04:斥力(リパルス)は嘲笑に消ゆ
意識が、ゆっくりと浮上してくる。
それは深い泥の底から、重い水圧に抗いながら水面を目指すような感覚。ひどく緩慢で、苦痛に満ちた覚醒だった。
最初に感じたのは、全身を苛む激しい痛み。まるで身体の骨という骨が一度砕かれ、無理やり繋ぎ合わされたかのようだ。
次に、鼻をつく薬品の匂い。
そして、腕に絡みつく、ひんやりとした金属の感触。
ゲヒは、うっすらと目を開けた。
最初に映ったのは、石でできた天井だった。視線を巡らせると、自分が簡素なベッドの上に寝かされていることが分かる。部屋は薄暗く、鉄格子のはまった小さな窓がひとつあるだけ。身の覚えのない場所だった。
ここは、どこだ…?
彼は、身を起こそうとした。
だがその瞬間、両腕に繋がれた金属がガチャリと音を立てた。見れば両手首に、魔力を完全に封じるための『禁固の枷』が厳重にはめられていた。
「……っ!」
その枷を見た瞬間、記憶が濁流のように蘇る。
マナ・リアクターの暴走。
屋根の上からの高揚感。
そして、すべてを飲み込んだ、あの純白の光。
リーナが放った、常軌を逸した魔力の奔流。
そうだ。
俺は、負けたのか。
「お目覚めかな、ゲヒ君」
静かな声が、部屋の隅から聞こえた。
ゲヒがそちらに顔を向けると、闇の中に、松葉杖をついた人影が浮かび上がった。ギルドの最高幹部、マスター・ゼノンだった。
彼の顔には深い疲労の色が浮かび、片足には包帯が痛々しく巻かれている。リーナの魔力暴走に巻き込まれた時の傷だろう。
「マスター・ゼノン……」
ゲヒの声は、ひどくかすれていた。なぜ彼がこんなところに、いやそもそもここはどこで、なぜ自分がこんなところに、など。彼の頭の中にいろいろなものが浮かんでは、通り過ぎていく。
「ここは、ギルドの地下にある特別拘置房だ。君はあの後、三日三晩、意識を失っていた」
ゼノンは、ゆっくりとベッドのそばまで歩み寄ると、椅子に腰かけた。その目は、ゲヒを罪人として裁くというよりは、むしろ、理解不能な生き物を観察するかのように、静かだった。
「君の身柄は、近く王国騎士団へと引き渡される。国家への反逆罪、及び王都転覆未遂。まあ、死刑は免れんだろうな」
淡々と告げられる、自分の運命。
ゲヒは、それをどこか他人事のように聞いていた。
不思議と、恐怖は湧いてこなかった。あの光に飲み込まれた時、自分は一度死んだのだと、漠然と感じていたからかもしれない。
「ひとつ、聞かせてはくれんかね」
ゼノンは、探るような目でゲヒを見つめた。
「なぜ、あのようなことをした? 『黒き黄昏』に、何をそそのかされた?」
「……」
ゲヒは、黙っていた。何を話したところで、今更意味などない。
「君ほどの男が、なぜだ。確かに君は、戦闘魔術師としての才能には恵まれなかった。だが、その魔力制御の繊細さ、そして何より、ひとつの魔法を二十年以上も探求し続けたその執念。それは、ある意味ではリーナ君の才能をも凌駕する稀有な『才能』だったはずだ。なぜ、その力を、建設的な方向へ使おうとしなかった?」
才能。
その言葉が、ゲヒの心のささくれを、容赦なく逆撫でした。
「才能だと……? 俺のこの力が、才能だと言うのか……?」
かすれた声で、ゲヒは反論する。それは彼にとって、明らかな格上相手を前にして吐露した、紛うことなき本音の言葉だった。
「あんたたちには、分かるまい。俺のような、何の役にも立たない力しか持たずに生まれた者の気持ちなど! 火も水も出せず、人を癒すことも、守ることもできない! ただ、人を少しだけ押し返すことしかできない! そんな力が、才能だと!? ふざけるな!」
感情の昂ぶりに、枷がガチャガチャと音を立てる。繋がれた非力な手はそのたびに傷を負う。だがそんなことに気を留めないほどに、今のゲヒは感情を高ぶらせていた。
「あんたたちは、いつもそうだ! 才能ある者だけをちやほやし、俺のような日陰者は、存在しないかのように扱う! 俺はただ……認められたかっただけだ。俺が、ここにいるのだと。俺の力も、決して無価値ではないのだと!」
叫びは、やがて嗚咽に変わった。
ゼノンは、そんなゲヒの姿をただ黙って見つめていた。その目に、軽蔑の色はなかった。むしろ、深い哀れみのようなものが浮かんでいるように見えた。
やがて、彼は静かに口を開く。
「……君の腕輪は、リーナ君の魔力奔流によって跡形もなく消滅したよ。そして『黒き黄昏』の残党も、あらかた捕縛された。君をそそのかしたカシムという男もな。奴らの話では、君は都合よく利用されただけの、捨て駒だったそうだ」
捨て駒。
その言葉は、もはやゲヒの心に何の傷もつけなかった。
彼は、最初から分かっていたのかもしれない。カシムの甘言が、ただの虚構であることくらい。だが、それでも彼は、その虚構に縋りたかったのだ。
「……リーナは……あの小娘は、どうなった」
ゲヒは、絞り出すように尋ねた。
ゼノンの表情が、わずかに曇る。
「……リーナ君は、一命をとりとめた」
その言葉に、ゲヒの胸の奥がチクリと痛んだ。
安堵か、それとも失望か。自分でも分からない感情だった。
「だが……。あの時の無謀な魔力圧縮の代償は、あまりにも大きかった」
ゼノンは表情を変えず、淡々と言葉を続けた。
「彼女は、その魔力の源泉である『マナの泉』に、修復不可能なほどの傷を負った。おそらく、もう二度と、かつてのような強大な魔法を使うことはできんだろう。……百年にひとりの逸材は、その才能ゆえに、その才能を失ったのだ」
その事実は、ゲヒにとってどんな裁きよりも重い衝撃だった。
自分が、あの輝かしい才能を、永遠に奪い去ってしまった。
勝利でも、敗北でもない。
ただ虚しく、救いのない結末だけが、そこにあった。
「……そして、もうひとつ、君に伝えておかねばならんことがある」
ゼノンは、意を決したように言った。
「君の罪状は、本来なら問答無用で死刑だ。しかし、君は終身禁固刑へと減刑されることになった」
「……なぜだ」
「……リーナ君からの、強い嘆願があったからだ」
ゲヒは、自分の耳を疑った。
リーナが?
自分を破滅させた、この俺を?
「『ゲヒさんも、きっと、ずっと苦しかったんだと思うから』……彼女は、そう言っていたよ」
ゼノンの声が、やけに遠く聞こえる。
「驚くべきことに、彼女は、君が陰湿な嫌がらせを続けていたことも、すべて気づいていたそうだ。それでも、君を憎むことはできなかったらしい。『だって、あの人がいなかったら、私も自分の魔力をあそこまでコントロールしようと必死にならなかったから。ある意味、あの人は私の先生だったのかもしれない』……とまで言っていた」
先生。
憎まれていれば、まだ救われたかもしれない。
罵られていれば、まだ納得できたかもしれない。
だが、自分を破滅させた相手からの、憐れみと、理解と。
そして、感謝とも取れる赦しの言葉。
それは、ゲヒが必死に守ってきた、最後の、ちっぽけなプライドの壁を、内側から、静かに、しかし完全に崩壊させた。
「あ……ああ……」
声にならない声が、ゲヒの喉から漏れた。
彼は、ベッドの上で、子供のように身を丸めた。
何という、滑稽な道化だったのだろう。
自分は、ただひとりで、空っぽの舞台の上で、復讐劇を演じていただけだった。観客も、敵役すらも、本当はどこにもいなかった。リーナは、最初から、自分のことなど、対等な存在として見てすらいなかったのだ。ただ、そこにいる、少し厄介で、だけどどこか哀れな存在として、受け入れていただけだった。
それからしばらく時が経ち。ゲヒの裁判が執り行われた。とはいっても形式的なもので、結審そのものはすぐに成された。
彼は、すべての魔力を剥奪された。その上で、二度と出られないとされる、絶海の孤島に建てられた監獄『タルタロス』へと送致されることになった。そこは、魔力のない人間や、魔力を禁じられた元魔術師たちが送り込まれる、忘れ去られた場所。魔法の存在しない、ただただ灰色で、無機質な世界だ。
護送船の甲板で、ゲヒは最後に、遠ざかっていく王都の姿を目に焼き付けた。
かつて、あれほど憎んだ街並み。
だが、今となっては、何の感情も湧いてこなかった。
彼の心は、完全に空っぽだった。
タルタロスでの日々は、単調で、無為な時間の繰り返しだった。
朝、起床の鐘が鳴り、味のない粥をすすり、日中は採石場での強制労働。そして、夜になれば、冷たい石の独房で、ただ眠るだけ。
ここには、魔術師としての階級も、才能の有無も関係ない。誰もが、ただの囚人番号で呼ばれる、一個の物体でしかなかった。
時折、看守たちが、囚人たちの噂話をしているのが聞こえてくる。
「おい、あそこにいるのが、例の『斥力のゲヒ』だぜ」
「ああ、王都をめちゃくちゃにしたっていう、あの……? なんだ、ただのひょろっとした爺さんじゃねえか」
「なんでも、斥力魔法ってのが得意だったんだとよ。今じゃ、石ころひとつ、押し返す力もねえだろうがな。ははは」
嘲笑。
かつてゲヒが、他者に向けていたもの。
巡り巡って、そのすべてが今、自分に返ってきている。
だが彼はもう、その嘲笑に怒りも屈辱も感じなかった。
ただ、そうか、と、他人事のように受け入れるだけだった。
季節が何度か巡り、ゲヒの身体は過酷な労働によって衰弱していった。
同じく彼の心もまた、時間の流れと共に、ゆっくりと摩耗していった。
彼はもう、誰かを妬むことも、憎むこともなかった。その感情を燃やすための、燃料そのものが、枯渇してしまっていた。彼の心は、静かな虚無に満たされていた。
ある風の強い日の夕暮れ。その日の労働を終えたゲヒは、独房の鉄格子の窓から外に目を向けた。茜色に染まる空と、荒れ狂う海を、ぼんやりと眺める。
ふと、彼は自分の手を見つめた。
過酷な労働で、皮膚は硬く、ひび割れ、爪は黒く汚れている。
かつて、この指先はささやかな斥力を生み出した。
人をよろめかせ、物を落とさせ、彼の歪んだ自尊心を満たしてくれた。
そして、偽りの力を得て、街を破壊し、ひとりの天才の未来を奪った。
彼は、おもむろにその指先を動かす。目の前にある冷たい鉄格子に、そっと触れさせた。
そして、心の中でそっと、声なくつぶやく。かつて、それこそ呼吸をするのと同じくらい、何万回、何十万回と繰り返した、あの呪文を。
【リパルス・タッチ】
……もちろん、何も起きない。
鉄格子は、冷たく、硬く、びくともしない。
当たり前の、変えようのない現実が、そこにあるだけ。
ゲヒの乾ききったはずの目から、一筋の涙が、ほろりと零れ落ちた。
それは、後悔の涙か。
絶望の涙か。
あるいは、失って初めて気づいた、あの惨めで、ちっぽけで、どうしようもなかった日々への、哀惜の涙だったのかもしれない。
ただ、魔術師になりたかった。
ただ、それだけだったのに。
彼の斥力は、誰かの嘲笑に消えた。
そして、彼の人生もまた、誰の記憶にも残ることはない。
この世界の片隅で、ただ静かに、無意味に、終わりの時を待ち続けている。
遠くで、看守たちの下品な笑い声が聞こえる。
それは、かつて彼が聞き流していた、ギルドの若者たちの楽しげな声に、少しだけ似ているような気がした。
-了-