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タクミとリオの絆

作者: 山下 宏之

プロローグ


昼下がりの高校教室。

窓の外では風がざわめき、木々の葉がカーテンのように揺れていた。

授業を受けながら、ちらりと前の席、少し離れた位置に座る男子の背中を見つめる少女がいた。

名は朝比アサヒ 莉桜リオ、長い黒髪を2つに結び、いつも明るく振る舞うクラスのムードメーカの様な存在だ。その彼女が見つめているのは碧山アオヤマ タクミという男子、スラリとした顔立ちで色白。彼女が見つめているのはどこか遠くに行ってしまったような、そんな彼の背中だった。

「ねえ、タクミ。今日一緒に帰らない?」

授業がおわり、タクミはノートを閉じると、リオの言葉に軽く首を振った。

「ごめん。今日は図書室に寄ってく」

それだけ言い残して、立ち上がる。その足取りは、どこかふらついていた。

リオは、その背中をただ見送ることしかできなかった。

――もう、ずっとこうだった。

タクミとリオは幼馴染。

小学生の頃はよく一緒に学校へいき、互いの家や近くの公園で遊んでいたのに。

タクミがこうなったのは中学校に入ったころからだ。


第1章 タクミが変わり始めた日

小学校の卒業式のあと、タクミの家には、祝福よりも静寂があった。

「お父さん……タクミの卒業、見たかったろうな」

遺影にそっと語り掛ける母親―綾子。

父親が病院のベッドで息を引き取ったのは、三ヶ月前。

母は泣かなかった。泣く時間すら与えられなかった。

葬儀を終え、保険金とわずかな貯蓄を前に、彼女はただ静かに呟いた。

「大丈夫。母さんが、頑張るから」

――気丈に振る舞う母のその背中を、少年は黙って見てはいられなかった。

中学生になったタクミは、変わった。

リオに「一緒に帰ろう」と声をかけられても、

「ごめん、寄り道するから」とやんわり断るようになった。

クラスの男子に「ゲーセン行こうぜ」と言われても、

「ちょっと用事ある」と笑ってその輪から外れていった。

帰宅すると、母の代わりに買い物をし、食事を作り、洗濯をし、

夜になれば、遅くまで仕事をして帰宅した母が心配しないように、眠るのを待ってから机に向かい参考書を開いた。

彼の中で、 “遊ぶこと”=“無責任”という図式ができていた。


ある日の放課後。

中学校の図書室の隅で、分厚い医学書を開いていたタクミに、リオがそっと近づいた。

「ねえ、今日の家庭科のレポート……一緒にやらない?」

タクミは少しだけ手を止めたが、目は本から離れなかった。

「ごめん。ちょっと時間ないんだ」

「そっか……」

リオの声は明るかった。けれどその目は、微かに曇っていた。

彼女には、わかっていた。

タクミが、自分とは「違う場所」を見ていることを。

でも――

(タクミはきっと、すごく大事なことのために戦ってるんだ)

そう思って、リオは自分に言い聞かせるように、笑っていた。


夜。

机に向かうタクミの耳に、かすかな咳き込む音が届く。

「……母さん?」

薄暗いリビング。ソファに倒れるように横たわる母の姿。

「大丈夫、大丈夫よ。ちょっと疲れただけ……」

タクミは言葉もなく、毛布をかけ、机へ向かう。

「医者になる」――それは、祈りとも誓いともいえるものだった。

母を、守るため。

二度と、自分の大切な人を失わないため。

その思いが、彼を“普通の中学生”から、少しずつ遠ざけていった。


ある晩、リオからメッセージが届いた。

「最近、元気? たまには星とか見ない?」

タクミはスマホを見つめながら、返事を打ちかけて、やめた。

指が止まった理由は、自分でもよく分からなかった。

けれどそのとき、ふと考えてしまったのだ。

(星を見てる間に、俺が一問でも多く解いたら――将来、医者になる確率が、少し上がるかもしれない)

リオとの思い出を犠牲にして得た数式や知識。

それが、いずれ夢を叶える力になると信じた。

それが、タクミの“選択”だった。


リオにとって、タクミはいつも「そこにいる存在」だった。

家が隣で、庭の木に登っては競争して、宿題を写し合って、笑って。

けれど中学に入ってから、その「当たり前」が、静かに消えていった。

リオはさみしかった。

でも、タクミがひとりで戦っていることを、なんとなく感じていた。

(じゃあ、私はいつも通り明るくいよう。タクミが寂しくならないように)

彼の孤独を、ほんの少しでも分かち合いたい。

それがリオの、最初の“恋”だった。


第2章 すれ違いの教室で

――一年生・春

新しい制服、新しい教室。

ざわざわと騒がしい中で、タクミは一人、窓際の席で黙々と教科書に目を通していた。

机の上には、開かれた理科の参考書と、自作のノート。

そこには中学範囲を飛び越えた、医学系の専門用語がびっしりと並んでいる。

そんなタクミの隣で、リオは話しかけるタイミングを探していた。

「タクミ……さ、部活、どうする?」

彼は視線を上げず、淡々と答える。

「やらない。帰ってやることあるし」

「……そっか」

本当は「一緒に入ろう」って言いたかった。

けど、タクミの横顔が“もう、別の世界にいる”ことを物語っていた。

リオは少し寂しげに微笑み、話を切り替える。

「……あ、そういえば今日の給食、オムレツだって!」

「うん」

「好きだったよね、小学校のとき」

「……覚えてない」

リオの胸の奥に、ほんの小さな棘が刺さる。

(そうだよね、もう“昔の話”なんだよね)


――二年生・冬

ある日の帰り道。

雪のちらつく中、リオはタクミの後を追うように歩いていた。

「……最近、ずっと一人で帰ってるね」

「バイト、始めたんだ」

「えっ? 中学生って、バイトしちゃダメなんじゃ……」

「学校に許可もらってる。事情があるから」

リオはそれ以上、何も言えなかった。

「そっか……じゃあ、また今度ね」

彼女の声は少しだけ震えていた。

タクミは振り返らなかった。


中間テスト直前。

放課後の図書室。

リオは、受験勉強の参考書を抱えてやってきた。

そこに、やはり静かに座っていたのはタクミだった。

「あ、やっぱりここにいた。……ねえ、今日さ、少しだけ話せない?」

タクミはペンを止め、しばらく黙ったあと、静かに答えた。

「リオ、ごめん。最近、話すのが……ちょっと、苦手でさ」

「……私と話すの、嫌?」

「そういう意味じゃない。ただ……時間がないんだ。受験もあるし、母さんのこともあるし……」

「うん、分かってる。でも……それでも私は、タクミと話したいよ」

彼の瞳が、一瞬だけ揺れた。

「……ありがとう。でも、今は無理だ」

リオはそれ以上言葉を返さず、ただ彼の隣の席に座って、同じように参考書を開いた。

(それでも、そばにいたい)

言葉が届かなくても、心が離れていっても。

リオは、タクミの隣を選び続けた。


夜十一時過ぎ。

そろそろ母が帰宅する時間。

タクミはひとり、台所の電気をつけて、冷蔵庫を開ける。

タッパーに残っていた少しの野菜と卵を取り出し、小さな鍋に火をかけた。

野菜スープ。母の体に負担がかからない、薄味のもの。

「……医者って、ただ薬を出すだけじゃだめなんだよな」

そんな独り言をつぶやきながら、調理を終えると、机の上のタブレットをひらいた。

そこには、

「低所得世帯の子どもの学力格差について」というどこかのルポライターが書いた記事が映し出されていた。

自分のスタートラインは他の子よりもずっと後ろであることは分かっていた。

だからこそ「普通の中学生」でいられなかった。


第3章 遠くなっていく背中

――ある日の放課後

リオはタクミの姿を追って、校門の前で待っていた。

(きっと今日こそは、一緒に帰れるかもしれない)

そう思って、何気ない話題も用意していた。

給食で出たプリンの話、数学の小テスト、体育で転んだこと――

だけど。

「ごめん、先行くわ」

そのひとことだけを残して、タクミは自転車で走り去った。

手に握っていたプリントが、風にさらわれて飛んでいった。

リオはそれを追いかけることもせず、ただ小さく息を吐いた。

(……タクミの目は、もう私の方を見てない)


リオの家は、両親共働きだった。

父親は会社の帰りが遅く、母親も看護師で不規則な勤務。

家に帰っても、誰もいない時間が多かった。

温かい夕食も、誰かの帰りを待つ声も、家にはなかった。

「ただいま…」

いつものように返事の帰ってこない家の奥に向かって呟く。

その日の夜もリオは台所のテーブルに一人分のカップスープを置き、カバンを下ろした。

静けさが漂う一人きりのリビングに、テレビの音だけが響いていた。


ある日、廊下ですれ違ったタクミの顔を見て、リオははっとした。

――痩せてる。

――顔色が悪い。

――目が、虚ろ。

(……どうしたの?)

声をかけようとして、やめた。

タクミは、もう“ひとりの世界”に生きている。

そう思ったからだ。

でも。

(それでも私は、タクミのことが……)

――好きだった。

昔のように笑ってほしかった。

無邪気にくだらない話で笑い合って、また一緒に帰りたかった。

でも、今の彼にとって、自分は足を引っ張る存在かもしれないとさえ思っていた。

(だったら――私も、追いつこう)


―――三年生の秋

タクミが志望校として挙げた「進学校A」の名前を、偶然耳にした。

(私の成績じゃ、とても届かない)

でも、それでも。

(一緒にいたい。一緒に戦いたい。だから――)

その日から、リオはタクミには内緒で猛勉強を始めた。

友達と遊ぶ時間を削り、授業中も先生の言葉を一語一句逃さずメモした。

夜は居間のテーブルに教科書を広げ、眠くなったら立って暗記した。

タクミのようにストイックにはなれない。

何度も挫けそうになった。

泣いた夜もあった。

しかし机に向かい続けた。リオの心の中にあったのは――タクミの背中だった。


そして、合格発表の日

掲示板に張り出された番号の中に、リオは自分の番号を見つけた。

「……あった……!」

涙がにじんだ。

声を殺して泣いた。

その日だけは、自分を少し誇りに思ってもいいと、初めて思えた。

「タクミと、同じ場所に立てる」

でも、その後すぐに気づいた。

タクミは――

ますます誰にも近づかなくなっていた。




第4章 再び並んだ席で

――高校入学式の朝

入学式の日。リオは制服の襟を何度も整え、鏡の前で深呼吸をした。

「やっと……やっと、ここまで来たんだ」

苦手だった英語も、数学も、何度も泣きながら問題集に向き合った夜もあった。

全部、タクミの隣に戻るためだった。

彼と同じ高校。

それは、リオにとって“恋”という言葉では収まりきらない、「誓い」だった。


新入生名簿に並ぶ「碧山 匠」の名前。

リオは真っ先にクラス表を探し、自分の名前をそのすぐ下に見つけた瞬間、胸が熱くなった。

教室に入ると、窓際の席で、すでにタクミがノートを開いていた。

リオは一呼吸置いてから、いつもの笑顔で声をかける。

「タクミ、おはよう!まさか同じクラスになるなんて、すごく嬉しい!」

タクミは驚いたように顔を上げる。

「……リオ? え、マジで?」

「マジだよ。……私、頑張ったんだから!」

リオは笑って、隣の席に座った。

教室のざわめきが、ふたりだけを包む静かな時間に変わった気がした。

だがそのとき――

タクミはほんの一瞬、目を伏せた。

「……そっか。おめでとう」

喜んでくれていないわけじゃない。

だけど、その反応には、どこか遠慮が混じっていた。

(やっぱり……まだ、タクミは“ひとり”で戦ってる)

リオは心の中で、もう一度、決意を噛み締めた。

(だったら、私が何度でも話しかける。何度でも笑いかける。

 タクミが、いつか振り向いてくれるまで)


高校の昼休み。

リオは弁当箱を手に、タクミの席の前に立った。

「一緒に食べようよ」

「……俺、図書室で食べるつもりだったから」

「え、でも……ほら、もう場所とっちゃったよ?」

リオは机を寄せてその上に可愛いランチクロスを広げ、強引に笑いながら座った。

タクミは仕方なさそうに席に戻り、弁当を広げる。

リオはちらりと中を覗くと、ごはんと卵焼きだけの、簡素な弁当だった。

「それ、自分で作ったの?」

「……うん。母さん、最近体調悪いから」

「そっか……でも、偉いね」

「偉くなんかないよ」

タクミの言葉は淡々としていた。

だけど、その声にはどこか、自分を責めるような響きがあった。

リオは何も言わず、そっと自分の弁当のおかず――ハンバーグひと切れを、タクミの弁当の端に置いた。

「はい。お裾分け。栄養、大事だよ」

「……いいよ、そんなの」

「私があげたいの。私ね、こうやってタクミと一緒にご飯食べられるだけで、嬉しいんだよ」

タクミは返事をしなかったが、目を伏せながら、小さく笑ったように見えた。


放課後の教室。

残って勉強するタクミに、リオはまた声をかける。

「ねえ、たまにはさ、帰りに寄り道とか――」

「……リオ。俺さ、今は余裕がないんだ」

その言葉に、リオは思わず口をつぐむ。

「夢があるんだ。どうしても叶えたい夢が。

 母さんのこともあるし……だから、誰かの気持ちに応える余裕なんて……正直、ないんだ」

それは、リオの心に深く刺さる言葉だった。

だけど、彼女はうつむかず、まっすぐにタクミの目を見て言った。

「私、応えてほしくて隣にいるんじゃないよ。

 ただ、タクミのことが……心配だから。そばにいたいって、それだけ」

タクミはそれ以上、何も返さなかった。

教室の窓から差し込む夕陽が、ふたりの影を長く伸ばしていた。


リオは毎日、明るく振る舞っていた。

誰よりもよく笑い、誰にでも優しかった。

でも、それは彼女自身が、傷つかないように守ってきた仮面でもあった。

本当は――

誰よりも、タクミに振り向いてほしかった。

自分の頑張りを知ってほしかった。

けれど、それを押しつけてはいけないことも分かっていた。

だから彼女は、今日も笑った。

タクミの隣で、何気ない言葉をかけ続けた。


――高校一年・初夏

「ねえ、タクミ、最近ちょっと痩せたんじゃない?」

そう言ったのは、ある放課後のこと。

リオはタクミの隣でノートを広げながら、ふとその顔色の悪さに気づいた。

頬がこけ、目の下には薄くクマ。

制服の肩まわりも少し緩くなったように見える。

「……そうかな?」

タクミは笑ってごまかした。

けれどその笑みは、どこかぎこちなく、皮膚の下に疲労がにじんでいた。

リオは黙ったまま、筆記用具を片付ける。

「……ねえ、今日くらい寄り道しない? コンビニでプリン買ってさ、近くの公園で食べようよ。小学生の頃、ママたちに内緒でしたみたいに」

タクミはほんのわずか、眉をひそめた。

「……ごめん、今日はダメ。バイトがあるから」

まただ。

そう、リオは思った。

(いつも“ごめん”って言う。タクミと一緒に何かしたのは、もういつだったろう)


その夜、リオはスマホを見つめたまま、しばらく指を動かせずにいた。

「ねえ、無理してない? ちゃんとご飯食べてる?」

そう打ったメッセージを、送るかどうか迷った。

心配してる。

でも、重たくなりたくない。

でも――言わなきゃ、届かない。

送信。

数分後、タクミからの返信が来た。

「大丈夫だよ。心配ありがとう」

「大丈夫」――その言葉が、一番怖かった。

(本当は、大丈夫じゃないこと、私……気づいてるよ)

けれど、それを口にする勇気は、まだ持てなかった。


週明けの月曜、朝。

教室の席についていたリオは、タクミがなかなか来ないことに気づいた。

HRギリギリになって、ようやく教室の扉が開く。

小さく息を切らして入ってきたタクミは、シャツが少し乱れていて、髪も寝癖のままだった。

「……遅刻ギリギリじゃん、大丈夫?」

「ちょっと寝坊しただけ」

そう言って席についたタクミは、うつむいたまま何も話さなかった。

その日一日、彼の口数は極端に少なかった。

英語の授業中、指名されたタクミは反応が遅れ、先生に咎められる。

「どうした、碧山。君らしくないな」

教室に微かな笑いが広がる中、リオはタクミの様子をじっと見ていた。


数日が過ぎたある日

その日は、急に気温が下がった日だった。

授業中、リオはふとタクミの背中を見た。

(あれ……?)

背中のシャツの生地越しに、肩甲骨の輪郭がはっきりと浮かび上がっていた。

季節の変化では説明できないほど――細く、頼りなく。

(……これ、絶対におかしい)

午前の授業が終わるとすぐに、リオはタクミを追った。

「ねえ、タクミ」

「なに?」

「今、ちょっと時間ある?」

「……バイトがあるから」

「嘘、まだ午前中だよ」

その言葉に、タクミはなにも言い返せなかった。

「痩せてる。顔色も悪い。授業中もぼーっとしてる。タクミ、自分じゃ気づいてないかもしれないけど……ほんとに、限界なんじゃないの?」

沈黙が続く。

廊下に吹き抜ける風の音だけが、ふたりの間を吹き抜けていった。

「……俺は、やらなきゃいけないんだ」

タクミの声は、細く、弱く、どこか壊れそうだった。

「母さん、また倒れて……それでも俺に“大丈夫って”って笑ってくれて……だから俺が、全部なんとかしないと。じゃなきゃ、母さんも、俺も、意味がなくなる」

リオは言葉を失った。

それが、どれほど重い鎖か――

本人が自分で巻いていることが、余計に切なかった。

けれどそのとき、タクミの目の焦点がふっとぶれた。

「……タクミ?」

そして、彼はそのまま、ゆっくりと意識を失い――倒れた。


カーテン越しに、柔らかな光が差していた。

静まり返った保健室。聞こえるのは時計の針の音と、わずかな寝息だけ。

やがてその呼吸が乱れ、小さくうめくような声と共に、ベッドの上のタクミが目を覚ました。

「……ここは……?」

ぼんやりとした視界の中で、最初に見えたのは――

椅子に座り、ずっと彼の手を握っていたリオの姿だった。

「……リオ……?」

目を覚ましたタクミは体を起こそうとするが、リオがそれを押しとどめた。

その目は泣き腫らして真っ赤で、頬には涙の痕が残っていた。

「もう、起きようとしてるの?バカじゃないの……!」

「先生も言ってた。今日は絶対安静。ね、お願い……ちゃんと、休んで」

「……ごめん」

タクミはぽつりとつぶやいた。

沈黙の中、カーテンの隙間から午後の光が差し込む。

どこかやさしいその光の中で、タクミはゆっくりと語り始めた。

「……小学生の時に親父が死んで…」

リオの目がタクミの横顔をみつめる。

「病気だった。あっけなくてさ。……その日から、母さんがひとりで俺を育ててくれた。

 身体弱いのに、仕事掛け持ちして、無理して、笑って……」

「俺、悔しかった。どうしてこんなに頑張ってるのに、誰も助けてくれないんだって。

 だから、自分が“誰かを助けられる人間”になろうって決めた。

 医者になろうって、あの日から誓ったんだ」

タクミの目は、どこか遠くを見つめていた。

「でも、現実は甘くなかった。金がない、時間がない、母さんが倒れて、バイトして、勉強して……でも、それでも……まだ足りない気がして、もっと頑張らなきゃって

 ……もう、何を捨てて、何を削ったか、自分でも分からないくらい。

 気がついたら、“友達”とか“青春”とか、“誰かと一緒にいる時間”とか、

 全部置き去りにして、ひとりで走ってた」

「……そんなの、ひとりで抱え込まないでよ」

彼女の目から、大粒の涙が落ちる。

「バカだよ、タクミ……。倒れるまで頑張ってどうするの。そんなの、誰も幸せになんてなれない」

「でも、俺が頑張らなきゃ、終わりなんだよ。母さんのことも、夢も……全部、壊れる」

「じゃあ、私の立場は?」

リオはタクミの手をぎゅっと握った。

「私、ずっとそばにいたよ。タクミのこと、ずっと見てた。なのに……全然頼ってくれない。何のために、同じ高校に来たと思ってるの?」

タクミは初めて、リオの顔をまっすぐに見た。

そこには、強い想いがあった。優しさと、寂しさと、怒りと――そして、愛情が。

「お願い、タクミ。もう、ひとりで頑張らないで。私にも……あなたの支えにならせて」

リオの声が、静かな部屋の中に染み込むように響いた。

タクミはしばらく黙ったまま、目を閉じた。

そして小さく、力の抜けた声でつぶやく。

「……ありがとう、リオ」



第5章 はじまりの午後

タクミが倒れた翌日から、彼は少しずつ変わっていった。

授業中、彼の目は前よりも柔らかくなり、ノートを取りながらたまにリオの方をちらりと見るようになった。

放課後、いつもひとりで向かっていた図書室も、今ではリオと一緒に行く。

「ねえ、タクミ。あのさ、ここわかんないんだけど」

リオが数学の問題集を指さして首をかしげる。

「ん……これは式の展開を先にした方がいい。x²の係数揃えるんだよ」

「……えっ、なにその説明。天才か」

「普通だよ。リオがちょっとバカなだけで」

「なにそれ!バカ言うな!」

「冗談」

タクミが、微笑む。

その“当たり前”のような微笑みに、リオは思わず胸が詰まりそうになった。

(こんな表情、ずっと見たかった)

リオは頬を赤らめて目をそらし、隣のページをめくった。


タクミの置かれている状況は決して好転したわけではなかった。

母の容体は安定したものの、完全に働けるわけではない。

介抱のためにはバイトも減らすしかなかった。

それでも――

「今朝は、おにぎり2個。リオのアドバイス通り、ちゃんとタンパク質も摂った」

「おお、成長してる!」

「ただし、シャケフレークのフリカケだけど」

「最高じゃん!」

些細な会話が、少しずつタクミを“普通の高校生”へと引き戻していた。

学校の昼休みには、一緒に食べるようになった。

図書室では、勉強の合間に小さく笑い合うことも増えた。

ある日、リオがそっと尋ねた。

「……ねえ、今のタクミは、少しは楽になった?」

タクミはほんの少し考えてから、こう言った。

「……うん。今なら、未来のこと、前より怖くないかも」

リオは嬉しそうに笑った。

でも、心のどこかに、小さな違和感が残っていた。


それは、ある日のことだった。

ふたりで帰り道を歩いていると、タクミのスマホが鳴った。

画面に表示された“母”の文字を見て、タクミの表情が一瞬曇る。

「……ごめん、ちょっと先に行ってて。すぐ追いつくから」

そう言って、タクミは背を向けた。

リオはその背中を見つめながら、思った。

(私は、タクミの全部を救えるわけじゃない)

彼の抱える現実は、まだそこにある。

彼の苦しみは、完全には消えていない。

(でも――私は、そばにいる)

心の中で、何度も言い聞かせた。


数日後、タクミがリオを屋上に呼び出した。

「……ここ、結構好きなんだ。風が気持ちいいし、ちょっとだけ全部が遠くに見える」

ふたりで並んで座り、沈む夕陽を眺める。

タクミがポツリとつぶやいた。

「……俺、たぶん、これからも何度も迷うと思う。

 母さんが倒れたら、また焦るかもしれないし、勉強だってプレッシャーはある。

 でも、それでも――」

「それでも?」

タクミは、リオの手をそっと取った。

「それでも、もう“ひとりで頑張らなきゃ”とは思わない。

 ……リオがそばにいてくれるなら、ちゃんと支えてもらいたいって、思える」

リオの目に、涙が浮かんだ。

その涙は、以前、保健室で流したものとは違い、安心の色をしていた。

「私、ずっとここにいるよ。タクミがどんな未来に行っても、後ろじゃなくて、横にいる」

ふたりは静かに笑い合った。

屋上に吹く風が、春の終わりの匂いを運んでいた。



――二学期、文化祭準備

教室の黒板には「クラス演劇『星の王子さま』」と書かれていた。

タクミはその前で、苦笑していた。

「なんで俺が“王子さま”なんだよ……」

「イメージにぴったりだったんだって、女子の推薦!」

リオが明るく笑う。

「静かで、ちょっと不器用で、でも心は優しい王子さま。……ね、ぴったりでしょ?」

「俺が王子って世界線、どこにあるんだろうな」

「あるじゃん、ちゃんとこの世界に」

タクミは頭をかく。

けれど、逃げるように背を向けていた頃の彼とは違っていた。

「まあ……リオが言うなら、ちょっと頑張ってみるか」

リオの笑顔が、さらに輝いた。


文化祭前日、夜遅くまで残って準備していたふたり。

教室には段ボールで作った小道具と、絵の具の匂いが充満していた。

「これ、あの星のセット。ちょっとぐらぐらするけど、まあまあでしょ」

「リオ、こういうの得意なんだな」

「えへへ。中学のとき、美術だけは良かったの。っていうか、タクミが褒めるの珍しくない?」

「そうか? ……昔は、よく言ってた気がするけど」

「うそ。全然、言ってない」

「そっか……じゃあ、今から取り戻す」

その言葉に、リオの手がピタリと止まる。

「……ありがとう、タクミ。そういうとこ、ほんとにずるい」

「ずるい?」

「そんなこと言われたら、ますます好きになるじゃん」

タクミは照れたように笑って、「じゃあ言うのやめるか」とぼそりと返す。

「ダメ。もっと言って」

「……わがままだな」

「うん、わがまま言える相手がやっとできたんだもん」

その瞬間、教室の空気は、特別なものに変わっていた。


文化祭の熱気が過ぎ去った後、三者面談の季節がやってきた。

リオは「保育系の短大」志望と書いた進路希望票を手に、担任との面談に臨む。

「朝比、本当にいいのか?成績はもっと上を狙えるぞ」

「はい。私は子どもが好きで……ずっとその道に進みたくて」

「誰かに影響されたのか?」

「……うーん、しいて言うなら……誰かの夢に向かう背中を見て、自分もちゃんと“誰かの人生に寄り添いたい”って思ったから、かもしれません」

教師は頷き、書類を確認しながら言った。

「おまえは、人のことをちゃんと見てるからな。向いてると思うよ」

一方、タクミの面談はもっと硬い空気だった。

「君の志望校は、医大で間違いないな」

「はい。学費の関係で、奨学金枠での特待生を狙いたいです」

担任は腕を組んでうなずいた。

「並大抵じゃない道だぞ。……でも君なら、やれる気がする」

「ありがとうございます」

「ただ――無理はするな。体調、崩したこともあったんだろう?」

タクミは一瞬、リオの顔が頭に浮かんだ。

あの日、涙ながらに「頼って」と言ってくれた彼女の姿。

「……はい。気をつけます。もう、ひとりで抱え込むつもりはありませんから」

担任の眉が少し上がる。

「……いい顔になったな。今の君なら、大丈夫だ」


進路希望票を出した帰り道、ふたりは並んで歩いていた。

夕焼けに染まった歩道。

風が少し冷たくなって、秋の終わりを告げていた。

「進路、出した?」

「うん。保育系の短大。……タクミは?」

「医大。奨学金でいけるように、全力」

「……うん、知ってた。でも、なんかこうして口にすると……やっぱり、現実になってきた気がするね」

ふたりの間に、微かな距離ができる。

けれどそれは“壁”ではなく、“未来”の重さだった。

「……きっと、離れることもあると思う」

タクミが言った。

「でも、それで終わりじゃないよな。……俺は、そう思ってる」

リオは少し驚いた顔をしたあと、ゆっくりと笑った。

「うん。そうだね。私たちは、どこにいても――“繋がってる”もんね」

ふたりは立ち止まり、しばらく空を見上げた。

遠くで電車の音が聞こえた。

人生というレールの上に、ふたりの“それぞれの電車”が走り出していた。

けれど、ホームにはいつも――ふたりで立てる場所が、ある。



―――卒業式当日

体育館には、控えめな装飾と、鳴り止まぬ拍手。

名前を呼ばれ、壇上で証書を受け取ったタクミは、客席の隅に母親の姿を見つけた。

細くなった体にはすこし大きく感じるスーツ姿。

それでも、真っ直ぐにこちらを見て、涙を浮かべながら拍手を送ってくれていた。

(……ありがとう、母さん)

壇上から降りると、順番に並んでに立っていたリオと目が合った。

彼女は制服のリボンを少し直しながら、笑って言った。

「かっこよかったよ、王子さま」

「まだ言うか、それ」

ふたりは笑った。

そして、卒業式が終わり、クラスメートたちが写真を撮ったり、別れを惜しむ中――

ふたりは、誰もいない屋上へと足を運んだ。


風が強く吹いていた。

校舎の屋上からは、少しだけ遠くの街並みと、まだ裸の桜の枝が見えた。

「……タクミ」

リオが、制服のポケットから小さな紙片を取り出す。

「なにそれ?」

「手紙。書いてみたの。でも、渡すだけって、なんか逃げるみたいだから――読むね」

タクミはうなずいた。

リオは深呼吸して、読み始める。


タクミへ

あなたの背中を追いかけて、ここまで来ました。

途中、たくさんすれ違って、何度も諦めようと思って、それでもどうしても離れたくなかった。

タクミの孤独も、苦しさも、私は全部分かってたわけじゃないけど――

それでも、ずっと、そばにいたいと思ってた。

ありがとう。

私に、目標をくれて。

私に、好きって思える人をくれて。

私に、頑張る理由をくれて。

これからは、もう追いかけるだけじゃなくて、

一緒に歩いていけたら、って思ってます。

好きです。これからも、ずっと。


風の中で、リオの声が震えながらも真っ直ぐに響いた。

タクミは、しばらく何も言わなかった。

けれど、ゆっくりとリオの手を握る。

「……ありがとう。俺も、リオと一緒に歩きたい。

 どんなに遠くても、いつかちゃんと隣に立てるように、俺、もっと強くなる」

ふたりは風の中で、小さくうなずき合った。

未来はまだ、遠い。

でもその日、ふたりの想いは“約束”になった。



第6章 遠く離れても、心はそばに

都会の空気は冷たく、無機質なコンクリートの建物がタクミの影を飲み込んでいく。

駅前から続く坂道を、白衣の入ったバッグを背負って歩く姿に、かつての高校生の面影はほとんどなかった。

「明日から解剖実習か……」

タクミは大学の寮の狭い部屋に戻り、机に置かれたスマートフォンを手に取った。

画面には、リオからの未読メッセージ。

「そっちはもう桜咲いた?こっちはやっと三分咲きくらいだよ」

「今日、初めての研修で園児たちが私に自己紹介してくれたの。かわいすぎて泣きそうだった」

タクミは、その文字を何度も読み返したあと、返信を打ち始めた。

「こっちは満開。でも咲いてるの、ゆっくり見る余裕ないな」

「明日から実習。思ったよりキツい。でも、お前のメッセージ見ると、ちょっとだけ緩む」

そして最後に、数秒迷ってから――

「……ありがとう。いつも、そばにいてくれてる感じがする」

送信。

画面の明かりが消えた部屋で、タクミは静かに目を閉じた。

寂しいはずなのに、なぜか心の奥に小さな火が灯ったようだった。


保育実習のレポートに追われながら、リオはスマホを手に取った。

時計は夜の22時を回っていた。

(……タクミ、もう寝ちゃったかな)

一瞬、迷ってから電話をかける。

数回のコールのあと、ようやくタクミの声が響いた。

「……もしもし」

「ごめん、遅かった?」

「いや、ちょうど終わったところ。……声、聞けてよかった」

それだけで、リオの目に涙が浮かんだ。

「タクミ、頑張りすぎてない?」

「……頑張らなきゃって思う。でも、最近は、無理してるって気づいたら“休んでもいい”って思えるようになった」

「それって、ちょっと成長だね」

「お前のおかげだよ」

お互いにしばらく黙ったまま。

でも、その沈黙が心地よかった。

「会いたいなぁ……」

リオがつぶやくように言うと、電話越しに小さく笑う声が返ってきた。

「……もうすぐ夏だ。バイト代貯めて、会いに行く。待ってて」

「うん。ずっと待ってる」

画面越しの空白も、もう怖くはなかった。

“待ってる”と言えることが、ふたりの希望だった。


八月。

セミの声が響く駅のホームに、リオは日焼けした手を振りながら立っていた。

新幹線の扉が開き、人混みの中から、少し背が伸びたタクミが姿を現す。

「……久しぶり」

「うん」

言葉よりも先に、リオは駆け寄って、そっとタクミの胸に顔を埋めた。

「……ちょっと、泣いてる?」

「泣いてない。ちょっとだけ目に汗入っただけ」

「嘘つけ。……でも、泣かせてごめん。ほんとに、会えてよかった」

ふたりはこれまでの穴を埋めるかのように抱き合っていた。


夏の日差しが容赦なく二人を照らすなか

手をつないで歩いた商店街。

アイスを分け合った公園のベンチ。

星を見上げた夜の川沿いの道。

何気ない時間のすべてが、宝物のようだった。

「ねえ、タクミ。こうして手をつないで歩くの、なんか不思議だね」

「なんで?」

「高校のとき、隣にいたのに、こんなに近くなかった気がするから」

「……今のほうが、ちゃんと“お前を見る”余裕ができたからかもな」

リオは静かに笑った。

「私も。やっと、“私の人生”もちゃんと歩き始めた気がする。……タクミと、並んで」

夜風が吹き、ふたりの髪をそっと揺らした。



――秋のはじまり

大学病院の研修棟の廊下は、朝から晩まで緊張感に満ちていた。

タクミは白衣を着て、カルテを片手に患者の情報を確認していたが、頭の片隅でいつも“答えの出ない問い”が渦巻いていた。

「人を救うって、どういうことなんだろう」

命と向き合うことは、冷静さと感情の距離を要求する。

研修中、初めて担当した患者が亡くなった日、タクミは言葉を失った。

「……俺は、何もできなかった」

誰も責めなかった。

医師も先輩も、患者の家族でさえも。

けれどタクミだけが、自分を責めていた。

その夜、スマホを手にしても、リオに連絡する指は動かなかった。

(強くならなきゃ。まだ、言えない。こんな顔、見せられない)

だけど、着信が鳴った。

画面に浮かぶ「リオ」の名前に、タクミは心の奥がほどけていくのを感じた。

「……もしもし」

「こんばんは。……なんか、声、疲れてる」

「……あぁ、ごめん。今日はちょっと、いろいろあって」

「話す? 無理にじゃなくていいけど、私は聞くよ」

その言葉に、タクミは少しだけ目を閉じた。

「……ありがとう。リオの声、今すごく……沁みる」

「なら、私が話してあげるから、ただ聞いてて」

リオの声が耳に流れ、タクミはようやく息を吐いた。

その夜、彼は初めて患者の死を涙で送った。


――同じ頃

保育園の秋の運動会が終わったあと、リオはひとり園庭に残っていた。

ふと、保護者のひとりから言われた言葉が心に残っていた。

「先生、すごく子どもに好かれてますね。でも、ちょっと無理してませんか?」

無理――していないつもりだった。

笑顔でいよう。明るくいよう。

子どもたちの前では、安心できる大人でいよう。

でも、心の奥にぽっかりと空いた“寂しさ”があることは、彼女自身が一番わかっていた。

(本当は、タクミに会いたい)

(でも、電話ばっかりしてたら重いと思われるかも)

(でもでも、声を聞くだけで、もうちょっとだけ頑張れるのに)

スマホを手に取り、何度も画面を開いては閉じた。

ついに我慢ができなくなり発信ボタンをおす。

タクミの声、元気がない…リオはいつもの明るさで他愛もない話をする。

電話を切った後に残る何とも言えない寂しさが胸を突く。

そんな彼女のもとに、ポンと通知が届いた。

「今日、すごく辛かった。でも、お前の声で救われた。……ありがとう」

短い文章。

でもそれが、涙が出るほど嬉しかった。

遠くても、自分が誰かを支えられていることが、何よりも嬉しかった。








クリスマスが近づくころ、ふたりは久しぶりの再会を約束した。

リオが少し照れながら電話で言った。

「ねえ……今年のプレゼント、欲しいものある?」

「そうだな……ちゃんと会って、手を繋いで、“またね”って言える時間」

リオは、少しだけ黙って、笑った。

「うん。……それ、私も欲しかった」

ふたりの心は、遠距離のままでも重なっていた。

そして、タクミはその日、リオのために用意した小さな箱をポケットに忍ばせる。

中には、銀の細いリングがひとつ。

「今度は、ちゃんと“隣にいて”って言ってもいいかな」

そんな思いをこめて――



――冬、12月24日・再会の日

駅のホーム。

吐く息は白く、冷たい空気に指先がかじかむ。

けれどその日、タクミの心には不思議と温かい熱が灯っていた。

「……会えるんだな、やっと」

黒いコートのポケットの奥に、小さな箱を確かめる。

掌に感じるその重みに、何度も呼吸を整えた。

電車の扉が開き、人波の中から現れたのは――

少しだけ髪を切ったリオだった。

「……タクミ!」

「久しぶり」

「うん……」

駆け寄ってきたリオを、タクミは自然に抱きしめていた。

「声だけじゃ足りなかった」

「私も……ずっと、触れたかった」

互いの存在を確かめるように、しばらくそのまま、言葉もなく立ち尽くした。


午後の光が夕暮れに変わる頃、ふたりは街の小さなイルミネーションが灯る並木道を歩いていた。

「そういえば、いつか言ってたよね。

“街の灯りって星より近い気がして好きだ”って」

「うん。あのときは、未来なんて想像もつかなかったけど……」

タクミは歩みを止めて、リオの手を引いた。

「今なら、少しだけ想像できる。お前といる未来が」

リオは、驚いたように彼の顔を見つめた。

「……タクミ?」

タクミは、コートのポケットから、小さな箱を取り出した。

静かに開かれた中には、シンプルな銀の指輪。

「医者になると決めた日、俺はずっと走り続けてきた。

その途中で倒れて――――でも、お前が“そばにいたい”って言ってくれたから、ここまで来れた」

リオの目に、涙が溢れはじめる。

「今度は、俺から言わせてほしい。

ずっと、隣にいてほしい。

……リオ、俺と一緒に生きていってくれませんか?」

雪が、音もなく降り始める。

リオはその場に立ち尽くし、涙を拭うことも忘れたまま、ゆっくりとうなずいた。

「うん。……うん、ずっと一緒にいたい。

それが、ずっとずっと、私の願いだった」

指輪をそっと薬指にはめる。

そのぬくもりは、確かに“二人の未来”の形をしていた。


それからのふたりは、変わらず忙しく、変わらず遠くで――

けれど、変わらず“繋がって”いた。

ある日、リオがタクミに手紙を送った。

「この世界には、奇跡なんてそうそうないって思ってた。

でも、タクミと出会えたこと、そばにいられたこと、

全部が私にとっての奇跡でした。」

「これから先、うれしいことや、悲しいこともいっぱいあるだろうけど、私はずっと、あなたを想いながら生きていきます。」

タクミはその手紙を白衣の内ポケットにしまい、病室へと向かった。

今日も彼は“誰かのために”立っている。

そしてその背中には、“リオと生きる未来”がそっと寄り添っていた。




第7章 春、ふたりが家族になった日

――小さな結婚式

四月の空は、少しだけ霞んでいたけれど、

チャペルの前庭に咲く白い花たちは、まるでふたりを祝福するように揺れていた。

ゲストは多くなかった。

親しい家族、数人の友人、職場の仲間たちだけ。

それでも、ふたりにとって、それは十分すぎるほどに温かな一日だった。

リオは純白のドレスに身を包み、母から受け取った手紙を胸ポケットに忍ばせていた。

タクミは黒のタキシードに、父の形見のタイピンをつけていた。

バージンロードを歩くリオを見た瞬間、タクミは思わず目を伏せた。

幼いころ、公園で一緒に走り回っていた少女が、今、自分の隣に“未来”として居てくれている――

そのことに、胸が詰まりそうだった。

「リオ……今日から、ずっと、よろしく」

「……こちらこそ」

誓いの言葉は、どこまでも静かに、真っ直ぐに。

ふたりの手が結ばれるとき、会場にはふわりと光が差し込んだ。

まるで、空から二人を祝福するように。


――披露宴のあと、母との会話

式が終わり、リオが控室でドレスを脱ぎかけたとき、タクミの母がそっと声をかけた。

「……あの子、ああ見えてね、すごく不器用なのよ。

誰にも甘えられなくて、自分を追い込む癖があるの。

でも、あなたといるときだけは、昔のような優しい目になるの。

……ありがとうね、リオちゃん」

リオはそっと母の手を握った。

「私も、タクミといると、自分に嘘をつかなくていいんです。

だから……私のほうこそ、ありがとうって伝えたいです」

母は微笑み、リオの頬にそっと手を添えた。

「ふたりとも、きっと大丈夫。

“支え合える”ことが、どれだけ尊いことか、あの子は知ってるから」


結婚式の後、小さなアパートでの生活が始まった。

キッチンにはふたり分のマグカップ。

冷蔵庫には、リオが描いた可愛い買い物メモ。

玄関には並んだスニーカーと、リオの小さな傘。

朝は、リオが淹れるコーヒーの香りで目が覚め、

夜は、タクミが疲れたリオの肩をもんでくれる。

「ただいま」「おかえり」の声が、毎日あることの幸せ。

まだ大学病院の研修医だったタクミとの新生活、

リオは保育園をやめ、医療事務の仕事に転職していた。

忙しさに流されながらも、ふたりは互いの存在を、日々の中に刻んでいった。

ある晩、ソファで並んでテレビを見ていたとき。

リオがぽつりと言った。

「ねえ、タクミ。……子ども、欲しいと思う?」

タクミは驚いたように彼女の横顔を見た。

「うん。もちろん。……でも、リオは?」

「私も。……ずっと夢だったの。

“誰かのために笑える家庭”って、いいなって」

タクミはその手をそっと握った。

「なら、そういう未来を一緒に作ろう」

ふたりは互いに見つめあい唇を重ねた。

その夜は月がひと際輝いて、カーテン越しに優しい光で二人を包み込んでいた。


梅雨の気配が忍び寄る六月の朝。

リビングの食卓で、タクミはまだ眠たそうにコーヒーをすすっていた。

リオは、黙って洗面所から戻ってきた。手に、小さな検査薬。

「……タクミ」

「ん?」

振り返ったタクミに、リオは少し震える声で言った。

「……赤ちゃん、できた」

一瞬言葉を飲む。

一拍、二拍……タクミの瞳が見開かれていく。

「……ほんと?」

「うん、間違いないと思う」

すぐには言葉が出なかった。

ただ、タクミはゆっくり立ち上がって、リオの手を両手で包んだ。

「……ありがとう」

それは、心からの感謝だった。

“生命”というものをずっと見つめ続けてきた彼にとって、それは“希望”そのものだった。

「不安もあるけど、私……嬉しいよ」

「俺も。絶対、大事にする。ふたりとも、守ってみせる」


産婦人科の診察室。

エコーのモニターに映る、小さな点のような命。

「ここが、赤ちゃんの心臓です。トクトクと動いてますね」

リオの目から、静かに涙が溢れた。

隣で見ていたタクミも、言葉を失っていた。

自分たちの一部が――確かに“生きている”。


妊娠初期、リオはつわりに苦しんだ。

夕方になると気持ち悪くなり、匂いに敏感になって、何も食べられない日もあった。

そんな日、タクミは仕事から帰ると、まず台所の換気を全開にし、リビングの明かりを落とし、おかゆを少しずつスプーンでリオの口元に運んだ。

「……全部食べなくていい。少しでいいから、栄養取ろう」

「ごめんね……タクミも疲れてるのに……」

「俺さ、患者には“無理しないで”って言うのに、

 お前にだけ“頑張れ”って思っちゃうの、変だよな」

リオは苦笑して、小さく頷いた。

「ううん、私も頑張りたいって思えるのは、タクミがそばにいるからだよ」


妊娠五ヶ月目。

ようやく体調が落ち着き、ふたりで久しぶりにベッドの中で語り合う夜。

「ねえ、タクミ……」

「ん?」

「私ね、この子に“ありがとう”ってたくさん言える人生を送ってほしいんだ」

「……それってどんな?」

「生まれてきてくれてありがとう。

笑ってくれてありがとう。

失敗しても、泣いても、傷ついても、

この世界にいてくれるだけで、ありがとうって」

タクミはリオの手を取り、もう一方の手で腹部にそっと触れた。

「……俺も、同じ気持ちだよ。

この子が“生きる意味”を探さなくてもいいように、

“生きてるだけで愛されてる”って伝えたい」

リオの目に、また涙が浮かんだ。

けれどそれは、怖さではなく、温かい確信の涙だった。


ある夜、ふたりは小さなノートを開いて、

赤ちゃんの名前を考え始めていた。

「ねえ、女の子だったら、どういう名前がいい?」

「うーん……優しい響きがいいな。“光”とか、“結ぶ”とか」

「いいね……“結”って字、好き。結ぶって、人と人だけじゃなくて、“過去と未来”も繋げる感じがする」

「……男の子だったら、“陽”ってどう?

お前が、太陽みたいに明るかったから……その光、受け継いでほしい」

リオは笑った。

「それ、ちょっと恥ずかしいけど、嬉しい」

ふたりの会話が、小さな命の“未来”を形作っていく。



第8章 雪の朝、ひとつの産声

――出産前夜

妊娠九ヶ月目の終わり。

その日は冷たい雨が雪に変わる手前の、しんと静まり返った夜だった。

タクミは研修のレポート修正で遅くなり、やっと帰宅したばかり。

リオは大きくなったお腹を撫でながら、ソファに座って彼を迎えた。

「おかえり……今日もお疲れさま」

「ただいま。……大丈夫? いつもより苦しそうに見える」

「……ちょっと、お腹、張ってるかも。前駆陣痛、かな?」

「無理しないで。……念のため、病院行ってみようか」

「……うん、そうしよう。なんか、予感がするの。今夜、来る気がする」

リオのその言葉に、タクミは医師としての感覚ではなく、“夫”として胸がざわついた。

すぐに荷物をまとめ、連絡を入れ、タクミは彼女の手を取り病院へと向かった。


深夜2時。

リオの陣痛が本格的に始まった。

タクミは白衣ではなく、パートナーとして立ち会い室に入っていた。

リオは汗を滲ませ、何度も深く息を吐きながら痛みに耐えていた。

「……タクミ、ごめん、私、もう無理かも……」

「大丈夫。リオ、呼吸して。俺がいる。ずっとここにいるから」

手を握るその手は、リオにとって、これまでで一番“強い”ぬくもりだった。

「……こわいよ……」

「俺もこわい。でも、君と一緒なら、きっと乗り越えられる。だから、お願い――頑張って」

そう言ってタクミが涙をこらえていたのは、彼女の痛みに何もできない“無力さ”と、

それでも“信じ続けること”しかできないもどかしさのせいだった。


午前5時45分――産声

「頭、見えてきましたよ――あと少しです!リオさん、もう一息!」

「うあああああっ……!」

最後の力を振り絞るリオの声が、分娩室に響く。

そして――

「おぎゃあっ……おぎゃあ……!」

初めての産声が、夜明けの空に重なって響いた。

タクミは、何かが胸の奥で爆ぜるような感覚に包まれ、

涙が止まらなかった。

「……生まれた……リオ……おつかれさま……!」

リオはぐったりしながらも、震える笑みを浮かべる。

「……やっと、会えたね……この子に」

助産師がふたりの腕の中に、柔らかな温もりを運んでくる。

小さくて、赤くて、それでも力強い産声をあげているのその命。

タクミが手を伸ばすと、赤ん坊の小さな指が彼の指をぎゅっと握った。

「……はじめまして、ようこそ」

リオも、涙を流しながらそっと微笑む。

「……この子の名前、タクミ……決めてたでしょ?」

「うん。……“結”」

「――“ゆい”?」

「君と僕を結んだ子。未来と今を、ちゃんとつなげてくれる、そんな子に」

リオは泣きながら、何度もうなずいた。

「……ありがとう、この世界に来てくれて」


小さなベビーベッドに眠る“結”を見つめながら、タクミが呟いた。

「……俺、たぶんこの子の前じゃ、かっこいい父親にはなれない」

「ううん。……かっこいいよ。

こんなに泣き虫で、優しいパパ、他にいないもん」

「それ、褒めてるのか……?」

「うん、もちろん」

リオが笑い、タクミもつられて笑う。

結は、すやすやと眠ったままだった。

小さないびきとともに――ふたりの未来は、静かに、けれど確かに始まっていた。



――退院から数日後

家に戻ったその日。

ベビーベッドに寝かされた結を、リオとタクミはずっと交代で見守っていた。

泣くたびに驚き、

笑うたびに見つめ合い、

うんちをすれば二人で大騒ぎして、

何もかもが初めての連続だった。

「なあ、これって、普通どのくらいの頻度で泣くもんなの?」

「さっきからもう5回目……おっぱい、飲んだのに……」

「もしかしてオムツか? それとも……夢?」

「夢って、赤ちゃんも見るのかな?」

そんなことを話しながら、夜はあっという間に過ぎていった。


――夜泣きと、眠れない日々

数週間が経ち、育児の疲れが少しずつ溜まり始めた。

特にリオは、昼も夜もなく赤ちゃんに付きっきりだった。

授乳、オムツ替え、寝かしつけ――タクミが仕事で不在の間は、すべて一人でこなしていた。

ある夜。

結が何をしても泣き止まず、リオは限界に近かった。

「……お願い、結。ちょっとでいいから、眠って……」

声がかすれていた。

目の下には濃いクマができていて、手の甲には小さな傷も増えていた。

そのとき、夜勤から帰ったタクミが玄関を開ける音がした。

「ただい……」

リビングに入った瞬間、ソファに座ったままのリオが結を抱きしめながら泣いていた。

「……リオ?」

「……タクミ、私……無理かも……泣き止まないの、私、何もできてない気がする……」

タクミはすぐに膝をつき、リオの手から結を受け取った。

赤ん坊はぐずりながらも、タクミの胸にすっと顔を埋めた。

「……よしよし、なに泣いてんだ、俺が帰ってきたぞ」

結が少しずつ泣き止み、リオもまた、安堵の涙を流した。

「……ごめん、タクミ。ひとりで頑張らなきゃって思ってたけど……」

「謝るなよ。……俺こそ、支えるって言ったのに、甘えてた」

その晩、タクミは仕事で疲れていたにもかかわらず、リオに先に寝るよう促し、結を抱いたままリビングで一夜を過ごした。


そして、小さなごほうびの日

日曜日の昼下がり。

ようやく結が静かにお昼寝してくれて、ふたりは並んでホットミルクを飲んでいた。

リオがぼそりと言った。

「……あのね、今日、初めて『あー』って声を出して笑ったの。

しかも、私の顔見て……びっくりしたけど、嬉しかった……」

タクミの目がふっと細くなる。

「それ、ずるいな。俺も見たかった」

「ふふ、次はタクミの番だよ」

結の寝息が、リビングに優しく響いていた。

「こういう瞬間のために、頑張ってるんだよね。……きっと」

「うん。きっとそうだ」

ふたりはそっと手を重ねた。

もう、言葉はいらなかった。



第9章 ひとつのろうそく、ふたりの願い

結が初めて「ママ」と言った日。

リオは驚いて、うっかり味噌汁の鍋を焦がした。

結が哺乳瓶を両手に抱えながらタクミに「パッパ!」と叫んで駆け寄った日。

タクミはまだ白衣を脱ぐ前で、抱きしめたまま白衣もスーツもミルクまみれになった。

日々は騒がしく、あっという間だった。

眠れぬ夜も、笑いあった朝も、育児の不安も焦りも――

すべてが、小さな“歩み”の積み重ね。

そして、迎えた1歳の誕生日。


――飾りつけと、準備の朝

「よし……ここをもうちょっと風船増やそうか」

「写真撮るときに映えるようにね。タクミ、バナーずれてる!」

小さなリビングが、明るい手作りの飾りで彩られていく。

テーブルにはリオ渾身の離乳食ケーキ。

ヨーグルトでデコレーションされ、イチゴのピューレで「1」の文字が書かれている。

「見て……これ、可愛くない?」

「すごいな……ケーキっていうか、芸術だよ、これは」

「ちょっと、それ褒めすぎ」

リオが照れたように笑う横で、結はバンボチェアに座っておもちゃを振り回していた。


――誕生日会

招いたのは、ごく親しい人たちだけ。

リオの母、タクミの母。

そして、ふたりの仲の良い友人夫婦と、小さな子どもたち。

小さな部屋に、賑やかな笑い声が溢れる。

結は最初、緊張して泣きそうになっていたが、

お気に入りのぬいぐるみとケーキの甘い匂いに、やがて口をぱくぱく動かし始めた。

「結、食べてごらん。ママのスペシャルケーキだよ」

スプーンを持つタクミの手を、結がぎゅっと掴んで口に運ぶ。

ヨーグルトが口元にべっとりついて、結はにこっと笑った。

その瞬間、カメラのシャッター音が響いた。

「はい、記念写真、完璧!」


賑やかな午後が過ぎ、片付けも終え、結は静かに寝息を立てていた。

リビングの明かりを少し落とし、タクミとリオはソファに並んで座っていた。

「……ねえ、今日、泣かないって思ってたのに、私、ケーキの前で泣いちゃった」

「見てた。……俺も、危なかった」

「最初に病院で産声聞いたとき、

“この子を守らなきゃ”って思ったでしょ?」

「うん。今もずっと、そう思ってる」

リオはタクミの肩にもたれた。

「でもね、今はちょっと違う気がしてるの」

「うん?」

「“守る”って言葉じゃ足りない気がするんだ。

この子が、生きたいように生きられるように、

私たちが、前を歩いて背中で見せてあげる。

……そんな親になりたいなって」

タクミはしばらく黙ってから、そっと頷いた。

「……それ、すごくいいな。

俺も……この子に“愛されてた”って思ってもらえる人生を渡したい」

リオがタクミの手を握る。

「じゃあさ、今日、誕生日プレゼントあげるね」

「え? 俺に?」

「ううん、結に。でも……未来の結に、かもしれない」

リオは小さな封筒を取り出した。中には、一枚の手紙。

『結へ――あなたが1歳の誕生日を迎えた今日、ママとパパはね……』

その手紙には、ふたりが今日思ったこと、

生まれた瞬間のこと、夜泣きと笑顔と、小さな手のあたたかさ、

そして“あなたがいてくれてよかった”という言葉が綴られていた。

「20歳になったら渡そうね、これ」

「……それまで、ずっと大事にしよう」

ふたりは微笑み合い、眠る結にそっと布団をかけた。


春、結が一歳と数ヶ月になったころ。

タクミは晴れて小児科の医師となった。

リオは1年ぶりに職場復帰を迎えた。

久々に袖を通した制服。

鏡の前で少し緊張したように整える髪。

「どう? 似合ってる?」

「……うん。前と変わらない……いや、もっときれいになったかも」

「なによそれ、口が上手くなった?」

「1年間、俺の心がリハビリしてたから」

リオはふっと笑い、タクミのネクタイを直してやる。

「今日は私が先に出るけど、保育園の送迎、お願いね」

「わかった。仕事、気をつけて」

「うん、いってきます」

久々の「ただいま」と「いってきます」が交わされた朝。

しかしその言葉の重みは、ふたりがまだ完全にはわかっていなかった。


職場に戻ったリオは、以前と変わらぬ歓迎を受けたものの、

仕事の勘を取り戻すには時間がかかった。

「すみません、資料、少しミスがあって……」

「焦らなくていいよ。でも、次は注意してね」

心ない言葉ではなかった。

それでも、胸に刺さる。

一方でタクミも、病院での勤務は忙しさを増していた。

結の送り迎えも、日によっては母に頼るしかないことも増えた。

夜、帰宅したリオがリビングに入ると、結はすでに寝かしつけられていた。

「……寝かせてくれたんだ。ありがとう」

「今日は早めに寝たよ。昼間たくさん遊んだからかも」

「……そっか。私、全然会えてない……」

その言葉には、悔しさと寂しさが滲んでいた。


そんな日々が続いたある晩。

食卓に並んだ夕食を前に、リオがぽつりと呟いた。

「……私、役に立ててるのかな」

「え?」

「育児も、仕事も中途半端。タクミにばかり頼ってばっかりで……」

「そんなことないよ。むしろ……俺がちゃんと時間作れてないのかも」

「……私、今日さ、結に“ママ”って言われなかったの。

先生には言ってたのに、私が迎えに行ったら、“パパ!”って」

タクミは言葉を失った。

「……ごめん」

「違うの。責めたいんじゃない。ただ……やっぱり、焦ってる。

“戻らなきゃ”って、自分を急かしてる」

その言葉に、タクミは手を伸ばし、リオの手を握った。

「俺たち、親になってからも、ずっと“初めて”ばっかだよな」

「うん……だからこそ、ちゃんと話さなきゃダメだね」

「そうだな。……今日、俺も疲れてて、ちゃんと“おかえり”って言えなかった」

リオの瞳が潤んだ。

「じゃあ、改めて……“ただいま”」

「……“おかえり”」

その夜は、ふたり手をつないだまま、静かに目を閉じた。


翌朝―――――

「結、ママが迎えに来たら、“ただいま”って言うんだよ」

「たーま!」

「惜しいな。でも、それでいい!」

タクミとリオは、笑いながら玄関に並ぶ。

今日も育児と仕事、ふたりにはきっと“うまくいかない日”がある。

でも――ふたりでいれば、何度でもやり直せる。

そんな確かな希望を胸に、リオは職場へ、タクミは結の手を引いて保育園へ向かった。


第10章 ピアノの音、ありがとうの声

――秋、保育園からの手紙

ある日、リオのバッグの中に、小さく折り畳まれた便せんが入っていた。

「秋の発表会のお知らせ」

結が通う保育園で、年少組による初めての発表会が開かれるという案内だった。

「ねえ、これ……」

「うん、先生からも聞いた。結、ピアノを弾くんだって」

「えっ……結が、ピアノ?」

驚きながらも、リオの頬はすぐにゆるむ。

「なんか……ちょっと、信じられないね。

あんなに小さかったのに」

「うん。夜泣きしてばかりだったのに、今じゃ“パパ、ママ、がんばって”って言ってくる」

「成長って、ほんとに一瞬だね」

ふたりは予定表を確認し、スケジュールを調整して、当日を心待ちにした。


――発表会当日

会場は保育園のホール。

保護者席にはカメラやスマホを構えた父兄たちでいっぱいだった。

タクミとリオも、早めに到着して前列に席を取った。

「ねぇ……タクミ。私、泣いちゃうかも」

「俺、もう泣きそう」

やがて幕が上がり、園児たちが整列して並ぶ。

舞台中央に、小さなキーボード。

そこにちょこんと座った結が、緊張した様子で深呼吸をしていた。

「……がんばれ、ゆい……」

リオが胸の前で手を合わせる。

タクミも、思わず息を呑んで見つめる。

先生の合図で、演奏が始まった。

ポロロン――

不安定で、時に止まりかけながらも、

結の小さな指がひとつずつ鍵盤を押していく。

その姿は、かつてのふたりの“努力”をどこか重ねるようだった。

演奏の途中で、結が観客席を見渡し、ふとタクミとリオの顔を見つける。

そして――にっこりと、笑った。

その笑顔に、リオは目頭を押さえ、タクミは肩を震わせた。

ポロロン――最後の音が鳴り終わったとき、

ホールには大きな拍手が響いた。

結は、照れたように頭を下げた。


――帰り道

「結、すっごくかっこよかったよ!」

「ほんと、びっくりした。ちゃんと最後まで弾けてたね!」

「えへへ、がんばったー」

結は両手を広げて、両親にだきついてきた。

リオはその小さな身体をぎゅっと抱きしめた。

「パパとママね、ずっと結のこと見てたんだよ」

「うん、見えてたよ。ママ泣いてた」

「ばれてたかぁ……」

笑いながら、リオとタクミは目を合わせる。

「……成長って、こんなに静かで、でもこんなに胸にくるんだね」

「うん。でもね……一番育てられてるの、もしかして俺たちかもしれない」

そう呟いたタクミの言葉に、リオはうなずいた。

「――ねえ、結。今日、何が一番嬉しかった?」

「んー……パパとママ、来てくれたこと!」

その言葉に、ふたりの歩幅がそっと寄り添った。

秋の夕暮れ。

三人の影が、長く並んで伸びていた。


――卒園式の朝

三月下旬、まだ少し肌寒い春の朝。

玄関に並んだ三人分の靴。

タクミが黒いスーツに身を包み、リオは淡い桃色のワンピースを着ていた。

そして、結は白いブラウスに小さな蝶ネクタイ。

肩には園のマークがついたリュック。

「……なんか、ほんとに“大きく”なったね」

「うん、こないだまで“だっこ!”って言ってたのに」

「言ってるよ、まだ!」

笑いながらも、リオの目元にはすでにうっすら涙の光があった。


保育園のホールは、桜の飾りと笑顔でいっぱいだった。

年長児の卒園生たちは前列に並び、ひとりずつ、園長先生から卒園証書を手渡される。

「お名前を呼ばれたら、大きな声で“はい”って返事しましょう」

園児たちは頷き、小さく緊張していた。

やがて――

「たくましい笑顔で、いつも周りを明るくしてくれた

 あじさい組 碧山アオヤマ ユイ さん」

「はい!」

大きな声が響き、会場の空気がわずかに揺れた。

結は、園長先生から証書を両手で受け取り、くるりと振り返って一礼した。

その姿に、タクミもリオも、胸を詰まらせていた。


「つぎに、卒園児から、おうちの人へのおてがみを読んでもらいます」

先生の声に、ざわつく会場。

結は、小さな便せんを手に、演台に立った。

緊張で手が震えていた。

けれど、目の前に“パパとママ”を見つけると、そっと笑顔になった。

そして――

「ままへ。ぱぱへ。

 いつも、おしごと がんばってくれて ありがとう。

 よるねるまえに よんでくれる ほん、だいすき。

 えんそくのおべんとう、おいしかったよ。

 ほいくえん、たのしかった。

 しょうがっこうでも、がんばるからね」

最後の一文を読み終えると、会場のあちこちですすり泣く声が聞こえた。

リオは、口元を手で押さえながら、肩を震わせていた。

タクミは、ただ静かに、娘を見つめていた。

こんなに小さな言葉が、こんなに重くて、温かい。


式が終わり、園の門を出たあと。

リオが、立ち止まって言った。

「……私たちも、卒園だね」

「え?」

「“保育園の親”っていう時期、卒業。

 明日からは、“小学生の親”だよ」

「……ほんとだな。なんか……ずっと“必死”だった気がする」

「私も。

 でも……必死だったから、ここまで来れた気がする」

タクミはしばらく黙っていたが、やがてポケットから小さな箱を取り出した。

「なに、それ?」

「卒園祝い。結じゃなくて……リオに」

箱を開けると、中には小さな、桜のペンダント。

中心には、透明な小粒の石が埋め込まれていた。

ペンダントを見つめるリオに優しく声をかけるタクミ。

「ありがとう。……ママ、頑張ったでしょ?」

リオの目に、涙がまた浮かんだ。

「……うん。ママ、頑張った。

 でも……パパも、頑張ったよね」

ふたりは微笑み、結の手をとって歩き出す。

春風が吹いていた。

新しい季節が、静かに始まろうとしていた。



第11章 門の向こうに、はじめての世界

――入学式の朝

春の陽ざしが、やわらかく差し込む朝。

玄関には、新しいランドセルと、ピカピカの上履き袋。

結は緊張と興奮が入り混じったような顔で、制服の袖を引っ張っていた。

「ママ、これでいい?」

「うん、よく似合ってるよ。ネクタイ、ちょっと曲がってるけど……はい、よし!」

「パパ、ちゃんとビデオ撮ってね!」

「任せて。もうフル充電済み!」

笑い合う親子三人。

けれど、リオの手がランドセルの肩紐を直してやるその指先は、少しだけ震えていた。

(もう、こうして手を貸せるのも限られてくるんだろうな)

そんな思いが、胸を過った。


校門の前には、同じように緊張した顔の子どもたちと、その親たちの姿があった。

「おはようございます!」

先生に迎えられ、名札をつけた子どもたちが次々と校舎へ向かう。

「ママ、パパ、もう行っていいよ」

そう言った結の顔は、少し大人びていた。

「えっ、もう?」

「だって、ひとみちゃんもひとりで行ったもん」

タクミとリオは顔を見合わせ、そっと微笑んだ。

「じゃあ……行ってらっしゃい」

「うん! 行ってきます!」

ぱたぱたと駆けていく小さな背中。

(行ってらっしゃい)

(気をつけてね)

(寂しくない?)

いくつもの言葉を、ぐっと飲み込んで、

ふたりはただ静かに手を振った。


「……静かだね」

「うん、びっくりするくらい」

リオはソファに座って、膝に手を置いた。

タクミはキッチンからコーヒーを淹れて、彼女の隣に腰を下ろす。

「ねえ……私たち、今までずっと“結の時間”で生きてたんだね」

「そうかも。仕事の合間も、いつも“結”を考えてた」

「これからは、ちょっと“自分の時間”も考えないとね」

「……リオは、何がしたい?」

リオは少しだけ考えて、静かに言った。

「もう少し、ちゃんと“妻”をやってみようかな」

タクミは目を見開いて、そして照れたように笑った。

「……なんか、プロポーズされ直した気分」

「プロポーズは私の方からだったでしょ?」

「うん、ずっとそばにいるって、今でも覚えてるよ」

「あと、死んでも離れないとか」

「……言ったっけ、それ」

ふたりは笑い、コーヒーの湯気が静かにのぼっていった。


夕方、玄関のドアが開いた音。

「ただいまー!」

結がランドセルを背負って駆け込んできた。

その顔は少しだけ土で汚れていて、頬に赤みが差していた。

「おかえり!どうだった? 学校!」

「うんっ、楽しかった!でもね……すっごく疲れた……」

ランドセルを下ろすと、そのままリビングに倒れ込む。

「お昼はね、となりの席の子と食べた!好きなキャラ同じで、お友だちになったの!」

「すごいねぇ……初日からもう友達できたの?」

「うん! でもね……知らない子がいっぱいで、最初ちょっとだけ怖かった」

リオがそっと結の頭を撫でる。

「よく頑張ったね。えらいえらい」

「パパ、明日もビデオ撮って!」

「明日も?」

「うん。ぜんぶ覚えておいてほしいの。小学校のこと」

タクミは、結の言葉に少し目を伏せた。

「……わかった。じゃあ明日もパパ、カメラマンするよ」

(この子は、こうして少しずつ“自分の世界”を作っていくんだ)

(そして私たちは、その外側から見守る存在になっていくんだ)

夜、リオとタクミは、まだ少し幼い娘の寝顔を見ながら、

静かにその“新しい関係”を受け入れはじめていた。



第12章 ただ「ごめんね」と言ってほしかった

――秋のある日

結が小学校に通い始めて、半年が過ぎた。

新しい友だちもでき、日々の宿題にも慣れ、

ランドセルには教科書と、たまに落ち葉や小さな石ころが忍び込むようになった。

けれど、その日は違った。

「ただいまー……」

元気のない声。

いつもなら玄関でランドセルを投げ出して駆け寄ってくるのに、

その日は靴を脱ぐと、無言で部屋へ向かおうとする。

「結? どうしたの? 何かあった?」

リオの問いかけにも、首を振るだけ。

「なんでもない」

その一言が、胸に引っかかった。


その夜、結は夕飯をほとんど口にせず、早々に布団に入ってしまった。

リオとタクミはリビングで顔を見合わせる。

「学校で……なにかあったのかな」

「たぶん。でも、言いたくないみたいだな。

 聞きすぎても、余計に閉じちゃうかも」

「……ねぇ、結ってさ、いつの間にか“親に言わないこと”を持つ年齢になったんだね」

「……そうだな。俺たちも、昔そうだった。

 “わかってほしいけど、言いたくない”って思ってた時期」

リオは、ふと昔の自分と重ねるように天井を見上げた。

「そっか……これは、“信じて待つ”時なんだね」


数日たったある日の放課後、学校から電話が入った。

「担任の末永です。放課後、ずっと校庭でひとりだったみたいで……心配して」

迎えに行ったリオは、担任の先生に案内されて職員室の応接用のソファにぽつんと座る結の背中を見つけた。

ランドセルは置いたまま、小さな手を膝にのせていた。

「……結」

声をかけると、結はびくっと肩をすくめて、顔を背けた。

「ママ……ごめんなさい」

「なにが?」

「めぐみちゃんと、ケンカした。わざとじゃなかったのに、“うそつき”って言われて、

 そしたら、言い返しちゃって……みんなの前で、泣かせちゃったの」

リオはゆっくり腰を下ろして、隣に座った。

「……言い返したこと、後悔してる?」

結は小さく頷く。

「“ごめんね”って言いたかった。でも……こわくて、言えなかった」

「……言えなかったこと、ママもあるよ。いっぱい。

 でも、結がいま“言いたかった”って思ってるの、それだけで十分えらいよ」

結の目に、涙があふれた。

「ママも……子どものころ、そうだった?」

「うん。むしろ、“ごめんね”より先に“どうせわかってくれない”って思っちゃって、

 何も言えなくなったこともある。……でもね、言えるまで待ってくれた人がいたの」

結は顔を上げて、リオの目を見つめた。

「パパ?」

「そう。……パパとね、昔ケンカしたことがあって」

「パパと、ケンカ?」

「うん。でもね、ある日、“ごめんね”って言えたら、すごく楽になった。

 そしたら、もっと大事な気持ちも伝えられたんだよ」

結は唇をかみしめ、ぽつりとつぶやいた。

「……明日、“ごめんね”言えるかな。怖いけど……がんばってみる」

「それでいいよ。がんばってみるだけで、すごいことなんだから」

リオは、娘の肩をそっと抱き寄せた。


――翌朝

登校の時間、玄関先で結が言った。

「ママ、今日、“がんばれ”は言わないで。

 ……がんばってくるから」

リオは笑って、ただ一言だけ。

「――いってらっしゃい」

その背中は、昨日より少しだけ大きく見えた。



第13章 10歳の誕生日と、ふたりの“昔ばなし”

――誕生日の朝

「ハッピーバースデー、結!」

朝、目を覚ました瞬間に飛び込んできたふたりの声に、

結は一瞬きょとんとして、そして目をまんまるにした。

「え、朝から何してるの」

「え、それ言う?(笑)」

「頑張って準備したのに―!」

タクミとリオが肩を並べて、笑いながらクラッカーを鳴らす。

部屋には色とりどりの風船と、手作りのガーランド。

「……ふたりで飾ったの?」

「もちろん。昨日、夜中にこっそりね」

「……ありがとう」

恥ずかしそうに、でも心から嬉しそうに結が笑った。


朝食の後、結にプレゼントが手渡された。

それは小さな木箱に入った、手作りのペンダント。

中央には、タクミが磨き上げた半透明の小石が収められていた。

「海で拾ったやつ、覚えてる?」

「うん……あのときの!」

「“お守り”にしようと思って。これから、いろんなことがあるだろうけど、

 そのたびに“家族はここにいるよ”って思い出してもらえるように」

結は、ペンダントを手に取ると、ぎゅっと握った。

「だいじにする……ありがとう」

そして、ふと結が尋ねた。

「ねえ……ママとパパって、子どものころどんな感じだったの?」

リオとタクミは目を見合わせ、思わず吹き出す。

「私から話していい?」とリオ。

「俺の黒歴史から話していい?」とタクミ。

「え、なにそれ!」

結が目を輝かせた。


リオが最初に話し始めたのは、中学時代のこと。

「パパはね、当時めちゃくちゃクールで、

 “人と話す時間があったら勉強する”って言ってたの」

「えええ!?そんなパパ、想像できない」

「でしょ? でもね、ほんとはすごく優しかったの。

 ひとりで頑張ってるくせに、“大丈夫”って顔して」

タクミは、苦笑しながら自分の番を受け取る。

「リオは……うるさかった」

「えっ!? ちょっと、なにそれ!」

「いや、いい意味で。よく笑って、よく怒って、よく泣いて……でも、まっすぐだった」

「へぇぇ……なんか、ママもパパも“子ども”だったんだね」

「うん。当たり前だけど、俺たちも最初から“大人”じゃなかった」

タクミが、ぽつりとつぶやく。

「楽しいことも、苦しいこともいっぱい経験して、だんだん“大人”なれた」

「そして結が生まれて、ようやく“親”になったんだよ」

リオがそれに続けるように言う。

「10年かけて、やっとここまで来たの。

 だから……今日、10歳を迎えた結は、私たちの“10年目の宝物”だよ」

結はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。

「……じゃあ、わたしもこれから“おとな”になるのに、10年くらいかかる?」

「そうだね。人によって違うけど、結のペースで大丈夫」

「そっか……じゃあその間、見守っててくれる?」

タクミとリオは、同時にうなずいた。

「もちろん」

「いつでもそばにいるよ」


その夜、結が寝室で小さなノートを広げていた。

いつからか結は時折その日の出来事や思ったことを書き記すようになっていた。

誰に見せるわけでもなく。

その日そこに、結はこう記した。


パパとママへ

わたしは、まだまだ子どもです。

でも、10歳になったから、少しだけ“自分のこと”を考えるようになりました。

学校のこと、友だちのこと、言えないこともあります。

でも、パパとママが“待っててくれる”って知って、

すこしだけ、安心できました。

わたしも、パパとママみたいに、

“誰かを信じて待てる人”になりたいです。

ありがとう。これからも、よろしくね。


第14章 あなたの名前に、祈りを込めて

――祖母の退院の日

秋の風が少しずつ冷たくなり始めたころ。

タクミの母――綾子あやこが、療養していた病院から退院することになった。

久しぶりに会う日を迎え、結はいつになくそわそわしていた。

「初めてじゃないけど……前に会ったとき、小さかったから、ちゃんと覚えてなくて……」

「大丈夫。おばあちゃん、結に会えるの楽しみにしてるから」

リオがそう励ますと、結は小さく頷いた。


退院手続きが終わり、車椅子に乗った綾子がロビーに現れる。

「おかえり、お母さん」

タクミがそっと手を差し出すと、綾子は静かに手を握り返した。

「ただいま。……それと、あらまあ?」

結はぴたりと立ち止まり、深くお辞儀をした。

「こんにちは……碧山 結です!」

その名乗りに、綾子の目元がふっと和らぐ。

「結ちゃん……大きくなったのね。会えて嬉しいわ」

タクミが横で微笑む。

「本当はもっと早く会わせたかったけど……」

「いいのよ。こうして、元気な姿を見せてもらえたんだから」

綾子の言葉に、結の目がぱっと輝いた。


久しぶりに家に戻った綾子は、リビングの窓際に座りながら庭を眺めていた。

そこへ、結がそっと隣に座る。

「おばあちゃん、ひとつ聞いてもいい?」

「もちろん。なあに?」

「“ユイ”っていう名前、どうしてパパは私につけたの?」

綾子は少し目を伏せ、ゆっくりと呼吸を整えたあと、静かに語りはじめた。


「あなたが生まれると聞いたとき、タクミはまだ大学病院の研修生だったの」

「えっ、パパって学生だったの?」

「そう。……いろんなことがあってね。

 お父さんが亡くなって、家庭を支えて、ひとりで医者を目指してた。

 だけどね――あなたが生まれると聞いた日、

 彼は、初めて“笑って”泣いたのよ」

「笑って、泣いた?」

「そう。“生きててよかった”って、泣いたの」

綾子の声が少し震える。

「それまで、タクミはずっと、自分のことより周りのことで生きてた。

 でもあなたが来ると知って、初めて、“誰かのため”じゃなく“自分のために生きたい”って言ったの。

 そして、“これからは、すべてをつないでいく人間になりたい”って……そう言った」

結はじっと聞いていた。まっすぐな目で、息を殺すように。

「あなたの存在がそれまでのタクミと今を結んでくれたのよ」

「だから“結”。

 過去と未来、痛みと希望、人と人、心と心を――

 “結ぶ”という意味で、あなたにその名前をつけたのよ」

結の手が、そっと胸元のペンダントに触れる。

「……おばあちゃん。ありがとう。教えてくれて」

「こちらこそ、聞いてくれてありがとう」

そして結は、思い出したように言った。

「私、少しだけ、大人になれた気がする。

 “結”って名前が、もっと好きになったから」

綾子は目を細め、ゆっくりと結の手を握った。

「きっと、あなたは、ちゃんと“つなげて”くれるわ。

 私たちが紡いできた想いを、未来へ」


その夜、娘が寝静まったあと。

タクミとリオは、縁側に腰かけて、夜風に吹かれていた。

「……今日、結が“もっと名前が好きになった”って言ってた」

「うん、私も聞いた。……いい名前だよ、“結”って」

「昔はね……“名前をつける”って、ただの“親の権利”みたいに思ってた。

 でもいまならわかる。あれは“祈り”だったんだって」

リオが静かに頷く。

「その祈りが、ちゃんと届いてる。

 あの子の中に……まっすぐ、ちゃんと生きてるよ」

ふたりはしばらく無言で夜空を見上げていた。

その空には、流れ星がひとつ、静かに光の尾を引いて消えていった。



第15章 私の夢

――中学1年の春

新しい制服に、真新しい通学バッグ。

結は中学に進学した。

勉強に部活に、人間関係に――。

小学校の「みんな友達」な世界とは少し違う、

複雑で時に理不尽な“中学生の世界”に、戸惑いながらも懸命に馴染もうとしていた。


――ある夜、ぽつりと

夕食後、リビングで勉強をしていた結が、ふいに手を止めて言った。

「ねえ、パパ。……“夢”って、変えてもいいの?」

タクミは少し驚いたように娘の方を見て、笑った。

「そりゃそうだよ。夢は心の成長と一緒に変わっていくもんだ」

「そっか……じゃあ、私が小さいころ“お医者さんになる”って言ってたのも……」

「もちろん、すごく嬉しかった。でも――」

タクミは視線を落とし、静かに続ける。

「……本当に嬉しかったのは、“誰かの役に立ちたい”って、

 そう思ってくれたこと。職業の名前じゃなくて、その気持ちが嬉しかった」

結は、少しほっとしたように笑った。

「じゃあ、言ってもいい?」

「もちろん」

彼女は、少しだけ恥ずかしそうに言った。

「――私、人の“気持ち”をつなぐ仕事がしたいな、って思ってるの。

 最近、すごく興味があるのは……カウンセラーとか、心理の勉強とか。

 心の中を言葉でつなげられる人になりたい」

タクミは、一瞬言葉を失ったように黙りこみ、そして小さくうなずいた。

「……そうか。それは、すごく、すごく素敵な夢だよ」

「パパみたいに、身体を治すわけじゃないけど……

 でも、心がぐちゃぐちゃになってる人の“声”を拾える人になりたいの」

「それはね……パパよりずっと、難しい仕事かもしれない。

 でも結なら、できると思う」

結はそっと笑って、ひとつ深呼吸した。

「……ありがとう。なんか、少し怖かったんだ。

 “パパみたいになれなきゃダメなのかな”って思ってた」

「そんなこと、一度も思ったことないよ」

リオも隣でうなずいた。

「結は“結”でいいの。私たちがあげた名前は、

 “誰かと同じになる”ためのものじゃなくて、“あなたがあなたである”ための名前なんだから」

結は、胸元の小さなペンダントに指を添えた。

「――ありがとう。これからは、ちゃんと自分の道を歩くね」


結が寝静まったあと、寝室で布団に横になったリオがぽつりと漏らした。

「ねえ……泣きそうになった。あの子、本当にしっかりしてきたね」

「うん。でもさ、きっとまだ不安もある。……それでも、“言葉にできた”ってことが、何よりの成長だよな」

「あなたの母さんが言ってたね。『名を結んだときから、この子はきっとつなげてくれる』って」

「……うん、あのときは、よくわからなかったけど、今ならはっきりわかる」

タクミは、リオの手をそっと握った。

「“結”は、俺たちが失ったものも、言えなかったことも、

 全部つなげて、歩いてくれてるんだなって」

「……あの子がいるだけで、報われるね」

夜の灯が、ふたりの手を優しく照らしていた。


――灰色の空、静かな教室

その日は朝から小雨が降っていた。

昼を過ぎるころには本降りになり、下校時刻になっても空はどこまでも沈んだ色をしていた。

結は、教室の窓辺にひとり残っていた。

机の上には、ぐしゃぐしゃに丸めたプリント。

内容は――「今週末、1年生代表として弁論大会に出場する生徒発表」。

そこに、しっかりと書かれていた自分の名前。

(なんで私なんだろう)

(得意そうに見えたのかな)

(“言葉が好き”って言ったからかな)

決して嫌ではなかった。

けれど、それは“自分の夢”とまったく同じではない気がしていた。

どこか「期待」に縛られているようで、

誰の声にも「やめたい」と言えなかった。


帰りが遅いことに気づいたリオは、傘を片手に中学校へと向かった。

職員玄関で声をかけてから、教室のほうへ――。

「……結?」

静かな声が、雨音に溶けるように届いた。

結は、小さく肩をすくめ、リオの顔を見た瞬間――

ほころんでいた何かが、ふっと切れた。

「……ママ」

ぽろっ――

涙が、頬を伝った。


「どうしたの? なにがあったの?」

リオは急がず、結の隣に座る。

「……わたしね、“大丈夫”って言うの、やめたい」

「……うん」

「先生に、“きっとできるわ”って言われて……

 みんなにも“期待してる”って言われて……

 でも、わたしは……わたしは……本当は、そんなに強くない」

「……そうだよね」

リオは結の手を、そっと握る。

「ママね、いまの結の顔、すごく……結らしくて、嬉しい」

「え……?」

「我慢して、笑って、全部“うん”って言ってたときより、

 ちゃんと“助けて”って言ってくれるいまの方が、ずっと嬉しい」

「……言ってもいいの?」

「もちろん。“強い”って、“泣かない”ことじゃないよ。

 “泣いても、誰かを信じられること”だと思う」

結は、涙を拭いながら小さく笑った。

「……じゃあ、ちょっとだけ、甘えていい?」

「何時間でも、何年でもどうぞ」

「……じゃあ、帰ったら、ぎゅってして?」

「もちろん。ギュウギュウにね」


リビングのソファで、結がタクミの隣にすとんと座った。

「パパ」

「ん?」

「ママにも話したんだけどね……“大丈夫”って、苦しくなることあるんだね」

「……うん。パパも、そうだったよ。昔、“大丈夫”って何百回も言ったけど、

 ほんとはぜんぜん大丈夫じゃなかった」

「でも……いまのパパは?」

「結がいるから、“本当に大丈夫”になれた」

「……わたしも、なりたいな。“本当に大丈夫”になれる人に」

「きっとなれるよ。……焦らなくていい。

 “まだ揺れてる”ってわかるだけでも、大人の一歩なんだから」

結は、深くうなずいた。

「ありがとう、パパ」

「こちらこそ、言ってくれてありがとう」



第16章 胸がぎゅっとなる

――春の校庭、風が通り抜けた日

結が中学2年に進級した春。

クラス替えで少しだけ人間関係が変わり、

新しいクラスにまだ慣れきれないまま迎えたある日の放課後。

昇降口で靴を履き替えていたとき、不意に名前を呼ばれた。

「アオヤマさん!」

振り返ると、隣のクラスの男の子――佐野くんが、スニーカー片手に駆け寄ってきた。

「これ、落としたよ」

差し出されたのは、結の手帳。

表紙にお気に入りの栞が挟まっていた。

「あ、ありがとう……!」

「ページに押し花? すごい綺麗だったから、折れないように持ってきた」

「……見たの?」

「うん、ちょっとだけ。でも、中は見てないよ(笑)」

佐野くんは、照れたように笑った。

ただ、それだけだった。

でも、結の胸は――ぎゅっと苦しくなるような、けれど不思議な温かさでいっぱいだった。


――夜、ふと思い出す

家に帰って、夕飯を食べ、風呂を済ませて、

ベッドに横になったあと――結は思い出していた。

(あの笑い方、なんだか太陽みたいだった)

(“綺麗だったから”って言ってくれた……)

(あんな風に、自分の持ち物を大事にしてもらったの、初めてかも)

胸の奥が、ほわっとして、でも少しだけざわざわする。

夢に向かって一直線だった自分の中に、突然現れた“道の途中の分岐点”みたいな感情。

(これは……好きってこと?)

(でも、まだよくわかんない)

そう思いながら、手帳を抱えて眠りについた。


翌朝、朝食を食べていたとき。

いつも通りの時間にいつも通りの席についていた結を、リオはふと見つめた。

「ねえ、なんか最近、表情やわらかくなった?」

「えっ? そ、そうかな?」

「ほら、なんか、頬がピンクっぽいし。……あれ? 風邪?」

「ち、違うってば!」

結は照れ隠しのように口を尖らせたが、リオはにこにこと微笑んでいた。

「ふふ。青春だね」

「まだなにも起きてないってば!」

そこへタクミもキッチンからコーヒーを持ってやってきた。

「なになに、なんかあったの?」

「なにもない!」

「……あー、これは“なにかある”やつですね~」

夫婦にからかわれて、結はむくれながらパンをもぐもぐかじった。

でも心の奥では――

“見守ってくれる人がいる”安心感に、あたたかく満たされていた。


それから数日。

佐野くんとたまにすれ違うようになった。

目が合えば軽く会釈する。

一度だけ、話しかけられた。

「押し花、いいセンスだね。あれ、なんの花?」

「……日々ニチニチソウ

「へえ、花言葉とかあるの?」

「“楽しい思い出”……だったと思う」

「じゃあ、アオヤマさんと話せたのも、そのひとつってことで(笑)」

また、あの笑顔。

ただ、それだけで――

(このまま、ずっと見ていたい)

そう思った。

でも、そんな自分の心に戸惑ってもいた。

(この気持ちは、夢と関係ない)

(でも……“私”にとっては、大事な気がする)


――昼休み、図書室にて

その日の昼休み。

佐野くんが珍しく図書室でひとり静かに本を読んでいる姿を見かけた。

結は、廊下を歩いていてたまたまガラス越しに気づいた。

(……チャンスかも)

きっかけが欲しかった。

もう一度ちゃんと話してみたかった。

けれど、扉の前で足が止まった。

(なにを話せばいいんだろう)

(向こうはただ、親切にしてくれただけかもしれない)

(……変に思われたら、どうしよう)

開けかけた扉の取っ手から手を放す。

心の中では「行って」と叫んでいるのに、身体は逆に動いていた。

遠くでチャイムが鳴った。

授業が始まり、結はそのまま教室に戻った。

佐野くんとは、その日、すれ違うことすらなかった。


――夕方、帰宅途中のバス停

ポケットの中で小さく丸めた紙――

それは「話しかけるときに見せよう」と思って書いていたメモだった。

花の名前、昨日読んだ詩の一節、好きな音楽。

でも出番はなかった。

風が強くなってきたので、その紙切れをぎゅっと握りしめる。

(なにやってるんだろ、私)

気持ちだけが先走って、なにもできなかった自分が情けなくて。

涙が出るほどじゃないけど、泣きたいくらい、悔しかった。


いつも通りの夕食。

でも、結の箸は進まなかった。

「……お腹すいてないの?」

リオの問いに、結はうなずく代わりに、ぽつりとこぼした。

「話したいのに、話せなかった」

その一言に、タクミもリオも顔を上げた。

「学校で……?」

「うん。伝えたいことがあったのに、勇気が出なくて。

 そしたら、時間が過ぎて……もう話せなくなっちゃった」

リオが席を立ち、冷えたお茶をコップに注ぎながら言う。

「それって、誰かを大切に思ってる証拠だよ」

「……どうして?」

「話せなかったのが、ただの“雑談”なら悔しくなんてならないでしょ。

 言えなかったことが“心から伝えたかったこと”だったから、苦しいの」

「……うん」

「でもね、そういう日があってもいいのよ。

 話せなかった今日が、次に“話そう”って思える日に繋がるから」

タクミも静かに続けた。

「パパなんて、話したいことを我慢して、10年後にやっと言えたこともあるよ(笑)」

「長すぎるよそれ……」

ふっと結が笑い、小さく肩をすくめた。

「……じゃあ、私ももうちょっとだけ、次のタイミングを待ってみる。

 でも、今度は逃げたくないな」

「それで十分よ」

「……ありがとう。ふたりとも」


その夜。

机に向かった結は、今日言えなかった言葉をいつものノートに書いた。

「こんにちは、佐野くん。あのとき押し花のことをありがとうって、まだちゃんと言えてなかった。

あと、わたし、佐野くんの笑い方が好きです」

そして最後に、一行。

「伝えられなかった言葉は、まだ心の中にある。

だから私は、また会いにいく」


――文化祭前日・夕暮れの教室

準備のため放課後もざわめく教室。

クラスでは模擬店の看板作りや衣装の調整で大騒ぎ。

その中で、結は静かに画用紙に文字を描いていた。

――「つながる、コトバ。」

クラスの企画は「朗読と音楽のステージ」。

本の一節や詩を交え、照明やBGMと共に言葉の力を届けるというものだった。

「やっぱ、碧山さんって、文字がやさしいね」

声をかけてきたのは、同じ係の女の子。

「ありがとう。……でも、ちょっと迷ってて」

「なにを?」

「ステージで読む詩、どうしても、うまく選べなくて……。

 言いたいことはあるのに、うまく言葉にできないっていうか」

「……好きな人、いる?」

唐突な質問に、結は手を止めた。

「えっ」

「ふふ、図星?なんかね、碧山さんって、“だれか”のこと考えてる顔してたから」

結は小さく息をのんだあと、静かにうなずいた。

「……いるよ。話したくて、でも話せなくて。

 伝えたいこと、ひとつだけあるのに、それが一番むずかしい」

「じゃあ、その気持ちこそステージで読んじゃえば?」

「えっ?」

「詩って、そういうもんだと思うよ。――“自分の気持ちを、ちょっと遠まわしに、でもまっすぐに”」

結は、それを聞いて思い出した。

初めて、佐野くんに話しかけられた日のこと。

落とした手帳の押し花に、彼は“きれいだったから”と返してくれた。

あのときの気持ちは、今も変わらず、胸の中であたたかく生きている。

(伝えたい)

(自分の言葉で)


眠る前、結は机に向かって静かに詩を書いた。

「あなたの笑顔は、知らないうちに

わたしの心の“春”になっていました。

風が吹くたび、思い出してしまう。

話しかけたくて、でもこわくて。

一歩踏み出せなかった昨日を、

わたしは今日、越えてみたい。」

ノートの最後に、小さく「朗読原稿」と書き足して、結はうなずいた。


「詩、書いてたの?」

部屋の明かりを落とし、眠る準備をしている結にリオが声をかけた。

「うん。明日の朗読、やっぱり“自分の言葉”にしたくて」

「……楽しみにしてるよ。パパもきっと、泣いちゃう」

「え、泣くの?」

「あなたの“初恋”が詩になるなら、ね」

「ママって……やっぱり全部バレてるんだね」

「そりゃあもう。顔に書いてあるもの」

結は少し照れくさそうに布団に潜り込みながら、声だけでつぶやいた。

「明日、ちゃんと伝わるかな……」

リオは電気を消す前に、そっと娘の髪を撫でた。

「大丈夫。あなたの“つながる言葉”なら、きっと」


――文化祭当日の午後


音楽教室の黒板には「つながる、コトバ」と書かれた手描きのタイトル。

教室の一角に即席のステージ。

ピアノとステージの周りを囲うように椅子が並ばれている。

クラスメートの朗読とピアノ演奏が交互に進み、出入りする生徒たちの賑やかな笑い声が遠くに響いていた。

結は、教室の隅の椅子に座りながら、手元の原稿を握りしめていた。

鼓動は早く、手は少し震えている。

(大丈夫、ゆっくりでいい)

(ちゃんと、伝える)

名前を呼ばれ、ステージに立つ。

ライトが当たる。

教室のざわめきがすっと遠ざかる。

目の前の客席に、見つけた。

――佐野くんがいた。

ひとりで、静かに、こちらを見ていた。

(来てくれたんだ……)

一瞬、胸がぎゅっと締めつけられたけれど、すぐに深呼吸した。


――朗読:春の風、君に――

「あなたの笑顔は、知らないうちに

わたしの心の“春”になっていました。

風が吹くたび、思い出してしまう。

話しかけたくて、でもこわくて。

一歩踏み出せなかった昨日を、

わたしは今日、越えてみたい。

あなたが笑ったあの日の午後、

わたしの世界は少し明るくなりました。

この声が届くなら――

それだけで、今日は特別な日です。」

声は少しだけ震えていた。

でも、最後まで止まることはなかった。

読み終えたとき、教室の中には小さな拍手が起きていた。

けれど、結が一番見ていたのは――

前の席で小さく拍手しながら、微笑む佐野くんの笑顔だった。

彼の目が、まっすぐこちらを見ていた。

(伝わった……)

それだけで、涙が出そうになるくらい、嬉しかった。


文化祭の帰り道。

いつもより少し遅くなった学校前の坂道。

「碧山さん」

背後から聞こえた声に、結は振り返る。

「……佐野くん」

「さっきの朗読、聞いてた。……すごくよかった」

「ほんと?」

「うん。……あれ、もしかして、“だれか”に宛てた?」

結は少し黙ったあと、まっすぐ彼のほうを向いて正直にうなずいた。

「……うん。伝えたかったから、自分の言葉で書いたの」

佐野くんは少し笑って、頷いた。

「……届いてたよ。ちゃんと。――すごく、嬉しかった」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、ぽっと明るくなるようだった。

「ありがとう。……聞いてくれて」

沈む夕陽の下、ふたりはしばらく並んで歩いた。

なにも特別な言葉はなかったけれど――

でもそれは、たしかに“ふたりにしかない時間”だった。



――文化祭の翌朝・朝食のテーブルにて

朝の食卓。

パンの焼ける香り。いつも通りの朝――のはずだったが、結は妙に落ち着きがなかった。

トーストをかじっているフリをしながら、ちらちらとリオとタクミの顔を見る。

(言おうか、やっぱりやめようか)

(でも……言ってみたい)

昨日の朗読の後、佐野くんが「嬉しかった」と言ってくれた。

その余韻がまだ、胸の奥で灯のようにじんわりと温かい。

――そして、それを誰かに話したいと思ったのは、生まれて初めてだった。

「……あのね、ママ」

声を出した瞬間、自分でも驚くほど緊張していたことに気づく。

トーストの端が、手の中でぽろりと欠け落ちた。

「どうしたの?」

リオがコーヒーを口に運びながら、静かに見守ってくる。

「昨日、文化祭でね、詩を読んだの。ステージで。……それで、聞いてくれた人が、いて」

「ふふ、佐野くんでしょ?」

「っ……!」

結の耳が真っ赤になった。

タクミが「ほう」と口をすぼめる。

「ついに“あの話”か」

「ちょ、パパまでなに?」

「いやぁ、青春っていいね。もう眩しくて、目ぇ開けてらんないよ」

「真顔で言わないで!」

結は両手で顔を覆ってしまう。

リオは苦笑しながら、けれどそっとその手に触れた。

「ねえ、結。あなたが“好き”って思える人に出会えたこと、それって本当に素敵なことだよ」

「……そう、かな」

「うん。夢ももちろん大事だけどね。

でも、だれかを想う気持ちって、それと同じくらい“生きる力”になる」

タクミがうんうんと頷きながら聞いている。

「それに、“誰かのために頑張りたい”って思えることって、すごく強いんだよ。

昔、パパのためにがんばったこと、今でも誇りだもの」

タクミは照れくさそうにコーヒーをすすった。

「……じゃあ私、もう少しだけ、この気持ちを大事にしてみようかな」

「うん。その気持ち、大事にしなさい」

結は、ふわりと笑った。

トーストはちょっと冷めていたけれど、

この朝の温かさは、きっとずっと忘れない。


放課後、偶然にもまた坂道で佐野くんと会った。

「昨日の朗読、まだ余韻が残ってる」

「……恥ずかしいよ。あんなにまっすぐ気持ちを伝えたの、初めてかも」

「でも、そういうの、好きだよ」

「っ……」

結は顔を赤くしながら、俯いて、でも笑った。

「わたしね、夢があるの。将来、心理カウンセラーになりたいんだ」

「へえ、なんで?」

「小さい頃、パパの病院につれていって貰ったことがあるの……。

 一生懸命に患者さんと向き合うパパがかっこいいと思って、はじめはお医者さんになりたいって思ってた。けどね、廊下で泣き声が聞こえたの。

病気とか怪我の痛みじゃない。不安で泣いている声。

ずっと心に残ってて…“誰かに安心をあげる人”になりたいって思ったの。

 でもね、今はもうひとつ、理由ができたかも」

「……どんな?」

「“だれかの笑顔が見たい”って思うから。

 それが、誰でも――もちろん、あなたでも」

佐野くんは驚いた顔をしたあと、少しだけ照れたように笑った。

「そっか。……じゃあ俺も、応援する。碧山さんの夢」

「ありがとう」

風が吹いた。

校門前の桜の木が、まだ青い葉を揺らしていた。



第17章 ゆれる時間、ほどけていく距離

――秋風の帰り道にて

日が暮れるのが早くなった十月。

帰り道の坂道は、少し肌寒くなってきた。

結は佐野くんと並んで歩いていた。

文化祭のあと、こうして一緒に帰るのは三度目だった。

ふたりのあいだには、小さな沈黙と、小さな会話が交互に続く。

「最近、碧山さん……なんか悩んでる?」

唐突にそう聞かれ、結は驚いて顔を向けた。

「えっ、わかる?」

「なんとなく。話してるときに、“どこかよそ見してる”って感じがあって」

「……よそ見、かぁ」

しばらく歩いたあと、結は小さく口を開いた。

「夢と恋って、ちゃんと両立できるのかな、って考えてたの」

「両立?」

「うん。わたし、心理カウンセラーになるために勉強しなきゃいけないし、

でも今みたいに、誰かと一緒にいたいって思うことが増えると、

ちょっとだけ、自分の時間がずれていくのがわかるの」

「……なんとなくわかる気がする」

佐野くんが、ポケットに手を入れたままつぶやいた。

「俺も、“もっと話したい”って思うと、

そのぶん宿題がギリギリになったり、ぼーっとして叱られたりしてるし」

「え、それはちょっと笑っちゃう」

ふたりは顔を見合わせて、くすりと笑った。

「でも……それでも俺は、今の時間、大事だなって思ってる」

「わたしも、そう思えるようになりたいな」

「じゃあさ」

佐野くんが、少しだけ視線を横にずらしながら言った。

「碧山さんが夢を諦めないなら、俺も応援するから。

だから、俺がちょっとくらい足ひっぱっても、許してね」

「ひっぱってないよ(笑) ……むしろ、前に進ませてくれてる」

その言葉は、結の本心だった。

佐野くんの存在が、今の自分に“優しい背中”を押してくれていること。

それがなにより嬉しくて、安心できた。


――その夜、リビングでのタクミとリオの会話

結が部屋で宿題をしている時間。

リビングでは、リオがアイロンをかけながらぽつりと言った。

「……結、変わってきたね」

「うん。……たぶん、“恋を知った顔”になってきた」

タクミはコーヒーをすすりながら、小さく笑った。

「でも、不安もあるみたい。夢と恋、両方うまくいくのかなって」

「誰もが一度は通る道よね。

ねえ、タクミ。あなたは、あの頃……どうだった?」

リオの問いに、タクミは一瞬だけ目を細めた。

「……夢のために、恋を諦めようとしたこともあった。

でも最後は、“その人の笑顔のために夢を叶えよう”って思ったんだ」

「それって……」

「うん。君のことだよ、リオ」

アイロンの音が止まり、リオはふっと微笑んだ。

「……なんか、ずるいな」

「え?」

「そういうこと、娘の前では絶対言わないくせに」

「……言うべきときが来たら、言うよ。

そのときは、ちゃんと“彼氏面”で話す」

「はやく来るといいね、“彼氏面”の出番」

ふたりは静かに笑い合った。

その笑顔は、遠くで宿題をする娘の背中を、そっと照らしていた。



第18章 未来を描く手紙

――進路指導シートと、結のためらい

秋も深まり、2年生の教室では進路希望調査が始まった。

担任が配った用紙には、

「将来なりたい職業」や「その理由」、

「高校で学びたいこと」などが記されている。

結はペンを持ったまま、じっと用紙を見つめていた。

「将来なりたい職業:心理カウンセラー」

それだけは、すぐに書けた。

けれど――その下にあった欄。

「夢に向かって今、あなたが考えていること・感じていること」

そこだけが、どうしても埋められずにいた。

(“今、感じていること”……?)

(……佐野くんのことも、入れていいのかな)

迷いながらも、その夜、結はノートを取り出した。

進路指導の紙とは別に、“自分のためだけの手紙”を書き始める。


未来のわたしへ

あなたは今、夢を追いかけていますか?

心理カウンセラーになりたくて、誰かの笑顔が見たくて、

“誰かの力になれる人”になりたくて、

毎日がんばっていた日を、覚えていますか?

でも、実はそれだけじゃありません。

わたしには今、好きな人がいます。

わたしの声を聞いてくれた人。

わたしに“春”をくれた人。

その人といる時間が、わたしに“生きたい未来”をくれました。

夢はひとりで作るものじゃない。

誰かと笑い合える未来を想像することも、夢の一部だと思います。

だから、どうか忘れないでください。

恥ずかしくても、怖くても、あなたは“言葉で伝える”ことができたんです。

あのとき――あなたがちゃんと声を出せたことを、誇りに思いますように。

結より

手紙を書き終えたとき、窓の外には冬の月が浮かんでいた。

その静かな光が、机の上の文字をそっと照らしていた。


その日、結は進路希望の用紙と、手紙を封筒に入れて鞄にしまった。

教室に入ると、佐野くんが窓際で席に座っていた。

本を開いていたけれど、結に気づいて顔を上げた。

「おはよう」

「……おはよう。あのね、佐野くん」

「ん?」

「将来、なにになりたい?」

「え?」

唐突な問いに、佐野くんは少し困ったように笑った。

「うーん……考え中。

でも、“誰かのそばにいられる人”にはなりたいなって、最近思う」

「……わたしも、それが夢に近いなって思ってる」

少し黙ったあと、結は言葉を継いだ。

「……じゃあ、いつか、もし道が交わったら――

一緒にその“誰か”のそばにいられる人に、なれたらいいね」

「……うん。約束、ね」

ふたりはまだ、“恋人”でも、“未来の約束”を交わす仲でもない。

だけどその一言は、たしかに“いま”を重ね合う、小さな約束になった。


第19章 届きそうで、まだ遠い場所

校内で行われた進路説明会。

高校受験まで、残り一年と少し。

会場では、有名進学校や私立の情報が飛び交い、

保護者説明資料には「学費」「施設費」「模試スケジュール」など、現実的な数字が並んでいた。

――帰り道。結は、渡された資料のファイルを抱えながら、歩く足が少し重かった。

家の玄関に入ると、リビングから母・リオの声。

「おかえり。説明会、どうだった?」

「……うん。たくさん話聞いたよ」

「疲れた?」

「ちょっとだけ。……ううん、かなり」

苦笑いして鞄を下ろすと、タクミが資料に目を通しながら言った。

「この“推薦枠”、受けてみたいって思ったのか?」

「……うん。公立だけど、心理の専門課程がある高校。

学費も少し抑えられるし、実習もたくさんあって、わたしには合ってると思った」

「なるほどな。……じゃあ、成績と内申点、しっかり取っていかないと」

「……やっぱり、難しいかな」

ポツリとこぼした言葉に、リオは手を止めて娘を見た。

「なにが“難しい”って思ったの?」

「進学するだけで、こんなにたくさんのお金や手続きが必要で、

なんだか夢って、ちゃんと“計算”が必要なんだなって思って……

ちょっとだけ、怖くなった」

その言葉に、リオはそっと微笑んだ。

「結、あなたはよく頑張ってるよ。

夢って、たしかに現実とぶつかるけど――

でもね、それでも“叶えようとする姿”は、わたしたちにとって誇りなの」

タクミも頷いた。

「金のことは親の仕事。

お前は、“進みたい道”をちゃんとまっすぐ見てろ。

それが、俺たちにとっていちばん嬉しいんだから」

結は目を伏せて、小さく頷いた。

その夜――

机に向かって問題集を解きながら、結は心の中でそっとつぶやいた。

(ありがとう、ママ。ありがとう、パパ。

わたし、負けないよ)


週明けの教室。

放課後、結が帰り支度をしていると、佐野くんがぽつりとつぶやいた。

「俺、迷ってるんだ。進路」

「……え?」

「親が言う“これからの選択”と、自分がしたいことと、ちょっと違ってて」

「したいこと、って?」

「実は……まだ決まってない。けど、音楽の道に興味があるんだ。

小さいころ、ギターを弾いてた父親の影響で。

でも、現実的にはそれじゃ食べていけないって、ずっと言われてて」

結はしばらく黙っていたが、ゆっくり口を開いた。

「……夢って、“効率”じゃ測れないよね。

でも、誰かに否定されると、それだけで消えそうになる」

「うん。まさに、そんな感じ」

「……わたし、佐野くんの音、聴いてみたいな」

佐野くんは少しだけ目を丸くしたが、ふっと笑った。

「じゃあ、今度弾いてみようかな。

文化祭ぶりに、誰かの前で」

「うん、楽しみにしてる」

ふたりの言葉は少なくても、その間には、ちゃんと通じるものがあった。

夢と現実。

それぞれに揺れながらも、誰かがいるだけで――前に進める気がする。


ある日の放課後。

廊下の窓から射し込む冬の西日が、長く伸びていた。

結は、佐野くんと約束した通り、音楽室の前に立っていた。

ドアの向こうから、まだ調律前のギターの音が不安定に響いている。

(ほんとうに……弾いてくれるんだ)

ドアをそっと開けると、彼は背を向けて、ギターを抱えていた。

「……来たんだ」

振り返らずに、でも彼は結の気配を察していた。

「うん。約束だったから」

彼の背中越しに見える窓の外は、もうほとんど夕暮れだった。

「ちょっと、緊張してるけど……弾いてみるよ」

「……うん」

深呼吸のあと、ギターの音が、静かに空気を震わせる。

コードはまだぎこちなく、でも真剣だった。

何度か音を間違えたけれど、それでも止まらず、最後まで弾き切った。

「……どうだった?」

演奏が終わると、彼はようやく結を振り返った。

「……すごく、あったかかった。

不器用だけど、ちゃんと届いてきた」

「それって、褒めてる?」

「もちろん。……佐野くんの音は、やさしいね」

ふたりの間に、しばしの沈黙が流れる。

けれど、それは心地よい間だった。

やがて、佐野くんがふいに笑った。

「なんか……俺、ちゃんと夢を見てもいい気がしてきたよ。

音楽、もっと勉強してみようかなって」

「うん、いいと思う。

きっと、その音が誰かを助けることもあると思うから」

「ありがとう」

彼の声は、どこか安堵に満ちていた。


翌週の日曜日。

ふたりは待ち合わせて、駅前の小さなカフェへ向かった。

「……これ、デート、なのかな」

歩きながら、ふいに結がつぶやくと、佐野くんは少し戸惑ってから答えた。

「たぶん、そうかも。……でも、“初めて”って、全部ぎこちなくて当たり前だよな」

「うん……でも、なんか悪くないかも」

カフェでは、温かいココアと紅茶を注文し、

進路の話、好きな音楽、苦手な科目の話で、ゆっくり時間が過ぎていった。

「ねぇ、佐野くん」

「ん?」

「また、音楽室で弾いてくれる?」

「いいよ。次は、ちゃんと練習してからね」

「じゃあ、わたしも何か準備していく。……詩とか、手紙とか」

「いいね。音とことば。……なんか、いい組み合わせかも」

店の窓の外では、街路樹が風に揺れていた。

その音すらも、今は音楽のように思えた。


12月初旬。

期末試験が終わり、少しほっとした空気が校舎に漂うころ。

夕暮れ前の音楽室には、結と佐野くん、ふたりだけの空間。

「じゃあ……いくよ」

佐野くんがギターを弾き始める。

ギターの音は、秋よりずっと安定していた。

コードは滑らかに繋がり、リズムも正確になっていた。


それに合わせて、結がポケットから一枚の紙を取り出す。

そこに書かれていたのは、結が夜な夜な書いた“詩”だった。

――誰かの声に、背中を押された

あたたかい音が、冷たい冬に触れて

目を閉じたままでも、涙が出るほどやさしかった

わたしは、知っている

誰かの夢が、誰かの居場所になることを

だから、信じたい

あなたの音も、わたしの言葉も

誰かの明日を照らすということを

佐野くんの音と、結の言葉が重なる。

たったふたりの、たった一度の、小さな演奏会。

演奏が終わったとき、音楽室は静寂に包まれた。

窓の外の冬空には、うっすらと雪の気配。

その白さを眺めながら、結がぽつりと呟く。

「……ねえ」

「ん?」

「手……つないでも、いい?」

一瞬の沈黙。

でも次の瞬間、佐野くんの温かい手が、そっと結の指を包み込んだ。

「……うん。あったかい」

「ほんとだ。……こんなに手って、やわらかいんだね」

指と指が触れるその感覚に、言葉はいらなかった。

音と言葉を重ねたあと、やっと心が触れ合えた気がした。


結が部屋で日記を書いているころ。

リビングでは、リオとタクミが静かに話していた。

「――決めたの。仕事、辞めるって」

「……本気か?」

「うん。結の受験費用や進学の準備は貯めてあるし、

正直、体がもたないって思った」

リオの言葉は、決して弱音ではなかった。

その目には、母としての強さがあった。

「タクミ。あなたが支えてくれてるから、わたしはここまでやってこられた。

でもこれからは、“見守る”っていう形で支えたいの」

タクミは一度目を閉じ、そして頷いた。

「……わかった。俺も、結の未来をちゃんと守る」

「ありがとう」

その夜、ふたりは久しぶりに、並んでココアを飲んだ。

どんな困難が来ても、この家は、夢を諦めない家でありたい。

そんな思いが、ふたりの胸に静かに灯っていた。


第20章 雪の記念日

――12月24日・放課後の公園にて

冬休み初日、街はクリスマス一色。

商店街にはツリーが飾られ、通りには甘いチョコと焼き栗の香りが流れていた。

午後4時すぎ、結は薄いピンクのマフラーを巻いて、公園のベンチに座っていた。

手には、そっと包んだ小さな箱。

(冷たくないかな……ちゃんと、使ってくれるかな)

そんなことを思っていると、後ろから「お待たせ」と声がした。

佐野くんが、黒のコートを羽織り、ギターケースを背負って立っていた。

「ううん、全然。……メリークリスマス」

「メリークリスマス」

ふたりは、ベンチに並んで座る。

「……はい、これ」

結が差し出したのは、小さな手袋。

編み目は少し不揃いで、タグもついていない。

けれど、指を入れるとやわらかく、手のひらにぴったりだった。

「これ……作ったの?」

「うん、不器用だけど……あったかくしてほしくて」

「すごいな。俺なんて、既製品だけど」

佐野くんは、自分のリュックからひとつのUSBメモリを取り出した。

「これ、曲にしたんだ。あの日の詩を、もらった言葉を、俺なりに形にしてみた。

コード譜と、録音したやつ。あと、メッセージも入ってる」

「ありがとう……大事にする」

結は受け取ったUSBを握った手をしばらく胸に置いていた。

そのあとの時間は、ゆっくり流れていった。

ふたりで缶ココアを飲み、イルミネーションを見ながら歩く。

そして、公園の出入り口で足を止める。

「……今日は楽しかったね」

「うん。ずっとこうしてたいなって、思った」

「……でも」

結の声が少し小さくなった。

「来年、受験があって、進路があって。

どこに行くのか、どこまで一緒にいられるのか、正直……不安なんだ」

「……」

佐野くんは一瞬、言葉を探した。

けれどすぐ、まっすぐな声でこう言った。

「俺は、どこにいても――結のこと、忘れない。

たとえ会えなくなったとしても、今日みたいな日を、絶対思い出すと思う」

「……それって、ちょっと、さみしい言い方だよ」

「ごめん。でも、だからこそ――この時間をちゃんと、忘れないようにしたい」

言葉の間に、冬の風が吹いた。

そしてふたりは、手をつないだ。

誰かの未来を完全に保証することはできない。

だけど“今このとき”を、確かに抱きしめることならできる。

ふたりの手は、その冷たい風の中でも、ずっと離れなかった。


――始業式の朝

冬休みが明けた1月。

新学期の空気は、どこか寂しげで、同時に張り詰めたものだった。

結は制服の襟を整えながら、鏡に向かって小さく息を吐いた。

(あと、100日)

その数字が、やけに現実味を帯びて迫ってくる。

同じ制服を着るのも、同じ教室に通うのも、あとわずか。

「行ってきます」

「いってらっしゃい。気をつけてね」

リオの声が、台所から届く。

タクミも、新聞を畳みながら目を上げて微笑んだ。

「進路面談、今日だろ。……後で行くから、ちゃんと気持ち整理しとけよ」

「うん」

結はいつもより少し長く、玄関で立ち止まり、靴ひもを結び直した。

小さな覚悟を、胸に抱えて。


担任との三者面談。

志望校は、前に話した「心理専門の公立校」。

しかしその後、結の提出書類にはもうひとつ別の校名が書かれていた。

「ここ、音楽科も併設してる私立ですね? 結さん」

「はい。……迷ってたんですけど、もう一度見に行って、自分の足で歩いて決めました」

「ご両親とも相談して?」

隣でリオとタクミがうなずいた。

「はい、本人がどうしても、と。

そして、その理由をちゃんと私たちに話してくれたので」

担任は、静かに頷く。

「わかりました。結さんの努力なら、どちらでも合格は狙えるはずです。

推薦書類、責任を持って書きますね」

その言葉に、結は目を伏せて、小さく「ありがとうございます」と言った。


面談のあと、佐野くんといつもの音楽室へ。

「……面談、終わった?」

「うん。無事、志望校決めたよ」

「そっか。俺も、なんとか推薦通りそう。……公立の商業高校。

音楽とは別だけど、こっちでやりながら、夜間に音楽も続けるつもり」

「……うん、偉いね。ちゃんと現実も見てる」

「……それ、褒めてる?」

「もちろん」

ふたりは並んで、窓から差し込む淡い光を見つめた。

「ねえ、佐野くん」

「ん?」

「春、もし別々になったらさ……わたしたち、どうなるんだろう」

「……」

少し沈黙が流れたあと、佐野くんは結を見た。

「答え、今すぐじゃなくていい?

俺も、まだ自分の気持ちを全部言葉にできないから」

「うん、いいよ。……わたしも、たぶん同じだから」

ふたりの影が、窓に細く伸びていた。

今はまだ、はっきりと名前のつかない想い。

けれど、それがたしかにここにあることだけは、わかっていた。


――2月、受験結果の朝

その朝、結の手には白い封筒が握られていた。

私立音楽科の合否通知。郵便受けに差し込まれていたそれを、彼女は胸の前に抱いていた。

(開けるの、こわいな)

リビングに入ると、リオが朝食を並べながら振り向いた。

「……届いた?」

結は無言でうなずく。

タクミも新聞をたたみ、黙って見守る。

結は深呼吸を一つして、封を切った。

数秒後――

「……合格、してた」

「――!」

リオが手を口にあて、瞳を潤ませた。

「よかった……ほんとうによくがんばったね……」

タクミも、ただ「よし」と一言だけ言って、背を向けたまま肩を揺らしていた。

誰もが、彼女の努力を知っていた。

だからこそ、その一言の重みがすべてだった。


結は、駅へ向かう途中の交差点で立ち止まった。

いつもならそのまま帰るはずだったが、今日は違った。

携帯を取り出し、佐野くんにメッセージを送る。

「会いたい。少しだけ、話せる?」

返信はすぐに来た。

「今、向かってる。ちょうど、伝えたいことがあったんだ」

赤信号の向こうに、佐野くんの姿が見えた。

彼もまた、制服のポケットに何かを握っていた。

信号が青になり、ふたりは中央で出会う。

「合格、おめでとう」

「ありがとう。……佐野くんも、どうだった?」

「俺も、通ったよ。商業高校、推薦で。音楽も続けられそう」

「よかった」

しばしの沈黙。

けれどその静けさを破ったのは、佐野くんの言葉だった。

「ずっと、考えてた。進路のこと、音楽のこと……そして、結のことも」

「……うん」

「離れるのが怖いって思ってた。

でも、たとえ距離があっても、俺たちは――つながっていけるって信じたい」

「……わたしも、同じこと思ってた。

不安もあるけど、でも今なら――ちゃんと伝えられる気がする」

結は、そっと手を伸ばした。

「……わたし、佐野くんのこと、ずっと好きだった。

最初は笑顔に惹かれた。でも今は、それだけじゃない。

あなたが夢に向かって真っ直ぐな姿も、

時々不器用なとこも、全部……好き」

佐野くんは一瞬、目を伏せたあと、顔を上げる。

「俺も、結のことが好きだ。

だから、離れても、終わらせたくない。

少しずつでもいいから、これからも一緒に歩いていきたい」

交差点の中央。

周囲の騒がしさが嘘のように遠ざかって、

ふたりの影だけが、ゆっくりと重なった。


――3月、卒業式の朝

制服のボタンを留めながら、結は鏡の前で一度深呼吸をした。

リビングに下りると、リオが静かに声をかけた。

「……もうそんな日なんだね」

「うん。でも、不思議と、あんまり泣きたくないんだ」

タクミは、朝刊をめくりながらも顔を上げる。

「泣くのは自由だ。だけど、お前はきっと笑って帰ってくる気がする」

「……うん」

結は玄関のドアを開け、靴を履いて、振り返った。

「行ってきます。今まで、ありがとう」

リオは小さく頷き、タクミも「いってらっしゃい」と静かに背を押す。


校歌が流れ、卒業証書が一人ひとりの手に渡される。

担任の最後のメッセージは、涙をこらえながらの言葉だった。

「皆さんがくれた時間は、私の宝物です。

でもそれ以上に、皆さん自身が、これからの世界にとっての宝物だと信じています。

――卒業、おめでとう」

拍手の中、結は何度も瞬きをしていた。

「……泣くもんか、って思ってたのに」

隣の佐野くんも、目を少し赤くしていた。

「泣くなって言っても、無理だよ」


――卒業式後:中庭にて

ふざけたり大声で笑いあう男子たち。

寄せ書き帳を抱えた女子たち。

カメラのシャッター音があちこちで鳴る。

結と佐野くんは、人気の少ない中庭で顔を合わせた。

「……ねえ、最後に」

結がポケットから小さな封筒を出す。

「これ。私の想いを描いた詩。あなたに受け取ってほしいの」

佐野くんは、それを静かに受け取った。

「ありがとう。俺も、これ」

差し出されたのは、一冊のスケッチブック。

「音楽のこと、これからも形にしていきたい。

でも、歌詞だけじゃ足りないから、最近は絵も描き始めてさ。

その中の最初のページ、結のことを描いた」

結は少し驚いた顔でページを開く。

そこには――

中庭で、詩を読む少女の姿が、やわらかな鉛筆のタッチで描かれていた。

「……似てる」

「だろ?」

ふたりは笑う。

「ねえ、春からも、また会えるよね?」

「もちろん。すぐにじゃなくても、絶対また――会いに行くよ」

結はそっと、彼の手に触れた。

「そのとき、また一緒に音楽、しよう」

「うん。……約束」


家に帰る途中、結は一度だけ、校舎を振り返った。

風に揺れる桜のつぼみ。

まだ咲ききらないその姿が、自分たちのようだった。

きっとこの先も、不安や迷いはある。

でも、確かなものもちゃんとある。

支えてくれた家族。

共に歩いてくれた誰か。

過ごした日々、残した音、交わした言葉。

(さようなら。……そして、また会おう)

結は、もう一度だけ目を閉じ、深く息を吸って、歩き出した。


最終章:再会

――5年後の春・とあるライブハウスにて

小さな地下のライブハウス。

照明の落ちたステージに、チューニング音が静かに響く。

客席の最前列には、髪を後ろでまとめた女性がひとり。

結。21歳。短大の音楽科を卒業し、今は心理カウンセラーとして働く傍ら、休日は詩と歌を紡いでいる。

この日、ある人から招待メールが届いた。

《良かったら、来てください。

 “あの時の歌”、少し形になったので》

差出人は――佐野遙サノ ハルカ

5年ぶりに届いた、あの人の名前だった。


――開演

ステージの中央に立つ青年は、以前より少し背が伸び、骨格がしっかりしていた。

でも、ギターを構えたときの姿勢は、どこか昔のままだった。

マイクに向かい観客へ挨拶が続く。

「……今日、最初に歌う曲は、

5年前――ある人にもらった言葉から生まれました」

客席の結と、一瞬だけ視線が交わる。

「“音にならない想い”という曲です。

 どうぞ、聴いてください」

ギターの静かなアルペジオから始まるイントロ。

そして、佐野の低く柔らかい声が乗る。

 見えない距離に 手を伸ばした

 交差点の向こう側 君がいた

 泣きそうな春を 笑って越えて

 僕たちは それぞれの道を歩いた

結は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。

あの卒業の日、言葉にした想いが、今ここに旋律として再び蘇っている。


――終演後

客席の照明が戻る。

観客が拍手とともに帰っていくなか、結は最後までその場に残っていた。

佐野がステージ裏から出てくると、互いに一歩ずつ近づく。

「……来てくれて、ありがとう」

「すごく、よかった。……ほんとに、音楽、続けてたんだね」

「君のおかげだよ。……あの詩、今でも持ってる」

「……わたしも、あのUSB、ずっとしまってある。

たまに、再生して聴いてる」

ふたりの視線が合う。

「ねえ、蓮くん」

「うん」

「今なら……一緒に“歌”にできる気がする。

わたしの“言葉”と、あなたの“音”で」

佐野は、一瞬息をのんだあと、頷いた。

「じゃあ、今度は――一緒に、ステージに立とう」

結は、やわらかく微笑んだ。

「うん。……今度こそ、隣で」

ライブハウスの外に出ると、春の風がふたりを包んだ。

駅までの道を、並んで歩く。

それは、かつての中学生のふたりとは少し違っていた。

けれど、ずっと夢見ていた“並び方”だった。

もう迷わない。

もう、後悔しない。

未来はきっと、過去の延長線上にあるのではなく、

今日という“再会”の瞬間から、また新しく生まれていく。

やがてふたりは、夜の空に浮かぶ街灯の下、

音もなく、そっと手を繋いだ。

音があるかぎり、想いは届く。

そして、物語もまた――静かに続いていく。

追章:やさしい午後にて

――とある地方の海辺の町

小さな平屋の縁側で、陽の光を浴びながらひとりの老婦人が椅子に腰かけていた。

白髪をふんわりと結い、軽やかなリネンのブラウス。

リオ――かつて明るく、誰よりも強かった少女は、今もどこか面影を残したまま、穏やかな時間を過ごしていた。

庭先には春の花が咲き、そよ風がカーテンをゆらす。

その中で、ゆっくりと縁側に現れるもうひとつの影。

「……あぁ、今日はよく晴れてるな」

痩せた身体をいたわるようにして歩いてきた老人が、にこりと笑う。

タクミ。

真っ直ぐだった背は少し丸まり、歩みも遅くなったが、その目には今も少年のような芯の強さがあった。

「おかえり、検診どうだった?」

「医者に“医者のくせに身体は雑”って怒られたよ。まったく」

「ふふ、それ、昔から言われてたじゃない。

あんた、全然休まないから」

ふたりは縁側に並んで座る。

言葉少なに、同じ海の方を見ている。

「……ねえ、タクミ」

「うん?」

「あなた、後悔してない?」

「何を?」

「全部よ。夢を叶えるために、ずっと無理してたことも、

あたしに甘えてくれなかったことも、結を一人前に育てたことも……」

タクミはしばらく沈黙し、目を細めた。

「正直、途中で壊れそうになった時期もあったよ。

でも、リオがいたから、俺は踏みとどまれた」

「……」

「お前が笑ってくれると、世界が少しだけ明るくなった。

それだけで、また次の日も働けた」

リオは、そっとその手に自分の手を重ねた。

「もっと、甘えてくれたらよかったのに」

「いや、今こうして、何も背負わずに並んでいられるだけで、

それが何よりの“甘え”だと思ってるよ」

ふたりの手が、そっと握られる。

そのとき、郵便受けからポストの音が聞こえた。

リオがゆっくりと立ち上がり、手紙を手に戻ってくる。

「……結からだよ。東京の公演、また観に来てって」

「また行くのか?」

「うん。だって、うちの自慢の娘だもの。

詩人になって、曲作って、本まで出して……あんたそっくりよ、頑固で真面目で」

「はは、それは母親譲りだろう」

ふたりは顔を見合わせて笑った。

そして、リオはポストカードの裏に書かれた文字を読み上げる。

『またふたりで来てね。今度はステージの上から、

お母さんとお父さんに“ありがとう”って歌うから』

タクミは目を細めたまま、うなずく。

「じゃあ、それまで元気でいないとな」

「うん、一緒にね」

日が傾き、縁側の影が長く伸びる。

ふたりはその影の中、何も言わず並んで座っていた。

この静けさが、宝物だった。

かつて、戦いのような日々を過ごしたタクミ。

それを支え、寄り添い続けたリオ。

今ようやく手にした、“何もない午後”。

ふたりの時間は、まだ終わらない。

それはもう“老い”ではなく、

人生の最後に残された一番やさしい旋律だった。


― 終 ―



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