02:格好の獲物と、歪んだ執着
ハーガンの日常に新たな「張り」が生まれた。
それは、獲物を狩るための張りだ。
日雇いの荷運び仕事は、単なる日銭稼ぎではなくなった。街の地理と人々の動線を把握し、最高の「狩り場」を見定めるためのフィールドワークと化したのだ。彼の目は、かつてダンジョンの罠やモンスターの気配を探っていた頃のように、しかし遥かに矮小な目的のために、ギラギラとした光を宿している。
「今日の獲物は、どこにいる……」
朝靄が立ち込める大通りを、ハーガンはゆっくりと練り歩く。左肩の鉄の塊が、ずしりと心地よい重みで彼の存在を主張している。彼はもはや、ただ無差別にぶつかるのではない。より質の高い獲物、すなわち、より大きな絶望と優越感を与えてくれる相手を求めていた。
そんなある日の昼下がりのこと。中央広場に面した大通りで、ハーガンはついに理想的な獲物を見つけた。
人垣の中心で、子供たちに囲まれている一団がいた。軽装の革鎧に身を包んだ、人の良さそうな顔立ちの青年剣士。傍らには、快活そうな斥候のエルフと、少し気の強そうな魔法使いの少女が控えている。ギルドに依頼を達成した報告にでも来た帰りだろうか。青年は子供たちにせがまれ、腰に差した剣の柄を撫でさせてやったり、冒険譚の一部を話して聞かせたりしている。その顔には、一点の曇りもない、誠実な笑みが浮かんでいた。
「あれが……『新星』のアレンか」
ハーガンは、人垣の外から苦々しい表情でその光景を眺めていた。
アレン。ここ数ヵ月で、王都の冒険者たちの間で急速に名を上げてきたパーティー『蒼き翼』のリーダーだ。難易度の高い依頼を次々と成功させており、その実力と謙虚な人柄で、ギルド職員や民衆からの評判も上々だという。
若く、才能に溢れ、人望もある。まさにハーガンが失ったもの、いや、そもそも手に入れることすらできなかったものすべてを、その青年は持っていた。持っているように見えた。
ハーガンの腹の底から、黒く、熱いものがせり上がってくる。
嫉妬だ。
醜く、どうしようもない、純粋な嫉妬だった。
「……決めた。今日の獲物は、お前だ」
ハーガンは口の端を歪めて笑う。子供たちが満足して散り、アレンたちがギルドとは反対の方向へ歩き出したのを確認すると、彼は絶妙なタイミングで動き出した。人混みに紛れ、巧みにアレンの背後へと回り込む。
アレンは仲間たちと談笑しながら歩いている。無防備なその背中は、ハーガンにとって極上の獲物に見えた。彼は計算通りに進路に割り込み、予備動作を最小限に抑え、渾身の力を込めて鉄肩を叩きつけた。相手がよろめき、驚きと屈辱に顔を歪める様を想像し、口元に卑劣な笑みが浮かぶ。
ドンッ!
確かな手応えを感じた。
しかし、予想していたよりもずっと硬い。
まるで、鍛え上げられた樫の木にぶつかったかのような感覚に陥る。ハーガン自身が、その反動で少しよろめいてしまうほどだった。
ヤツがみっともなく転ぶ姿を想像していた。だがアレンは二、三歩たたらを踏んだだけで、すぐに体勢を立て直した。そして、驚いた顔でゆっくりと振り返る。
「おっと、すみません! 俺が前を見ていなかったので……」
アレンはそう言って、快活に、そして申し訳なさそうに頭を下げた。
予想外の反応だった。罵声が飛んでくるか、あるいは睨みつけられるか。そうであれば、こちらも喧嘩腰で応じ、「若造が!」と一喝してやれたものを。しかし、相手は全面的に自分の非を認めてきた。
その瞬間、ハーガンの脳内で何かが切り替わった。相手が下手に出たことで、彼の鬱屈した自尊心は一気に膨れ上がる。そうだ、こいつは俺の『格』に気圧されたのだ。俺が、ただの老人ではないことを見抜いたに違いない。
「ふん、軟弱者が」
ハーガンは、最大限の威圧感を込めて吐き捨てた。
「その程度の衝撃でふらつくとは、冒険者などと名乗るのもおこがましいわ!」
「は、はあ……。申し訳ありません」
アレンは困惑した表情を浮かべている。その顔が、ハーガンにはたまらなく愉快だった。傍らのエルフの斥候が何か言いたそうに眉をひそめているが、アレンがそれを手で制した。
「おい、アレン。このおっさん、わざとぶつかってきたぞ」
「まあまあ、いいじゃないか。俺も少しぼーっとしてたし」
「でも…!」
仲間たちの囁き声が、微かにハーガンの耳に届く。だが、それすらも彼の勝利宣言を彩るファンファーレのように聞こえた。
彼は勝ち誇ったようにアレンたちに背を向け、悠々とその場を去った。背中に突き刺さる視線を感じながら、ハーガンはここ数年で感じたことのないほどの高揚感に包まれていた。
この日を境に、アレンはハーガンにとって「格好の獲物」となった。
いや、もはや獲物ではない。彼の歪んだ自尊心を満たすための、一種の儀式の供物だった。
ハーガンはアレンの行動を執拗に追い始めた。アレンのパーティーがどの酒場を贔屓にしているか、どの武具屋をよく利用するか、どの通りを通ってギルドに向かうか。まるでストーカーのようにその動向を調べ上げ、完璧なタイミングで「遭遇」を演出した。
ある時は、アレンが市場で買ったばかりの果物を入れた袋にぶつかり、リンゴを石畳にぶちまけさせた。
「す、すみません!すぐ拾います!」
慌てて屈むアレンの背中を見下ろし、ハーガンは「チッ、邪魔だ」とだけ言い残して立ち去る。
またある時は、雨の日、アレンが傘を差して歩いているところを狙った。ぶつかった衝撃で傘が手から離れ、アレンはずぶ濡れになった。
「あ……!」
「雨の日は視界が悪いからな。もっと気をつけんか、若造」
そう言って、自分は悠々と傘を差して歩き続ける。
アレンは毎回、戸惑い、困惑しながらも、決して怒りを表に出さなかった。相手が自分よりも遥かに年嵩の老人であること、そして、どこか満たされない影をその身にまとっていることを、彼なりに感じ取っていたからかもしれない。その穏便な態度は、しかし、ハーガンをさらに増長させる結果にしかならなかった。
ハーガンの中で、アレンへの執着は日に日に病的なものへと変わっていく。彼はもはや、ぶつかるだけでは満足できなくなっていた。アレンの評判が街で語られるのを聞くたびに、彼はその話を遮り、こう嘯くようになった。
「ああ、『新星』のアレンか。あいつは、この俺には頭が上がらんのだ」
「先日も道で会ったが、俺の姿を見るなり、深々と頭を下げて道を譲ったわ」
もちろん、そんな事実はない。だが、何度も繰り返すうちに、ハーガン自身もそれが真実であるかのように錯覚し始めていた。
周囲の反応は冷ややかだった。最初は「またあの老人が……」と呆れていただけだった者たちも、その執拗さに眉をひそめるようになった。
ハーガンがかつて冒険者だったことを知る古参の者たちは、彼の哀れな末路に同情よりも軽蔑の視線を向けるようになった。
「ハーガンのやつ、すっかり落ちぶれたな」
「昔はもう少しマシな男だったと思ったが……」
「『鉄肩』なんて呼ばれてるらしいぜ。もちろん、悪い意味でな」
しかし、そんな陰口はハーガンの耳には届かなかった。彼の世界は、アレンという名の鏡に映る、歪んだ自分の姿で満たされていたからだ。
アレンを屈服させること。それが、ハーガンの生きる目的そのものになっていた。アレンが有名になればなるほど、その栄光が大きければ大きいほど、彼を足元にひれ伏させる(とハーガンが思い込んでいる)行為は、蜜のように甘美な快感をもたらした。
ある晩、ハーガンはいつもの酒場でひとり、エールを煽っていた。
壁に張り出されたギルドのクエストボードの一角、依頼達成報告の欄に、アレンのパーティー『蒼き翼』の名前がひときわ大きく記されているのが目に入る。依頼内容は『彷徨いの森のミノタウロス討伐』。ベテランパーティーでも手を焼く、難易度の高い依頼だ。
「ちっ……。ひよっこどもが、調子に乗りおって……」
ハーガンは吐き捨て、ジョッキを力任せにテーブルに叩きつけた。ガシャン、と大きな音がして、周囲の客が一斉に彼を見る。だがハーガンは構わなかった。嫉妬の炎が、彼の全身を焼いていた。
ミノタウロスだと? 笑わせる。俺の若い頃はミノタウロスの王、キングミノタウロスですら、この肩の一撃で怯ませたものだ。アレンごときに何ができる。きっと仲間の魔法使いとエルフの力だろう。あいつ自身は、ただ突っ立っているだけのお飾りだ……。
そう思い込まなければ、正気ではいられなかった。
その時、酒場の扉が開き、噂の『蒼き翼』一行が入ってきた。討伐成功の祝杯をあげに来たのだろう。彼らの顔には疲労の色も浮かんでいたが、それ以上に強い達成感が漲っていた。
「やったな、アレン!」
「これで当分は、美味い飯が食えるぜ!」
仲間たちに肩を叩かれ、アレンは少し照れたように笑っていた。
ハーガンは、その光景を直視できなかった。自分が決して手にすることのできなかった、仲間との絆、成功の喜び。それが眩しすぎて、目が眩みそうだった。
彼は立ち上がり、よろめきながらアレンたちのテーブルへと向かった。
「おい、アレン」
ハーガンの声に、楽しげな会話が止まる。
アレンが、少し驚いた顔で彼を見上げた。
「ああ、おじいさん……」
「お前、少し有名になったからといって、天狗になっているんじゃないか?」
ハーガンは、自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。ただこの輝かしい空間を、この若者の笑顔を、ぶち壊してやりたいという衝動だけが彼を突き動かしていた。
「ミノタウロスを倒したくらいで、偉そうな顔をするな。本当の戦いというものを、お前はまだ知らん」
「……はあ」
アレンは相変わらず、困ったように曖昧な返事をするだけだ。その態度が、ハーガンの怒りにさらに油を注いだ。
「なんだその態度は! 俺を誰だと思っている! この俺は、かつて竜すら退けた『鉄壁のハーガン』だぞ!」
ついに、彼は自らが作り上げた虚構の肩書を口にしてしまった。
酒場が一瞬、しんと静まり返る。そして、次の瞬間、誰かがくすりと笑ったのを皮切りに、あちこちから嘲笑が漏れ始めた。
「おいおい、聞いたか?『鉄壁のハーガン』だってよ」
「竜を退けた? 寝言は寝て言えってんだ」
「あれはただの『鉄肩のぶつかりおじさん』だろ」
浴びせられる嘲笑。侮蔑の視線。
ハーガンの顔が、怒りと羞恥で真っ赤に染まる。
だが、アレンだけは笑っていなかった。彼は静かに立ち上がると、仲間たちに「悪い、少し外の空気を吸ってくる」と告げ、ハーガンの横を通り過ぎて酒場の外へと出て行った。
その時、ハーガンは見てしまった。
アレンが彼とすれ違う瞬間、その目に浮かんでいた感情。
それは、怒りでも、嘲笑でもなかった。
ただ、深い、深い――憐れみだった。
憐れまれている。この若造に。
その事実は、ハーガンの砕けかけていたプライドに、決定的な一撃を与えた。
わなわなと震えながら、アレンが出て行った扉を睨みつける。
許さない。
絶対に、許さない。
いつか、必ず、お前のその自信に満ちた顔を絶望に歪めてやる。
この俺が哀れな老人ではないことを、その身体に、魂に、刻み込んでやる。
ハーガンの中で、アレンへの歪んだ執着はもはや修正不可能なほどに肥大化していた。それは、彼の破滅へのカウントダウンが最終段階に入ったことを示す、不吉な号砲でもあった。
-つづく-