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01:埃まみれの魔導書と無詠唱の嫌がらせ

 王立魔術師ギルドの地下書庫。そこの空気は常に澱んでいた。

 カビと古紙の甘ったるい匂い。乾燥したインクの微かな刺激臭。そして何十年という歳月が堆積させた、濃密な埃の気配。外界から隔絶されたこの空間は、まるで時の流れそのものが粘性を持ち、ゆっくりと沈殿していくかのようだった。


 この地下書庫で働く魔術師・ゲヒにとって、この場所は第二の家であり、同時に彼の人生を閉じ込める石造りの棺桶でもあった。

 彼の仕事は、埃をかぶった魔導書を一本一本、湿った布で拭いていくこと。一般的な住居の三階分はあろうかという高さの巨大な書架を前にし、備え付けられた梯子を上り下りする。そして魔導書のコンディションを整える。ただ、それだけ。それは魔術師の仕事というよりは、むしろ図書館の雑役夫のそれに近かった。


「……またか」


 ゲヒは、指先で拭った魔導書の背表紙を見て小さく舌打ちした。


火球ファイアボールの改良史・第七版』。


 彼がこのギルドに所属してからの二十数年間で、少なくとも五十回は目にしたであろう、ありふれた魔法理論書だ。

 彼の魔術師としての階級は「三級サードクラス」。ギルドに籍を置けば、魔力の有無にかかわらず誰でも得られる、実質的な最下層の称号だ。


 ゲヒの才能は、あまりにも平凡で、惨めなほどに偏っていた。

 魔術の根幹をなす四大元素――火、水、風、土――のいずれにも、彼は適性を示さなかった。火球どころか蝋燭の火を揺らすことすらできず、水滴ひとつ生み出せない。攻撃魔法、防御魔法、治癒魔法、そのどれもが、彼にとっては異国の言葉で書かれた物語のように理解不能な存在だった。


 そんな彼が唯一、人よりほんの少しだけ、ごくわずかに得意だったもの。

 それが、斥力魔法だった。


 斥力――すなわち、物を反発させ、押し返す力。


 それは魔術の体系の中では極めて地味で、応用範囲の狭い分野とされていた。

 高位の斥力魔術師ならば、不可視の壁を作り出して物理攻撃を防いだり、敵を強制的に吹き飛ばしたりすることも可能だという。だがゲヒが使えるのは、その入り口にも至らない初級斥力魔法『リパルス・タッチ』だけ。指先で触れた対象を、ほんの数センチ、軽く押し返す。ただそれだけの魔法だった。


 斥力魔法は、あまりに使えない。それが大多数の魔術師の認識だ。実際にほとんどの魔術師は、基礎を学んだ時点で斥力魔法に見切りをつける。


 だがゲヒには、それしか縋るものがなかった。

 彼はこの二十数年間、誰に命じられるでもなく、この不遇な魔法を独りで磨き続けてきた。来る日も来る日も、自分の指先に意識を集中させ、斥力の感覚を研ぎ澄ませる。その執念とも言える鍛錬の結果、彼はひとつの特技を身につけていた。


 無詠唱、かつ、最小限の動作での発動。


 今や彼は、まるで偶然指が触れただけのように見せかけて、ごく自然に『リパルス・タッチ』を発動できる。誰にも気づかれることなく、そのささやかな力を、彼の望む対象へと届かせることができるのだ。


「ゲヒさん、お疲れ様です。そろそろ休憩にしませんか?」


 梯子の下から、若い女性の声がした。見下ろすと、同じ三級の同僚である魔術師・マーサが、心配そうにこちらを見上げている。


「ああ……そうだな」


 ゲヒは無愛想に答え、梯子をゆっくりと降りた。

 マーサは水の入った水筒を差し出してくる。その善意が、ゲヒにはひどく居心地の悪いものに感じられた。彼は礼も言わずにそれを受け取ると、壁に寄りかかり、ごくりと喉を鳴らした。


「聞きました? また、二級への昇級試験があるそうですよ。今度こそ、私も受けようと思ってて。……ゲヒさんは?」

「……興味ない」


 嘘だった。興味がないどころではない。今の自分がいる三級以上の魔術師のことを考えると、嫉妬で腹の底が焼け付いてしまいそうだった。


 二級魔術師になれば、この薄暗い地下書庫から解放される。

 地上でまともな研究や依頼を受けることができる。

 だが、ゲヒにはその資格がない。

 昇級試験には、四大元素魔法のいずれかの実技が含まれているからだ。


「そ、そうですか……。でも、ゲヒさんの書庫整理は本当に丁寧で、みんな助かってるって、管理長もおっしゃってましたよ」


 彼女の慰めは、ゲヒのささくれた心を逆撫でするだけだった。

 丁寧な雑用係。

 それが、このギルドにおける自分の評価のすべてだ。


 彼は残りの水を一気に飲み干すと、空の水筒をマーサに突き返す。

 そのまま無言で、地下書庫を後にした。


 螺旋階段を上り、地上階へと続く扉を開ける。途端に、地下とはまったく違う、活気に満ちた空気がゲヒを迎えた。高い天井まで吹き抜けたホールには、陽光が燦々と降り注ぎ、あちこちで若い魔術師たちが楽しそうに語り合っている。彼らのローブは真新しく、その目には未来への希望が輝いていた。


 ゲヒはその光景が、虫唾が走るほど嫌いだった。

 彼はホールの壁際を、まるで自分の存在を消すかのように、俯き加減で歩き始めた。目指すは、ギルドの片隅にある職員用の質素な食堂だ。


 その時だった。

 ゲヒの前方を、三人の若い男性魔術師の一団が意気揚々と横切った。年の頃は二十歳前後。おそらく、どこかの貴族の子息たちだろう。そのローブは上質な絹で仕立てられ、胸にはエリートの証である二級魔術師の徽章が輝いている。


「今日の魔法薬学の講義、実に有益だったな。アルマンド先生の理論は、常に我々の先を行っている」

「ああ。特にマナ触媒の活性化に関する考察は、私の研究にも応用できそうだ」

「近々、共同で火竜の鱗を使った新しいポーションの開発を申請してみないか?」


 火竜の鱗。

 ゲヒが一生触れることもないであろう、超高価な魔法素材。

 彼らはそれを、まるで近所の店で野菜でも買うかのような口ぶりで語っている。


 ゲヒの胸の奥で、黒く、粘ついた感情が渦を巻いた。

 嫉妬、劣等感。そして理不尽な世界への静かな怒り。


 ゲヒは、歩く速度をわずかに緩めた。そして、一団のリーダー格である、一番傲慢そうな顔をした青年が自分のすぐ横を通り過ぎる、その完璧な瞬間を待った。


 青年のローブの裾が、ゲヒの古びたローブに触れる。

 その刹那。

 ゲヒは、右手の指先に、ほんのわずかな魔力を集中させた。

 詠唱も、派手な身振りもない。

 ただ、指先が微かに震えるだけ。

 不可視の斥力が、ピンポイントで青年の左足のくるぶしへと放たれる。


「おわっ!?」


 完璧なタイミングだった。

 前へ踏み出そうとした青年の足は、まるで透明な何かに払われたかのように、あらぬ方向へと滑った。彼は完全にバランスを崩し、両手をばたつかせながら、派手に床へと尻餅をついた。ガシャン、と、彼が持っていた高価そうな革鞄が落ち、中から羊皮紙の巻物や水晶のペンが散らばる。


「だ、大丈夫か、アレクシス!?」

「何だ、今の!? 急に足が……」


 仲間たちが、慌てて駆け寄る。アレクシスと呼ばれた青年は尻もちをついたまま、何が起きたのか理解できず、痛みと羞恥で顔を真っ赤にしていた。


 ゲヒは、その惨状を横目で見ながら、ゆっくりと足を止めた。

 そして、さも今気づいたとでもいうように、驚いたフリをして振り返る。


「おっと、足元がおぼつかないご様子ですな。お気をつけなされ」


 その声は、言葉を聞くだけなら心配しているようなもの。

 しかしその実、嘲りを隠しきれない、絶妙な響きを持っていた。

 アレクシスは屈辱に顔を歪ませながら、ゲヒを睨みつける。


「き、貴様……今、何かしただろう!」

「何か、と申されましても? 私はただ歩いていただけですが。もしかして、ご自身の魔力制御に失敗でもなさいましたかな?」


 ゲヒはしらばっくれて首を傾げた。魔法を使った痕跡はどこにもない。マナの流れも、すでに完全に霧散している。アレクシスには、反論のしようがなかった。


「……くそっ」


 彼は悪態をつきながら、仲間たちの手を借りて立ち上がった。その目は明らかにゲヒを疑っていたが、証拠がなければどうすることもできない。

 ゲヒは彼らに軽く会釈すると、再び食堂へと歩き出した。背中に突き刺さる三対の視線が、たまらなく心地よかった。


 これが、ゲヒの日課であり、唯一の娯楽である。

 そして、彼の存在証明でもあった。


 才能ある若者。美しい女魔術師。自分をぞんざいに扱う上級魔術師。

 彼らが、自分の仕掛けた、誰にも気づかれない小さな魔法の罠にかかり、よろめく。持っているポーションを落とし、あるいは積み上げた書類をぶちまける。その度に、ゲヒの乾ききった心は、偽りの優越感でわずかに潤うのだ。


「物理的な衝突など、蛮族のやることだ」


 ゲヒは、食堂の隅の席で味気ない黒パンをかじりながら、心の中で呟いた。


「真の嫌がらせは、もっとスマートでなくてはな……」


 彼は、自分の行いがただの陰湿な嫌がらせであることを、もちろん自覚していた。だが、そうでもしなければ、このどうしようもない現実をやり過ごすことができなかった。


 なぜ、世界はこうも不公平なのだろう。

 生まれた家柄で、生まれ持った才能で、人生のほとんどが決まってしまう。

 自分だって、魔術師になりたかった。

 四大元素を操り、強力な魔法で人々を助け、あるいは敵を打ち倒す、そんな英雄になりたかった。子供の頃は誰もが、そんな夢を見るものだ。


 だが、現実は違った。

 彼に与えられたのは、斥力という魔法。

 人を少し押し返すことしかできない、役立たずの力だけ。


 食堂の向こうのテーブルで、また若い魔術師たちが、高尚な魔法理論について議論を交わしているのが見えた。彼らの世界と、自分の世界は、決して交わることのない平行線上にある。


 ゲヒは、残りの黒パンを口に押し込むと、早々に席を立った。

 長居は無用だ。あの輝かしい光景を見ていると、胸の奥の黒い感情が、またむくむくと鎌首をもたげてくる。


 午後の仕事は、魔法薬の材料運びだった。地下の貯蔵庫から、三階の調合室まで、重い木箱を運ぶ。これもまた三級魔術師の典型的な仕事だ。ゲヒは木箱を抱え、再びあの活気あふれるホールを横切らなければならなかった。


 彼は、できるだけ人と目を合わせないように、足早に進む。

 だが運悪く、向こうから見覚えのある三人組が歩いてくるのが見えた。午前中に恥をかかせた、アレクシスとその仲間たちだ。彼らはゲヒの姿を認めると、明らかに顔をしかめ、ひそひそと何かを囁き合っている。


 面倒なことになった。

 ゲヒは、彼らを無視して通り過ぎようとした。


 だが、アレクシスは、それを許さなかった。

 彼はゲヒの前に立ちはだかると、腕を組んで、値踏みするような視線を向ける。


「おい、午前の雑役夫じゃないか。またこそこそと悪戯でも企んでいるのか?」


 その言葉は、明らかに喧嘩腰だった。


「……人違いでは?」


 ゲヒは、あくまでポーカーフェイスを貫こうとする。


「とぼけるな! お前のような三級魔術師が、俺たちに気安く話しかけるなと言っているんだ!」


 アレクシスは、ゲヒが抱えている木箱を指で突いた。


「そんな重い荷物、さぞ大変だろうな。まあ、それがお前のような無能にはお似合いの仕事だがな!」


 取り巻きたちが、下品な笑い声を上げる。


 ゲヒの顔から、表情が消えた。

 血が頭に上る。こいつらだけは、許せない。

 彼は、アレクシスの足元に、ほんの一瞬、視線を落とした。

 そして、抱えている木箱の重みで、自分の体がわずかにふらつくフリをする。


 その瞬間、再び、無詠唱の【リパルス・タッチ】が放たれた。

 今度の狙いは、アレクシスの足元に転がっていた、誰かが落としたらしい小石。

 斥力を受けた小石は、まるで生き物のように跳ね上がる。

 そしてアレクシスの足に当たって、彼の足元で勢いよく転がった。


「うわっ!?」


 アレクシスは、突然足元で動いた小石に驚き、文字通り飛び上がった。その無様な姿は、まるで猫に驚いたネズミのようだった。


「な、なんだ!? 今のは……!」

「どうした、アレクシス。小石に驚くとは、お前もとんだ臆病者だな」


 取り巻きのひとりが、からかうように言う。アレクシスは、顔を真っ赤にして、再びゲヒを睨みつけた。だが、やはり証拠はない。小石が動いただけ。魔法を使ったとは、誰も証明できない。


「……お先に失礼しますよ」


 ゲヒは、かすかに口の端を歪めながら、そう言い残した。そして、彼らの横を通り過ぎ、調合室へと続く階段を上り始めた。


 背後で、アレクシスが悔しげに悪態をつくのが聞こえる。

 ざまあみろ。

 ゲヒの心に、冷たく、しかし確かな快感が広がった。


 これが、俺の戦い方だ。

 力では、才能では、お前たちには到底かなわない。

 だが、この卑小で、陰湿で、誰にも気づかれないこの力でなら。お前たちのその輝かしいプライドに、泥を塗ってやることができる。


 階段を上りきり、重い木箱を調合室の前に置く。額には、汗が滲んでいた。

 ゲヒは、窓から下を見下ろす。先ほどのアレクシスたちがおり、まだ何か言い争っているようだった。


 ゲヒは、自分の指先を、じっと見つめた。

 この指は、火も水も生み出せない。

 だがこの指は、英雄様の鼻を明かすことができるのだ。


 その時の彼は、まだ知らなかった。

 このささやかで、惨めな嫌がらせが、やがて彼自身を、そしてギルド全体を巻き込む、巨大な破滅の渦へと繋がっていくということを。

 彼はただ、その日の小さな勝利に酔いしれる。そして明日もまた、新たな「獲物」を探すことだけを考えていた。彼の世界は、それ以上でも、それ以下でもなかったのだ。



 -つづく-

ゆきむらです、御機嫌如何。


新たな「異世界のぶつかりおじさん」を考えてしまった。

20000字弱くらいのボリュームで、全4話。本日から連日投稿します。

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