悪魔事件から少し前・現実に堕ちた聖女
三話連続投稿の二話目になります
「準備は大丈夫かしら?」
「はいエマ猊下」
「問題ありません」
沐浴を終えたアナスタシアとゼナイドは、僅かに微笑む臨時枢機卿エマに頭を下げる。
最初期の聖女は枢機卿より上の立場だったが、単なる象徴の暴走が恐れられたため、いつの間にか枢機卿が上になっていた。
「カレンは?」
「はっ! 問題ありませんエマ猊下!」
「それでは行きましょうか」
続いてエマは、使用人や従者のように控えながら、兵士の様に返答するエマにも僅かな微笑みを浮かべる。
ぎこちない笑みだからこそ、エマが持つ柔らかな感情の発露だ。なにせ彼女は、心からの笑みなどここ十年したことがない。
陰鬱。あるいは未婚ながら、酷く憂いた寡婦と思われることが多い枢機卿にとって、人生は挫折と同義であった。
(神が人を救わないから、人は欲を信じるの? それとも人が欲を信じるから、神は人を救ってくれないの?)
臨時とはいえ枢機卿にあるまじき考えをエマは抱く。
実はこの枢機卿、前回の巡礼に聖女として参加していた。そして当時の彼女は小娘で、他の聖女は全員が人々のために祈っているのだと疑っていなかった。
……現実を見た。
飛び交う金と権力。政治と言う名の遊び。身分で翻弄される者達。酷い時には露骨に他の聖女へ肉体を要求してくる権力者と、それに応じる者さえいた。
家のため。権力のため。金のため。己のため。
祈りは世界を救わず、ただ醜い足の引っ張り合いと本性がぶつかり合う現実が繰り広げられた。
(私は……私なのだろうか……)
エマは自分が破綻している自覚がある。
幼少から積み上げてきた修行や神の教えは無駄だった。必要なのは権力で、不必要なのは信仰心だった。つまり、無垢なまま積み重ねてきた全てが否定されたのだ。
その現実に肉体と精神が変調をきたして継ぎ接ぎだらけとなり、陰鬱な気を常に放出している原因になってしまう。
言ってしまえば十代の後半から、彼女の時間は止まっていた。成熟した女性に見えても、下手をすれば光と闇の聖母以上に危ういのが、現実に堕ちた元聖女にして枢機卿となったエマだ。
しかし、つい最近になって改善の兆しが見えていた。
(なんとしてでも彼女達は守らないと……!)
アナスタシアとゼナイド。かつてのエマを見ている様な、信仰心と戒律、神殿だけが世界の全てである二人を担当することになった時、経験したことがない母性を覚えた。
更に健気なまでに二人に尽くすカレンに出会うと、自分とそれほど年が離れていないのに、三人が娘のように思えた。
その結果、なんとしてでも守らなければと定めたが、所詮は聖女巡礼で急遽任命された、名誉職の臨時枢機卿である。
もっと早い段階から臨時枢機卿に任命されると分かっていたなら違っただろうが、現実は冒険者や国との伝手、白貴教内の権限も弱い、単なる数合わせの一員だ。
更に取り繕ってはいるものの、精神が止まっているのに体だけ最盛期を迎え、異性との恋や愛もすっ飛ばしてるエマは、外見に反して誰かを教え導くのに必要な人生経験が乏しい。
そして人間とは経験に学ぶ生き物である。
(私が……なんとしてでも……!)
金と権力がない弱小の聖女達が、どのような手段を選んだかを覚えているエマは、それがある程度ながら機能したことを察していた。ならば当時しなかったことを、必要なら今回するのだと覚悟を決めている。
尤もアナスタシアとゼナイドは、聖女巡礼をあくまで儀式の一環だとしか思っておらず、勝ち抜くことにを目的にしていなため、普通ならその覚悟は空回りだと評されただろう。
実際、求められたのは別の覚悟だった。
「聖女様、頑張ってくださーい!」
「聖女様ー!」
他の聖女にかなり遅れて馬車に乗り、太陽国の王都を進む一行だったが、それでも目敏く見つけた者達が声援を送る。
「ゼナイド、期待に応えないといけませんね」
「ああ、そうだな」
それを聞いたアナスタシアが微笑みゼナイドが頷くものの、この二人はそうあれと作られた願望の器に等しく、本質は綺麗な皿から光が反射しているが如き無機質なものだ。
(本当は国家の人間に会わせたくない)
エマが持つ懸念は、聖女に向けられる思いが無邪気だから綺麗に反射しているものの、国家に関わる人間の邪気を聖女が浴びた時、その光がどう反射するか分からないことだ。しかし、巡礼している聖女が王や貴族などに会わない訳にも行かず、エマの懸念は肥大していく一方である。
(それに街の者達。特に商人もまた……)
エマは純粋な声援を送る市民の中に、明確な嘲笑が混ざっていることを知っている。
その中でも大きな力を持つ商人などは、巡礼で何が行われているかを把握しているため、聖女達を商売女の群れだと嘲笑っていた。
被害妄想なのではなく、事実として巡礼中の聖女達は権力闘争の駒であり、翻弄される木の葉でしかないのだ。
その後はまだ聖女エマだった頃の記憶と同じだ。空飛ぶ船で景色を堪能しながら目的に到着し、山脈国の民に迎えられながらパーティーに出席した。
記憶と違うところがあるとすれば、山脈国が聖地巡礼に慣れていないことか。
十年に一度の巡礼に慣れている国なら、有力者と聖女達の誰かがいつの間にかいないという事態が頻発する。しかし山脈国の者達は、あくまで聖女を権威面で利用するつもりだったため、このタイミングではその類の発想を持っていなかった。
「護衛が一人と聞きましたが、それでは少々心許ないでしょう。幸いにも我が国の兵は優秀ですし、冒険者は精鋭揃い。よろしければ兵をお貸ししますし、冒険者を雇用する費用も負担しましょう」
(やはり……)
だがそれでも、メイソン王が紹介しようとしている者達が男ばかりなことで、エマは彼らの考えを察した。
あり得ない少人数で行動している世間知らずの聖職者など、優しい言葉を囁けばどうにでもなると思っているのだと。
「少々お待ちください」
(これでは話にならない! アナスタシアとゼナイドが頷く前に止める!)
男女半々ならともかく、男だけを紹介されたなら企みは明白で、エマは拒否せざるを得ない。そして純真無垢なアナスタシアとゼナイドは、押されたら頷いてしまう可能性が非常に高かった。
余談だがこの女、閉ざした心の殻が硬すぎて男は到達したことがない。そのため何かの拍子で誰かが殻を剥いてしまうと、肥大している母性と溜めに溜めた女の情念が混ざって噴出した挙句、中身も柔らかすぎて大事になる。
尤もそれだけ殻が硬い上にとげとげしいため、男がエマの心に到達する心配など必要ない。
危機に直面し、救ってくれない神の代わりに、命を投げ捨てる覚悟の男が現れるなら話は別だが、そんなこともあり得ない。
筈だった。
(あ、悪魔⁉)
驚愕するエマが考える通り、現実は酷く残酷だった。
悪魔の登場で身動きが出来ない上に、よりにもよって男達の考えをそのまま、アナスタシアとゼナイドに叩きつけられたのだ。
「さあ、信じる神に祈るといい。自分達は辱められています。目の前に悪魔がいます。助けてくださいと。しかし……妙だぞ。何も起こらない……どういうことだ……?」
悪魔に言われなくてもエマは知っている。
神が人を助けてくれないのも、救いがないことも。
だがそれでも娘のように思えた者達だけは、生きていてよかったと言ってほしい。
(私に! 私だけにして!)
だから悪魔の齎す理不尽を一身に受けるため、涙を流しながらなんとか訴えようとした。
しかし、成人したばかりに思える青年の登場で全てが変わった。
「なにがどうやってだボケ!あんだけ泣いてる女が傍にいて、いつまでも男が大人しくしてると思うんじゃねえぞゴラァ!」
エマが今まで知らなかった、男としての考えだけで死ねる奇特な存在が、憤怒の表情で魂を燃やし尽くしている。
神は人を、エマを救わなかった。しかし人が、テオという名の若者がここにいた。
「英雄の! 物語! その力を! 今! ここに! 継承する!」
まさしく英雄が確かにいたのだ。
十年前に壊れ、現実に堕ちた聖女は再び壊れた。あるいは……少しだけ元に戻れた。