カイルの使命 2
「バカな、こんなに接近されるまで俺が気付かないなんて……!」
仲間の獣人が絶句した。驚愕の表情が、そのまま言葉を失わせていた。
彼はカイル小隊の中でも、斥候と警戒に最も長けた男だ。
彼が気づかぬなら、他の誰にも察知できるはずがない。
だが――それでもおかしい。
何がおかしい? そう、あまりにも“音”がなかった。
あれほどの巨体が飛来すれば、遠くからでも翼が風を裂く轟音が響くはず。
それなのに、まるで空間そのものを歪ませるように、突如として目の前に現れたのだ。
「カイル!」
叫んだのはジークだった。
唖然としていたのは斥候役だけではない。
カイルもまた平静を保てず、空を仰ぎ見ていた。
その視線を、ジークの声が叩き落とす。
「森だ! このまま森に入る! 川沿いを頼りに進め!決して木々の外に出るな、上空から狙われるぞ!」
「「了解!」」
カイルを筆頭に、小隊全員が森へと飛び込んだ。
計画も、進軍ルートも、すべて崩れ去る。
地鳴りのような風圧が背を追う。
黒竜が、空を裂いて降下してくるのだ。
【んふ~……玩具がいっぱい♡】
その声は――背後、空を覆う黒竜の方角から聞こえた。
耳ではなく、脳髄を這うように、甘く、禍々しく、愉悦に満ちた響き。
それは、まさしく“理”の外側からの囁きだった。
森の中を、木々を、川沿いを頼りに進む。
だが途中、岩場が多く、馬では進めない場所に出た。
「黒竜は?」
カイルが問う。
「おかしい……いない」
「いない?」
カタリナが首を傾げる。
「ああ、いない――というより、臭いを感じない。そうだ、最初から臭いを感じなかったんだ」
その言葉を発した途端、獣人の彼は肩を震わせた。
その意味を理解したカイルが、低く呟く。
「……魔神か」
その一言に、全員の視線がカイルに集まる。
木々を渡る風の音が、途切れた。
「音もなく現れ、音もなく姿を消す。しかも、臭いも、痕跡の一つも残さない……そんな芸当が出来るのは、人じゃない」
誰もが息を呑む。
張り詰めた空気を、ジークが手を叩いて散らした。
「落ち着け。俺たちは魔神と戦うために来たわけじゃない」
「……じゃあどうするの?」
「好都合だろ?」
「は?」
ジークの言葉に、全員が眉をひそめた。
「ここは巫女の村の近くだ。あの魔神と巫女を――ぶつけるんだ」
「そんなの、あり得ないでしょ!?」
カタリナが叫ぶ。怒りが声を震わせる。
「それも選択の一つだ。俺たちは王国のために動いている。 たとえ巫女を敵に回したとしても、“魔神にとっての敵は巫女もいる”と思わせられれば――共闘せざるを得なくなるはずだ」
「そんな簡単にいくわけない……人の心はそんな単純じゃない!」
カタリナが首を振る。
ジークの瞳は揺れなかった。
「ああ、そうだな。 俺たちは巫女に殺されるかもしれない。だがそれで王国が救われるなら、安いものだ。なぁ、カイル?」
ジークがカイルを見据え、決断を促す。
沈黙が流れた。だが、カイルはやんわりと首を振った。
「……それは違う。巫女も、王国の民も、同じ“生きる者”だ」
その一言で、張りつめていた空気がほどけた。
カタリナが小さく息を吐き、他の仲間たちも前を向く。
進軍を再開したあと、カイルはジークに歩み寄った。
「……いつもすまない」
突然の言葉に、ジークは振り返って笑う。
「何を謝る? 気にすることはないだろう」
「いや。お前が選択の幅を広げてくれる。 例えそれが非情な提案でも、皆のために嫌われ役を買ってくれている。本当に助かっている」
カイルの真摯な言葉に、ジークは笑いながら彼の肩を叩いた。
「そういうのは、全部が終わった時に言うもんだ……まだ何も成し遂げちゃいねぇだろ、隊長?」
軽く笑って歩き出すジークの背を、カイルは見送る。
そして小さく頷き、また歩を進めた。
岩場は、奥へ進むほどに険しく、荒々しくなっていった。
黒竜は姿を見せなくなったが、先ほどの“突如現れる異常さ”を思えば、油断はできない。
森の外に出ることもできず、一行は慎重に進むしかなかった。
やがて、時刻は夜へと差し掛かる。
明かりのない、道なき森を馬で進むのは危険だ。
万が一、魔獣に見つかれば、それこそかっこうの獲物になる。
そこで、カイルは森の中にぽっかりとできた窪地を見つけ、野営を指示した。
外からの視界が遮られ、風も弱い。
身を潜めるにはうってつけの場所だった。
当初の目的からは外れたが――少なくとも今夜は、誰一人欠けることなく黒竜から逃げおおせた。
「火はどうする?」
仲間の一人が問う。
カイルは短く首を振った。
「駄目だ。明かりは敵への合図になる。暗闇のまま過ごそう」
その判断に、全員が静かに頷く。
夜気は冷たく、森の闇がゆっくりと彼らを飲み込んでいく。
見回りは、斥候役の獣人剣士とカイルが引き受けた。
ジークとカタリナには、中央で小隊の守りを任せる。
獣人剣士ほどではないが、カイルの剣技は確かだった。
暗闇でも敵の動きを捉える目を持ち、空気の揺らぎを察するほどの勘がある。
この夜も、周囲の静寂の“質”を測るように呼吸を整え、森の奥へと足を踏み入れた。
湿った土の匂い、窪地に溜まる夜の冷気。
二人の足音だけが、静かに闇へと沈んでいく――その時、悲鳴が響いた。
それはカイルたちが巡回している森の奥ではなく、窪地で休んでいた仲間たちの方からだ。
カイルは一瞬で状況を察し、獣人剣士に合図を送る。
次の瞬間、踵を返して駆け出した。
木々を抜け、窪地へと戻る。
だが、そこで目にした光景に、息を呑む。
――仲間たちは、何者かに囲まれていた。
その“何者か”は人の姿をしていた。
だが、明らかに異常だった。
農具を手に、ゆらりと揺れながら立ち尽くすその影。
身体には黒く浮き上がる血管が走り、四肢は肥大して膨れ上がっている。
裂けた口は笑みとも悲鳴ともつかず、血の涙を流しながら呻き声を上げていた。
「ジーク!」
カイルが剣を抜き、仲間のもとへ走る。
ジークが叫んだ。
「いきなり現れた! こいつら……何だ!? 魔獣なのか!?」
あの冷静なジークが取り乱していた。
無理もない――何もない闇の中から、突然“人”が現れたのだ。
「ねぇ、カイル……この人達、農具を持ってる。もしかして……村の人なんじゃない?」
カタリナの震えた声。
カイルの脳裏に、通り過ぎた“襲われていた村”の光景がよぎる。
だが、なぜここに? なぜ、いきなり?
「……魔神の仕業か」
カイルが呟いた、その瞬間だった。
「大丈夫? あなた、怪我は――」
カタリナが、村人の装いをした“異物”へと不用意に近づく。
――ギンッ。
鋭い金属音が夜気を裂いた。
達人の剣速にも匹敵する速さで、農具が振り下ろされる。
「え――?」
鮮血が夜闇に散り、か細い右腕が宙を描いた。
「きゃあああああああ――ッ!!」
絶叫。
右腕は――カタリナのものだった。
その光景を合図にしたかのように、“人ならざる者たち”が一斉に動き出す。
歪んだ口から、獣とも人ともつかぬ呻き声を上げ、剣士たちへと襲いかかった。
「カタリナ!!」
右腕を押さえ、痛みに呻きながら倒れ込むカタリナ。
その無防備な姿に、“人ならざる者”がのしかかろうとする――だが、届かなかった。
カイルだ。
地を蹴り、風のように走り抜け、一瞬で間合いを詰めて一閃。銀光が閃き、村人の胴が宙を舞った。
「カタリナ、立てるか!」
ジークが駆け寄り、カタリナを抱き起こす。
その間にも、カイルは周囲に鋭く命じた。
「方円の陣を保て! 敵は目の前だけとは限らない――どこから来るか分からんぞ!」
ジークの指揮が飛び、剣士たちは即座に応じた。
統率のとれた小隊が円を描き、中心にカイルたちを守るように陣を組む。
その刹那、カイルが低く呟いた。
「……あれは、魔人だ」
その言葉に、全員の背筋が凍りつく。
魔人――魔神によって創り出された、悲劇の産物。
人の絶望と負の感情を糧に、“生”から“魔”へと即座に転化させられた存在。
黒き理、その上位主たる魔神は、この世の理そのものを歪める術を持つ。
「カタリナ、傷を見せて」
今は治癒士もいない。だが、出血を止めねばならない。
ジークは即座に腰の薬袋を開き、薬草を潰して軟膏を作り、彼女の腕に塗り込んだ。
そして包帯を巻き、強く圧迫する。
「これで持つはずだ……」
「ひどい結び方ね……治療の仕方、やり直したら?」
荒い息の中でも、カタリナはいつもの調子を崩さない。
ジークはほっと息を吐き、わずかに笑った。
「そんな口が利けるなら大丈夫だな。歩けるか?」
「嘗めないで。私はそんなにやわじゃないわ」
そのやり取りを背に、カイルは陣形のほころびに気づく。
瞬時に駆け出し、崩れかけた地点の敵を斬り伏せた。
再び陣形を整える。
「カタリナ、もう少し辛抱できるか?」
「ええ……でも、私も加勢したい」
「いい。無理はするな。俺はカイルを援護する。お前はそこで助けられてろ」
「……言い方!」
ジークは苦笑しながら立ち上がり、カイルとは反対側へ駆けた。
内側から仲間を支援し、陣を保つ。
戦況は徐々に傾いていく。
魔人たちは次々と倒れ、数を減らしていった。
死者は出てないが、傷は増え、また疲労も重い。
それでも確かに、勝利は見え始めていた。
だが、ここは――巫女の村にほど近い森の外縁。
敵は、魔神の配下だけではなかった。
突如、剣士たちの前で暴れていた魔人の胴を、鋭い“爪”が貫いた。
鈍い音。次の瞬間、圧倒的な力でその身体が引き裂かれ、血潮が夜空に散る。
第三の勢力――魔障獣の出現だった。
その咆哮が森を震わせ、空気が歪む。
魔神とは異なり、魔人は“かつて人間だった存在”のため、魔障獣にとってはただの“獲物”だ。
そのため、魔障獣の群れは剣士、魔人の区別なく襲いかかる。
牙と爪が閃き、魔人の肉を引き裂く。
人外と化した者たちが、今度は“さらなる異形”に狩られていく。
だが、その凄まじい暴威は剣士たちにも容赦なかった。
並の魔獣など比べ物にならぬ。
その一撃で、屈強な兵が数人まとめて薙ぎ払われる。
「馬だ、皆! 馬に乗れ!」
カイルの叫びが響く。
剣士たちは闇夜の中、懸命に騎乗し、脱出を図った。
目指すは――森の外。
岩場は多いが、川沿いならば月明かりに導かれ、進路を誤ることはない。
ジークは負傷したカタリナを前に乗せ、手綱を握る。
だが、その視線の先――まだ馬に乗っていないカイルの姿を見つけた。
剣を構え、なお最前線に立つその姿。
「カイル! なにをやっている!!」
「先に行け! 殿は任せろ! 必ず巫女の村へ辿り着け!」
「バカが! お前が残るなら俺が――!」
「時間はない、ジーク! 早く行け!!」
「くそ……必ず、必ず合流するぞ!!」
ジークは歯を食いしばり、馬を走らせた。
残されたカイルは、まだ騎乗できていない仲間たちを守るため、剣を振るう。
黒き闇の中、鋼の閃光が幾度も走る。
魔障獣たちが唸り声を上げるたびに、地が鳴り、血が飛ぶ。
それでも――カイルは退かない。
その一太刀ごとに仲間を逃がし、その一閃ごとに、己の命を削っていた。
彼の剣は、もはや“人”の域を超えていた。
魔人すら凌駕した魔障獣を相手に、孤軍奮闘。
それでもなお、カイルの眼は燃えていた。
――その先にある、己の使命を信じて。




