10)360度評価とはいかなるものなのか
かほりがギャラクシーコーポレーションに入社してもうすぐ1年になろうとする折、人事部主催の「360度評価に関する注意事項と説明」が行われた。360度評価とは果たしてどのように行われ、どのように社員に影響を与えるものなのか、かほりは色々と想像を働かせながら説明を聞くことになった
かほりがギャラクシーコーポレーションに入社して、間もなく1年になろうとしている頃、人事部から打ち合わせの招集がかかった。「360度評価に関する注意事項と説明」とのことであった。
「360度評価」とは、上司、同僚、部下と自身を取り巻く全ての人から評価をされるということである。逆に自分が上司、同僚、部下を評価する義務も発生するということでもあった。かほりにとっては入社前の面接でも、複数の面接官に質問ををぶつけていたほど関心の高いトピックであった。かほり自身も経験したことが無かったし、一般的な日本企業でも採用している企業は少数派であろう。転職エージェントにも以前話を聞いてみたら、外資系企業でもそんなに多くないとのことだった。
どのような評価制度でもメリットとデメリット共に存在するが、「360度評価」については他の評価制度と比べて、双方ともにインパクトが深く大きいものになるのではないか、かほりはいよいよ自身もその渦の中に飛び込んでいくのだと思うと、喜びと恐怖が入り混じった複雑な感情になった。
かほりはメリットとデメリットを冷静に整理してみた。
メリット:
・パワーハラスメントの抑止効果。
つまり職制が上位だからという理由だけで、下位のものに一方的な形での権力行使が出来なくなる(仮にそうした場合、部下から「評価」によってしっぺ返しを喰らってしまうことが明白なため)いわゆる独裁者的なマネジャーは間違いなく生まれにくくなるだろう。
・常に緊張感を持った言動が求められ、社員のモラルレベルが一定基準に保たれる。
お互い評価し、評価される立場のため、不適切な言葉遣いや度重なる遅刻などビジネスマナーに問題があると、そのまま減点評価に直結することが明白である。もちろんそうなることはどの社員も望んでいないことも明白なので、自然と意識が高まり、社員同士が気持ちよく過ごせる日常を実現できる。
・多角的な視点でのフィードバックを得られる。
多くの人に評価をしてもらうことで、自身の経験値や視野のみでは得られなかった「気づき」を得られる可能性がある。
デメリット:
・評価内容によっては人間関係が悪化する。
実際に思わぬネガティブな評価が来ると、その評価者に対し嫌悪感を抱いたり、関係が悪化する可能性が高い。また「悪い評価をされたらどうしよう」という意識が常に頭の片隅にある状態が続き、日常のやりとりがよりデリケートになり、プレッシャーをより感じやすくなる可能性がある。評価者は実名なのか匿名なのかによっても色々と変わってくるのだろう。
・常に道徳的かつ客観性の高い評価がされるかが、保証の限りでない。
SNSの投稿を例に挙げるとわかりやすい。SNSはアカウントを持ちさえすれば誰でも自由に発信し、共有したり、閲覧することが出来る一方、その投稿内容の質が必ずしも客観性があり、道徳的に良いものとは限らない点が問題とされている。サイト運営者によって、ある程度の管理はされているものの、一方的な思い込みや客観性、道徳性に欠ける投稿は減るどころか増える一方である。「表現の自由」は保証されているが、「表現内容のコントロール」は誰も担保してくれないのである。マナーを弁えた人が、マナーを弁えた評価をしてくれるかどうか、そこが保証されないという薄気味悪さがつきまとう。
かほりは面接で聞いた、既に退職してしまったシニア・ストラテジスト山本の言葉を想い起していた。
「評価というのは結局のところ順位付けです。自分より上の順位になることを望んでる人なんか、この世に一人もいませんから」
「まあでも、人が人を、寸分の主観もなく、冷静かつ公平に評価することなんかできるわけないんですよ。だって人はデジタルにものを判断して処理できない。同じ数字を入力したら寸分違わず同じ答えをはじき出すようなマクロもピボットテーブルも備えていない。受け取り方や解釈の仕方は個々人違うし、状況によっても変わるわけです。普段は至って普通の人が、置かれた文脈や状況によって、良い人になったり悪い人になったりする。そういうことを実感できるのが360度評価の醍醐味と言えば、醍醐味かもしれませんね」
今のかほりの心には面接で聞いた時以上に、一言一言が深みをもって響き渡り、深く突き刺さるようであった。
(もしも自分とウマが合わない人がいて、仮にその人がとても良いパフォーマンスをした時、果たして自分はそれを嫉妬することなく、素直かつ客観的に評価をすることが出来るのか?その逆も然りで、自分とウマの合わない人が、ネガティブな感情を脇に置いて自分のパフォーマンスを客観的に評価してくれるのだろうか?)
これまた面接時にアナンが口にしていた「性善説」と「性悪説」という日本語が、かほりのアタマの中でグルグルと回っていた。人間の善も悪も知り尽くし、それでもなお絶望せずに人間を愛し、前向きにその可能性を信じることができる人物、例えばキリストや孔子、ソクラテスのような高潔な人物同士でなければ、このような評価制度は正しく機能しないのではないか、かほりの思考はますます止まらなくなっていた。
「時間になりましたので始めます」
しばらくして、人事部の担当が会議室に入ってきた。今回集められた対象は「入社して1年未満の社員」ということだった。
「お忙しい中、お集り頂き誠に有難うございます。本日は360度評価の進め方に関する説明と、その上での注意事項をお伝えする時間にしたいと思います」
司会進行の人事部担当は男性で、左胸にワニのロゴが刺繍された紺色のポロシャツを着ていた。どうやらラコステのマークらしかった。そして大きな黒縁のメガネをかけていた。その形からどうやらレイバン製のものらしかった。大きなモニターに資料を投影しながら説明を始めた。
「我がギャラクシーコーポレーションは創業以来、この360度評価を導入し続けて参りました。正直申しまして最初から上手く機能したわけではありません。色々な問題も起こり、それに対して何度も改良を重ねた結果、今日の運用方法に至り、自由闊達な会社運営に資する形になりました。皆さんの大半は、おそらく初めて触れる評価制度だと思います。なんとなくお察しの方もいらっしゃるかと思いますが、この評価制度は運用方法を間違えると大きな問題を引き起こすリスクも孕んでいる制度です。実際、過去に事件となった事例もありますので、そちらを反面教師的にご紹介し、新たに入社された皆様が気持ちよく評価され、また評価する側の立場になった時、気持ちよく評価して頂くようになって頂くことがゴールであります」
頭出しをしたところで担当はメガネを掛けなおし、部屋全体を見渡した。
「さて、私ばかりが一方的に話していても皆さん退屈してしまうでしょうから、ランダムに当てて質問をさせて頂きますね。ちなみに質問に答えられても、答えられなくても皆さんの人事評価には一切影響出ませんから、お気軽にお答えくださいね」
部屋が少しざわついたが、流れている空気はリラックスムードであった。
「360度評価において、一番やってはいけないことは何でしょうか?」と質問を投げかけ、3列目にいる女性社員を指差した。女性社員は少し驚いたようだが、少し間を置いて次のように回答した。
「客観的事実に基づかない評価。誹謗中傷性の高い評価とかでしょうか」
「はい。有難うございます。ご名答です。やはりそこは皆さん最低限守らなければならないルールですよね」
人事部担当は穏やかな笑みを浮かべながらうんうんと頷いた。
「他に如何でしょうか?」
後列の方を見まわして、次の回答者を指名した。
「後ろから2列目の一番右端にいらっしゃる、博士みたいな丸いメガネをかけた男性の方」
男は「まいったなぁ」といった様子で首をかしげながら立ち上がり、次のように回答した。
「9つの社員心得に関係ない評価、とかですかね?」
「これまたご名答です。今回のセッションに参加の皆さんは筋が良さそうですねぇ」
人事部担当は満足気な笑みを浮かべながら、続けた。
「いまお二人に回答頂いた点は、いずれも大変重要なポイントです。まずは1点目の誹謗中傷性のところをお話しましょうか」
少し真面目な表情になって続けた。
「皆さんは一人前の大人、社会人ですから最低限のマナーやモラルという点は意識されているかと思います。仮に何らかの失敗をしたとか、設定した目標値に対し未達であった場合、評価者はネガティブなフィードバックをせざるを得ない場面が来ることも多々あります。皆さんもご存じの通り、我がギャラクシーコーポレーションは毎年高い目標値を設定しています。全社としてはここ数年何とか達成に至り、高い成長率をキープしていますが、このような状況でも目標を達成出来ているチームとそうでなかったチームに分かれてしまうのは事実であります」
先ほどまでリラックスムードだった会議室に、少しシリアスな空気が流れてきた。
「目標達成出来なかった人を評価しなければならない場合、単に数値を下回ったということを指摘するのではなく、9つの社員心得を基準にどのような行動をしていたか、という点を客観的な事実を挙げてご評価頂きたい。例えば目標値を達成できていなくても、社員心得の基準を満たしていた場合は減点が小さくなります。また評価のみならず、より良い代替案なども書き加えて頂くと理想的ですね」
至極真っ当な話をしてはいるが、単なる理想論に過ぎないのではないかとかほりは思った。
人事部担当は話を続けた。
「ちなみに、360度評価において事実無根で、誹謗中傷性の高い評価が発覚した場合、これは処罰の対象になります。まあ、あまり無いですけどね」
すると、ある社員が挙手した。
「すみません。質問させて頂いても宜しいでしょうか?」
人事部担当はニッコリ笑って頷いた。
「人事部は、一つ一つの評価に本当に目を通しているんですか?一つ一つの評価の根拠になっているものが、事実か事実でないかをチェックするのって、ものすごく時間がかかるのではないかと思うんですが。ギャラクシーコーポレーションには数千人の社員がいるんですよ」
理想論を聞かされれば聞かされるほど、聞いている側の方に芽生えている共通の疑問であった。
人事部担当は「はいはい」といった、手慣れた感じで次のように答えた。
「多くの方から聞かれるご質問、有難うございます。まず結論から申し上げると、人事部の方で全てをチェックすることは不可能です。じゃあ人事部がチェックしないのなら何を書いてもいいのか、ということになってしまいますので、『ジャッジメント』という窓口を設けております。ご自身の評価に、明らかに事実と異なる点があったり、誹謗中傷性が高いと感じた時、人事部に依頼して第三者的なファクトチェックを行うことが出来ます」
同じ社員から次の質問が出た。
「そのファクトチェックは、年間に平均何件くらい発生してるものなんですか?」
「そうですねぇ、、年間で10件に満たないという感じですかね」
人事部担当の答えに、その場には「そんなものか」といった安堵感に似た空気が流れた。
「つまり意図的に誰かを貶めようとしても、ファクトチェックで真偽の確認がなされますから、これが抑止力となり泥仕合になることを未然に防いでいるわけなんですね」
人事部担当はメガネを再度掛けなおし、続けた。
「ちなみにこのような運用体制もすぐに出来たわけではないのです。過去には社員同士の誹謗中傷合戦のようなことがあったり、女性社員数名が裏で結託して、特定の社員に一斉にネガティブフィードバックをやったりするというような怖い事件もありました。マネジャーの方で先に異変に気づいた場合は部内で解決して頂いたりということもあったのですが、マネジャーも解決方法を一つ間違うとそれがたちまち部下や周囲からのフィードバックに反映されてしまうため、見殺しにされるような事案もございました。それで、現在のように人事部が第三者的に中立に検証を行うという体制になったわけです」
ここまでの話を聞いている限り、360度評価の負の側面、つまり誹謗中傷や泥仕合の類については一定程度予防線が貼られていることは分かった。そこでかほりは質問すべく挙手した。
「私からも質問です。『ジャッジメント』の結果、当初の評価からどれくらいの確率でひっくり返るものなんですか?いや第三者的な検証をして頂けるチャンスがあるのは良いと思うんですが、じゃあその検証作業はどの程度信頼できるものなのかが気になります。まさか弁護士とかそういう外部のプロフェッショナルを、一社員の内部評価のために担ぎだしたりするのも現実的に難しいのではと思いまして」
人事部担当は少し真剣な顔で、次のように答えた。
「まず確率の話ですが、『ジャッジメント』に持ってこられている時点で、社員個々人にまつわるかなりデリケートな話になりますので、申し訳ありませんが具体的な数字についてはお答え出来ません。また検証作業については仰る通り弁護士などの外部のプロフェッショナルを担ぐこともしておりません。原則人事部のメンバーのみで執り行います。最後に信頼性の点ですが、私ども人事部の立場としてお伝えできるのは、全社員に気持ちよく仕事をして、風通しの良い環境で会社に貢献して頂きたいので、なるべく丸く収めるようにもっていきますよということですかね」
会議室内には、「100点とは言えないが及第点とは言える回答」といった空気が流れていた。
人事部担当は話題を変え、具体的な評価方法について話を始めた。
「評価も被評価も、9つの社員心得を基準になされます。一つ例をお見せします」
(社員心得を選ぶ)
1 私たちは常にお客様の視点に立って考え、行動します
(この社員心得の達成度合いを以下の3段階で評価する)
A:十分達成できていると思う
B:まずまず達成できているがもうひと頑張り必要
C:足りていない。改善が必要
例えばAを選択したら、「何故Aと言えるのか」について根拠を説明する
(記入例)
〇〇さんは、ブックスチームの売り上げ目標達成に主導的な役割を果たしました。何故ならお客様の「ベストセラーの紹介ページが見づらい」というフィードバックに着目し、著者名をよりわかりやすいに配置し直したり、口コミレビューの中から、最高点と最低点のレビューを瞬時に見られるようにページの見やすさを改善したからです。この改善がきっかけで売り上げが〇〇%伸びました。〇〇さんがお客様の視点に立って考え続けた結果に他ならないと考えます
上記作業を9項目分行うことが評価の作業とのことだった。かほりは「逆に評価する側の立場になると、結構大変だな」と感じた。
評価者は直属上司と、普段の業務で関わっている3名が無作為に選ばれるとのことであった。かほりはブックスチームのメンバーと仕事をすることが多いので、自分もそのメンバーの誰かを評価することになるわけだ。
他の社員からの質問が出た。
「評価者として、直属上司以外に3名が選ばれるということですが、こちらから指名することは出来ないのでしょうか?」
人事部の担当は次のように回答した。
「現時点では『出来ない』という回答になります。実はですね、かつては指名が可能でした。しかしながら先に挙げた結託事件があり、現行の形になりました。どういうことかと申しますと、仮に3名で結託して、それぞれが評価者として指名して、お互い良い評価をする。そして仲間外れにした人、つまり結託をしなかった人に対し、3名が一斉にネガティブフィードバックを行うということが可能になります。このように事前に結託したり、評価内容を取引し合うという事件がいくつかあったわけなんです。そういったことを未然に防ぐための措置です」
質問が続いた。
「直属上司以外の評価者は匿名なのですか?」
「はい。基本匿名です。もし評価内容に疑問が出たり、明らかにおかしい場合は先ほどお伝えした『ジャッジメント』の窓口にご連絡頂ければ、人事部の方で調査を致します。匿名ではありますが、評価で書かれた内容を読めば、誰が書いたフィードバックなのかは何となく察しがつくと社員の皆さまからはお声を頂きます」
かほりは一連のヤリトリを見ながら「結局のところ、直属上司と人事部のさじ加減で全ては決まるのだな」と思った。確かに前職のよりは風通しはいいが、こっちはこっちでかつて出会ったことのない類のデメリットもありそうな予感がした。「人が人を、寸分の先入観や嫉妬も入れることなく、第3者的に評価する」ことなど果たして出来るのであろうか?かほりは頭の中で一人禅問答を繰り返していた。
説明会が始まってから、もうすぐ1時間が経とうとしていた。人事部担当が会を締めにかかった。
「他にご質問が無ければ、社員心得を唱和して終わりたいと思います。私が読み上げますので、皆さま続けてご唱和ください」
全員が起立し9つの社員心得を唱和して、360度評価制度に関する説明会は終了した。