖ではなく、ほんのかすかな安堵が浮かんでいた。
視界が滲んでいた。
痛みと疲労で意識が遠のいていたのか、カイルは地面に背をつけたまま、ぼんやりと上空を見ていた。
『あれ、俺はなにを……』
倒れていたはずの魔障獣は、音もなく崩れ伏している。
代わりに、陽の光を背に立っていたのは――。
「君が助けてくれたのか……?」
細く声を絞ると、その少女はどこか現実離れした雰囲気を纏いながら、にこっと笑った。
「大丈夫? 私はティナ。あなたは?」
その声に、この少女が誰なのか確信した。
だからか、息を吸うのも苦しい胸を押さえながら、カイルは必死に言葉を返す。
「ティナ……? いや、その格好……君は、巫女か……? 巫女なのか?」
「うん、そうだよ。 で、あなたの名前は?」
「そうか、巫女……君が、そうか」
カイルは上体を起こそうと身体に力を込める。
「俺の名前はカイル。 ここには、ある使命を受けてきたんだ……」
「へぇ、そうなんだ。 それよりもなんで私が巫女って知ってるの?」
「そんなの……知ってるに決まってる……!」
カイルの声は、震えていた。だが、それは恐れではなく、焦がれるような必死さだった。
「俺たちは……君に、君たち巫女に……会いに来たんだ……!」
「はい、はーい。とりあえず落ち着いて」
「落ち着いてなんかいられるか……俺はここまで、どんな思いで――」
「はいはい、分かったってば。そんなことより、まずはその傷を治さないとね」
「傷……こんなのかすり傷だ」
カイルは歯を食いしばりながら、ぐっと身体に力を入れる。
だが、体がついてこない。わずかに肩が揺れただけで、息が漏れた。
その様子を見て、ティナはくすっと笑う。
「ふふっ、強がらなくていいから」
ティナがそう言って、ふわりと手を差し出す。
「……ッ!?」
次の瞬間、ティナの掌から目映い光があふれ、カイルの身体をやさしく包み込んだ。
それは治癒士や魔術師のような力とは違う。
全く異なる力、それは傷口を癒すだけではなく、失われた体力までも満ちていくような、不思議な感覚だった。
カイルは思わず、自分の腕を見つめる。裂けていたはずの皮膚が、まるで何もなかったかのように滑らかに戻っていた。
「これでよし、ね? これでもう少し落ち着いて話せるでしょ?」
ティナは、悪戯っぽく笑っていた。
ティナが傷を癒し終えると、カイルはしばらくその掌を見つめていた。
やがて、ゆっくりと体を起こし、少しだけ顔を上げる。
「……ありがとう。助かった」
その言葉に、ティナは一瞬ぽかんと目を見開いた。
「……どうした?」
不思議そうに尋ねるカイルに、ティナは小さく首を振る。
「ううん、なんでもない……ただね」
視線を伏せ、少し照れくさそうに笑う。
「“ありがとう”っていう友達みたいな言葉さ……言われたの初めてかも」
くすぐったそうに、それでいてどこか嬉しそうに微笑むその姿は、神の力を持つ巫女というより――ただの年頃の少女だった。
「……そうか」
一拍の沈黙。
そしてカイルは表情を引き締め、声の調子を切り替えた。
「そんなことより――」
「そんなことより!?」
ティナが思わず声を上げる。
その瞬間、カイルは彼女の両肩に手を置き、真っすぐにその瞳を見つめた。
「ああ、そうだ。そんなことより、話を聞いてほしい。俺は――君たちに、どうしても伝えなきゃいけないことがある」
ティナは目を瞬いた。
「なにそれ?」
「……俺は、いや俺たちは、国を救うために、世界を救うためにここまでやって来たんだ」
その声には熱がこもっていた。
目の前の少女に、誇りをかけて。
己の使命をかけて――カイルの瞳は、わずかの揺らぎもなくティナを見つめていた。




