5)Unwritten rules -女性社員が産休を取得するということ-
ギャラクシーコーポレーションとの面接を終えた竹本かほりは、せっかく手に入れた夢を手放そうと決意していた。そのきっかけは会社内に密かに存在するUnwritten rulesであった
翌日、かほりは昨日の面接を思い返して、あることに気が付いた。5人の面接官は誰一人として、転職理由に関する質問をしてこなかったのである。とにかく9つの社員心得に沿って行動できるかどうかだけをしつこく確認してきた。採用する側が気にしないのであればそれはそれで良いのだが、冷静に考えると不自然であり、少々気味の悪い感も拭えなかった。
そもそも、かほりが現在の会社から移ることを考え始めたきっかけは、とある漠然とした不安が原因であった。
「産休を取得した女性社員は、遠回しながら確実に不利な扱いを受ける」
「この会社は主力部署に女性の正社員を置かない方針だ」
「女性の正社員はある一定の給与水準に達すると、在籍年数がいくら長くてもそれ以上は昇給できない」
新卒入社して何年か経過した頃、かほりが社内で耳にした妙な噂である。
もし単刀直入に会社の人事部に問いただしたら、当然ながら真っ向から否定するであろう。
商社という業態は、取り扱う商品が複雑多岐に渡る。そして国境を越えて取引が交わされる。さらに取引先として付き合う国も、いわゆる先進国よりも圧倒的に発展途上国が多い。例えば、治安の良くないアフリカや中南米への国々にも、ビジネス上必要とあらば出張しなければならない。人事異動の展開によっては駐在もしなければならない。中東の諸国もまだまだ男性上位の社会である。世界にはまだまだ独裁国家も存在している。北欧諸国のように女性の社会進出が当たり前な国などまだまだ少数派なのである。
海外出張や駐在などと聞くと、テレビの旅番組を見るかのごとく「仕事とはいえ海外へ行けて羨ましい」とか、「会社のお金で良いホテルに泊まれるなんて」などと羨望の眼差しを向けられることが多いが、現実は決してそうではない。日本では非常識とされるような商習慣や言語・文化の違い、さらには取引にまつわるリスク、為替相場の変動、貿易に関する規制、時には政治体制の急激な変化など、多くの不確定要素を前提に「いかに儲かる商売を作り上げるか」に地道に取り組まねばならない、極めて泥臭い仕事なのである。
詰まるところ、女性の社員にとってはリスクの高すぎる職務を避けて通れないのが商社という業界であり、その職務を担当するのもどうしても男性中心になってしまうという組織構造なのであった。このような組織において、女性の活躍する場所はいわゆるバックオフィス、経理や財務といった管理部門になってしまう。かほりの所属している情報システム部もその中の一つであった。そして、その「線引き」を可視化するかのように女性社員のみ、会社で指定された制服の着用が義務付けられていた。
商売の最前線を担う営業部署には女性の正社員は一人もいなかった。過去に何人か、語学の堪能な社員が異動を希望したケースもあったそうだが、希望が通ったことは一度も無かった。その際の会社側の説明は決まって、「会社として最適な人員配置を勘案した末の決定である」というものだった。
バックオフィスの部隊でも女性社員たちの不満が静かに高まりつつあった。管理職は原則全て男性であった。明らかに優秀な女性社員がそれなりの結果を出し、社内で表彰もされ、周囲からも昇格が噂されるほどのレベルであっても昇格が実現することは無かった。その際の会社側の説明も「会社として最適な人員配置を勘案した末の決定である」というものだった。在籍年数の長い女性社員たちは「最適な人員配置」という耳障りこそ良いが、基準の不明確な、極めて定性的な説明を繰り返されるうち、会社上層部の「秘めた意図」を何となくではあるが、感じ取り始めていた。
女性のキャリアにおいて結婚と出産は大きな影響を与えるライフイベントであるが、特に産休の取得について、かほりの勤務する会社は静かに神経をとがらせているようであった。産休の取得自体には特に障害はない。必要な手続きさえ完了すれば取得できた。しかし、取得後復帰した女性社員には望む望まざるに関わらず、一定の期間を置いて必ず人事異動が行われた。男性社員にも転勤や異動は一定期間でそれなりにある会社ではあったが、かほりの勤務する会社では、産休を取得した女性社員に例外措置は無かった。会社の労働組合がこの件を問題視し、公式な形で会社側に説明を求めたが、会社側の回答は「通常のジョブローテーションであり、男性女性に関わらず、社員に多面的なキャリアを形成していってもらいたいがための措置である」ということで、説明の最後には「会社として最適な人員配置を勘案した末の決定である」とお決まりの文言が付け加えられていた。
決定的な事件があった。
3年連続で産休を取得した、在籍年数が10年を超える、ある女性社員が復帰後、経理部からかほりの所属する情報システム部に異動を命じられた。当該の女性社員はたまりかねて、労働組合経由で次のように会社に説明を求めた。
「私は入社以来ずっと経理畑で勤務してきました。なので、情報システム部での業務に必要な専門的なITリテラシーを持ち合わせていません。そのことについては自分の上司も承知しているはずであり、情報システム部も極端な欠員状況でないと聞いています。ジョブローテーションといっても、あまりに畑違いの部署への異動は負担も大きく、キャリア形成の点でも簡単に理解・容認できないものです。説明を求めます」
勇気ある行動であった。しかしながら、会社側の回答はまるで老獪な官僚の答弁のように毎度同じ説明の繰り返しであった。
「今回の異動はあくまでもジョブローテーションの一環である。営業畑であろうが、経理畑であろうが、これからの時代はITというものを避けて通ることはできなくなると考えている。たとえ畑違いであっても取り組む意欲さえあればキャリア開発に不可能は無いと考えているし、是非その模範社員たる役割をお願いしたい。基本的なスキルの習得についても会社は支援を行う。情報システム部は確かに欠員の状況ではないが、かといって潤沢な状況でもない。会社として最適な人員配置を勘案した末の決定である」
結局その女性社員は辞令に従い、異動した。しかし、半年ほど経過したのち、会社から次のような声明が発せられた。
「業務の効率化、人員配置の適正化をさらに推し進めるべく、このたび情報システム部にて希望退職を募ることになった。経営方針に賛同・協力をしてくれた社員に対しては、当然ながら退職金の割り増し等、可能な限り対価を支払う用意がある」
かほりも驚いた。少なくとも自分が知る限り、会社全体の業績は悪くない。むしろ年々伸びている方だという認識である。また情報システム部の果たす役割も大きくなることはあっても小さくなることはあり得ない。社内のITインフラはペーパーレス化がどんどん進み、以前よりも複雑になり、トラブルの対処や社員へのサポート業務など今後間違いなくその仕事量は増える一方なのだ。それなのに、業務の効率化のために人員を減らす方針を会社が掲げているのはどういうことなのか。さらに大きな視点で考えるならば、業務の効率化や人員配置の適正化を実現するためには情報システム部だけをいじれば済む話ではないはずだ。バックオフィス全体をどうするかという視点で考えるべきだが、どうやら他の部署にはそのような話は出ていないようだった。
「きっと私を標的にしているんだわ」
経理部から望まぬ形で異動してきた高田敦子は、ため息交じりにつぶやいた。かほりには何故高田がそのように感じるのかがわからなかった。
「高田さん、どうしてですか?あくまでも希望ですから、希望しなければいいんですよ。会社に強制させる権利なんかないはずです」
「希望退職っていうのは表向きの言葉よ。そのうち少しずつわかるわ」
希望退職の申し込み期限が終わり、申し込んだ者は一人もいないようだった。当然かほりも申し込む気など無かった。しばらくしてから、情報システム部の全員が招集された。会議室に行くと、人事部長と取締役の一人が並んで座り、皆が到着するのを待っていた。
「情報システム部の皆さん、日々の業務ご多忙の折にお集まり頂き有難うございます」
取締役は穏やかな笑みを浮かべ、皆に挨拶した。すると、ほどなくして労働組合の委員長が遅れて入室してきた。入室を確認した後、人事部長が本題に入り始めた。
「先日会社からお願い申し上げました希望退職の件ですが、期限内の応募は一人もありませんでした。しかしながら、会社としては改善活動の一環として、断腸の思いではありますが何としても皆さんのご理解ご協力を得たいと考えております」
すると、ある社員から質問が出た。
「情報システム部以外の部署でも募集しているのですか?」
「内々ではあるが、募集はしています。ただ社員皆さんの士気に影響しないように粛々と進めています」
取締役から丁重な説明がなされた。さらに社員からの質問は続いた。
「会社全体としての業績は決して悪い方向ではない。むしろ好調と言える状況なのに、社員の雇用を揺るがすような希望退職を募る理由について、詳しく説明してください」
「募集の際に申し上げた通り、業務の効率化と人員配置の適正化を推し進めるためです。確かに会社の業績は好調だが、私たち経営陣は油断することなく、全ての面で更なる改善に日夜取り組まなければならない。業績が悪化してから人員削減というのでは遅いのです。経営者というのは好不調に関わらず、常にペダルを漕ぎ続けなければならないのですよ」
取締役は質問に答えているわけでも、答えていないわけでもない説明で、上手く乗り切ろうとしているようだった。さらに質問が続いた。
「現状の体制のままではベストでないから、希望退職を募るということですが、チームをベストなパフォーマンスへ導けなかった管理監督者の責任は問われないのでしょうか?」
情報システム部長が少し俯いた。今度は人事部長が回答した。
「仰る通りです。情報システム部の管理監督者にも当然ながら一定の責任はもちろんあります。人事考課を通じて本人に直接フィードバックを行います。場合によっては更迭の上、新たに後任を抜擢するということも検討しています」
かほりも挙手して質問を投げかけた。
「業務の効率化というのは人を減らさずには実現できないのでしょうか?ITインフラの効率化であれば、基幹システムを最新のものにするとか、社内へのFRQをもっと充実させることで、社員へのサポートも極力マニュアル化・省人化するなど、やりようによっては人を減らさずに改善できる方法はいくつかあると思うのですが」
なかなかに鋭い質問であった。IT部門ゆえ、例えば工場の製造現場の頭数を減らすというような単純なやり方でなくとも、業務効率化、そして人員配置の適正化を実現する手立ては存在するはずなのだ。かほりの質問に対し、取締役が次のように回答した。
「もっともな指摘であります。私たちも人員削減を伴わない形での改善を種々議論、検討したのですが、今回の方法が最も効果的であるとの結論に至ったわけです。何卒ご理解頂きたい」
かほりは自身の質問のみならず、他の質問に対する回答やヤリトリを聞きながら、「会社が実現させたいと考えていること」を悟った。
会社の真の目的は、決して業務の効率化などではない。「人員削減の達成」がゴールであり、その理由は単なる後付けに過ぎないのだと。業務効率化でなくとも、社員をなんとなく納得させられそうなものであれば何でも構わないのだと。
別の社員が質問を始めた。
「あのう、委員長は先ほどから一切発言が無いんですけど、労働組合の立場から何か無いんですか?少なくとも労働組合はこういった類のヤリトリでは社員の防波堤ともいうべき存在であり、貴方はその責任者ですから、もう少し主体的な発言なり、リードがあってしかるべきだと思うんですが」
質問は同席している労働組合の委員長に向けてのものであった。確かに労使協調のための、従業員代表としてはどこか他人事なそぶりを感じないわけではなかった。
「すみません。皆さんのご意見をよく伺った上で発言しようと思っていたものですから。決して消極的というか受け身のままでいるつもりはありません。できることならば、このような事態は会社も避けたいと思っているが、様々な検討の結果、今回の苦渋のお願いに至ったのだと聞いております。組合としては他部署への異動や子会社への出向などで雇用を確保して、人員削減を伴わない方法の再検討をお願いすると共に、万が一、希望退職する従業員が出てしまった場合も、会社から最大限の譲歩を勝ち取りたいと考えています。いずれにしても、なるべく双方が協調していけるように、私なりに尽力していきたいと思います」
委員長の答弁は表向きこそもっともらしい正論を述べてはいるが、あまり心がこもっているようには思えなかった。その事務的で官僚的なさまは、取締役や人事部長のそれを上回るかのようにさえ思われた。
委員長は付け加えた。
「会社と組合の取り決めにより、希望退職のプロセスには組合の承諾がマストになっております。つまり、仮に会社と従業員が合意しても、組合がノーと言えば成立することはありえません」
労働組合には一定の権限があることを説明しているようではあるが、どうも最悪の事態、つまり希望退職そのものを回避しようとしているようには感じられなかった。会社側が望む希望退職の実施を、極力丸く収めたい、そのために仲立ちとしてできることは可能な限りするといった、頼りないニュアンスが強い説明であった。委員長の弱腰な姿勢は集まった情報システム部の全員を、さらに懐疑的にし、無力感を強くさせるだけであった。
「今後の進め方については追って連絡します。個別に面談をお願いすることもあろうかと思います。希望退職の募集期間は一旦終了しましたが、今日からしばらくのあいだ、募集を再開します。会社の方針にご理解ご協力いただけそうな方は、委員長経由ご連絡をお願いします。本日はこれを持ちまして終了です」
人事部長により散会が告げられた。何とも言えない後味の悪さが、服に染み付いたタバコの臭いのように皆につきまとった。今後、会社側がどのように何を行うのかは不透明であり、今日の会合で唯一ハッキリしたことは「人員削減を行うという方針は取り下げない」ということのみであった。
かほりは部屋を退出すべく立ち上がった。「自らが標的である」と言っていた高田は結局一言も発しなかった。いや、発しなかったというよりも、「発したところでムダだ。どうせ結論は決まっているのだ」と半ば諦めているかのようであった。
それから約二か月後、応募があったということで、希望退職の募集が打ち切られたとの連絡が部内を回った。少なくとも一人は高田敦子が希望したとのことであった。かほりは不思議に思った。3度の産休、つまりは3人の子供を育てていかなければならない高田が、こんなにも早く自ら応募するということは考えにくかったからだ。次の仕事を見つけるといってもそんなに簡単ではないだろう。本人に背景を直接確認しようにも、高田は三日前から病欠ということで会社を休んでいた。ほどなく、情報システム部のメンバー全員が会議に招集され、労働組合委員長より今回の経緯が説明された。
「この度、応募者があったとのことで、会社側が兼ねてより募集していた希望退職については終了することを皆さまにお伝えします。応募されたのは高田敦子さんです。理由等詳細についてはご本人のプライバシー等にも関わりますため、会社、組合ともに守秘することとしております。何卒ご了承ください。また突然ではありますが、高田さんは今月いっぱいで退職されます。明日以降出社される予定も無いとのことです」
すかさずメンバーから質問が出た。
「応募したのは、高田さんだけですか?たった一人が辞めただけで、業務の効率化ができるようには思えないのですが?」
「募集当初、会社からは『若干名』という話でした。結果的に応募されたのが高田さんだけだったということです」
「更なる募集が今後行われることは無いのですか?」
「今のところ、その予定は無いと聞いています」
会議室に集まったメンバー達の間には複雑な空気が流れていた。もう希望退職について考えなくて良いのだという安堵感と、結果論とはいえ、高田一人が皆の身代わりになってしまったことへの気まずさが同居していた。
かほりも全く同じ気持であった。高田が畑違いの情報システム部で勤務することに決して前向きではなかったとはいえ、会社が何故高田一人で募集を打ち切ったのかという点は引っかかったままであった。かほり以外の部内メンバー達も色々と推測したが、多く聞かれたのは「3度に渡る育児休暇取得が、会社上層部の眼に余る振る舞いとみなされたのではないか」というものだった。あくまでも憶測の域を出ないものではあったが、高田が他の社員と区別されるポイントと言えば、これくらいしかなかった。経理部からの畑違いの人事異動についても、布石の一つと考えれば合点がいってしまう。
(どうして、女性が子供を産み育てながら働くということを、会社のエライ人達は応援できないのかしら)
かほりの素朴な疑問であった。また以前から聞いていた「噂」がある程度裏付けられる形となった。会社は女性社員が、いわゆるワークライフバランスの両立をしながら長く働くことを望んでいないのだ。支援する気もないのだ。3度も長い休みを取りつつ、今後もこの会社で働き続けたいという姿勢は厚かましいと評価されてしまうのだ。そして高田にまつわる一連の顛末は、他の女性社員に対する見せしめとしては十分な効果を発揮するのだろう。「産休を取るのならそれ相応の覚悟をもって権利を行使せよ」という会社からのメッセージが表向きではないにせよ、確実に突きつけられることになるのだろう。かほりは憂鬱な気持ちになった。自身の生い立ち上、決して多くは望まない、人並みの生活ができる環境であれば贅沢は言わないというつもりで現職に勤務をしてきたが、今後も会社の中に確実に残り続けていく「男尊女卑」という時代遅れのカルチャーは、今後も長く付き合えるものではない気がしてきた。
かほりは密かに転職することを検討し始めた。自分のキャリアならどのような会社の、どのような職種に可能性があるのかについて調べ始めた。いつ転職できるのかはわからないが、どうしても高田と直接会って、事の真相について知りたいという想いが消えることはなかった。