7)上司・小田切の告白
ギャラクシーコーポレーションから内定を通知された竹本かほりは、6年間勤めた会社を退職するべく上司の小田切に意向を伝えた。その面談で、小田切から思わぬ告白を聞くことになった
かほりは約6年間勤めた会社に辞表を提出した。「人並みの生活さえできれば贅沢は言わない」という思いはいつしか小さくなり、「より刺激的な職場で働きたい」という思いが強くなっていた。上司の小田切からは引き止めこそ無かったが、退職の理由については様々な角度から聞かれることになった。
「竹本さん、驚きましたよ。とにかく安定した仕事が出来ればいいって仰ってたから。ウチの会社は経営も安定しているし、待遇面では大きな不満を与えてはいないと思っていたからね」
「仰る通り待遇面に不満はありません。6年間楽しくお仕事させて頂いて感謝してます」
「じゃあ、何故辞めるんだね?これまで通り続けたらいいじゃないですか」
「ええ、まあ、なんか新しい会社を見たくなったので」
「次はどういう会社に行くの?」
「ギャラクシーコーポレーションという会社です」
「ああ、あの飛ぶ鳥を落とす勢いの新しい会社ですね。インターネット通販の」
「はい。そうです。社風もユニークな会社なので面白そうだなと」
「なるほどねぇ。まあ、ウチは古い体質が残っている会社だからなぁ」
小田切は友好的な雰囲気で当たり障りのない話をしていたが、少しトーンを変えて次の質問をぶつけてきた。
「先日退職された高田さんの件は何か影響ありますか?」
「影響、ですか?いや特に無いです」
「あの一件についてどう思われますか?」
唐突な質問に、かほりは戸惑った。
「いや、私は特に。高田さんには高田さんの人生がありますから」
「竹本さんも含め、女性社員の皆さんが何も思わないってことは無いでしょう。皆さん不自然に無関心を装っていらっしゃるから」
「今回の私の退職とは関係ない話だと思いますけど」
「いや、むしろ退職されるからこそ、ご意見をお伺いしたいんですよ。もう何を言っても大丈夫なんだから」
かほりは意外な展開に戸惑っていたが、小田切の言う通り、既に退職を宣言している以上、何を言おうがリスクは無い。しかし、だからといって大放言してしまうのも考えものである。転職エージェントの人からもなるべく円満退職を心がけるよう言われているし。
「あの件については私も申し訳なく思っています。色々と戦ってはみたのだけれど、私の力では如何ともし難かった」
「えっ、密かに反対されていたんですか?」
「ええ。普通に考えたらあんな人事異動あり得ないですよ。当事者のモチベーションが上がるわけないし、受け入れる方だって困るもの。だから高田さんが情報システム部に異動するっていう話が会社の上から下りて来た時は猛反対しました。絶対ムリだってね」
小田切からの意外な告白に、かほりはさらに戸惑ってしまった。こんなデリケートな話を、いくら退職するとはいえ、部下に暴露してしまって良いのだろうか。
「まあ、確かに会社側のキャリア開発っていう説明にはムリがあるなとは思いましたけど。高田さんが標的にされたっていうのは、やはり3回産休を取ったからですか?」
「おそらくそうでしょうね」
「おそらく、ですか」
「私の方にも明確な理由の説明が無いんですよ。上層部からは。キャリア開発っていう話だけが下りて来た。そこで私の方からはそんなんじゃ説明がつかないって反対したわけですよ」
「なるほど。小田切さんもお立場上、大変だったでしょうね」
「要するに、私も高田さんや竹本さんと同様に何かおかしいって感じてたわけです。昭和の時代とは違って、もはや女性を差別する時代ではない。そんなことを続ける方が会社にとって損だという気持ちはずっとありました。だから、私の立場なりにできること、変えられることは変えていこうと」
小田切はかほりの退職理由を確認するという以上に、高田の一件について抑え切れない胸の内を、他の誰かに共有したかったのだろう。かほりは小田切の話を上司としてではなく、一社員の言葉として、対等な気持ちで聞くことが出来た。
「私はねぇ、労働組合にも一応手は回したんですよ。社員が会社に手っ取り早く対抗するとしたら、労働組合を活用するのがいい。一応法的にも交渉権が認められているし、第三者的に介入してくれることで、事態が好転することだってあり得る」
「労働組合って、そんなに力持ってるんですか?少なくとも私が入社してからは頼もしいって感じたことないですよ。なんか、たまに飲み会とか行事を主催してるだけで」
「確かに竹本さんたちにはそう見えてしまうでしょうね。かつては力を持っていた、というか、本来ならば発揮できる力を持っているはずの存在というべきかな」
「ということは、労働組合は本来ならば高田さんを守れたはずということですか?」
「そうです。会社もその権限をよく知っているが故に、労働組合を骨抜きにするという戦略を取っているんです」
「なんか、それは聞いたことがあります。やっぱりそうなんですか?」
「はい。ほぼ間違いありません。私も高田さんの件で委員長と話してよくわかりました。どのようなやり方かはわかりませんが、委員長と人事部長とはツーカーに近い仲です。おそらくツーカーな関係になることと引き換えに、歴代委員長になる社員に何らかの厚遇を用意しているのでしょう。人事評価を考慮するとかなんとか言って」
「へぇ。なんかお金を使わない買収って感じですね」
「委員長といえども、一社員ですからね。高田さんのようなケースの内側を知れば知るほど、仮に自分が会社に楯突いたら、同じような目に合わされるというシミュレーションが出来てしまう」
「小田切さんのように、これからは女性を差別するのがナンセンスだという考えの方は上層部にはいらっしゃらないんですか?」
「いや、いるとは思いますよ。それなりの数ね。でもね、会社の慣習を変えるというのはそう簡単じゃないんですよ。上司が部下に対してこんなこと言うのは情けないけど」
「何がそんなに難しいんですか?」
「変わるということはエネルギーがいるんですよ。そして、組織を変えるということは変わるエネルギーに加えて、変わることに反対する人たちをねじ伏せるというこれまた大きなエネルギーが必要なんです。当然失敗した時のリスクだってある。総合的に考慮したら、変わらない方がリスクも無いし、ラクということになる」
一連の話を聞いてかほりは、自分が仮にこの先もこの会社に残った時のことを想像した。誰かと結婚して妊娠し、産休を取ると会社からマークされ、少しずつ隅っこへ追いやられていく様を想像した。会社に貢献できるかできないかという指標ではなく、「この会社の慣習だから」というわけのわからない理由により、望まない場所に追いやられてしまうのである。薄気味悪い虚無感が、かほりの心を支配した。
「話がだいぶ逸れちゃいましたね。元に戻して、再度聞かせてもらうと、退職の理由に高田さんの一件は影響ありませんか?」
「正直に申し上げると、ある程度は影響あります。一番の理由ではないですけど、転職の決意を後押しするものではあったと思います」
「そうですよねぇ。大丈夫。これについては人事部には上げません。あくまでも私の胸の内に留めておきます。竹本さんの退職の手続きにも一切の影響が出ないことを約束します」
「でも、私にこんなにぶっちゃけてしまって大丈夫なんですか?小田切さんにもお立場というものがあると思いますから」
「ええ。大丈夫ですよ。私も先日退職願を会社に出したところなので」
「えっ、小田切さんも会社辞めちゃうんですか?」
「私もこの会社にずっと居続けるべきかどうか、ずっと自問自答してました。偶然、良い転職のお話を頂いたので、思い切って決断しました。高田さんの一件で何もできない自分にも腹が立ったし、ああいうことを容認している組織の一員で居続けることも嫌だったし」
「そうなんですか!かなり驚きました」
「そこで、辞めるからできること、高田さんのような悲しい思いをする人が少しでも減らせるよう、何らかの形で内部告発できないかなと。骨抜き組合の話とかね。会社の内側にいるままではリスクが大きすぎるのでね」
「小田切さん、そんなことして大丈夫なんですか?」
「いまはインターネットの時代ですよ。手段なんかいくらでもある。時代は変わってるんだということを上層部に教えてやるんです」
かほりは熱く語る小田切を見て、まだまだ世の中は捨てたものではないと感じた。
小田切はトーンを少し冷静な方向に変えて、かほりに忠告を始めた。
「竹本さん、ウチの会社以上に変な会社も世の中にはたくさんあります。この機会に教えておきます。会社に何か理不尽な目に合わされた時、間違っても会社とは戦わないことです」
「戦うとどうなるんですか?高田さんみたいに泣き寝入りしろってことですか?」
「戦えないことはないんだけど、仮に勝てたとしても、途方もない時間とエネルギーが必要になるからです。過ぎた時間は二度と返ってこない。だから戦う時間とかエネルギーがあるんだったら、それは転職活動に割いた方がいい。理不尽な目に合わされた時の一番の解決策はさっさと会社を辞めることです。切り替えて次に行くこと。そして普段からそうできるように準備しておくことです」
「なるほど」
「高田さんのような、理不尽な形で追い込まれていった人たちに欠点があるとしたら、会社を辞める度胸が無かったことです。いつか誰かが助けてくれるかもしれない、辞めずに留まれるかもしれないと錯覚したことです。そして辞められる準備を普段からしていなかったことです。酷な言い方になってしまいますが、自分の身を守れるのは自分自身しかいないということなんです」
かほりは思わぬ話を聞かされ、唖然とした。
「その話を高田さんにもされたんですか?」
「いいえ。私が協力出来たのは時間稼ぎだけですよ。私の立場でヘタに転職を奨めると、退職勧告と受け取られてしまう可能性がありましたから。でもその時間稼ぎも人事部に気づかれてしまって、ある時から私が面談の場に同席できなくなってしまった」
小田切は目を閉じて、その時の無念を思い出しているようだった。
「竹本さん、自分のキャリアは自分の力で築き上げていってください。私が出来るアドバイスはこれくらいしかありません」
「ありがとうございます。小田切さんこそ、次の会社でも頑張ってください」
「そうだ。竹本さんが移られるギャラクシーコーポレーションという会社、かなり個性的でしょう?いわゆる日本の伝統的な会社の常識とは対極にある会社らしいですから。くれぐれも慎重にね。噂ベースの話ですけど」
小田切との面談は終わった。かほりは6年勤めた会社を去った。