13)行きつけの美容室にて
かほりは行きつけの美容室でいつも通りに施術を受けていた。施術終了後、思わぬ話が舞い込んできた
かほりは行きつけの美容室で施術を受けていた。
美容室という空間は、他の空間に無い独特の安らぎをもたらしてくれる。伸びた髪を切って整えてもらったり、黒く伸びた部分を染め直してもらったりするという技術的な満足のみならず、作業している美容師と交わす他愛のない会話も精神的な癒しとなる。大きな鏡に映る自分自身を、一定時間見つめ続けるという時間も他で経験できない。毎日毎日鏡で見ているはずの自分自身の髪が、美容師の施術により少しずつ整えられていく。その過程を一つ一つ見つめているうちに不思議と心の方まで整えられていくのである。
美容師の方は、定期的に担当施術する顧客に優しく寄り添い、鋭く観察している。まるで動物園で檻の中にいる動物達を日々管理する飼育員のように、来店した際の服装や顔色、体形のわずかな変化や、これまで見てきたものと違う傾向が少しでも見えてきたらそれらを敏感に察知する。女性の場合だと長い髪を長いままにする施術をするか、それともバッサリ切って短めのスタイルにするのか、憧れている著名人に似せたいのか、何故その判断を今回するに至ったのか、あるいは季節的な要因で選択しているのかなど、いくつかの変化パラメータが出てくる。あくまでも「定期的に髪を整える」ための存在なのだが、頭髪のみならず自身の内面のいくばくかを観察し続けてくれる美容師は、家族とも友人とも恋人とも違う種類の大切なバディなのである。
かほりはいつも通り「長さは肩に触れるか触れないくらい、色は金色」でとリクエストした。担当の美容師はいつも通りの手際でテキパキと仕事を続けながら、側面からかほりに優しく話しかけた。
「お仕事の方で何かありました?」
ハサミの音が鋭く心地よく響く中、美容師はかほりの側面から背面に移動したり、また側面に戻ったりしている。
かほりは柔らかな笑みを浮かべながら応答した。
「何って言うほどのことは無いんですけど、勤めている会社のことを色々と深く知る機会が増えてきてるんです。どちらかと言うと良い面というよりは良くない面の方が。気が付くと入社してから1年以上が経ってるんで、当たり前のことと言えば当たり前のことなんですけど」
「なるほど。あれだけ有名で、急成長しているギャラクシーコーポレーションなんて誰でも簡単に入れる会社じゃないでしょう?色々他の会社には無いご苦労もあるでしょうね」
「どうしてわかったんですか?」
「ウフフ。なんか以前竹本さんから感じていたポジティブなワクワク感というか、オシャレすることに対する喜びみたいなものが少し小さくなったような気がして」
「ああ、なるほど」
「だって、以前は明日何着ていこうかなとか、こないだあのお店で可愛い靴を買ったとか、そういうお話が多かったのに最近減ってきたなと」
「オシャレすることが楽しみなのは全然以前と変わってないと思うんですけど、他にも考えたり、考えさせられたりすることが増えてきたって感じですかね」
担当の美容師も柔らかな笑みを浮かべながら施術を続けている。かほりは自身の小さな変化に気づいてくれたことが嬉しくなり、さらに話を続けた。
「ギャラクシーコーポレーションって、人の入れ替わりが激しいんです。毎月誰かが辞めて、誰かが入ってくる感じ。しかも徹底して事後報告なんですよ」
「へぇ、そうなんですか。入れ替わりが激しい会社そのものは珍しくないと思いますが、徹底して事後報告というのは珍しいかもですね」
「なんだろう、こう、会社が人を人じゃなくて、モノを扱っているような感じがして、とても冷たいんです。突然人がいなくなる感じ。少し慣れてきたつもりだったんですけど、先日直属上司が突然辞めてしまって、あれはさすがにショックでした」
「なるほど。事前に聞いておけば心の準備が出来ますものね」
「そうそう。その心の準備をする機会を、会社が意図的に一切与えないようにしている気がしてならないんです」
美容師は決して多言せず、静かに共感してくれる。ある話題がひとしきり終わり、少し沈黙が長くなりそうになると、また静かに別の話題を持ってきて会話の接ぎ穂を用意してくれる。こういった付かず離れずの距離感が実に心地よい。かほりはつい色々と話したくなってしまうのであった。
「あと、変な噂があって、ウチの会社は入社して3年以内にずば抜けた成果を出せないと、クビになったちゃうみたいなんです」
「ほう」
かほりは鉄炮塚から聞いた「賞味期限」の話を要約して、美容師に話した。
「社員の賞味期限って、なんだか気味の悪い、隠れたルールが多い会社なんですね」
「隠し事をせずになんでもかんでも明らかに、つまびらかにしている会社なんてこの世に存在しないのかもしれないですけど」
「その、運よく賞味期限を突破出来た7%の人っていうのはそんなに飛びぬけて優秀な方たちなんですか?」
鋭い質問であった。先日のアナンのような突破者を探して、どうやって突破できたのかを調べればいいのだ。
「同じ部署に一人だけ突破した人がいるんですけど、見ている限りはそこまで飛びぬけた成果を出しているようにも思えないんですよねぇ」
「そうなんですか。意外と上の人の好き嫌いだけだったりして」
かほりは少し考えた。
仮に「好き嫌い」が理由だとしたら、例えばアナンは飛びぬけて上層部に好かれる理由があるのだろうか。
その後も、かほりは様々なことを美容師と話した。
90分近く経っただろうか。カットもカラーも全ての作業が完了したようだ。
美容師はいつもの通り2面鏡を開いて、「今日はこんな感じで」とかほりに最終確認を促した。
かほりは笑顔で何度か頷き「はい。大丈夫です。いつも有難うございます」と返した。
全ての工程が終わり、席を立とうとした時、鏡越しに美容師から声がかかった。
「竹本さん、どうぞそのままで。少しお時間宜しいですか」
「はい。何かありましたか?」
「実は竹本さんに、内々におつなぎしたい方がいるんです」
「つなぎたい人、ですか?」
かほりは何のことか良くわからなかった。
すると、美容師は手書きのメモをかほりに渡した。
メモを開くと、そこには電話番号と共に一人の名前が記載されていた。
「橘 佐那」
苗字に心当たりはなかったが、名前を見てすぐにわかった。
「ひょっとして、、」
「竹本さんのお母さまですよね?」
「はい。名前からするとおそらく。どうしてこれを?」
「実は奇遇にもウチのお客様なんです。以前竹本さんがお店を出てきたところを見かけたそうです」
小学生の頃に家を出て行ったきり会っていない、母親の佐那の連絡先のようだった。
美容師は説明を続けた。
「最初はもうこのまま会わない方が良いと思われて、知らないふりを通そうとされてたそうなんですが、やはり我慢できずに、私どもに竹本さんご本人であることを確認されてから、連絡先を伝えて欲しいと依頼されました」
「そうなんですか。有難うございます」
「確かにお伝えしましたので」
かほりは店を出た。あまりに想定外で突然のこと過ぎて、涙は出てこなかった。
考えれば20年近く母とは会っていなかった。寂しくなかったと言えば嘘になるが、3人の兄と姉がその寂しさを忘れさせるくらい自分の面倒を見てくれたのだった。大学まで行かせてくれたのだった。母のことを恨む気は毛頭無かった。あの父親の暴君ぶりを見ていたら致し方ないと思ったからだった。かといって、ひどく会いたいとも思わなかった。きっと母は母でどこかで幸せにくらしているのだろうと想像していたからだ。すぐに連絡を取ろうかどうか迷ったので、一度姉の由美に相談してみようと思った。
スマートフォンで渡されたメモを撮影し、由美に「行きつけの美容室でもらった」とメッセージを添えて送った。すると、すぐに返信があり「え?同じ美容室に通ってたの?連絡取るの?実は数年前から連絡先だけは知っていたのだけど、お母さんからもあくまでも緊急連絡用ということで伝えないように言われていたの」と書いてあった。
もしも母と20年ぶりに会ったら何を話そうか。
新しい苗字ということは再婚して配偶者がいるということだ。子供はいるのだろうか?
また六本木にある美容室に通っているということは、それなりの暮らし向きなのだろうか?
わずかな記憶をたどる限りにおいては、そこまでオシャレに気を使っている様子は無かった。いや、気を遣うどころではなかったと言う方が正確かもしれない。
かほりの頭の中は色々な疑問が駆け巡っていた。
しばらくすると電話が鳴った。姉の由美からだった。
「もしもし。お姉ちゃん」
「あー、かほり、今少し話せるかな?」
「大丈夫だよ」
「どうするの?お母さんと会うの?」
「うーん、正直なところ迷ってる。20年近く会ってないし、会ったところで何話していいかわからないし」
「まあ、最終的にはかほりの判断に任せるけど、私は会ってみた方がいいと思うな。小学生のかほりと今のかほりは同じじゃないから、きっと記憶とは違う感情が出てくると思うよ」
「そうなのかなぁ」
「私も母親になったから言えることだけど、自分の子供のことっていつまでも、どんな小さなことだって気になるものなのよ。何かテーマをもって話さなきゃいけないとか話すネタを用意していかなきいけないとか、そんなのどうでもいい。ただ元気にしている顔を見るだけでいいの」
数年前に結婚し、2児の母親になっていた由美のアドバイスに耳を傾けながらも「どうしても会いたい」という気持ちが出てこない要因について考え始めた。
かほりの記憶に残っている母の姿は、家事はもちろんのこと、4人の子供たちの世話に奔走し、子供たちが寝静まったころ父とタバコを吸いながら口論していた姿だ。居間のテーブルに置かれた灰皿にはいつも吸い殻がいっぱい溜まっていた。かほりは成人してからもタバコを吸いたいとか、タバコを吸うのは何だか大人っぽくてカッコいいとかいう憧れを持つことは皆無だった。その理由はタバコがかほりにとって、何一つポジティブなイメージを想起させるものではなかったからかもしれない。タバコは不幸と不快感の象徴なのだ。成人してからもタバコの煙や臭いを感じた時、あの吸い殻のいっぱい溜まった灰皿がフラッシュバックしてくるくらいだった。
もし母と再会した時、母が目の前でタバコを吸い始めたらどんな気持ちになるだろうか。少なくとも良い気持ちにはならないだろう。
「タバコ吸うのやめてもらっていいですか」と正面切って言ってしまうかもしれない。
かほりは渡された電話番号に連絡する踏ん切りがつかなかった。きっと母も伝えるべきか、伝えるべきでないかを何度も迷った挙句、今回の決断を下したのだろう。かほりも即断する必要は無いのだ。時間をかけて決めようと、スマートフォンの連絡先に電話番号を登録だけして、渡されたメモをポケットに締まった。少し気分を切り替えようと六本木ヒルズの方に向かった。