15)母に会うべきか、会わざるべきか
かほりは母に会うべきか、会わざるべきか、判断しかねていた。
「どうしても会いたい」という気持ちが出てこないからだった
かほりはそろそろ美容室の予約をしようと考えていた。そしてふと思い出した。母の連絡先のことを。
そのうち連絡をしようしようと思いながら1か月近くしていなかった。いきなり通話するのは躊躇いがあった。何を話していいかわからなくなり、気まずい空気になるような気がしたからだ。ショートメッセージで手短に伝えようか、でもどう切り出せばよいのか。
かほりはスマートフォンを手に文章を書き始めた。
「お母さん、お久しぶりです。かほりです。同じ美容院に通ってたなんてすごい偶然ですね。美容師さんからせっかく連絡先を頂いたので、近いうちにどこかで会えますか?お母さんの都合の良い時間帯を教えてください。ちなみに私は週末か、平日の夜の時間帯だと嬉しいです」
とりあえず文章を作成し、送信ボタンを押す前に再度読み返してみた。
少し他人行儀過ぎるかな?いや、でも親子であって親子でない関係のまま、長い時が過ぎたのだ。他人行儀で当たり前か。
かほりは頭の中で推敲を繰り返しながら、不思議な気持ちに襲われた。
「どうしても会いたい」という感情が出てこないのである。
恨みや憎しみは無い。不倫をしたわけでもないし、あの父親ならば致し方ないと当時も思ったし、成人してからの今になっても「母の自己防衛行為」に対して同情する気持ちは変わらない。でも「どうしても会いたいか?」と聞かれると素直に「はい」と言えないのであった。もしも美容師による、気を利かせて連絡先を渡すなどという行為が無ければ、終生会わないままだったかもしれないのだ。
「諸事情により長年離れて暮らしていた親子が、いくつかのハードルを乗り越えて涙ながらに再会を喜び合う」といったストーリーは古今東西枚挙に暇がない。かほりもこれまでそういったストーリーを何度か見たり聞いたりしてきた。涙したり感動したものもいくつかはあっただろう。ところがいざ自分自身がその主人公になった途端、とても涙など出てくる心境にはなれなかった。正直なところ「会えないよりはマシか」「会えるのなら会えるうちに会っておいた方が良いか」といった程度の心持であった。
かほりは何十年かぶりになる母との再会に際し、何故感傷的になれないのか、熱いものがこみ上げてこないのかについて考えた。
母との良い思い出がパッと出てこないからであった。無いわけではない。ただあまりに時間が経過しすぎて、思い出せないのである。
先日電話で、姉の由美に言われた言葉を思い出した。
「まあ、最終的にはかほりの判断に任せるけど、私は会ってみた方がいいと思うな。小学生のかほりと今のかほりは同じじゃないから、きっと記憶とは違う感情が出てくると思うよ」
「私も母親になったから言えることだけど、自分の子供のことっていつまでも、どんな小さなことだって気になるものなのよ。何かテーマをもって話さなきゃいけないとか話すネタを用意していかなきいけないとか、そんなのどうでもいい。ただ元気にしている顔を見るだけでいいの」
「記憶とは違う感情が出てくる」という言葉が、かほりの心の内で暖かな響きをもっていた。こればかりは会わなければ経験出来るものではない。単なる喜びでも憎しみでもない、この「未曾有の感情」を経験するだけでも、母と会う価値があるのではないかと思い始めた。
かほりは母へのメッセージをまとめて送信ボタンを押した。
「お母さん、お久しぶりです。かほりです。同じ美容院に通ってたなんてすごい偶然ですね。美容師さんからせっかく連絡先を頂いたので、近いうちにどこかで会えますか?お母さんの都合の良い時間帯を教えてください。ちなみに私は週末か、平日の夜の時間帯だと嬉しいです。念のために先にお伝えしておくと、私の中に恨みや憎しみは一切ありませんから」
最後の一文はかほりの偽らざる心境であり、メッセージを受け取る母の懸念を幾分かは小さくできるだろうと思って付け加えた。
しばらくすると、返信があった。
「かほりちゃん、連絡有難う。美容師さんに取次をお願いしてから少し時間が経ってしまっていたから、もう連絡はもらえないものと思っていました。私にはやはり会う資格がないのだと。長いこと会えなかったけど美容院で見かけた時、すぐにかほりだとわかったわ。場所もスケジュールもかほりの都合の良いところで大丈夫です」
その後何度かヤリトリをして、場所は美容室のある六本木界隈で、平日の終業後に会うことで落ち着いた。
かほりは姉の由美にも母との再会が決まったことを報告した。由美からもすぐに返信があった。
「良かったじゃない。前にも言ったけど、なんかネタやプレゼントを準備しておかないととか、余計なことを考える必要ないから。ただ元気な、普段着のかほりで会えばいいんだからね」
「普段着でって言われても、いざ会った時に何を話せばいいのかわからないわ」
「勤めている会社の話とか、美容院の話とかホントに何でもいいのよ」
「ちなみにお姉ちゃんは最後に会ったのはいつ?」
「二人目の子が産まれた後かな」
「孫の顔見て喜んでた?」
「うん。とっても」
「お母さんには家族はいるの?」
「子供はいないけど、旦那さんはいるよ。お父さんと違ってとても穏やかで優しい人みたいよ」
「へぇ。そうなんだ」
由美からの返信を見る限りでは、母は現在穏やかで平和な生活を手に入れているようだった。
ヤリトリは続いた。
「お姉ちゃんがお母さんと再会した時はどんな気持ちになったの?」
「やっぱり嬉しかったわよ。お母さん会うなり、泣きながらひたすら謝り倒してたから気持ちは十分伝わったし。あとはしっかり次の人を見つけて、新しい生活を始めてたのもわかって安心したな。大きな病気もせず健康そうだったし」
「なるほど。恨みとか憎しみに近い感情は起こらなかった?」
「起こらなかったわ。だって出て行った理由が明確だし、お母さんは何度もお父さんを真っ当な方向にもっていこうと努力してたのも知ってたし」
「お姉ちゃん、私も恨みや憎しみは無いんだけど、かといってとても会いたいっていう感情も出てこないの.。なんかドラマとか映画であるような」
「なるほど。まああの時かほりは小さかったから仕方ないのかなぁ。私たちもなるべくお母さんがいないことを意識させないようにって思ってたから」
改めてかほりは、3人の兄姉達のお蔭で今の自分があるのだと感謝の気持ちでいっぱいになった。
「かほりはその素直な気持ちのまま、お母さんに会えばいいと思うよ」
「うん。わかった」
「血がつながってるからいつか分かり合えるはずとか、そんなの朝ドラとか映画とかが作り出した綺麗ごとであり、単なる幻想よ。フィクションと現実は違うわ。家族同士で遺産相続の裁判を繰り返すとか、幼いころは仲が良かった兄弟が大人になってから生涯絶交したとか、そんな話は世の中にいくらでもあるのよ。逆に血がつながっていない子供を養子に迎えて、幸せに暮らしている家族だってたくさんいる。例え血がつながっていたとしても、かほりが一人の人間として真っすぐ向き合えるか、信頼できるか、今後つきあっていけそうなのか、かほり自身で判断したらいいわ」
由美の言う通りであった。「血がつながっているから」という枕詞に惑わされる必要は無いのだ。
約20年ぶりに母に会うことになった。会うことが確定した今は、確定する前よりも幾分か心が軽くなった気がした。




