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04:路地裏の残響と、抜け殻

 ハーガンの心は、砕けた肩当てと共に粉々になった。

 大通りに響き渡ったアレンの「邪魔だ」という一言。それはハーガンという人間の存在価値そのものを、完膚なきまでに否定する宣告だった。

 彼は、英雄の物語における障害物ですらなかった。

 ただ道端に落ちていた、取るに足らない石ころ。

 その事実が、彼の精神を根元からへし折った。


 衆人環視の中、地面に転がったまま動けないハーガン。英雄の行列が通り過ぎると、凍りついていた人々の時間も再び動き出す。しかし、誰も彼に手を差し伸べようとはしない。人々は、まるで汚物でも避けるかのように、彼を遠巻きに通り過ぎていく。好奇、軽蔑、嘲笑。無数の視線が、針のように彼の全身に突き刺さった。


「おい、いつまで寝てるんだ! 通行の邪魔だぞ!」


 やがて、騒ぎを聞きつけた衛兵たちがやってきた。衆人環視の中でうずくまり、震えるハーガンを、乱暴に足で小突く。


「立て、じじい! さっさと失せろ!」


 その声には、一片の敬意も、同情もなかった。ハーガンは、ただの厄介者として扱われている。かつては、街の衛兵たちも冒険者である彼に一目置いていた時代があった。その記憶が、今の惨めさを一層際立たせる。


 ハーガンは、震える腕で、かろうじて身を起こした。全身が軋むように痛む。だが、肉体の痛みなど、心の痛みに比べれば物の数ではなかった。

 彼は、砕け散った鉄の肩当ての一番大きな欠片を、震える手で拾い上げる。まるで何にも代えがたい宝物を手にするかのように。

 だが、かつて栄光の象徴だったそれは、今や見る影もない。ハーゲンの敗北と屈辱を刻み込んだ、ただの鉄クズに過ぎなかった。


 衛兵に追い立てられるように、ハーガンはよろよろと立ち上がり、人波の中へと消えていった。その背中は、かつての威圧的な『鉄肩』の面影もなく。ただひたすらに小さく、丸く、みすぼらしかった。


 その日を境に、ハーガンは完全に牙を抜かれた。

 ぶつかるための「武器」であった肩当ては砕け、ぶつかるための「理由」であった歪んだプライドも、アレンの無関心によって跡形もなく消え去った。

 彼は、魂の抜け殻となった。


 生気の失せた目は虚ろに宙を彷徨い、かつては憎悪で燃えていた心は、冷たい灰で満たされている。彼はもう、街中で誰かにぶつかろうとはしなかった。

 むしろ、人とすれ違うことを極端に恐れるようになった。誰かの視線を感じるだけで、あの日の嘲笑がフラッシュバックし、体が竦むのだ。彼は人目を避けるように、常にうつむき、壁際を、道の端を、まるで影のように歩くようになった。


 当然、日雇いの仕事もなくなった。荷運びのような力仕事を行う気力も体力もない。何より、雇い主たちが、その生気のない死人のような目をした老人を雇おうとはしなかった。

 収入は完全に途絶えた。貯えなど、もとよりない。安アパートの家賃はすぐに滞納し、追い出されるまでに時間はかからなかった。


 ハーガンは、完全な無一文の浮浪者となった。

 かつて彼が獲物として見下していた、街の最底辺の存在。

 その一員に、彼自身が成り下がったのだ。


 季節は冬本番を迎え、王都には骨身に染みる冷たい風が吹きすさんでいた。ハーガンは、薄汚れたぼろ布一枚を体に巻きつけ、人通りの少ない路地裏で寒さをしのいでいた。食事は、裕福な商家が捨てる残飯を、野良犬と争うようにして漁るのがやっとだった。


 彼の痩せこけた体は、もはや往年の『盾役』の面影をとどめていない。頬はこけ、目は落ち窪み、肌は垢と汚れで土気色に変色していた。

 時折、昔の彼を知る者が通りかかり、「あれは……ハーガンじゃないか?」と眉をひそめる。だがみすぼらしい姿に確信が持てず、すぐに興味を失って立ち去っていった。誰も、彼が『鉄壁のハーガン』と呼ばれた男のなれの果てだとは思いもしなかった。


 ある雪の降る夜、ハーガンは、裏通りのゴミ溜めの陰で、壁に背を預けてうずくまっていた。空腹と寒さで、意識が朦朧とし始めている。降りしきる雪が、彼のぼろ布を白く染めていく。身体の感覚は、もうほとんどなかった。


 遠くで、子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。


「僕はアレン様役! この木の枝が伝説の聖剣だ!」

「じゃあ、わたしは魔法使いのリリアね! 『ライトニング・ボルト』!」

「ずるい! 僕も英雄がいい!」


 アレンごっこ。今、王都の子供たちの間で最も流行っている遊びだ。その無邪気な声が、薄れゆくハーガンの意識に鈍い痛みとなって響いた。


 アレン……。

 その名前を思い浮かべた途端、彼の脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇る。

 民衆の歓声。自信に満ちた英雄の背中。そして、自分に向けられた、絶対的な無関心の眼差し。砕け散った鉄肩の、あの乾いた音……。


「……はは」


 乾いた唇から、笑いとも嗚咽ともつかない息が漏れた。

 俺は、一体、何と戦っていたのだろう。

 アレンは、俺のことなど、一度たりとも見てはいなかった。俺が一方的に彼を敵と見なし、憎悪を燃やし、破滅的な突撃を敢行しただけ。彼は、ただ自分の道をまっすぐに歩んでいただけだ。俺が、その進路上に勝手に飛び出して、勝手に自滅した。それだけのこと。

 滑稽だ。あまりにも、滑稽すぎる。


 朦朧とする意識の中、ハーガンは過去の幻影を見始めていた。

 それは、彼が自分に都合よく捏造した偽りの栄光の記憶ではなく、真実の記憶。


 二十年以上前、薄暗い洞窟。

 ドラゴンの幼体の群れに囲まれ、追い詰められたパーティー。リーダーのレナードが叫ぶ。


「ハーガン!前線を維持しろ! 俺が活路を切り開く!」

「わ、分かっている!」


 本当は、分かっていなかった。足が、恐怖で鉛のように重かった。目の前で、一体の幼ドラゴンが、パーティーの若い魔法使いに襲いかかる。助けなければ。盾役の自分が、前に出なければ。

 だが、体が動かなかった。


「いやあああっ!」


 悲鳴。血飛沫。

 仲間が、目の前で命を落とす。その光景に、ハーガンの理性の糸が切れた。

 背後の仲間たちを置き去りにして、ただ一人、出口へと向かって逃げ出した。


「ハーガン! 待て! どこへ行く!」


 リーダーの絶叫が背中に突き刺さる。だが、彼は振り返らなかった。


 そうだ。俺は、逃げたんだ。

 仲間を見捨てて、ひとりだけ。

 その後、生き残った仲間たちがどうやってパーティーを立て直し、生還したのか、彼は知らない。ただ後日、ギルドで鉢合わせた時、彼らは誰ひとりとしてハーガンを責めなかった。ただ、もう二度と会うことはないだろうという、静かな失望の目を向けるだけだった。


 俺は、あの時からずっと、逃げ続けていた。

 自分の弱さから。犯した過ちから。仲間の失望の目から。

 そして、その醜い自分を隠すために、『鉄壁のハーガン』という偽りの偶像を作り上げ、それにしがみついてきた。弱い者にぶつかり、優越感に浸ることで、かろうじてその偶像を維持してきた。


 アレンは、俺にとって、最高の供物になるはずだった。若く、強く、正しい英雄。そんな彼を屈服させれば、俺の偶像は完成するはずだった。

 だが、結果は違った。

 彼は、俺の偶像ごと、俺という存在そのものを、ただの『邪魔な石ころ』として、道の脇に蹴り飛ばしただけだった。


 幻影の中に、かつてのリーダーの顔が浮かんだ。


「……すま、な……」


 冷え切った唇が、わずかに動く。だが、謝罪の言葉は、音にはならなかった。

 降りしきる雪が、ハーガンの体を覆い隠していく。

 意識が、ゆっくりと闇に溶けていく。

 最後に彼の脳裏に浮かんだのは、なぜか、冒険者になりたての頃の記憶だった。

 初めて買った、傷一つない真新しいショルダーガード。それを肩につけ、仲間たちと共に、希望に満ちた顔でギルドの扉を開けた、あの日の朝焼け。

 あの頃は、確かに信じていたのだ。

 自分がいつか、本物の英雄になれると。


「俺の若い頃は……ドラゴンの一撃すら……受け止めたんだ……」


 誰に聞かせるともない、最期の虚勢。

 それは、雪の音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。


 がくり、とハーガンの首が垂れた。

 荒い息が、完全に止まる。

 彼の死に、気づく者は誰もいない。


 翌朝、雪は止み、王都は美しい銀世界に包まれていた。子供たちが、昨日の続きとばかりに、雪合戦をしながらアレンごっこに興じている。

 衛兵たちが、日課の見回りで裏通りを通りかかった。


「ん?なんだ、このゴミの山は」

「凍え死んだ浮浪者か。冬になると、こういうのが増えるからな……」

「おい、片付けとけ。見栄えが悪い」


 彼らは、雪に覆われた亡骸を、ただのゴミとして処理する。その亡骸の、固く握りしめられた手の中に、錆びて砕けた鉄の欠片がひとつ、鈍い光を放っていることに気づく者は、誰もいなかった。


 英雄アレンの伝説は、これからも長く語り継がれていくだろう。

 そして、その伝説の片隅で、『鉄肩のぶつかりおじさん』と呼ばれた哀れな老人が、誰にも知られることなく、その惨めな生涯を終えた。

 路地裏にはただ、英雄の物語を讃える人々の喧騒が、遠い残響のように響いているだけだった。



 -了-

ここまで読んでいただきありがとうございました。

どうですか。ちゃんと「ぶつかりおじさん」が書けていたでしょうか。

感想や評価などをいただけると嬉しいです。


書いている最中、ゆきむらは「うわぁ……」みたいな気持ちになっていました。

想像で書いたものですが、自分にもこんな一面があるのかな。怖すぎる。


別設定の「ぶつかりおじさん」を思いついてしまったら、

シリーズ化して書くかもしれません。

その際はまた、よろしくお願いします。

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