01:錆びついた栄光と、日々の鬱屈
まるで寓話のような、
剣や魔法が人々の才として尊ばれる異世界の、
生々しい御伽噺。
ガラン、と乾いた音を立てて、安酒場の扉が開く。
むわりと立ち込めるのは、安酒の酸っぱい匂い。汗と埃の入り混じった男たちの体臭。そして、希望を失った者たちが吐き出す澱んだ空気。
日銭を稼ぐことで精一杯な初老の男・ハーガンにとって、ここは一日の終わりにたどり着く唯一の安息の地だった。
カウンターの隅、定位置となっている席にどかりと腰を下ろす。ぎしり、と年季の入った椅子が、不摂生で肥えた彼の身体を非難するように悲鳴を上げた。
「おい、親父。いつものやつ」
「へい、毎度」
愛想のかけらもないやり取り。差し出された木製のジョッキには、琥珀色とも言い難い、濁ったエールがなみなみと注がれている。
ハーガンはそれを無言で受け取ると、一気に三分の一ほど喉に流し込んだ。ぬるく、気の抜けた液体が食道を焼く。だが、この刺激こそが、日雇い仕事でささくれた神経を麻痺させるにはちょうど良かった。
今日の仕事は、港から商業地区への荷運びだった。重い木箱をいくつも背負い、石畳の道を何往復もする。照りつける太陽は容赦なく体力を奪い、背骨は悲鳴を上げていた。
若い頃ならこんな荷物、鼻歌交じりで運べたものを。
ハーガンは内心で毒づき、残りのエールをちびちびと舐めるように飲み始めた。
彼の左肩には、常に古びた鉄の肩当て(ショルダーガード)が取り付けられている。革ベルトはひび割れ、表面は無数の傷で覆われ、もはや装飾品としての価値もないガラクタだ。だがこれこそが、ハーガン・ヴァルガスという男の、唯一にして最後のプライドの証だった。
――かつて、ハーガンは冒険者だった。
パーティーの最前線で敵の攻撃を一手に引き受ける『盾役』。その中でも、大盾ではなく己の肉体と分厚い鎧で敵の攻撃を受け止める『重装戦士』として、彼はそこそこの名を馳せていた。
「ハーガンの『不動の構え』は鉄壁だ」
「奴の肩は、オーガの棍棒すら弾き返す」
仲間たちの賞賛。ギルドで浴びる羨望の眼差し。酒場で美女を侍らせ、武勇伝を語り明かした夜――――。
それらはすべて、もう二十年以上も昔の色褪せた記憶だ。
かつてハーガンは、ある高難易度の依頼で致命的なミスを犯した。
ドラゴンのブレスから仲間をかばった、と本人は語っている。だが、真実は違う。恐怖に足がすくみ、仲間のひとりを見殺しにしたのだ。
その結果、パーティーは壊滅的な被害を受け、ハーガン自身も二度と最前線には立てないほどの傷を負った。
パーティーは解散。仲間たちは彼を責めることなく去っていったが、その沈黙こそが、何よりも雄弁な非難だった。
以来、彼は燻り続けている。
癒えぬ古傷。衰えた肉体。そして、心の奥底にこびりついた拭い去れない汚点。それらすべててから目を逸らすように、彼は過去の栄光――それも、自分に都合よく改竄した記憶――にすがりついて生きていた。
ガヤガヤとした酒場の喧騒が、ひどく耳障りに聞こえる。隣のテーブルでは、若い冒険者たちが今日の獲物の自慢話に花を咲かせていた。
「今日のゴブリンの群れ、大したことなかったな!」
「アッシュの火球が一掃してくれたからな!」
「ははは、まあな!」
ひよっこが。
ハーガンは心の中で唾を吐いた。
ゴブリンごときで、何をそんなにはしゃぐことがある。俺の若い頃は、ワイバーンの群れを相手に三日三晩戦い続けたものだ。
そんな作り話が、喉まで出かかって、寸でのところで濁ったエールと共に飲み下される。どうせ言ったところで、誰も信じはしない。酔っ払いの戯言だと、笑われるだけだ。
ジョッキが空になった。ハーガンは銅貨を数枚、テーブルに叩きつけるように置くと、再び椅子を軋ませて立ち上がった。もう一杯飲む気にもなれない。あの若者たちの甲高い笑い声を聞いていると、腹の底から不快感がこみ上げてくる。
酒場を出ると、日はとっぷりと暮れていた。ガス灯がおぼろげな光で石畳を照らし、家路を急ぐ人々の影が忙しなく行き交う。ハーガンはその人波の中を、あえてゆっくりと、ふらつくような足取りで歩き始めた。
彼の目は、獲物を探す肉食獣のように、周囲を鋭く観察している。
狙うのは、自分より明らかに弱い者。着飾った商人。華奢な女。そして何より、自分と同じように未来への希望を持たないクズとは縁がない、『これから』がありそうな若者たちだ。
すぐに格好の獲物が見つかった。
向こうから歩いてくるのは、おそらく魔術師ギルドの制服だろう、真新しいローブをまとった少年だ。年の頃は十五、六か。小脇に分厚い魔導書を抱え、少し俯き加減に何かをぶつぶつと呟いている。呪文の練習でもしているのだろう。その姿が、ハーガンの歪んだ自尊心を刺激した。
「チッ、どいつもこいつもノロノロと……」
わざと聞こえるように舌打ちをする。
ハーガンは進行方向を微調整し、少年の進路に自らの身体を割り込ませた。
すれ違いざま、彼は腰をわずかに沈め、左肩にぐっと力を込める。現役時代、敵を怯ませるために使った戦闘技術『ショルダーチャージ』。今やその見る影もない、劣化版だ。
ドンッ、という鈍い衝撃が響く。
「ぐっ……!」
少年はハーガンの鉄肩に弾き飛ばされるようにして、バランスを崩した。抱えていた分厚い魔導書が手から滑り落ち、バサリと音を立てて地面に散らばる。
「前を見て歩かんか、ひよっこが!」
ハーガンは、よろめく少年に追い打ちをかけるように罵声を浴びせた。
少年は驚きと痛みで顔を歪め、ハーガンを見上げる。その目には、理不尽への戸惑いが浮かんでいた。
「す、すみませ……」
真っ当な人間の礼儀として、謝罪の言葉を発しようとする少年。
だがハーガンはその声を遮り、「ふん」と鼻を鳴らして歩き出した。
背後で、少年が慌てて散らばったページをかき集める音が聞こえる。周囲の人々がチラリとハーガンを見るが、誰も積極的に関わろうとはしない。その冷ややかな無関心が、ハーガンにはむしろ心地よかった。
やった。
俺は、まだやれる。
この肩は、まだ錆びついてなどいない。
心の中に、じわりと温かいものが広がる。それは、日雇い仕事で得られるわずかな日銭でも、ぬるいエールでも得られない、歪んだ優越感という名の麻薬だった。
かつてはドラゴンの爪撃を受け止めたこの肩。今では、か弱い若者を威圧し、その尊厳をほんの少しだけ踏みにじるためだけに使われている。その事実から、彼は巧妙に目をそらした。
これは教育だ。
そうだ、脆弱な若者への、人生の先輩からのありがたい教導なのだ。
この程度のことでへこたれるようでは、この厳しい世界では生きていけん。
俺は、奴らのためにわざわざ体を張って教えてやっているのだ。
そんな自己正当化の言葉を、ハーガンは心の中で何度も繰り返す。そうでもしないと、自分の惨めさに押し潰されそうになるからだ。
家と呼ぶのもおこがましい、安アパートの一室に帰り着く。扉を開けると、カビ臭い空気が鼻をついた。窓もない、ただ寝るだけの狭い空間。ベッドの脇には、使い古された武具の手入れ道具が申し訳程度に置かれている。
ハーガンは左肩のショルダーガードを外し、それを丁寧に布で拭き始めた。今日の「獲物」にぶつかった箇所を、特に念入りに。
傷だらけの鉄の表面に、ガス灯の頼りない光が反射する。彼はその傷の一つひとつに、己が作り上げた偽りの武勇伝を重ね合わせていた。
この傷はオーガメイジの氷槍を砕いた時のもの。
こっちはミノタウロスの戦斧を受け止めた跡。
一番深いこの傷は、エンシェントドラゴンの鉤爪を防いだ栄光の証……。
もちろん、そのほとんどは嘘っぱちだ。大半は、引退後のゴロツキとの喧嘩でついたものか、あるいは単に転んで壁にぶつけただけの、情けない傷跡に過ぎない。
手入れを終えたショルダーガードを枕元に置き、硬いベッドに身体を横たえる。ぎしり、と、粗末な寝台が軋む音を立てた。
天井の染みをぼんやりと眺めながら、今日の出来事を反芻する。ぶつかった時の、あの少年の驚愕に歪んだ顔。よろめいた無様な姿。それらを思い出すたびに、胸の奥のもやもやが、少しだけ晴れるような気がした。
だが、その快感は長くは続かない。すぐに、現実が波のように押し寄せる。
明日の仕事はあるだろうか。
家賃は払えるか。
古傷がまた痛み出した。
そして何より、どうしようもない孤独感。
かつての仲間たちは、今頃どうしているだろう。斥候だったエルフは、故郷の森に帰ったと聞いた。治癒師だった彼女は、どこかの街で小さな診療所を開いているという噂だ。そして、リーダーだったあの男は……。
そこまで考えて、ハーガンは思考を無理やり打ち切った。
彼らのことを考えると、あの日の記憶が蘇る。
炎と絶叫。
仲間たちの失望の眼差し。
そして、背を向けて去っていく彼らの後ろ姿。
「……くそっ」
吐き捨てるように呟き、ハーガンは荒々しく寝返りを打った。壁に肩がぶつかり、鈍い痛みが走る。
明日もまた、街へ出よう。そして、もっと威勢のいい若者を見つけてやろう。
最近ギルドで名を上げているという、生意気な連中がいい。そうだ、あいつらに、この世界の本当の厳しさを、この鉄肩で教えてやらねばならない。
そう決意することで、彼はかろうじて心の平穏を保った。闇に閉ざされた部屋の中で、ハーガンは錆びついたプライドを抱きしめるようにして、浅い眠りへと落ちていく。その寝顔は、まるで悪夢にうなされる子供のように、苦悶に歪んでいた。
彼の栄光の時代はとうの昔に終わり、今はただ、他人の小さな不幸を糧にして生きる、哀れな老兵がいるだけだった。
-つづく-