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2)かほりだけの「普通の人生」

不遇な家庭に生まれたが、幸せに育ててもらった竹本かほりには夢があった。簡単に手に入るものではない「当たり前の、普通の生活」を手に入れることであった。それを手に入れたかほりは、IT大手「ギャラクシーコーポレーション」に転職するべく、面接の前夜を迎えていた。

面接のシミュレーションのみならず、今日の自分が誰のおかげで存在できたのかを思い起こしていた

かほりが幼い頃を思い出すとき、いつも浮かんでくるのは居間のテーブルに置かれた、吸い殻でいっぱいの灰皿だった。両親は共にヘビースモーカー、いやチェインスモーカーと呼ばれる愛煙家だったからだ。そして、両親が口論している時は終わるまで寝たふりをした。見たくなかったし、両親も見せたくないだろうことがわかっていたからだ。



かほりは4人兄妹の末っ子として生を受けた。


父親の剛志は長距離トラックのドライバーで、家を空けていることが多かった。たまの休みに帰ってきても、寝ているか、酒を飲んでいるかのどちらかだった。剛志はプライドが高く短気で、直情径行な性格で、上司や会社の上層部とよく衝突を起こしており、運送会社を転々としていた。運送業界は慢性的なドライバー不足であり、たとえ前職で揉め事を起こしていても、大型免許を有し職務経験さえあれば、すぐに次の職場は見つかった。これが剛志の人生にとっては悪循環であった。すぐに次が見つかるから、自らの行いについて一切反省をしなかったのである。



人が生活する限り、物資の流通が必要である。


物資が流通するためには、運ぶクルマが必要である。


クルマが物資を運ぶためには、ドライバーが必要である。



剛志が反省をしない理由の根底にはこの「三段論法」があった。極端に言うならば、「自分が失業するわけがない」と開き直っていたのだ。確かに失業することはなかったが、一方で、昇給することも無かった。昇給というものは、ある程度の期間、同じ組織に属し、周囲の信頼と実績を積み上げて実現させていくものである。剛志にとって、このような地道な積み重ねは苦行であった。昇給はしなかったが、子供は4人も生まれてしまった。妻の佐那も働かなくては家計の成り立つはずが無かった。


長男の健太は物心ついた頃から、どうすれば家計を助けることができるかについて考えざるを得なかった。自分の下には3人の弟、妹がいる。父親のことは当てにできない。母親は育児と労働に朝から晩まで追われている。中学を卒業するとすぐに、寿司職人の修行を始め、佐那と共に家計を支えた。かほりは、たまに健太が店から持って帰ってきてくれた寿司折を楽しみにしていた。


長女の由美も健太と同様、家庭のキャッシュフローの改善をどうするか考えざるを得ない立場となった。健太と同様に仕事を探し、中学を卒業すると大手の運送会社に入り、ドライバーの職を目指した。運転免許は社費で取得した。父と同様に、慢性的な人手不足の業界かつ、大手企業に勤められるということで、リスクの少ない選択だと考えたのだ。


次男の裕太も、兄と姉の背中を見て、早くから働くことを意識した。とりわけ兄の健太が料理をする姿に刺激を受け、自分も料理人になりたいと思った。健太は寿司職人だったから、洋食の料理人になりたいと考え、イタリア料理の修行をすることを選んだ。かほりは、時折裕太の作ってくれるポモドーロのパスタが大好きだった。



かほりが小学校に入学する頃、佐那は突如姿を消した。心当たりを方々探し回ったが、とうとう見つからなかった。警察にも捜索願を出したが、見つからなかった。剛志は月に数えるほどしか帰宅しなかったから、日常の大半は4人の兄妹達のみの生活となった。


佐那のいなくなった自宅では、剛志はまさに暴君であった。休みの日は朝から酒を飲み、4人の子供たちに対し、「お前たち、誰のお陰でメシが食えてると思ってるんだ?」と威張り散らした。妻の佐那が突然姿を消したことへのやるせない気持ち、思い通りに進まない自身の人生への苛立ち、そしてそんな自分を確実に軽蔑しているであろう子供たちへの不安・・・剛志の飲酒はそれらを見て見ないふりをするための、まさに刹那的な現実逃避であった。4人の子供たちは剛志の酔いが回り、眠りにつくのをひたすら待ち続けた。夜が明けたら剛志はトラックに乗り、また当分の間、帰ってこないからだ。


そのうち、4人の兄妹はこのままこの家に住み続けるべきかどうかについて真剣に話し合いを始めた。裕太などは「児童施設の方がよほど大人に可愛がってもらえる」といい始めた。少しずつではあるが、独立して収入を得始めた健太と由美は本格的に家を出る計画を立て始めた。家を出て、裕太はともかく、かほりくらいは大学まで行かせようと話をした。そして裕太が中学を卒業して料理人の修行を始めると、4人のうち3人が収入を得る形になり、剛志の収入を当てにせずに暮らしていけるメドがある程度は立ってきた。当然だが、この計画は剛志に知られてはいけない。4人は少しずつ、準備を本格化させ、準備が整ったら、剛志が家を空けているスキに安息の地に移り住むのだ。


かほりが中学校卒業を控える頃、計画はついに実行された。周到な準備のお陰で、4人の子供たちは、暴君の支配から完全に逃れることに成功した。誰にも未練は無かった。かほりは自身も中学を卒業したら働こうかと思ったが、3人の兄姉に強く止められた。



「お前だけは高校へ行って、大学へ行け。かほりだけは普通の人生を送るのだ」



かほりは後ろめたい気持ちはあったが、言われた通りに、高校に行き、大学を卒業した。私立の学校に行くことは到底できなかった。しかしその不遇な生い立ち故、奨学金などのいわゆる公的なサポートをフル活用することができた。かほりはコンピューターに興味を持った。色々といじっているうちに、基本的な機能の習得のみならず、プログラミングなどに興味を持ち始めた。大学在学中は専らIT企業のシステムエンジニアのアルバイトに精を出した。好きなコンピューターをいじりながら、お金をもらえるのだ。かほりのスキルは大学生の時点で高いレベルにあった。時給も一般的な学生のアルバイトよりも高い金額であった。かほりは兄姉達の負担を少しでも減らすべく、働いた。好きなことをやって、スキルも上がって、お金ももらえて、依存度を減らすこともできる。かほりが苦にする理由など一つも無かった。このまま大学を辞めて、フリーのプログラマーにでもなろうかとも思ったが、兄姉達の思いを考えると、大学だけは卒業することにした。大学の卒業式には3人の兄姉も出席してくれた。かほりの大学卒業は父親からの、経済的な面でも精神的な面でも、完全な独立を意味するシンボルとでも言うべきものであった。



「俺たち3人で何とか出してやれたな。母さんにも見せてやりたかった」


健太は涙こそ流さなかったが、かほりが卒業証書を受け取る瞬間をじっと見ていた。4人兄妹の長男として、「独立」の重みを噛み締めていた。感慨などという月並みな言葉では表現できる重みではなかった。4人とも自らの脚で歩き始めるのだ。これこそが目指していた「安息」なのだ。

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